解放軍のほかの連中がどうやってリベルダムに戻ったかは知らないが、レインとレーグはエンシャント港から普通に海路を使ってリベルダムに戻った。というのも、青竜軍は追っ手をかけなかったようだし、二人に対する追討令も出されなかったからだ。
リベルダムの港から、レインはまっすぐにクロイス邸に戻った。追っ手がないことは確認済みである。
クロイス邸の広いエントランスに入ったレインを迎えたのは、クリュセイスだった。彼女はドレスの裾をたくし上げて、二階からエントランスに続く階段を駆け下りてくるところであった。
「レイネート! レーグ!」
悲鳴のような声で二人の名を呼びながら、クリュセイスはこちらに駆け寄ってきた。勢い余って、レインの胸に飛び込んでくる。クリュセイスの体を受け止めながらも、レインの大柄な体は少しも揺れなかった。
「し、心配しましたのよ!」
「そう言われても、連絡の取りようがない。これでも、一番早い船で戻ったんだがね」
クリュセイスは白い面を真っ赤にして、こちらを見上げている。それから、思い出したようにレインから少し離れて、バツが悪そうに咳払いをした。
「と、とにかく、任務ご苦労でした。作戦は失敗してしまいましたけれど、あなた方の機転のおかげで、全滅は免れましたわ」
「……そのことについて忠告しておきたいことがある」
裏切り者がいる、と非常に端的に言ったレインに、クリュセイスの顔がさっと翳った。
「それもかなり、中心に近い人物だ」
「何がおっしゃりたいの」
「裏切り者がいる可能性が高いから、重要な情報をほいほい他者に与えるな、と言いたい。――私も含めて」
クリュセイスはむっとした。赤味の引いた白い顔を強張らせて、レインを睨むようにして見上げてくる。
「あなたが裏切るとでもおっしゃりたいの?」
「……誰が信用できて、誰を疑うべきなのかを判断するのはあんただ。私ではない」
クリュセイスはしかめ面を浮かべて、拗ねたような顔をした。それから、長い袖をたくし上げて、腕を組んだ。レインを睨むように、細い顎を上に向ける。
「――わかりました。注意しておきますわ。けれど、仲間の中に裏切り者がいるだなんて、軽々しく触れ回るのはよしてちょうだい。士気の低下につながりますわ」
レインは沈黙したまま、じっとクリュセイスを観察した。そうして、了解、と短く返事をした。
それから数日の間、レインはクロイス邸内で特に何もせずに過ごした。疲れていたのもあったし、裏切り者をあぶりだす算段を考えなければならなかったからだ。
前回のロセン潜入計画での情報が流れる速さを考えるならば、嘘の情報をつかませるのがよいだろう。疑わしいの数人に、それぞれ偽の情報をあえて流し、誰が裏切り者かを判断するのだ。
とはいえ、クリュセイスの様子だと、その疑わしいのに見当がついているようである。おそらく、レインが疑っている人物と同じだろう。
アンティノを探る口実ができた。ロセン潜入の一件は結果的にレインにプラスに働いた。彼女を疑う気配が消えた。今なら多少、自分の目的のために動いても、妙な嫌疑をかけられることはないだろう。
明かりを絞った魔法ランプが、うっすらと照らす部屋の中で、レインはぼんやりと考える。大きな寝台にかけられた天蓋のカーテンが、細く開いた窓から入り込んでくる夜風に小さく揺れている。
薄布一枚を隔てた向こうに、レーグの気配を感じるが、彼が寝ているのか起きているのかはわからない。
レインはサイドボードのランプを消した。明かりがなくとも、室内は窓から差し込む薄明かりでうっすらと見通せる。もう夜明けがそこまできている。あれこれ考えていて、すっかり寝そびれたが、まったく寝ないよりマシだろう。
大きな寝台から滑り降りるようにして立ち上がる。夜明けの空気を感じながら、寝室の窓を閉めようとしたときだ。
「……?」
静まり返った薄暗闇の中で、誰かの悲鳴を聞いた気がした。押し殺したような、女の悲鳴である。
