窓から湿り気を帯びた潮風が部屋に舞い込んできて、レインの波立つ髪をなでていった。レインは夜具に頭から潜りこんで、寝返りを打った。清潔なシーツに、ふかふかのベッド、あまりに心地よくて、目を開けるのも億劫だ。
何やってたんだっけ……――夜具の中でぼんやりとしていると、潮の香りがベッドの中にまで入り込んできた。その匂いに、ふと思い出す。
ああ、そうだった。昨日は大変だったんだ……。
よくよく考えれば、昨日どころではないが、とにかく昨日は大変だった。ラドラスは浮上するわ、竜王が飛んでくるわ、精霊神にエステルは連れて行かれるわ――……。
レインはぼんやりした頭で、寝台に横たわったままため息をついた。もう一度寝返りを打って、仰向けになると、夜具の中から頭だけを出して天井を見上げる。天井は高く、壁の高いところにランプがいくつか取り付けられている。部屋全体は広く、掃除が行き届いていて気持ちがよい。
外が見えないラドラスの中を、レインたちはほとんど半日、駆け回っていたらしかった。昼前にラドラスに入って、上へ下へと走り回り、ラドラスが浮上したのがだいたい昼過ぎ辺りである。竜王がラドラスを落とし、レインが仲間のもとに戻ってきたのは、だいたい午後四時ごろのことであった。
レインたちがリベルダムについたのは、日暮れ前だったが、彼女らは飯も食わずに宿を取った。レインが選んだ宿屋は、普段の彼女なら絶対に選ばないような大きな宿屋で、内海に面した大きなテラスが有名な高級宿だ。オーシャンビューというやつである。
もっとも、レインがこの宿を選んだ理由は、部屋からの眺めではない。きちんと休みたかったのだ。安宿の硬い寝台ではなく、柔らかいスプリングと清潔なシーツのある寝台で。さらにいうなら、ちゃんと風呂に入りたかった。それだけ今回の冒険は骨が折れたということだが、それ以上に、これから先に続く戦いに備えるためしっかり疲れを取っておきたかった。
これからしなければならないことを考えると気が重い。まず、大陸の端にある三つの都市を回り、巨人を倒す。そして、ラドラスに戻ってきて、また巨人を倒さなければならない。
ラドラスを最後に回したのは、竜王に攻撃されたあそこがどうなっているのか、まだよくわからないからである。昨日、町で合流した砂漠の民に聞いた話では、地の精霊神の座所はラドラスから続く砂漠の地下にある神殿にあったらしい。だが、ラドラスが浮いたことによって、その道は閉ざされてしまった。
地の精霊神の座所がどうなっているのかについては、レインたちがほかの三つの座所を回る間に、砂漠の民が調べておくと言ってくれた。
巨人かぁ……強いんだろうなぁ――レインはまだ少しぼやけている視界をはっきりさせようと、手の平で押すように目をこすった。
「巨人はね、闇の母ティラを封じてるんだって。おじいちゃんが言ってた」
昨日、リベルダムに向かう道すがらに、ナッジが教えてくれたことを思い出す。
闇の母ティラが何なのか、レインはよく知らない。ティラの娘という怪物もいるが、レインの知識といえばその程度だ。だが、『闇』の『母』というからには、よろしくないものの総元締めに違いない。それを解放していいものか。あまりにスケールが大きくて、現実味がわかない。
わかっているのは、そんな大きなものに、エステルが人質にとられているということだ。
地の巫女がどういうものかはわからないが、レインの知っているエステルはただの女の子だ。ちょっと寂しがり屋で、お転婆で、明るい、冒険者の女の子。そのただの女の子を仮にも神と名乗るものが、人質に取るとはどういう了見だ、とレインは憤る。
もし、レインが今のエステルのように、よく知らない相手に何処かに縛り付けられたとしよう。こんな馬鹿な話があるものか、とレインなら思うだろう。そこから逃げ出すために必死になるに違いない。ましてや、エステルのように何も知らないままならなおさらだ。誰かに助けてほしくて仕方ないだろうと思う。
レインがそんな状況に陥ったとして、誰が助けに来てくれるだろうか。普段、冒険をともにしている仲間たちはどうだろう。何人か来てくれそうな連中が思い当たるが、こちらが不安になる連中も多いし、フェティやユーリスなんて絶対にこないだろう。
ネメアなら、どうだろう。彼なら魔人を斃せるのだから、巨人だって斃せるだろう。
