*オリジナル展開注意*
神聖王国暦一二〇三年四月――。
レインは薄暗い執務室の机の上に書類を載せて、ぼんやりと暗い天井を見上げていた。手を頭の後ろで組んで、椅子ごと体を揺らしている。壁掛け時計はもう深夜近くを指していた。
リベルダムで内偵を進めていた『草』が消息を絶ちました――昼間の報告を思い出して、レインは考える。
「どこを調べていたんだ」
「アンティノ商会です」
アンティノ商会というのは、リベルダムでは有名な会社である。いち冒険者であるレインはあまり詳しく知らないが、物流や薬品の製造で有名だ。最近では、武器の製造や流通にも乗り出している。
リベルダムの会社だから、ディンガルには無関係かと思いきや、魔道アカデミーの主な就職先のひとつでもあるという。もし、就職した卒業生と連絡が取れればと、軍の権限でアカデミーに卒業生の資料を提出させたのだが。
椅子に座りなおし、頭の後ろで組んだ手を外す。机の上に散らばせたその資料の中から、一枚を取り上げて、レインは思案する。
シェスター……――思い出したのは、ディンガル軍に入る前に別れた、あの黒髪の剣士の顔である。
「姉のシェスターを取り戻す。魔人アーギルシャイアの手から」
セラはそう言っていた。とにかく自分のことを話さない男なので、何がどうなって彼の姉を魔人がさらったのかはわからない。だが、セラの言葉が正しければ、彼の姉シェスターは、アーギルシャイアに囚われているのだ。
資料にはシェスターの成績や研究論文などは書かれているが、家族構成や略歴の類はなかった。
だが、つじつまは合う、とレインは考える。このシェスターとセラの姉のシェスターが同一人物なら、彼女を介してアーギルシャイアがアンティノ商会と関わっている可能性がある。魔人アーギルシャイアが知恵を貸していると考えれば、あのマゴス似の怪物のことも説明は簡単だ。同じ魔人なら、さぞマゴスのことに詳しいだろう。
セラに聞いてみようかとも考えるが、今からギルドを通じてどこにいるかもわからない彼に尋ねるには、いささか時間が足りない。
朱雀軍の南部侵攻作戦まで、あと一ヶ月というところまで迫っていた。
レインは資料を適当に机の端に寄せると、ため息をついて立ち上がった。卓上の魔法ランプの明かりを落として部屋を出る。
そして、出るなり怒鳴り散らした。
「お前ら、さっきからうるさいんだよ!」
部屋を出た先は、小さめの会議室である。煌々と照る魔法の明かりの下、朱雀軍の士官連中が酒盛りの真っ最中であった。執務室から出てきたレインを振り返って、連中はきょとんとしている。
「あ、副将」
「何が、あ、だよ。こっちはまだ仕事中だったってのに」
そう言いながら、レインは空いた椅子に腰掛けた。寄せたテーブルの上には町の酒場や政庁の食堂で買ってきたらしい、おいしそうな料理が並んでいる。レインはその中から、コカトリスの肉を揚げたものをつまみ上げて口に運んだ。甘辛いタレが絡めてあって、深夜の空きっ腹にはたまらないものがある。
「仕事いいんですか」
士官が尋ねるので、もういい、とレインは本格的に料理をつまみ始めた。
「明日、がんばる」
「がんばる、って……副将かわいいっすね」
レイン以外の士官たちがどっと笑った。酔っているらしい。彼らはその勢いのまま、どこそこ所属の某がかわいいだの、綺麗だのと、ディンガル軍のミスコンテストを始めている。
「うちは副将が来る前まで、男所帯だったから。もう、華が違うもの」
副将にいいところを見せようって、若いのががんばるがんばる――そう笑っているのは所帯持ちらしい中年であった。
「白虎軍かわいそうだもんなぁ。あそこ副将もおっさんだぞ」
「俺もあそこは嫌だ。しかも規律違反に厳しいらしいぞ」
「ああ……。玄武軍も相当だけどな」
「でも玄武将軍は綺麗だもんなぁ。踏まれたい系美女代表って感じ」
何だそれ、とレインは笑った。それから、ああ、そういえば、とレインは思い出す。
「踏まれるじゃないけど、玄武将軍を呼びにきた兵士が平手で頬を張られてるのを見たことある」
「玄武将軍の平手は痛そう」
「痛そうだなぁ」
「でも、何かに目覚めそう」
どこの扉開けてんだよ、とどっと笑いが起こった。そのときである。
「いったい、いつまで騒いでいるのっ」
廊下側のドアが激しい音を立てて開け放たれ、話題の玄武将軍が入ってきた。士官たちが慌てて立ち上がる。レインも同じく立ち上がって、すみません、と頭を下げた。