気のせいかとも思いながら、ちらりと部屋の隅に目をやった。胡坐をかいて腕を組んだレーグが、壁にもたれるようにしている。彼の三白眼の鋭い目が、窓のほうに向いている。
レインの勘違いではなさそうだ。
テーブルの上に放り出されたナイフを腰に帯びながら、彼女は部屋のドアに向かった。
「行くぞ」
一言かけると、後ろで大きな気配がのそりと立ち上がるのがわかった。
屋敷の廊下は薄闇に沈んでいる。いまだまどろみの中にある屋敷に、二人分の足音が響き渡る。決してうるさくしたわけではないが、静寂がそうさせるのだ。
悲鳴の正体が彼女であるという確信があったわけではないが、レインはまずクリュセイスの部屋に向かうことにした。悲鳴が聞こえたのは、彼女の部屋がある方向からだったし、何より雇い主だ。
レインは廊下を迂回して、中庭に面したその部屋の前まで来ると、まず普通にノックをした。
「クリュセイス? レイネートだ」
返事がない。だが、中で誰かが動いている気配がある。
レインがさっと体を脇にどけると、彼女の後ろに控えていたレーグが無造作に足を持ち上げた。戦鎚の一撃のようなレーグの前蹴りが、クリュセイスの私室の扉をいとも簡単に破壊した。
父親を亡くして以来、この屋敷の女主となったクリュセイスの私室は広い。小間仕えの控え室も含めると、ひとつなぎの七部屋が彼女の私的な部屋になっている。
入ってすぐの、一番大きな部屋には天井から大きなシャンデリアがつるされている。今は明かりが落とされていたが、それでも水晶飾りが静かな輝きを放っていた。床に敷かれた毛足の長い絨毯は、踏み荒らしても足音を消してしまう。
部屋の中には豪奢な調度品があったが、荒らされたような形跡はなかった。大きな窓には重厚なカーテンが引かれている。
レインは迷わず部屋の奥の扉に向かった。そちらの部屋から人の気配がする。そのドアノブに手をかけようとしたときだ。引かれたカーテンの隙間から、奥の部屋の窓から人影が飛び出すのが垣間見えた。
レインはカーテンを乱暴に引き開けながら、レーグを振り返った。彼は返事をしないまま、その大きな窓からテラスに出ると、躊躇しない様子でそこから下の庭へと飛び降りた。巨躯をものともしない身のこなしで、逃げた男を追っていく。
よくあんなのと戦って生きていたものだ。レインは自分のしぶとさに感心しながら、鍵のかかったドアを蹴り破った。
開け放たれた窓から吹き込む夜風に、引き裂かれたカーテンが揺れている。その部屋は寝室であった。窓と向かい合うように据えられた、天蓋つきの大きな寝台が、激しく乱れている。白いシーツに、点々と赤いシミがついているのに、レインははっとした。
寝台を回り込む。サイドボードの上に置かれた水差しが倒れて、絨毯まで水がこぼれていた。その傍に、細い体を折り曲げて、部屋の主が倒れ伏している。投げ出された白い腕に、赤い血が流れて筋を作っている。
治癒の魔法をかけながら、彼女の体を抱え起こす。青白い顔が強張っていた。長いまつげが震えている。揺すり起こすと、ゆっくりと目を開き、すぐ傍にいるレインに気づいて、ぎょっと体を離そうとする。
「落ち着け。私だ。レイネートだ。沈黙の魔法で、声が出せないのだな」
レインはわざと、ゆっくりと言った。とたんに、クリュセイスの体から力が抜ける。レインに体重を預けて、その胸に額を押し付けてきた。薄い寝巻きに覆われた細い肩が、小刻みに震えている。泣いているのだ。
「すぐに、魔法を解いてやるから、ちょっと待て」
レインはシーツでクリュセイスの体を包むと、軽々と抱え上げた。この頃には、使用人や解放軍の連中が起き出していて、部屋の入り口に駆けつけていた。
「お嬢さんが怪我をした。空いている部屋を借りたい」
クリュセイスの体を抱え上げたレインが言うと、使用人の一人が慌てて、こちらです、と案内し始める。レインは他の連中を振り返って、
「刺客は逃げた。レーグが追っている。お前たちは屋敷の警備を重くしろ」