魔人と巨人ならどっちが強いんだろう。巨人くらいあっさり倒せるようにならなければ、魔人にも敵わないのだろうか。
どうしても、魔人というとヴァシュタールを基準に考えてしまう。記憶の中にある魔人ヴァシュタールは、とても巨大で恐ろしい。精霊神を封じているという巨人がどんな相手かはわからないが、あのヴァシュタールより強力だということがあり得るのだろうか。
巨人に負けている場合ではない。だが、果たして、勝てるだろうか。精霊神なんて人知を超えたものを封じている相手に。
「いかん、いかん。弱気になっちゃダメだ」
弱気になるな。胸を張れ――ネメアの声が聞こえた気がして、レインは夜具を跳ね飛ばして寝台の上に起き上がった。ぐぐっと両腕を上に伸ばすと、鍛え抜かれた肩から腕にかけての筋肉が盛り上がる。潮騒が耳に心地よい。リベルダムの七月の陽気は、いかにも夏めいていてぴったりだ。
少しだけストレッチをして、レインは寝台から飛び降りた。色々と考えているうちに、腹が減った。
「まずは風呂に入って、ご飯だ!」
ゆっくりと風呂に浸かって、腹を満たし、ひと時の休憩を堪能した後で、別室を取っていたヴァンとナッジと合流した。彼らは彼らで休息を取ったのだろう。昨日、砂まみれになったせいでついて回った埃っぽさはなくなっている。
レインたちは、宿屋のラウンジでこれからのことを話し合うことにした。
これから目指すのはアキュリュース、ウルカーン、エルズの三ヶ所である。
テーブルの上に広げた地図を指でなぞりながら、レインは二人に旅程を説明した。
「リベルダムから向かうなら、アキュリュースはちょっと遠い。まずロセン経由でウルカーンに向かおうかと思っている」
リベルダムからエルズまでの海路をなぞりながら、レインは続けた。
「エルズから行ってもいいが、長期の船旅は天候の具合が心配だ。先に北部の二つを片付けて、次に南下し、エルズを回ってリベルダムに戻る」
「俺は別にどこから行ってもいいぜ。どうせ全部回るんだろ」
「僕もそれでかまわないよ。エステルを必ず、助けてやろうね」
ナッジが笑った。一応、彼らには確認したが、エステル救出に力を貸してくれるそうだ。よく考えれば、彼らのほうがエステルと一緒にいた時間は長い。レイン以上に、彼女を仲間だと思っていることだろう。
「じゃあ、チェックアウトして、ロセン行きの乗船券を買おう」
レインは立ち上がりながら、財布がかなり軽くなっているのに嘆息した。ここのところ出費がかさんでいる。ギルドに寄って、ついでに何か仕事ができればいいのだが。
そういえば、ツェラシェルに二万払わなきゃいけなかったな、とレインは思い出した。
ツェラシェルの小舟使用代である。彼の提示した金額は五万であったが、アンギルダンが持つと言ってくれた。だが、シャリのことはレインの問題でもある。何より、エステルやフレアまでも捕まっていたのだ。
というわけで、折半することになり、年長であり先輩であるアンギルダンが七割持つことになったのだ。それが六割になったのは、せっかく会えた娘に何かしてやれ、というレインの心意気のようなものであった。
ギルドに預けている金はいくらかあったし、軍からの給金もあったはず。ツェラシェルへの支払いと、ウルカーンまでの旅費くらいは賄えるだろうが、それから先はどうなるかわからない。精霊神を解放するのに、どれだけこちらが消耗するかわからないからだ。
とにかく、ギルドには寄らなきゃいけないな、と考えながら、レインは宿屋のカウンターでチェックアウトの手続きを済ました。
「あっ」
誰かが大きな声を上げた。反射的に声がしたほうを振り向くと、宿屋の入り口で、女が一人こちらを凝視している。顔面が蒼白で、今にも倒れそうな彼女を、レインは知っていた。
ケリュネイアである。ライラネート神殿で、レインに闇の神器を探してくれと依頼してきた、あの不遜な女だった。
彼女はレインを見つけるなり、転がるようにしてこちらに駆け寄ると、倒れこむように座り込んだ。レインは彼女の顔色の悪さに、本当にケリュネイアが倒れたのではないかとぎくりとした。だからすぐさま膝を折って、ケリュネイアの顔を覗き込んだ。
気を失っているわけではないが、顔色の悪さは相変わらずだ。しかも、若葉色の大きな目を涙で潤ませている。
ケリュネイアはレインの手を、両手で包み込むように握り締めた。レインは呆気にとられて、彼女を見つめることしかできない。