ザギヴはレインがいたことに、少々面食らったような顔をしたが、すぐに顔をしかめた。鋭い視線を向けながら、腕を組む。
「副将がいながら注意もせずに、一緒に酒盛りをするとは言語道断よ」
「申し訳ありません」
そう言ってレインが素直に頭を下げると、ザギヴはバツが悪そうな顔をした。ひとつわざとらしい咳払いをして、ため息をつく。
「ま、まぁ、反省はしているようだし。今回は私が把握しているから、注意だけにしておくわ。けれど、こんなことが続くようなら枢密院で問題にします」
「感謝します、将軍」
レインは下げていた頭を上げて、にっこりと笑った。
「それで、迷惑ついでに、明日提出しなきゃいけない書類の添削、お願いできないですかね」
明日、出すんだ……宰相に……、とレインは絶望的な顔をした。皇帝への直訴というとんでもないことをやらかしたレインに、宰相の風当たりはことさらに強くなった。できれば、宰相にはこのまま一生会いたくないとすら思う。
ザギヴは少し考えるそぶりを見せて、いいわ、と頷いた。
「見てあげる」
「ああ、ありがとうございます。ここは、ご覧の有様なので、もしよろしければ玄武軍のほうをお借りしたいんですけど」
「……いいわよ」
じゃあ、ちょっと取ってきますね、とレインは執務室に引っ込んで、書類の束を持ってくるとザギヴを促して部屋を出て行く。廊下に出る直前に、肩越しに士官たちを振り返り、にやりと笑って小さく手を振った。士官たちはニヤニヤしながら、小さな会釈を返してきた。
レインにあわせるように、ザギヴはソファに腰掛けて、書類に目を落としている。煌々と照る魔法ランプの明かりに、長くたっぷりとした彼女のまつげが、黒い影を白い頬に伸ばしていた。
レインは、ふと思いついて彼女に一枚の資料を差し出した。例の、シェスターの経歴書である。
「ねぇ、この研究ってどういうの?」
経歴書の一番下に彼女の研究論文のタイトルが連なっている。ただ、レインには難しくてよく意味がわからない。
ザギヴはじっとそのタイトル群を見ながら、そうねぇ、と口を開いた。
「わかりやすく言うと、魔法生命体についての研究かしら。タイトルだけだから、詳しい内容はわからないけど」
「魔法生命体……」
「ホムンクルスって知ってる?」
ザギヴに問われて、レインは頷いた。じめっとした洞窟などで見かける小さな怪物で、さほど強くはない。気持ちの悪い外見をしているが、気が弱く、ちょっと脅せば逃げていく。
「ああいう連中って本来は自然界にはいなくて、魔道士が人工的に作り出したものなの。おそらく、レインたち冒険者が見かけるのは、そういうのが逃げ出したか何かで勝手に繁殖したのね」
怪物を作り出せるのか――レインは相鎚を打ちながら、考える。
セラの姉と、このシェスターが同一人物である可能性が高くなってきた。シェスターはアンティノ商会へ就職し、人造モンスターを作っていた。何らかの理由でアーギルシャイアがアンティノ商会にやってきて、シェスターを捕らえているとしよう。無理やりに、人造モンスターを作らせているのか――しかし、そんなことを強制できるものだろうか。変な作り方でもされたら――。
そういえば、記憶を読むんだったな、あの魔人は。考えていくうちに、かつて、アーギルシャイアに出くわしたときのことを思い出した。聖杯の記憶を探られたあの苦い経験を。
脳をまさぐられるような不快感に倒れたレインを、介抱してくれたのが、目の前にいるザギヴである。
レインに見つめられていることに気づいたザギヴは、きょとんとして首を傾げた。
「まだ、何か聞きたい?」
「あー……えーっと、ザギヴはこの人のこと知らない?」
ザギヴはもう一度、シェスターの経歴書に目をやって、小さく頭を振った。それにあわせて、彼女の艶やかな黒髪がさらさらと音を立てた。
「そもそも学年が違うし、研究内容もかすりもしてない。ごめんなさい。知らないわ」
レインは経歴書を受け取りながら、そう、と言った。このシェスターがセラの姉のシェスターだとして、アンティノ商会は魔人と商売していることになる。金のためなら闇の底をも覗くというのだろうか。金儲けを否定する気はないが、行き過ぎた拝金主義は好きになれない。
レインが渋面を浮かべていると、ザギヴが言った。
「その人、何かやったの」