と告げて、使用人の後に続いた。
不測の事態に無理をせずに逃げたのだ。あの刺客はプロの殺し屋だろう。誰に雇われたのかは、知らないが――。
沈黙の術を解いたクリュセイスは、客間の一つで眠っている。ナイフで切りつけられてはいたが、命に別状はなかった。
その客間の前の廊下で、程なくして戻ったレーグを迎えた。
「……逃した」
と、レーグは非常に端的に言った。
「あんたから逃げおおせるとは」
「……いや……誘い込まれている印象を受けた」
あえて、捕らえなかった、ということか。レインはレーグを窺う。
「どこに」
レーグは沈黙した。説明のしようがないのだろう。
「赤い瓦の、大きな屋敷だな」
「……そうだ」
わかった、とレインは頷いた。レーグに労いの言葉をかけると、彼をそこに残してクリュセイスの眠る部屋に戻った。
部屋の中では、女中が忙しなく主の世話を焼いている。彼女らは入ってきたレインの姿を見止めると、仕事の手を止めて頭を下げてきた。レインは彼女らに退室を命じた。
クリュセイスは、寝台の上に横たわったまま目だけ開いている。薬の影響か、どこかぼんやりとした視線を、寝台の横に立ったレインに向けた。
「具合の悪いところ申し訳ないが、あんたを襲った刺客について報告しておく」
「え……?」
クリュセイスの赤茶色の丸い瞳が揺らいだ。
「レーグが刺客の後を追ったが逃げられた。刺客はアンティノ=マモンの屋敷に逃げ込んだそうだ」
クリュセイスの瞳が、さらに狼狽に揺らいでいる。空気にあえぐ魚のように、何度か口を開閉した。形のよい唇が、それに合わせて小刻みに戦慄く。不意にレインから視線をそらして、部屋の高い天井を見つめた。寄せた眉頭の間に深いしわが寄った。今にも泣き出しそうな子供のような顔をしている。
「別に今すぐ指示を仰ぐつもりはない。調子が戻るまで、ゆっくり考えればいい」
クリュセイスは何も言わなかった。ただ、寝返りを打って、夜具に頭から包まってしまった。くぐもったような、押し殺したようなすすり泣きが、豪華な夜具の下から聞こえてきた。
レインは無言のまま、退室しながら考える。律儀に部屋の外で待っていたレーグを伴って、自室に戻った。
レーグが誘い込まれていると感じたのなら、おそらくそれは正しい。問題はその目的だ。
あの身のこなしからして、単なるゴロツキではないだろう。よそから雇ったのか――とにかく、プロが雇い主の素性をあっさりばらす行動を取るなど、ありえないことだ。
アンティノとクリュセイスを仲違いさせて、一番得をするのはカルラだということは分かりきっている。
あのプロの殺し屋は、おそらく青竜軍の諜報部隊の人間だろう。ロセン解放軍を内部崩壊させる気だ。
青竜軍がアンティノにスパイとして送り込んでいる――という可能性もあるが、今回に限ってはないだろう。連中は結託している。
レインはアンティノが解放軍を裏切っていることに何の疑いもなかった。あまりにも重要な情報が、ディンガル側に流れすぎている。確実に、しかも迅速に。
アンティノの裏切りについては、もうひとつ気になっていることがある。レインがロセン解放軍に入ったばかりの頃に行った任務。襲ってきた刺客は密書を奪うことが目的ではなく、レインを殺すことが目的だった。
命じた人間はレインが邪魔者になることに気がついていた。はっきりいって、レインはアンティノと接点がない。アンティノは彼女がどういう人物であるか、知らないはずだろう。アンティノが依頼主だと考えると、そこに矛盾が生じるが、残念ながらアンティノとレインをつなぐ糸が切れたわけではない。
カルラがレインを殺せと助言した――あの女ならやるだろう――か、あるいはもう一人、レインを警戒してもおかしくない女がいる。
アーギルシャイアだ。アンティノ商会にもぐりこませた草の記憶を探れば、レインのことを知るのは容易だ。何より、あの魔人はこちらが聖杯を探して競合していることを知っている。
