真夜中のお茶会

 レインはリューガ邸にいた。その応接間で、給仕が入れてくれた茶を飲みながら、手紙の束とにらめっこをしている。リベルダムのギルドに寄った際に、手紙をロストールに送るように手配していた。
 テーブルの上に無造作に置いてある束のほうは、正直言ってどうでもいい。問題は、レインの手元のほうの二通だ。
 一通はアキュリュースのヴァンからである。正確に言えば、アンギルダンからであった。現在、アキュリュースには白虎軍が駐屯しているが、帝都から家族を呼び寄せるものも多くいる。彼らに発行される渡航許可証を用意する、とのことであった。ただ、精霊神殿のほうは依然として白虎軍が常駐しているので、部外者が潜入するのが難しいとのことである。イークレムンの伝を頼って、何とかレインを迎え入れるつもりである、と手紙は締めくくられている。
 もう一通は、あのセラからであった。『禁断の聖杯』もといアーギルシャイアの居所はつかめないとのこと。レインは彼宛の手紙に、アーギルシャイアとアンティノ商会についての関係を書いていたが、それに関しては何も返答がなかった。ただ、サイフォスという男について何か知らないか、と尋ねてきた。
 サイフォス――聞いたことがない。セラの手紙によれば、短剣を巧みに扱う、仮面で顔を隠した男だという。
 レインは記憶をたどる。仮面をつけたような怪しげな知り合いはいない。
 それにしても、そのサイフォスという男が、アーギルシャイアとどう関わっているというのだろう。彼女とつるんでいる魔人、とでもいうのだろうか。
 レインは返事を書いた。アキュリュースには、これまでの簡単な顛末と闇の神器を二つ手に入れたこと、それから、そちらに向かうにはもう少しかかりそうだということ。セラにはアンティノと妙な接点ができたことと、機会があれば探りを入れてみる、としたためた。
 レインが二つの手紙を封筒に収めていると、応接間の扉が開いた。そして、いかにも不機嫌そうなレムオンが、濃い緑の目を怒らせていた。
「まだ、そんな格好をしているのか」
「すぐに着替えるよ。ちょっと待ってくれ」
 レインはぶっきらぼうに言って、封筒に封をした。指先に灯した小さな炎で蝋を溶かし、印を押す。稲妻と槍が交差した、レインの紋章であった。以前、ケリュネイアにもらった手紙を見たときに、印章が格好良かったので自分も持っておこうとドワーフ王国で作ってあったのだ。しかし、作ったはいいが、なかなか使う機会に恵まれず、今回がほとんど初使用である。
 そうやって作った手紙を持って立ち上がり、レインはレムオンを見据えてため息をついた。
「……何で、私が行かなきゃいけないんだ」
「そういう約束だっただろう。たまには顔を見せねば、怪しまれる」
 レムオンはレインにロクサーヌになることを強要した。エストとの連帯責任――いまだに何の責任を取らされたのかわからない――の刑罰は終わったが、レムオンはさらに登城せよ、と命じてきたのである。
 金が出なければ、さっさと屋敷から逃げ出しているところである。
 さすがに、ロクサーヌになるのにもなれた。自分からこの格好をしようとは決して思わないが、着替える早さだけは上がった気がする。
 久々に、表の城門からロストール宮殿へ訪れたレイン、もといロクサーヌは、レムオンに連れられてティアナ王女の住まいである離宮へとやってきた。意外なことであるが、ティアナ王女は後宮で暮らしているわけではなかった。理由はよく知らないが、宮殿の敷地内にある離れで、日々を過ごしているとか。
 アトレイアも離宮で暮らしているが、あちらとは規模が違う。庭には色とりどりの花々が咲き乱れ、小さな滝と川が流れている。庭の隅には温室があって、エルズに住むという色の鮮やかな鳥が飼われていた。小さな――レインから見るとかなり大きな――屋敷のようであった。
 アトレイアの、部屋の窓から見える空中庭園が精一杯の、寂れた離宮とは雲泥の差だ。