レインは答えに窮して、視線をさまよわせた。果たして、あのマゴスに似た怪物を作ったかもしれない、などとザギヴに言っていいものか。
「あー……っと、知り合いのお姉さんかもしれなくて。――あっ、別に私用で軍の諜報部員を使ったわけではないからね」
焦るレインに、ザギヴは口もとを手で隠して、くすくすと笑った。わかってるわよ、と言う。
「ありがとう、レイン」
ばれているのか、とレインは頭をかいた。それから、ソファの斜め隣に座るザギヴに、
「あの、体調、どう?」
と首を傾げた。
ロセン解放軍を名乗る連中に襲われたあの一件以来、普通に仕事をこなしているように見えた。レインも気をつけてはいるが、所属が違うので毎日確認ができるわけではない。
ザギヴは手に持っていた書類をテーブルに置いて、脚を組む。組んだ脚に手を置いて、レインを見つめ返した。
「悪くもないけど、よくもない――って感じね。ただ――」
そう言って、ザギヴは薄暗い部屋の隅を睨むようにした。
マゴスの胎動を感じる――とザギヴは言った。美しい顔が憎悪と嫌悪に歪む。柳眉をしかめ、黒い瞳に怒気がこもる。深い闇を睨みつけているようだ。
「不快だわ」
レインは、吐き捨てるように呟くザギヴを見つめた。彼女の握り締めた手の節が、白くなっているのを見逃さなかった。
ザギヴは落ち着きを取り戻すように息をつくと、柔らかくレインに微笑みかけた。手の力が抜けている。
「でも、負けない」
ザギヴの宣言に、そう、とレインは笑った。欲のために闇に微笑みかける人間もいれば、拒絶して睨みつけるものもいる。レインには後者のほうが、気高く見えるから不思議である。
レインの視界にふと、戸棚の上に置かれた時計が入ってきた。気がつけば、とっくに日付が変わっている。
「うわっ、もうこんな時間だ。ごめん、ザギヴ」
慌ててテーブルに広げていた書類をかき集めて、小脇に抱えるようにして席を立つ。そんなレインを追うようにしてザギヴも立ち上がった。
「別にいいのに」
「いや、おかげで明日までに何とかなりそうだ。宰相に怒られずにすむ」
レインは右手に持った書類挟みを振って見せた。ただ、小言は言われるだろうけど、と付け加える。
「もういいんだ……あきらめたよ」
レインは肩をすくめながら、ドアのほうへと向かった。その背後で、ザギヴがおかしそうに笑っている。
静まり返る暗い廊下に出る。後ろのザギヴを振り返りながら、おやすみ、と声をかけると、
「おやすみなさい」
と、柔らかい返事が返ってきた。
ディンガル軍は大きく五つの軍団に分けられている。その東西南北それぞれの攻略地域が、城での使用区画にも割り振られている。
皇帝の居住区画に一番近いのが北棟で、玄武軍と黒鎧軍が主に使用している。レインが所属する朱雀軍が主に使っているのは南棟で、謁見の間などには遠いが、宿舎には近い。
レインはぴたりと足を止めて背後を振り返った。代わり映えのしない、長い廊下が夜の闇に沈んでいる。エンシャント城は暗くなると、勝手に魔法ランプの明かりが灯る。だが、それは午後九時になるとやはり勝手に落ちてしまうのだった。
辺りはとにかく静かで、人の気配がなかった。
あれ?――レインは周囲を見回した。道を間違った気がする。降りなければならない階段が、足りなかった気がする。
階段そのものを間違えたのか、その後の曲がり角を間違えたのか。思い返してみれど、記憶にない。だが、この道は違う。間違っている。
レインは、とりあえずザギヴの執務室に一回戻ろうときびすを返した。今来た道を戻って、ここがザギヴの執務室だと当たりをつける。ノックして戸を開き、愕然とした。
どこだここ――。
レインの目の前には、見たこともない小会議室が沈黙している。もう一度、扉を確認してみたが、ザギヴの執務室と同じ扉である。
これはまずい。自分の居場所が、わからなくなってしまった。
レインは呆然と、会議室の扉を閉めた。この時間帯、誰かを呼びながらさまようというのは気が引ける。うまく見回りの兵士に行き会えばいいが、そうでなければ朝まで帰れないかもしれない。
さすがに、城の中で野宿――というのはおかしな言い回しだが――は心情的に嫌だ。
誰かに行き会うことを期待しつつ、レインは自分の感覚を頼りに南を目指した。ここは冒険者らしく、目印でも壁に刻んで歩きたいところだ。
エンシャント城はとにかく複雑な造りをしている。北棟の二階から階段を下ると、東棟の二階に着いたりする。そんな場所が多い上に何の目印もないので、ぽかんと立ち尽くす若い将校士官の何と多いことか。