「お願い、レイン。助けて。兄さんが……、父さんを助けて!」
ケリュネイアの言っていることは支離滅裂で、要領を得ない。とりあえずわかったことといえば、彼女の家族が何やら大変だということだ。
しかし、レインはケリュネイアの家族を知らない。そもそも、ケリュネイアのことも覚えがめでたくないのだ。だが、今の彼女はいつかレインに不遜な態度を示したあの時とは、随分印象が異なって見えた。
人通りの多いロビーで、衆目がこちらに集まっている。カウンターの向こうから、迷惑そうな受付の視線が降ってくる。
「えっと……ちょ、ちょっと待って。何? どういうこと? というか何で、私――」
「あなたしか頼れないの! お願い、見捨てないで。私と一緒に来て。猫屋敷に、一緒に来て」
猫屋敷?――レインは瞠目した。ひょっとしたら、彼女の家族がオルファウスに何かしたのかもしれない。
レインは一瞬、考えた。今、まさにこれからエステルを助けるための計画を立てたばかりだ。いきなり計画変更を迫られるとは――逡巡しているうちに、強く握り締められた自分の手が、ケリュネイアの手の震えを伝えてくる。エルフらしい色白の瓜実顔が、いっそう色をなくしている。
レインは肩越しに道連れ二人を振り返った。
「ヴァン、ナッジ、行き先を変更する。先に猫屋敷だ」
仲間たちが、おうと返事をする前にケリュネイアに向き直ると、彼女はレインの顔を見つめて瞬いた。白い頬が涙で濡れている。
あんた、魔法移動できるんだろう、と尋ねると、呆気にとられたような顔のまま、何度も大きく頷いた。
「ちょうどロセンに行こうと思ってたところだ。船の運賃が浮いた。好都合だ」
さあ、行こう、とレインはケリュネイアの肩を叩いた。
これまで、何度もテレポートを経験してきたレインだったが、今回のは少し様子が違っていた。
テレポートに抵抗感が伴うのはいつもどおりだが、この負荷が尋常ではない。使用者ではないレインですら体に強い負荷を感じる。まるで激流を遡っているようだ。土の精霊たちが巨大な塊となってぶつかってきている。強烈な圧迫感があり、肺に入っている空気が押し出され、息ができない。呼吸しようと息を吸い込むが、ちっとも空気が入ってこない。ケリュネイアに引っ張られているだけのレインでさえこうなのだから、術者の負担は相当に重いだろう。
だが、ケリュネイアはその負荷を打ち払うかのように、半ば無理やりといった様子で、魔法の経路を進んでいった。
やがて、白い光のトンネルの向こうに緑の森の中に佇む、小さな屋敷が見えてきた。負荷がやわらぎ、ふっと体が軽くなる。これまでの酸素の薄さが嘘のように、森の空気が肺を満たす。綺麗に着地したレインたちの横で、ケリュネイアがどぉっと木の床に倒れこんだ。
ヴァンとナッジは初めて訪れる猫屋敷に、きょろきょろしている。レインには見慣れた猫屋敷のリビングである。
レインは跪いて、床に転がったケリュネイアを揺さぶった。ケリュネイアは荒い息を肩でつきながら、青白い顔に玉のような汗を浮かべている。どう見ても、魔道力の使い過ぎの症状である。このまま昏倒してもおかしくはない。だが、ケリュネイアはレインの呼びかけに、はっと顔を上げるとすぐさま立ち上がった。気丈な女だ。
「おい、大丈夫――」
「父さん、父さん……!」
ケリュネイアはよろめきながらも、玄関の扉を開けて、ポーチへと飛び出した。レインも彼女を追いかけて玄関を飛び出す。当然、見慣れた猫屋敷の庭が広がっていたが、この庭では見慣れない人物に足が止まる。レインの視界に入ったのは見慣れたオルファウスの背中と、彼に大槍を振り下ろす黒い甲冑のネメアの姿だった。
ネメアの獅子の鬣めいた金髪が、木漏れ日に翻る。
「やめてぇっ!」
ケリュネイアが悲鳴を上げた。ネメアのランカの穂先がオルファウスに届く。オルファウスの体が爆発したように輝いた。これらはほとんど同時に起こった。レインはただそれを呆然と見ていた。
レインは、オルファウスの発した輝きに眼前を腕で覆った。かばったまぶたの上からでも、光の強さがわかる。それほど強烈な輝きだった。
だが、その強い輝きは一瞬のことであった。光が収まって、猫屋敷の庭はいつもの静けさを取り戻した。ゆっくりと目を開くと、そこにはもうオルファウスの姿はなかった。ただ、緑と色鮮やかな花が咲き乱れる猫屋敷の庭に、槍を構えた厳めしい面のネメアが威風堂々たる居住まいで佇んでいるだけだった。