 ティアナ王女はその庭にお茶の用意をさせて、レムオンたちを迎え入れた。
「お久しぶりですわね、ロクサーヌ様」
「ご無沙汰しております。少々、胸の持病で、伏せっておりましたので」
 胡散臭さが半端ではない。以前よりも大きくなった体をごまかすために、ショールなどをまとっているが、到底、病など患っている人間には見えない。病弱な、深窓の令嬢というのは、たとえば、あのアトレイアのような人間をいうのだ。
 ずいぶん、よくなってきたので、とレムオンが静かに口を開いた。
「城に登らせたが、お前に会いたいと聞かなくてな」
 そんな根も葉ないことを言うので、レインは非難がましい視線を彼に向けた。ティアナに会いに行く、と言い出したのはあんたではないか、という視線である。
 まぁ、とティアナは顔をほころばせる。花も恥らうとはこのことだろう。この庭を彩る季節の花々がかすんで見えた。
「わたくしに会いに来てくださるなんて、光栄ですわ」
「そんな。とんでもございません。わたくしのほうこそ、わざわざお時間を取っていただいて、光栄に存じます」
 ティアナはじっとロクサーヌを見つめた。エリス王妃を髣髴とさせるサファイアの瞳が、夏の日差しを浴びてきらめいている。
「何だか、ロクサーヌ様はお変わりになられたようですわ」
 ひぃっ、という内心の声が漏れそうになった。引きつったように笑顔を浮かべるが、ちょうどよい言い訳が思いつかない。
「とても、素敵になられました」
「えっ」
 ロクサーヌは眉をひそめる。てっきり、たくましくなられましたね、とか言われるかと思っていたが。レムオンが奇妙なものを見るような目で、ティアナをまじまじと見つめている。
「とても自信に満ち溢れていて、堂々としていらっしゃいます。内面からの輝きと申しましょうか。一朝一夕では身につかないような、気品を感じます」
 さすがはファーロスの雌狐の血を継いでいるだけはある、とロクサーヌは内心で感心した。人を見る目は確かなようだ。
 レイネートとして積んできた経験が、果たして気品につながるのかは疑問である。だが、多くの経験を積んだ今のロクサーヌの胆力は、戦場でつちかわれたものだ。それが、自信と堂々とした態度に表れているのかもしれない。
「なんだか、輝いていらっしゃいます」
 ティアナは熱っぽく続けた。
「ひょっとして、恋をしてらっしゃるのでは」
「それはない」
 ティアナの言葉を即否定したのはロクサーヌではなかった。じろりと隣に腰かけた義兄を睨む。
「どうして、お兄様にそんなことが言えるのでしょう」
 別に恋をしているわけではないが、そういう色っぽい話などあるわけがないと、頭から決め付けられているのに腹が立った。レインだって、そういうものに興味がないわけではない。
「……お前はずっと屋敷で伏せっているだろう。いったい、どこの誰と恋に落ちるのだ」
 わかりませんわよ、とロクサーヌはしれっとした顔をした。半分、レインに戻っている。
「恋する相手は貴族とは限りませんわ。恋に身分は関係ありませんもの」
 屋敷の中にも殿方はおりましてよ、と続けようとしたロクサーヌを遮って、ティアナが大きな声を上げた。
「その通りだと思いますわ!」
「えっ」
 ロクサーヌとレムオンが、ぎょっとした顔をする。
「わたくし……わたくし、先日、素敵な殿方とお会いしましたの」
 ティアナは白くて華奢な指を、胸の前で絡ませた。手を組んで、サファイアの瞳をうっとりと潤ませている。
「先日、空中庭園でタルテュバ様に声をかけられて、困っていたところを助けてくださった方がいらしたのです。着ていたものは質素でしたが、女性にお優しい方でした」
 ロクサーヌは飲んでいた茶をふき出しそうになった。それは男ではない。目の前にいるロクサーヌの本性である。
「背が高くて、広い背中がたくましい方でした。タルテュバ様相手に毅然としていらっしゃって。わたくし――とアトレイア様を守ってくださいましたの」
