翔王

『――獅子帝が『焦燥の耳飾り』を狙っているんだね。充分、気をつけるよ。
 八月の某日にリューガ邸に帰る予定なんだ。もし、都合があえば、その日に屋敷で会えないかな。そのときに神器を渡せるかどうかはわからないけれど。
 じゃあ、その日を楽しみにしてるよ。

エスト=リューガ』

 リベルダムで受け取った手紙の束の中には、確かにエストからの手紙があった。レインはエルズに向かう船の上で、その手紙を改めて確かめ、手の中で燃やした。潮風に灰が流されていく。
 八月か……ぎりぎりだな、とため息をつく。
 エストは今ひとつ、事の重大さがわかっていない気がする。ネメアが、レインのように話せば理解してくれると思っている。ある意味では正しいが、闇の神器に関してはそういうわけにもいかないだろう。
 なんせ、自分の養父に手をかけるのもいとわないのだ。
 レインは船べりに肘をついて、じっと波打つ海面を見つめた。七月終わりの、もう夏の盛りに入ろうとしている南海の海は、ぎらぎらとした太陽を浴びて深い青色をしている。風の精霊の力を借りて、白い帆を張って進む船体が波を切るたびに、白いしぶきが貴婦人のドレスのように翻った。
 海の青は、ネメアの瞳を思わせる。
 ネメアにオルファウスのことを直接尋ねたことはない。何となく、自分と母の関係に重ね合わせて、きっと慕っていると思っていた。
 レインに強い目的があったとして、母を殺さねばならないとしたら――どうするだろう。絶対に無理だという自信がある。ネメアのようにはできない。
 オルファウスが策を講じていたとはいえ、ネメアは二人の父親を殺したことになる。彼は自分の祖父も殺している。実父も祖父も、大した関係はなかった――祖父にいたっては生まれる前から殺されかけている――だろうが、それでも肉親を次々に手にかけるというのは想像しがたいものがある。
 オルファウスは猫の姿で、なるようになりますよ、と笑った。養父が一生あのままというのは、辛いものがある。それも自分のせいで、あんな獣の姿になってしまったというのは。
 私は自分の目的のために、あらゆるものを犠牲にしてきた――。
 ネメアの言葉が聞こえた気がした。自分は勇者などという高尚な男ではない、と言い切ったあのときの言葉が。
 レインとて、それは理解している。彼は神話の中の英雄ではなかった。絵に描かれるような、完全無欠の虚構の存在ではない。
 どんなに力を持っていても、どうしようもないことはある。だが――。
 酒の苦さを感じぬほどの苦さを抱えて、どこを目指そうというのだ。レインにはわからない。
 輝くような青空と、深い青色の海の境界に、エルズ島が見えた。もうすぐ、上陸である。