ケリュネイアは、ポーチの段差をよろめきながら庭へ下りた。そしてオルファウスが立っていたあたりの下生えに、倒れこむようにしてうずくまる。
「ああ、あぁ……父さん、父さん……どうして、こんな……ひどい……うううぅ」
四つん這いになって、秀でた額を下生えにこすりつけるようにしながら、ケリュネイアは慟哭した。
レインは彼女の後を追って、ふらふらと庭に降りた。ケリュネイアの少し後ろに立って呆然と、目の前に立つネメアを見上げる。胸の奥がざわざわした。目がチカチカする。脚が震える。何か言おうと口を開くが、何も、言葉が出てこなかった。周囲から音が消えたようで、梢が揺れる音も聞こえない。自分の鼓動が激しく脈打つ音が聞こえるだけだ。
「闇の神器『魂吸いの指輪』はもらっていく」
ネメアの低い声がようやくレインの静寂を破った。彼の声はその槍と同じく、重く、鋭い声だった。
見れば、オルファウスが立っていたあたりに、鈍い金色の装飾のない指輪が落ちている。下生えに埋もれるようにしている金の指輪は、木漏れ日を浴びてきらりと輝いた。
色々と世間の人は言いますけど、私にとってはただのやんちゃ坊主でしたよ――。
そう言って笑ったオルファウスの笑顔を思い出した。彼は、ネメアの父だったはずだ。血はつながっていないけれど、オルファウスが愛情を持って息子を育てたことは、彼の語る昔話でよくわかった。
それを、そんな、神器のために、殺したのか……――。
レインとて養い子の身だ。拾われた子だ。それでも、母は血のつながらないレインを愛し、育み、守ってくれた。恐ろしい魔人から、命を賭して守ってくれた愛すべき母。夜明けの空を背に、レインを逃がしてくれた母。
いかな目的があるとはいえ、レインは母を殺さない。そんな決断はできない。
「父さんを返して。父さんを返してよぉ……」
ケリュネイアはうずくまったまま、子供のように泣きじゃくっている。
彼女のその丸まった背中が自分に見えた。最愛の母を失った自分、第二の家族として慕ったオルファウスを失った自分――そして、誰よりも尊敬した人を、これから失う自分の背中が、そこにあった。
ネメアはレインやケリュネイアには、まったく注意を払わなかった。無言のまま、ただ腰をかがめて、下生えに落ちた指輪を拾い上げようとした。まったく、無造作な様子であった。
そのネメアの革手袋に覆われたつめ先を、白銀の閃きがさっと掠めた。反射的にネメアが手を引く。下生えの緑ごと切り払われた金の指輪が、高く空中に弾かれる。指輪は日差しにキラキラと黄金色のきらめきを返しながら、レインの白い手の中に落ちてきた。レインはそれをしっかりと握り締める。
ネメアの表情が険しくなった。眉間のしわがナイフで刻み付けたように深くなり、レインを睥睨する眼光が鋭さを増した。敵を威圧するときの、獅子の目だ。
「何のまねだ」
ネメアの言葉は簡素であったが、響きには充分な脅しが含まれていた。一言でも間違ったことを言おうものなら、問答無用でこの槍の穂先がお前を貫くぞ、とでも言うような。
だが、レインはその脅しに一歩も引かなかった。こちらもまた、望むところだと、空色の瞳に力を込めて睨みつける。
「あなたのやり方は苛烈すぎる。誰もがあなたのように、強くいられるわけじゃない」
ケリュネイア――レインはネメアを見据えたまま、すぐ傍にうずくまるケリュネイアに呼びかけた。ケリュネイアは呆けたような顔で、レインを見上げてくる。可愛らしい顔が涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
「ケリュネイア、あの依頼、受けるよ」
「え……?」
ケリュネイアに告げる間、レインは一瞬たりともネメアの青い目から視線を外さなかった。ネメアもまた、レインから視線をそらしてはくれない。その視線の圧力に、心のどこかが恐怖に震える。だが、その心さえ、レインは闘志の炎を燃やす焚き木にした。
「ケリュネイアから闇の神器探索の依頼を受けている。この神器は渡せない」
レインの宣言は、静まり返る賢者の森に朗々と響き渡った。
黄金の指輪を、左手の親指にはめる。指輪は、あつらえたようにぴったりとレインの親指にはまった。槍を強く握り締めて、レインは胸を張った。
「この指輪が欲しければ、私の指ごと、切り落として持って行くがいい!」
◇ひとこと◇
さぁ、盛り上がってまいりました!