殺せと指示したのはどちらか分からない。だが、そもそものロティ=クロイス暗殺の罪をレインに被せようとした背景には、アーギルシャイアからこちらの話を聞いていた可能性が大いにあった。時期的に考えても、アンティノとの接点はアーギルシャイアくらいしか思い浮かばない。
魔人と取引しようとは大した根性だが、組む人間を間違えるというのはお粗末である。
どういう取引があったか知らないが、アーギルシャイアやカルラを信用して協力しているのなら間抜けな話だ。
魔人しかり、カルラしかり、金で頬を叩ける連中ではない。
起き上がったクリュセイスが、アンティノの屋敷へ行くと言い出したのは、翌日のことであった。まだ青白い顔をしていたが、気丈にも背筋をしゃんと伸ばして、いつも通り小奇麗な格好をしていた。
「あなたにも、一緒に来ていただきますわ」
レインが寝起きしている部屋にわざわざ赴いて、クリュセイスは言った。レインは頷いて、腰かけていた椅子から立ち上がった。
クリュセイスがどういうつもりでアンティノ邸へ赴くのかは知らない。屋敷へ向かう間の馬車の中でも、彼女はふっくらとした唇を引き結んで、青白い顔を強張らせていた。膝の上で固く握り締めた拳が、白くなっている。
クリュセイスは馬車の小さな窓から、流れる市民街の景色を、ぼんやり眺めてばかりいた。
「おお、クリュセイス。話は聞いているぞ。大変だったろうね」
クリュセイスを迎えたアンティノは、いつも通り、脂ぎった顔に笑みを張り付かせていた。小さな目が、クリュセイスの後ろに控える大柄な二人の護衛に泳ぐ。
応接間は雑然としている。わかりやすくいえば趣味が悪い。獣の剥製が飾られているかと思えば、美しいライラネート神像が両手を広げていたりする。美術性の高い物を置いているのだろうが、どうにも統一性がなかった。
クリュセイスは綴れ織りの豪華なソファ――イエティの白い毛皮が敷かれている――に座って、アンティノと向かい合った。レインとレーグは、そのソファの後ろに立っている。
「抱えている商談が多くてね。見舞いにも行けなかった。許しておくれ」
アンティノは気味の悪い猫なで声を出して、ごまかすように笑う。
おじさま、とクリュセイスは、そんなアンティノを意にも介さない様子であった。
「今日お伺いしたのは、ほかでもない、わたくしを襲った刺客について確かめたいことがございますの。わたくしを襲ったあの恐ろしい男が、この屋敷に逃げ込むのを、ここにいるレーグが、確かめておりますの」
クリュセイスの言葉に、アンティノはじっと聞き入っている様子であった。丸い背中をさらに丸め、膝の上に肘をついて組んだ指をしきりに動かしている。小さな目が落ち着きなく、部屋の中を泳いだ。
何だ――?
レインは、アンティノが視線を走らせたほうを、ちらりと視界の端で確かめた。暖炉の上に、魔法仕掛けの置時計が置いてある。時刻はもうすぐ正午であった。
アンティノは時計へちらりちらりと視線を送りながら、どういう意味かね、と言った。
「それを尋ねたいのは、こちらですわ。おじさま」
クリュセイスは柳眉を歪めてアンティノを見つめる。膝の上で握り締められた彼女の拳が、白く色をなくしている。
「おじさま――わたくし、おじさまを疑いたくはありませんけれど、軍内でおじさまが帝国とつながっているのではないかという疑惑がございますの」
「そんな根も葉もない噂を、信じるものではないよ、クリュセイス」
アンティノはそう言って笑った。何だか無理に笑ったようだった。また、ちらりと時計に目をやって沈黙する。
「本当に、ただの噂ですのね?」
念を押すように尋ねたクリュセイスに、アンティノは答えなかった。おもむろにソファから腰を上げ、窓辺に立ってこちらに背を向ける。しばし、静寂が室内に満ちた。
かちり、と暖炉の上の置時計が正午を告げた。遠く、町の広場のほうから、カーンカーンと大時計が時刻を知らせる鐘の音が聞こえてくる。