 
 エルズの町は、ラミリー山脈のふもとにある。その山肌にへばりつくようにして、赤瓦の白い家々が密集している。南国の日差しに漆喰の白壁が眩しく目を焼いた。エルズはかなり南方にあるが、本土南部のアミラルよりも涼しく感じるのは、このラミリー山脈から吹き降ろす風が、エルズの町を駆け抜けていくからであった。
 風の精霊神殿はこのラミリー山脈の頂上付近にあり、竜の座と呼ばれている。『竜』とは翔王のことだろう。
 竜、と聞くと、自然と竜王のことを思い出す。まばゆい閃光の中を旋回していた小さな影しか、レインは見ていない。だが、砂漠に下りようとしていた――どう見ても無害であった――ラドラスを焼き払ったのは、竜王に間違いない。
 よく知らんが、あまりいい印象ではないな、とレインは思う。
 竜の座へ続く山道を、彫刻画の道と呼んだ。ウルカーンの神殿への道は、何もないただの崖道であったのに対して、こちらは綺麗に整備された道である。しかも、その呼び名の通り、一定の間隔で道の上に彫刻画が彫られている。おそらく、定期的に交換するのだろうが、そうおいそれとできるものではないらしく、ずいぶん磨耗して風化していた。
 その長い山道を登っていくと、今度は見上げるほど大きな石造の戦士が立ち並んでいる。彼らが守るその先に、岩場をそのままくりぬいて作ったような神殿が見えた。長い階段と丸く太い柱が何本も見える。
 その柱の間に、小さな人影を見つけて、レインは足を止めた。
「待っていたぞ、レイン」
 相変わらず超然とした態度の童女が、神殿へ続く長い階段の最上段に立って、レインたちを見下ろしていた。亜麻色のおかっぱ髪が、ラミリー山の風にさらさらと揺れている。
 エア、とレインが歩みを緩めて階段を上がる。
「わらわに聞きたいことがあるような顔じゃな」
 千里眼を持つ童女の声に、お見通しか、とレインは内心で笑った。
「さすがだな。だが、話が早くて楽でいい。――闇の神器について、何か知らないか」
 エアはレインの言葉に、エメラルドの瞳を眇めた。
「ロセンの北に罪深き者たちの迷宮という場所がある。そこに赴けば、神器のひとつが手に入るだろう」
 罪深き……ロセンか……後戻りになるな、とレインは頭の中の地図で確認する。まずロストールに寄るのは絶対だとして、先にアキュリュースへ行くべきかロセンへ向かうべきか――。
「レイン」
 これからの旅程を考えていたレインは、エアの声に視線を彼女に向けた。エアは、幼い面を強張らせていた。何だか、青白い顔をしている。
「この先には翔王様がおられる。翔王様はわらわにおっしゃられた。そなたは危険だ。我ら精霊神の巫女が、八百年守り続けた封印を解こうとする愚か者だ、と」
 レインははっとした。少し後ろで、レインとエアの会話を傍観していたヴァンとナッジが、驚いたような顔でお互いに顔を見合わせている。
 ラミリー山から吹き降ろす風が、その強さを増した気がした。吹き荒れる風に、エアの亜麻色の髪が逆巻いている。乱れた髪の向こうから、爛々と光るエメラルドの瞳がまっすぐにレインを射抜いた。
「ティラを復活させるわけには行かぬ。世界のために。友人を助けるなどいう瑣末ごとは、大義名分にならぬ」
 レインは外套を跳ね上げて、槍を構えた。
「……世界かエステルか、なんて、そんな天秤に載らん話をされても困る」
 風がごうごうと、耳の傍で唸りを上げている。まるで、何かの獣が激しく威嚇しているようだった。
 荒れ狂う風の壁の向こうで、小さな巫女は悠然と立っている。薄緑色の衣をはためかせながら、エメラルド色の瞳に強い光を宿していた。
「ティラの封印はどうにかする。約束する。だから、道を開けてくれ」
「笑止。人の子のそなたが、いかにして神にあらがおうと言うのだ。身の程を知れ」
 エアはあくまでも、レインの道を阻む腹積もりらしい。正直言ってやりにくい。ラドラス脱出の際に、エアは誰よりも尽力していたからだ。
「……では、なぜ、私を生かしたのだ」
 こちらを押し流そうとする激しい向かい風に、レインは前のめりになりながら、硬い声を出した。
「ラドラスで、私を殺さなかったのはなぜだ。わざわざここで待つまでもない。あのとき、私を殺せばよかったのだ。……エア、ティラは復活するのか」
 エアは答えない。幼い顔を険しくしかめたまま、じっとレインを睨んでいる。
「私の未来に何を見た」
 レインの問いに、エアは答えを返さなかった。その代わりにとばかりに、白く小さな手を振りかざして、こちらを押し返すように風の固まりをぶつけてきた。あまりの風圧に、呼吸が止まる。
 三人は風から逃れるように、石像の足元に飛び込んだ。風の力がやや収まり、ようやく呼吸が楽になる。
 レインは同じく石像を盾にしたヴァンとナッジを振り返った。