 広い背中が、たくましい……――ロクサーヌは一人でおたおたとした。カップを上げたり下げたり、ソーサーに置こうとしてガチャリと音を立てる。
 無作法を怒られる――と隣の義兄にちらりと視線をやって、ロクサーヌは固まってしまった。
 嘘だろう……レムオン……。
「貴族の方にはない強さと奔放さがあって、けれど、女性に対する優しさがあって……。名乗らずに立ち去られたのです」
 ティアナは二人の様子に気づかぬまま、はしゃいだように語っている。
 ロクサーヌはどうしていいかわからずに、曖昧な相鎚を打った。ティアナがレインにとんでもない勘違いをしていることは、もうどうでもよくなっていた。それよりも、この隣で一見涼しい顔をしている男の心情を思うと、いたたまれなくなってくる。
 レムオンは、この冷血漢は、政敵の娘に、恋をしている。

 
 王宮から屋敷に帰る坂道を、リューガの馬車がごとごとと石畳を鳴らしながら下っていく。
 レインは対面に座ったレムオンを、ちらりと上目遣いに窺った。レムオンは、むっつりと薄い唇を引き結んで、夕日に照らされた窓外の景色を見つめていた。窓から差し込んだ茜色が、普段から悪い彼の顔色をわからなくしている。
 レインとて、確信があるわけではない。ただ、空中庭園の君――男装のレインのことだ――のことを熱っぽく語るティアナを見たときのレムオンの表情は、苦悶していた。切ないような、苦しいような、憎いような――それでいて、愛しいような。ちりちりと胸を焦がす炎が、全身に燃え移って、身まで焦がすような、そんな顔をしていた。
 レインにそんな経験はないが、何となくわかってしまった。恋とは、とりわけ、片思いとは、きっとそんなものだ。
 あのぉ、とレインはおずおずと声をかけた。ちらりと対面のレインに目をやったレムオンは、生気のない人形のような顔をしていた。
「あの、ティアナ王女が言っていた、空中庭園の男だけど……別に、気にしなくていいんじゃないかな」
 レインの要領を得ない言葉を受けて、レムオンの冷たい目に、少しだけ熱が点るのがわかった。
「あの……そいつ――男、じゃない、かも」
「どういう意味だ。お前、何を知っている」
 レインは、はぁ、と音を立てて息をついた。なぜ、急にこの男に哀れみを感じたのかわからないが、何となく、慰めてやりたくなった。
「えっと、それ、私、だと思うんだ。その……私、アトレイア姫と、ちょっと個人的に友人で。ああ、ノーブル伯だということは言ってない。当然だけど。それで、あの、アトレイアに会いに行ったときに、たまたま――本当に偶然、ティアナ王女に会ったんだ」
 だから、気にしなくていい、とレインは気休めにもならないことを言った。
 レムオンはいつも通りの、冷たい目に戻っていた。それから、バツが悪そうにしているレインを、しげしげと観察した。そして、何かに気づいたように、はっとした。
「お前……――」
 その声が、同情味を帯びて聞こえた。レインを見つめる濃緑色の瞳が、憐憫の情に揺れている。
「え?」
 何でもない、とレムオンはレインから視線をそらした。再び窓外の景色を見やる。
 レインはどうしようもなく、小さく息をついた。馬車内はとても息苦しく、コルセットをつけていないのに、息をするのも億劫であった。
 別にリューガ邸に残ったからといって、レインにはどうすることもできない。だが、何となく傷心のレムオンを放って旅立つ気になれなかった。
 レインはアキュリュースからの連絡を待つという建前で、リューガ邸に滞在している。もちろん、その理由がなかったわけでもない。アキュリュースから、帝国が公式に発行された渡航許可証が届くまで、あちらに行っても湖を渡れないだろう。
 リューガ邸に滞在する間、レインはエストの蔵書を借りて、闇の神器に関する情報を集めることにした。エストはすでに、再び、屋敷を旅立ってしまっていたが、少し借りるくらい問題はないだろうと思われる。