そして今まさに、レインはぽかんと立ち尽くしていた。目の前には回廊に面した中庭が見える。この『中庭に面した回廊』もやたら多いので、目印にはならない。昼間ならいざ知らず、どこの中庭かがわからない。
だが、この中庭を突っ切れば、南棟へ通じる回廊に出られる。レインの頭の中の地図が正しければ、の話だが。
レインは回廊から中庭に下りて、植木の隙間から体を滑り込ませた。そして、間違ったと思った。予想以上に庭が広かったからだ。綺麗に刈り込まれた芝生に、手入れの行き届いた植木――レインの頭の中にあった地図はすべて白紙に返った。
帰りたい……。そう思いながら、レインは植木をかき分けながら、回廊に戻ろうとした。
そのときだ、彼女の背中に声がかかったのは。
「レイン」
反射的に振り仰いで、はっとした。
レインの位置から見て左手――庭に大きく張り出したテラスに、人が立っている。テラスの手すりにもたれかかるように肘をつき、夜風に長い金髪をなびかせるようにしていた。
「お前、そこで何をしている」
テラスに立ったネメアは言った。さして大きな声でもなかったが、周りが静かなためによく響いた。
レインはあまりのことに呆然と立ち尽くした。確かに人に会いたいとは思っていたが、この人に会ってはいけないだろう、と思う。
え、どこの庭だここ。まさか後宮ではないよな。さすがにそこに迷い込むほど馬鹿ではないだろう――と、思いたい。
思考がぐるぐると巡る。レインは、えーっと、と言いよどんだ末に、
「さ、散歩です」
さすがに苦しい言い訳である。何となく、城の中で迷ったというのは恥ずかしい。
ネメアは、そうか、と言い、手すりにもたれかかっていた上体を起こした。ここからでは表情はよく見えないが、声の調子はいつも通りだ。
「そちらの回廊を真っ直ぐ進んで、一つ目の階段を上がれ。一番上まで上がったら、右に折れろ。執務室の扉を開けておくから、上がっておいで」
ネメアは言うと、レインの返答も待たずにテラスの向こうに消えた。室内に戻ったらしい。
おいでって……――レインは少しだけ迷った後、回廊に戻ってネメアが示したとおりに城内を進んだ。
階段を上りきり、右手を覗き込むと、並ぶ扉のうち一つが細く開いている。暗い廊下に室内からこぼれる魔法ランプの明かりが、光の帯となって伸びていた。
その扉に近寄って、そっと中を覗きこむと、入りなさい、という穏やかな声がレインを招いた。レインは小さくお辞儀をしながら、失礼します、と恐る恐るといった具合に入室する。
部屋の中は、以前、レインが皇帝に直訴を申し出たときと同じであった。ただ、部屋の天井中央にある魔法仕掛けのシャンデリアが、橙色の柔らかい光を放っている。ネメアは大きな執務机に腰掛けるようにもたれながら、入ってきたレインを見つめていた。
すみません、とレインは情けないような声を出した。
「ま、迷いました」
レインの自白に、ネメアは組んでいた腕を下ろして机につきながら、愉快そうに笑った。
「南棟は反対だ。お前のような優秀な冒険者の方向感覚を鈍らせるとは、エンシャント城の防犯は完璧だな」
「……やめてください」
レインは情けなくなって、がっくりと肩を落とした。ベルゼーヴァに嫌味を言われるのはなれているし、何とも思わない。だが、ネメアに言われると本当に自信をなくしてしまいそうになる。
ネメアは喉の奥でくつくつと笑いながら、冗談だ、と言い、
「エンシャント城は複雑だろう。そのように造ったのだ」
「ネメ……陛下がですか?」
ネメアは一瞬、口ごもったが、
「みなで、だ。――陛下と呼ぶのは止めてくれ。お前にそう呼ばれると、恥ずかしくなる」
恥ずかしい?――レインはネメアを見上げた。こんな人でもそんなことを思うんだろうかと。レインなどは、しょっちゅう、恥ずかしい思いをしているが。
座りなさい、とネメアがソファを勧めた。彼はゆったりとした足取りで、壁際の戸棚に寄った。ガラス張りの扉が付いた、大きな戸棚には、いかにも高そうな酒瓶が整然と並んでいる。ネメアはその戸を開けて、何か飲むかと聞いてきた。
「あ、私は……酒は、ちょっと……」
言いにくそうに酒を断るレインに、ネメアは少し驚いたような顔をした。だが、すぐに、
「そうか。では、茶を入れさせよう」
「もう遅いですから、どうぞ、おかまいなく」