「おいおい、どうなってんだ」
 ヴァンが青い顔をしている。確かに、ここでこんな抵抗にあうとは思いも寄らない事態だ。
「ラドラスではいい人だったのに。どうしたんだろう」
 槍を抱えてナッジが言った。
 エアは退く気がない様子である。風の防御壁がさらに分厚さを増して、神殿への入り口を封鎖している。
 石像の陰からその様子を、つぶさに観察したレインは羽織っていた外套の留め紐を外した。この強風では、外套は邪魔だ。
「……何があったかはわからないけど、こちらも退くわけにはいかない。エステルはどうなる」
 風の音がうるさい中で、レインは二人を振り返った。
「ナッジ、精霊の干渉に割り込めそうか」
「む、無理だよ。この風を止めるなんて」
「止めなくていい。一部分だけ、流れを変えてくれれば――」
 言いながら、レインは自分の首もとを覆うスカーフを、槍の穂先にしっかりと結びつける。ナッジに風の防御呪文をかけてもらって、レインは槍を構えた。
「行くぞ」
 石像の陰から飛び出したレインの体が、見えない手に弾かれたように後方に飛んだ。慌てて踏ん張りを利かせる。ナッジの防御魔法のおかげで、直接的なダメージはないが、吹き飛ばされれば、ラミリー山の谷底に真っ逆さまだ。
 風の術で、自分の呼吸だけは確保する。猫屋敷での一戦が役に立った。
 槍にしがみつきながら、自分の体を支える。穂先に結んだスカーフが、強烈な風になぶられて、右に左になびいている。
「スタラグ!」
 石像の陰から、ナッジが力ある言葉を発した。地を這う魔道力のきらめきが、地面を隆起させる。ちょうど、レインの盾になるような位置だった。
 精霊同士には、相剋関係というものがある。風の精霊は土の精霊の堅牢さを壊せない。
 逆巻く風に煽られて、小石がびしびし飛んでくる。小石はスタラグの石壁に音を立てて当たっているが、そのおかげでレインのところにまでは届かない。だが、ここで籠城していても埒が明かないだろう。石壁の盾からレインは、臆せず風の渦の中に飛び出した。
 振り下ろした槍の穂先から魔道力がほとばしる。逆巻くエアの風を割って、レインが繰り出した暴風が、一直線に小さな風の巫女を狙い打つ。
「……そよ風よ」
 エアが手を払った。レインがつくった風の矢は、巫女の手前でくるりと渦を巻いて反転するなり、術者であるはずのレイン目掛けて襲い掛かってきた。
 槍の穂先に巻いたスカーフが、右に左に激しくはためく。見えない大木に殴られたような衝撃がレインの腹を襲った。さすがに踏ん張りが利かない。大きく後方に吹き飛ばされる。
「ヴァン!」
 レインの声に、石壁の陰からヴァンが飛び出した。同時に、レインはスタラグの石壁に追突する。受け身を取ったが、衝撃をすべて殺すことはできない。強烈な空気の塊が、動きを止めたレインの体を石壁に押さえつけ、押しつぶそうとしてくる。
 ナッジがゲイルを撃ち出した。狙いはエア――ではない。
「うおっ」
 空中でヴァンが加速する。ナッジの風の術に押されたヴァンの体は、レインが作ったわずかな凪の道を、強烈な速度で突き進んだ。
 エアが思わず身構えるが、もう遅い。エアの周囲には、強風の影響を受けない微風地帯がある。ヴァンはすでに、そこに到達している。ヴァンを吹き飛ばすなら、エア自身にも影響を及ぼすだろう。
 エアは逡巡したように見えた。たとえばそれが、戦慣れしたものであったなら、躊躇わずにヴァンを吹き飛ばしたに違いない。
「あ……っ」
「悪ぃ!」
 ヴァンの拳が、エアの小さな体を打った。みぞおちを殴打されたエアの体が崩れ落ちる。逆巻いて唸りを上げていた風が、意志を失ったように霧散して、ラミリー山の山肌を滑り降りていった。
「大丈夫?」
 駆け寄ってきたナッジに手を振って応じながら、レインは身を起こした。ナッジから受け取った外套を手に、彼を伴ってヴァンへと歩み寄る。
「すっげぇ後味悪いぜ」
 しかめ面を浮かべた彼は、跪いてエアを抱えている。青白い顔を浮かべたエアは、眠るように気を失っていた。
 レインは外套で彼女の小さな体を包み込むと、石像の足もとの、目立たない場所に寝かせてやった。
 竜骨の砂漠でティラの話をしたときには、あまり反応を示さなかったな。レインはあのとき、この小さな風の巫女と交わした会話を思い出す。未来を見れるとしたらどうする、と聞かれたが――。
 どうも、ティラの封印如何でレインの前に立ち塞がったとは思えない。レインを始末するというより、この神殿に入らせないようにしたがっているように見えた。
 私の未来に、何を見たのだろう。
「……命に別状はない。すぐに気づくさ。――それより、行こう」
 レインは立ち上がった。拳器をはめ直すヴァンが、何ともバツの悪い顔をしている。