 その間、レムオンはまったく普段どおりであった。青白い顔をしかめて、レインに小言を言い、冷静に職務をこなす、冷血漢であった。
 その冷血漢が、困ったような顔でレインに城への随伴を申し出たのは、その日の夕飯の席でのことである。ティアナを訪ねて――レインがレムオンの気持ちに気づいたあの日――から、数日が経っていた。
 レムオンは青白い顔を困惑に歪めて、食卓の端にすでに封を開けられた封書を置いた。滑らせるようにレインへと差し出す。
 視線で意味を尋ねると、レムオンは一言、読め、と言った。
 封蝋は青い蝋に七竜が首を伸ばしている、王家の紋章であった。つまり、これは王宮から出された公式の手紙だということになる。
 中を確かめると、小さなカードが出てきた。薔薇の香水でも吹きかけているのか、芳醇な香りが鼻孔をくすぐる。

『本日、空中庭園にて深夜のお茶会を開催いたします』

 短く、端的な文章がうねって飾ったような文字で書かれている。文面から察するに、夜の空中庭園で花見をしながら茶――というより酒だろう――を飲もうというのである。
 差出人は、ティアナであった。
 レムオンの困惑の理由はこの差出人であろう。この男は、意外と純情なのかもしれない。
「お前も来い」
 レムオンはため息混じりに、つっけんどんにそう言った。レインはカードを戻した封筒をレムオンのほうに押し戻しながら、じっと彼を見つめた。どうにも決まりが悪そうである。こちらを見ようともせずに、手元の皿に視線を落としている。
「あー……うん。い、いいけど……」
 気まずげな返事をしたレインに、レムオンもまた気まずそうな頷きをよこした。

 
 レインはまたロクサーヌの格好をして、夜の王宮へとやってきた。レインは知らないことであったが、夜の王宮に出入りする貴族は少なくない。大抵、何らかのパーティーが行われているらしい。
 この戦時下の緊張感にあって、よくパーティーなんぞやってられる。レインなどはそう感じる。ただの現実逃避なのだろうとは思うが、逃避なんぞしている場合ではないだろうとも思う。
 徴兵制の整っているディンガル帝国とは違って、ロストール王国の軍人は貴族であることを意味する。次に帝国が攻め込んできたとき、彼らはどうするつもりであるのか。帝国は今も、ロストールをどう攻め落とすか、会議を持っているだろうというのに――。対するこっちは舞踏会である。
 大丈夫か、この国……――レインはエリスをよく知らないが、たとえ裏で何か策略があったとして、今の帝国に通じるのだろうか。何といっても、両国の勢いはまるで違う。
 暗いロストール王宮の回廊を、レムオンに導かれるようにして歩く。レムオンが自ら携えた魔法ランプの明かりに、レインのドレスが白く浮かび上がっている。美しく、繊細なレース模様が刺繍された青白いドレスは、薄暗いランプのもとでは真っ白に見えた。結い上げた金の鬘には、銀細工にダイヤモンドの揺れる髪飾りがついている。
 空中庭園にやってきたはいいが、人がいない。先日、タルテュバが這いずって荒らされた花壇は、綺麗に元通りになっていた。
「誰もいな……おりませんわね」
 うっかり素の自分が出てしまって、レインは慌てて取り繕った。確かに、空中庭園に人影はないが、どこで誰が聞いているかわからないのだ。
 見上げた空に細い三日月が浮かんでいる。星がロクサーヌの髪飾りについた石のように、ちかりちかりと瞬いていた。
「妙だな」
 レムオンが周囲を見回した。そのときだ。
「あれ? レムオン、お前さん、何してるんだ」
 聞いたことのあるような、のん気な声が聞こえた。今、ロクサーヌたちが歩いてきたほうからである。
 振り返って、ロクサーヌは硬直した。回廊から、空中庭園へ続く階段を上がってくる人物は、レインと既知の間柄であったからだ。