「……鬱陶しかったのだ――」
「おじさま?」
遠くから聞こえる正午の鐘の音が鳴り響く中で、アンティノはこちらに丸い背中を向けたまま、ポツリと呟いた。
振り返ったアンティノは、よこしまに口角を持ち上げていた。悪辣この上ない笑みだ。奸譎極まる顔とはこのような、品性下劣な笑みのことをいうのだ。
「お前も、お前の父親のロティも。外面ばかりよく、人気取りがうまい。同じことをしても、やつは名声を手にし、その分だけ俺は非難された」
「お、おじさま……?」
呆気に取られるクリュセイスに、それまで静観していたレインが声をかけた。
「クリュセイス、立て」
ソファの背もたれ越しに振り返った彼女は、明らかに憔悴したような青白い顔をしていた。
「こいつがあんたの父親を殺したのだ」
ソファを回り込んだレインが、クリュセイスの腕を取った。彼女を立ち上がらせながら、アンティノを睨みつけると、彼は丸い体を揺さぶって笑った。
「その通りだ。お前に罪を着せてやろうと思ったがな。俺の周りを探りやがって」
アンティノがレインを睨み返した。小さな目はぎらぎらと嫌らしく光り、悪い酒に酔っているような調子である。
「馬鹿なやつめ。そこのクリュセイスが、お前を利用していないとでも思っているのか」
クリュセイスがぎくりと顔を強張らせた。レインはそれにかまわず、彼女をレーグのほうへと押しやる。
「利用しているのはこちらも同じことだ。――アーギルシャイアはどこにいる」
「お前に話す必要などあるのか。もう終わりだ」
鳴り響いていた大時計の鐘が止んだ。と、ほとんど同時に、耳をつんざくような爆音がリベルダムの町中に響き渡った。衝撃の余波が、アンティノ邸の窓ガラスを震わせている。
クリュセイスが青い顔をして、きょろきょろと周囲を見回した。レーグの顔色は変わらないが、わずかに警戒した気配がある。
「青竜軍を町に入れたな」
背後でクリュセイスが息を飲んだのがわかった。
「カルラは俺をリベルダムの総督にしてくれるとよ」
「それを本気で信じたのか。おめでたいことだ」
屋敷の中を誰かがこちらに向かって駆けてくる激しい足音が聞こえた。甲冑が鳴る音と、剣戟の音がしている。一人ではない。
レーグと二人でクリュセイスを挟むように立つ。それとほとんど同時に、応接間の扉がけたたましい音を立てて開かれた。鈍く光る甲冑に全身を包んだ男たちが、抜き身の剣をぶら下げてなだれ込んできた。
「クリュセイス=クロイスにアンティノ=マモン。帝国に反乱し、いたずらに人心を混乱させた嫌疑で逮捕する」
「何ですって?」
クリュセイスが我が耳を疑ったように目をむいた。それはそうだろう、帝国側の見方をすれば、兵士の言い分は正しいかもしれないが、クリュセイスから見ればいたずらに人心を惑わせているのは帝国のほうだろう。
だが、戦争とはそんなものだ。
「ちょっと待て。俺をリベルダムの総督にするという話はどうなった」
「そんな話は聞いていない」
アンティノの震えるような訴えを、兵士の一人が一蹴した。その兵士の顔が、クリュセイスを襲ったあの刺客に似ているような気がした。
屋敷の外の喧騒が聞こえてくる。街中はもう戦場だろう。急いで町を脱出しなければ、青竜軍に捕らえられてしまいかねない。そうなってしまえば、断頭台がレインたちを待っている。
「レーグ、クリュセイスを連れて脱出しろ。私がしんがりに立とう」
レインが言って歩み出た。その後ろでレーグがクリュセイスの華奢な体を抱え上げるのがわかった。レインでも抱えられる程度の重さだ。レーグなら軽いだろう。
入り口に詰めた兵士が身構える。構えた白刃を、レインの槍の柄が打ち払った。屋内では槍が振りにくい。腰のナイフを抜き放ちながら、殺到する兵士を蹴り飛ばす。振り下ろされた白刃をナイフで受け止めながら、
「行け」