そう言って頭を下げたレインの脇を通って、ネメアは彼女が入ってきた扉近くの別の扉を開けた。廊下に続いているほうの扉と斜めに隣り合っており、少し小さめである。壁紙と同じような色合いで、目立たない。おそらく、給仕の者が詰めている小部屋だろう。
ネメアは扉を開けて、茶を入れるようにと中の誰かに命じると、未だに腰掛けようとしないレインに向き直った。それから、もう一度レインにソファを勧めると、自分もソファに腰を下ろした。
レインはネメアの対面に腰かけて、脇に抱えていた書類を、大きなテーブルの端に載せた。
「酒の飲み方は、アンギルダンに習わなかったのか」
習うっていうか、とレインは苦笑する。このときには、もうすでに『皇帝に対する敬意』より、平時のネメアに対する態度のほうが勝っていた。彼が皇帝であることを忘れていたといってもいい。
「あの人は、飲めない人間の気持ちがわからないんですよ。まぁ、飲めないっていうより、おいしさがよくわからなくて」
「そうか――。酒がまずいと思うのは、お前がまだ若いからだ」
「子供だって、ことですか」
レインは何だか笑われたような気がして、思わず顔をしかめた。確かに、酒の味がわからないなんて、子供っぽいとは思うが――。
そうではない、とネメアは頭を振る。
「酒を苦く感じたり、渋く思ったりするのは、お前がそれ以上の苦さを知らないからだ。人生の苦さや渋さを知れば、酒の味もおのずとわかる」
それはやっぱり、子供だってことじゃないか――レインはネメアを見つめる。彼はそんなレインの不満などどこ吹く風で、続けた。
「若さとは貴重なものだ。だが、若者にはそれがわからない。夢や希望は、お前たちのほうがはるかに近いのに、お前たちから見れば大人のほうが先を進んでいるように見える。――私のような歳を取ったものから見れば、お前たちのほうが眩しく見える」
ネメアは青い目を眇めた。
「人生の半分以上は大人でなければならないんだ。急ぐ必要はない。――大人なんてつまらないぞ。話も説教臭くなるしな」
そう言って、ネメアは肩をすくめた。
「あの――こういうことって、聞いていいのかな……。ネメアさんって、おいくつですか」
レインが首を傾げると、ネメアは少し思案するような顔をした。
「……今年、三十六だな」
「三十六!?」
レインは素っ頓狂な声を上げて、前のめりになった。まじまじと、目の前の男を見つめる。
三十過ぎっておっさんのイメージしかなかった。こういう人もいるのか。などと感心する。レインには大人の年齢というものがよくわからない。
オズワルド村の粉屋の大将が、確か三十いくつだったと思うが。いやいや、ちゃんと――というのもおかしいが――おっさんだったぞ、と記憶の底をさらう。
それに比べて、ネメアは若々しく、精力的だ。
「い、意外と歳、食ってますね……――じゃないっ。あ、その、若く見えます」
内心の動揺から、失礼な本音が口からポロリとこぼれ出た。レインは慌てて取り繕ったが、後の祭りである。だが、そんなレインを見て、ネメアは楽しそうに笑った。
「まぁ、酒が美味く感じる程度には生きてるな」
ネメアの言葉に、レインは背中を丸めて俯いた。
彼も、酒以上の人生の苦さを知ったのだろうか。いつ、どこで――誰と? 聞く勇気などない。光の中を歩くような、栄光の道をたどってきたであろう勇者と呼ばれた男が、苦く感じるほどの何かとは何だろうか。
君はあの男のことを何もわかっちゃいないんだ――。
ふと、レインはそんな罵倒を思い出した。
ああ、そうか、と納得する。勇者と呼ばれるからこそ、その手で救ってやれなかったものも多いだろう。それらの苦さを知りながら、それでもここまで突き進んできたのだ。はたして、そういう風にできるかと自問するが、答えはよくわからない。
お前のほうが夢や目標に近い、とネメアは言った。だが、どう考えたってレインには遠く見える。若さよりも、その未熟さゆえに――。
茶が運ばれてきた。いただきます、と言いおいて、レインはこみ上げてきた苦いものを甘い茶で飲み下した。
◇ひとこと◇
さすがに、きちんと設定されているキャラクターの年齢をいじるというのは抵抗を感じますが、色々考えていたらネメアの年齢が三十四歳になりました。この話は一二〇三年四月なので満三十五歳ということになります。
注意書きにもありますように、この設定で二次創作していきます。ご容赦ください。