 
 竜の座は、がらんどうの大広間であった。ラミリー山をくりぬいて作られた神殿は天井が高く、見えない。風がその高い神殿の天井辺りで、逆巻いている。獣の唸りにも似た風の音が、神殿中に響いていた。
 大理石の床の広範囲に大きな穴が開いている。中は岩肌から露出した聖光石の原石が、深く穴の底まで続いている。穴の上にはガラスで蓋がされていて、そのまま照明になっているようだ。神殿内は、ほのかに明るい。
 はじめ、レインはそれが彫像であると思った。入り口から入って真正面に、大きな竜の彫像がある。神殿前の山道で並んでいた石造の戦士のような、命を持たない無機物の塊だと思った。
 だから、その美しい竜が、黄金色の瞳を瞬かせたとき、ぎょっとして足を止めてしまった。
「愚かな娘だ」
 天の高いところで吹き荒れる風のような低い声であった。竜は、ごぉおおおお……、とふいごのような息を吐く。
「我が言葉を理解せず、あくまでも抗うとは」
「何の話だ」
 レインは独り言のようにしゃべる翔王を見上げた。てっきり自分のことを――愚かな娘と呼ばれるのには慣れている――言われているのかと思ったが、どうも様子が違うようである。
「我が娘、エアのことよ」
 娘!?――レインは目を見開いた。
「エアはただの人の子ではない。魔法によってその純血を守る魔道の子よ。古き魔道王国の栄華の世から、連綿と続く一代限りの風の巫女よ」
 なれど、と翔王は唸る。鳥のくちばしに似た長い口が、かっと開き、そこに並ぶ刀剣のような牙がギラリと光った。
「人に連なるものは、所詮、人――この母の言葉の真意を理解できぬと見える。下らぬ情にほだされ、我が命に背くとは」
 待て、と言ったレインの声は、翔王が大きな翼を羽ばたかせた音にかき消されてしまう。
 翔王が牙をむいて、風の唸りのような咆哮を上げた。突風がレインたちを襲う。
 ナッジとヴァンが戦闘体勢をとったのに対し、レインはいまだ逡巡していた。
 娘? 母?――翔王の言葉はレインの心の、一番敏感な部分に、容赦なく踏み込んでくる。
 風の巫女エアが男の力を借りずに、魔法によって子を成している――ということはエルズの町で聞いたことがある。だが、それを翔王が娘と思っているなどとは聞いたことがない。
 だからエアはレインをこの神殿に入れたくなかったのだ。親のように慕っている竜と争おうとしている人間を、みすみす通しはしないだろう。ではなぜ、ラドラスでレインを殺さなかったのだろう。エアの千里眼ならこうなることはわかっていただろうに。
 思考はぐるぐる回る。レインは槍を構えながらも、竜の爪と牙を避けるので精一杯だ。
「レイン、何やってんだ!」
 ヴァンが叫ぶ。
 愚か者め、と翔王が言った。竜がしゃべるたびにふいごのような音がする。
「人は愚かだ。矮小で、すぐにうつろう。迷い、惑う。そのようなものに、世界を預けることはできぬ。そなたのその脆弱な鋼で、我ら竜の鱗が貫けると思うか。この翔王の翼を貫けると思うか」
 レインは迷った。このままこの竜を殺せば、レインはあのヴァシュタールと同じところに身を落とすことになる。そんな非道を、歩めるものか。
 ではエステルはどうなる。あの可哀想なエステルは、あのまま一生地の底で大地を支え続けるのか。それもまた、非道ではないのか。
 くそっ、レインは槍を構え直す。竜が動くたびに緑の鱗がぞろりと動き、紫の光沢を返した。