クリュセイスを肩に担いだレーグを先に行かせ、レインは廊下に出た。遅れて駆けつけたらしい青竜軍の兵士を、レーグが蹴散らしながら廊下を進んでいく。
部屋に殺到していた兵士たちが、レインたちに追いすがってくる。レーグと距離を取りながら、レインが彼らを振り返った。
廊下は広く、天井も高い。ナイフを右手に持ったまま、左手一本で槍を叩きつける。軍勢の先頭に立った兵士の兜の上から、レインの槍の柄が容赦なく彼の頭蓋を襲った。怯んだように軍勢の足が止まる。
そこに、完成した炎の魔法を投げ込んでやった。火に巻かれて兵士たちが後退する。彼らの悲鳴が響く。
兵士たちがどうなったのかを確認しないまま、レインはレーグの後を追った。
レインが廊下を駆け抜け、エントランスホールに出たときには、すでにレーグの広い背中は玄関扉を潜り抜けようとするところであった。
その背中を追うように、二階へ続く階段を、兵士たちが駆け下りてくる。レインはその兵士の一人に向けて、右手のナイフを投げつけた。兵士の後頭部に大振りの刃が突き刺さる。残りの連中が、はっとレインに気がついてこちらを振り返ったときにはもう遅い。振り返ったその顔面に、槍の穂先が直撃した。返す刃でもう一人を叩き伏せ、残りの一人は石突で顎を砕く。
ほかに兵士が近くにいないことを確認して、レインは死体からナイフを引き抜くと、その刃を濡らす血を死体の服で乱暴に拭って鞘に収めた。そして、レーグの後を追って屋敷を飛び出していった。
リベルダムの町はもはや陥落寸前であった。そこら中から黒煙が上がり、火薬と鉄の臭いが鼻についた。響き渡る悲鳴と怒号を、爆発音と石造りの建物が倒壊する音がかき消していく。
逃げ惑う人の群れを押し退けながら、レインはレーグの背中を追った。甲冑を着た兵士たちが笛を鳴らし、レインたちの後を追ってくる。町の外に向かって市民街を駆け抜けながら、レインは散発的に追いすがる兵士を振り返っては、その度に二、三人を切り伏せた。まともに相手をしていてはキリがない。
リベルダムの町を南北に分ける川にかかった橋まで来た。橋を渡って少し行けばスラム街だ。そこからなら町の外に出られる。
橋の上でレインは不意に足を止めた。一瞬、先を行くレーグが肩越しにこちらを振り返ったが、彼女は先に行けと目配せした。彼は足を止めず、そのままスラムのほうへと走り去っていく。
「観念なさい」
やってきた方の橋の袂に、兵士たちが大挙して押し寄せている。居並ぶ兵士たちの中から、青い甲冑の女騎士が歩み出た。腰に帯びた剣を抜き放ちながら、橋の中ほどに立つレインに一歩近づいてくる。
「帝国を裏切って、反乱軍に加担するなんて。あなたらしくないわ」
昔、駆け出しの頃にともに冒険した間柄の彼女はそう言った。アイリーンは、そう言いながらも油断なくレインに刃を向けている。
「裏切るも何も、傭兵家業なんてそんなもんだろう。それに、私は元々、帝国の人間じゃない」
「私だって、そうよ」
アイリーンは言った。鋭い視線をレインに向けながらも、その声は泣きそうに震えていた。
あるいは、アイリーンはレインと自分を重ねていたのかもしれない。同じロストール領の出身でありながら、祖国を裏切り、帝国に仕官した身として。少なからず感じ入るものがあったのかもしれない。
「おとなしく投降して。今ならまだ間に合う」
あなただけなら助けられる、とアイリーンは言う。
「それはできない。私にはやらなきゃいけないことがある。――それに、アイリーンの望む形になった」
「えっ」
「付くのなら帝国以外に――そう言ったのはアイリーンだ」
アイリーンの表情が強張った。狼狽に目が泳ぐ。
レインは槍の石突で橋の石畳を強く殴打した。石畳が割れ、破片が飛び散った。それにアイリーンがはっとしてこちらに視線を定めなおす。
「私は投降する気はない」
アイリーンが改めて剣を構えなおした。正午の日差しに、彼女の白刃がぎらりと光った。
「抵抗するなら容赦しないわ。私は青竜軍の副将なのよ」
「だが別に抵抗もしない」
レインは言ってにっこりと微笑んだ。
えっ、とアイリーンが呆気に取られたように瞠目した。飛び出しかけた彼女の足が、石畳に引っかかったように止まる。
「逃げる」
レインが言うと同時に、橋の下を流れていた川が突然吹き上がった。まるで川底に間欠泉でもあったように、天高く水柱が上がったのである。
突然のことに呆然とする青竜軍の視界から、舞い上がった水の垂れ幕がレインの姿を覆い隠す。日差しを水のプリズムが反射して、虚空に七色の橋をかけた。
辺りを水浸しにしながら、川がもとの清流を取り戻した頃には、レインの姿は忽然と消えていた。
頭からずぶ濡れになったアイリーンが、慌てて周囲を索敵する。濡れた茶髪をかき上げて、背後の兵士たちを振り返った。
「川沿いを探せ! 町から出すな」
副将の怒号に兵士たちが慌てて河岸へと下りていく。苦い顔で剣を鞘に収めるアイリーンの背後で、何もないのに水溜りがばしゃりと跳ねた。
虹色の山脈の近くにリベルダムを見下ろす崖があった。背後をうっそうとした森に囲まれたその場所で、クリュセイスは燃える町並みを見つめていた。石造の建物が崩れ落ちる。木造の家々が燃えていく。立ち上る黒煙が、自由都市を覆い隠していく。
ここに逃げてくるまで、彼女はほとんど、レーグに担がれていたばかりであった。しかし、クリュセイスは今、とてつもなく疲れていた。屋敷の、天蓋付きのベッドで眠りたかった。だが、そのベッドどころか、屋敷も故郷も、もうクリュセイスには残っていないのだ。
あるいは、今のこの状況が、悪い夢なのかもしれない。
クリュセイスの少し離れたところで、無言のまま立っていたレーグが、弾かれたように背後の森を振り返った。腰に帯びた二刀の柄に手をかける。
クリュセイスはぎくりとしてレーグに身を寄せた。帝国の追っ手だと思った。悪夢はまだ続くのだ。
何もないのに梢が揺れた。そして、
「私だ」
と虚空が声を上げた。その瞬間、ばしゃりと水が跳ねるような音がして、ずぶ濡れになったレイネートが姿を現した。見えない衣を剥ぎ取ったように、突然、クリュセイスの目の前に現れたのだ。
「ど、どういうことですの?」
「逃げるのに、ちょっとね」
レイネートは言った。青竜軍の目をごまかすのに、水のバリアで姿を隠し、彼らに混じって町を出たのだ、と言う。
「アンティノは逃げたようだ。追っ手がかけられている。クリュセイスにも追っ手がかかるかもしれん。どこかに身を隠せ」
レイネートは言うなり、身を翻して、さっさと森の中に入ろうとする。彼女はもう次のことを考えている。
だが、クリュセイスには無理だ。レイネートの言うことは正しい。それはわかる。解放軍の旗印だったクリュセイスを、帝国軍が見逃してはくれないだろう。こんな町の近くでうろうろしていたら、すぐに追っ手に見つかるに決まっている。
けれど――。
クリュセイスはドレスが汚れるのもかまわず、その場に崩れ落ちた。冷たい土の上に座り込む。その白い頬を、目からこぼれ落ちた大粒の涙が伝っていくのがわかるばかりだ。
引き返してきたレイネートが、クリュセイスの傍に膝をついた。彼女の肩に、手甲に覆われた無骨な手を乗せて、レイネートは言った。
「――私に父親はいないけど、家族を殺された無念さはわかる。故郷をなくしたつらさもな」
クリュセイスはレイネートの濡れた甲冑の胸に飛び込んだ。彼女の首にすがり付いて、わぁわぁと子供のように泣いた。
母を亡くし、父を亡くし、慕った人も失くした。帰るべき家も、町も、何もかも――もう戻っては来ないのだ。そのことを、改めて思い知る。
ただ泣きじゃくるクリュセイスの体を抱えながら、レイネートは何も言わなかった。ただ、子供をあやすように、クリュセイスの背中をさすりながら優しく叩いているばかりであった。
◇ひとこと◇
ラストのクリュセイスのシーンを書いてるときに、スカーレット・オハラを思い出しました。
ロセン解放軍編終了!