「ヴァン、翼を狙え! 飛ばせるな。ナッジは風を制御しろ」
 レインは槍を振りかぶりながら翔王の横に回りこむ。鎌のような翔王の翼が、レインの首をはねようと薙いでくる。飛び込むように前転でかわしながら、レインは翔王の後ろ足――かかとの辺り――に、槍の穂先を突き立てた。
 緑の鱗が散る。鋼が肉を引き裂いて、血を浴びる。
 翔王が大きな両足を踏みならした。レインが飛び退ると同時にその場所を、太い尾がなぎ払った。風の塊が襲い掛かる。
 だが、思ったよりも風の抵抗を受けない。そよ風が、レインの周りを取り巻いている。ナッジの守りの魔法だろう。
 レインが攻撃している間に、ヴァンが翔王の背に上った。大きな羽の根元にしがみつき、その動きを制限している。ヴァンの拳では、翼を破けないようだ。
 レインは槍を長く持つと、ヴァンが邪魔をしている翼に切りつけた。鳥の羽のような、羽毛のついた翼である。羽根を切り裂く。血がぱっと散った。
 翔王が大きく体を震って、牙をむく。その拍子にヴァンが背中から転げ落ちた。ナッジが駆け寄る。
 翔王が傷ついた翼を羽ばたかせる。飛ぶ気だ。
 レインは駆けた。翔王に向かって、真正面から飛び掛った。翔王の喉の奥がちかっと光った。
 身をひねったレインの甲冑を、竜の吐息が焦がす。それでもレインは足を止めなかった。翔王が飛び立つ。レインの槍の穂先が、翔王の肩口に食い込んだ。レインの足が床から浮く。翔王の体が傾ぐ。
 レインは槍を短く持って、翔王と体を密着させた。翔王が暴れまわってレインを振り落とそうと牙をむく。
 土の精霊力を帯びたヴァンの拳が、翔王の鱗を砕いた。翔王がヴァンの拳が届かない場所まで高く飛ぶ。レインをぶら下げたまま。
「ナッジー!」
 レインは腰の短剣を引き抜きながら叫んだ。呼び声に応えてナッジの魔法が完成する。
 短剣が土の精霊力を帯びる。レインは翔王の細い首につかまりながら、短剣を竜の顎に突き立てた。竜の体が落ちる。どぉっともんどりうって、翔王の巨体が丸いガラスの上に墜落した。鋭い音がして、ガラスにヒビが入る。
 レインは槍と短剣を引き抜いて、飛び退った。翔王が起き上がろうともがく。傷ついた翼を引きずりながら、割れた顎をだらりとぶら下げて。床のガラスが、また鋭い音を立てた。
 翔王の黄金の瞳が、レインを見据えた。レインは槍を片手にぶらりと携え、短剣を腰に戻す。
「まこと、強き鋼の娘よ。運命の鎖すらも断ち切る、強き槍の娘よ。どうか、我が風の巫女の運命の鎖も断ち切ってくれ」
 息も絶え絶えに、翔王は言った。また、澄んだ高い音がする。
「死ねぬ竜でも死ねるのだ……。すべてのものには終わりがある。そうやって、世界は巡るのだ。世界を支える装置など要らぬ。ただ、巡る命があるだけだ」
 翔王が黄金の瞳を眇めて頭を垂れた。レインは、思わず、そっとその鼻先に触れた。
 一際鋭い音が、神殿のがらんどうの中を満たした。床のガラスが砕ける。翔王の姿が消えた。駆け寄って、床の穴の中を見ると、どこまでもどこまでも、竜の姿は小さくなっていく。
 翔王の姿が消えた。その瞬間、突風が竪穴を駆け上がってきた。穴の上に身を乗り出していたレインの体を押し退け、突風は神殿内を駆け巡った。そして、高い天井をぐるりと旋回すると、また吹き降ろしてきて神殿から飛び出していった。まるで、荒れ狂う竜のような風であった。
 レインは、風が吹き去ったほうをじっと見ていた。竜の咆哮が聞こえた気がした。

 風の巫女よ、風になれ。
 お前の母たちが逃れたいと願ってやまなかった、運命の鎖から解き放たれ……。
 自由な、風に……――。

 
 レインは小さくなるエルズ島を見つめていた。満天の星空の中に、ラミリー山脈が黒々とした影となって浮かび上がっている。その山すそには、家々の灯火が、空の星にも負けないほど輝いていた。
 レインはアミラルに向かう船上にいた。昼の青さと打って変わって、墨を溶かしたような不気味な黒い海を、白い帆船が渡っていく。
 一行は翔王を倒した後、そのまま神殿の奥に進んだ。そして土の巨人アビスを斃し、風の精霊神プレシオーネを解放した。
 風の神殿に戻ったレインは、気がついたらしいエアと再会した。エアは、がらんどうの神殿の、真ん中に穿たれた大穴を覗き込むようにして座り込んでいる。夕暮れが差し迫る神殿の中は、黄金色に輝いていたが、そこにたった一人で座り込んでいる巫女の小さな背中は侘びしさしか感じなかった。
 あるいは、そこに自分が一番救ってやりかった背中を見た気がして、レインは足を止めてしまう。
 エアがこちらを振り返った。あのエメラルド色の大きな瞳が、泣きはらして真っ赤だった。
「……別に、恨んでなどおらぬよ」
 エアが言った。
「翔王様が望まれたことだ。是非もない」
「どういう意味だ」
 かつて翔王が鎮座していた壇上に立ったまま、レインは小さな風の巫女を見下ろした。エアはさっとレインから視線をそらして、翔王が落ちていった竪穴を覗き込む。
「竜は本来死ねぬものだ。彼らは世界を支える装置だからだ。なれど、翔王様はそんな自分の存在を、疑問に思っておられた」
 竜王の目を欺くために、あえてレインに討たれたというのか。この、母を殺された過去を持つレインに。
「何で私なんだ」
 壇上から駆け下りたレインの声は、悲鳴のようだった。神殿の高い天井に、残響が響き渡る。
「平気だと思っているのか。私の過去を知らないわけではないだろう!」
 小さなエアにつかみかかろうとしたレインを、ヴァンが押しとどめる。ナッジが非難めいた顔をして、レインの腕を引いた。
「何者でもなき者。すなわち、何者でもある者――」
 ぽつりと呟いて、エアは立ち上がる。夕日を浴びたエメラルドの瞳を、レインに向けた。それは金細工で覆われた宝石のようだった。
「わらわには、そなたが見えぬ。来た道も、行く末も、一切がわからぬ。だが、翔王様は、それこそが人の未来であると説かれた。誰にも未来はわからぬ。決まった運命があるのではない、ただ可能性があるだけだ、と。それが命なのだ、と。それを自らの命で示すとおっしゃられた」
 エアとレインの間にあった奇妙な齟齬の正体は、これだったのだ。エアは、レインの思惑も未来も、彼女が戦う理由も何もわかっていなかったのだ。だからこそ、この小さな巫女はラドラスでレインを始末しておく決断ができなかった。
 わらわには見えなかった、とエアはかすれた声で続ける。
「翔王様の未来が……。どうすればよいのか、わらわにはわからなかった」
 『見る』のではなく、『あらがう』べきだった、とエアは言った。大きな瞳からぼろぼろと涙を流しながら。
「教えてくれ。人はみな、こんな暗闇の中を、どうやって歩いているのだ」
 エアはわぁっと泣いた。歳相応の、幼い泣き声だ。
 レインは沈黙した。誰も何も言わなかった。いや、正しくは、言うべき言葉を持たなかった。
「出て行ってはくれぬか。恨んではいない。だが、許すこともできない」
 山を下り、アミラルへ向かう船に乗った。真っ白の帆が、風を受けてパンパンに膨らんでいる。暗い、夜の海でも、白い月の光を浴びて、夜空に浮かび上がるようだ。
 誰もいない甲板の上で、レインは槍を振るう。鋼の穂先が風を切る。竜が唸るような音だった。
 彼女の表情はことさらに険しかった。
 演舞というには無骨すぎ、稚拙すぎた。槍の鍛錬というには優美すぎ、滑らかすぎた。
 ぴたりと動きを止めたレインは、槍にすがって膝をつく。今度は、泣きそうな子供のような顔になる。
 たとえ、崇高な目的があってこの間違った道を歩まねばならないとしても、間違っているものは間違っている。
 こんな重たいものを抱えて、どこに行こうというのだ。どこにも行けやしないではないか。
「……重い――」
 呟きは、風の音とともに消えた。

 


◇ひとこと◇
 人間は矛盾や迷いを抱えながら生きるものだと思っています。たとえ、無限のソウルに目覚めても、レインはそういうものを捨てないで欲しいと思います。

 

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