 ひぃいいいいっ、何で、ゼネテスがいるんだ!?――ロクサーヌはさっと顔を俯ける。
「なぜ、貴様が……」
 露骨に渋面を浮かべたレムオンが、ロクサーヌのすぐ傍に立った。硬直したまま俯いている彼女の傍に、レムオンと相対するようにしてゼネテスが立つ。ゼネテスはレインがよく知る、いつもの格好であった。七竜剣まで背負って、いかにも冒険帰りという感じである。傍に立たれると、スラムの酒場でよく飲まれるような、安酒の臭いがした。
 いやぁ、とゼネテスは笑いながら頭をかいた。俯いているロクサーヌからは見えないが、どうせいつも通りの、にやけたような面をしているに違いなかった。
「美女からの招待状を受け取っちまってね。来ないわけには行くまい。――こちらのお嬢さんが、送り主かなぁ?」
 などと言いながら、ゼネテスはロクサーヌの顔を覗き込もうとする。ロクサーヌは慌てて、口もとを拳で隠すようにして、レムオンの背後に身を寄せた。
「た、助けてくださいませ、お兄様」
 声も普段より一段高いような、気取ったような声を出す。そんな自分が果てしなく気味悪いが、それがゼネテスにばれることのほうがもっと悪い。
 レムオンのほうも心得たもので、さっとロクサーヌを背中でかばうと、
「妹に寄るな、この不埒者め」
「やぁだ、お義兄さまったら。つ・れ・な・い」
 ゼネテスは気色悪い声でそう言って、しなを作った。レムオンが不機嫌そうに顔を歪めている。
「顔を見るくらいいいじゃねぇか、減るもんでなし。背の高い女は嫌いじゃないぜ」
 ゼネテスがレムオンの向こうにいるロクサーヌを、しきりに窺おうとするので、レムオンは彼の視線から妹を守るように立ちはだかった。
「やめろ。妹の幸せが減るだろうが」
「……お前さん、そりゃちぃっとばかしひどくないか」
 ふと、ロクサーヌは顔を上げた。人の気配を感じたからだ。目に入ったのは、マツヨイグサと同じ、淡い黄色のドレスであった。
「あ」
 彼女の夜空色の瞳と目があった。離宮に通じる回廊のほうから、そのドレスの裾を翻し、アトレイアが駆けてくる。まっすぐ、ロクサーヌを見つめて、微笑みながら。
「レイネ……」
「ひゃああああああっ。ア、アアアア、アトレイアァアアアア。……様!」
 ロクサーヌは慌てて駆け出し、アトレイアの肩をつかんだ。アトレイアは驚いて足を止め、きょとんとしてロクサーヌを見上げている。
「ロ、ロクサーヌですわ。あなたの友人のロクサーヌ!」
 おほほほほほ、と笑いながら、ロクサーヌはアトレイアに耳打ちをする。
「お願い、アトレイア。今はロクサーヌと呼んで」
「ロクサーヌ、様……?」
 自分から体を離したロクサーヌを、アトレイアは不思議そうに見上げている。
「あ、はい。ロクサーヌでございますよ。おほほほほほ」
 ロクサーヌは引きつったように笑った。その表情にレインの顔を垣間見た様子で、アトレイアは口元を手で隠して、くすくすと笑った。
「ロクサーヌ様、わたくし、お手紙をいただきましたの。ほら、見てくださいませ。わたくし、文字が読めたんですのよ」
 アトレイアがはしゃいだように差し出したのは、レムオンが受け取った封筒入りのカードとほぼ同じものである。青い七竜の封蝋、カードに付けられた薔薇の香り、文面もほぼ同じである。ただ、差出人の名がなかった。
 どういうことだ――レインはレムオンたちを振り返った。そこへ、
「あら……皆様、どうなさったの」
 のんびりとした声は、ティアナ王女のものであった。王女は彼女の離宮へ続く回廊のほうから、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。レムオン、ロクサーヌ、アトレイア、と順繰りに見回して、最後にゼネテスを見据えた。それから、むっとして少し足早にゼネテスのほうへと歩み寄っていく。
「どうして、あなたがいらっしゃるの」
 ティアナ、とレムオンが王女を見据えた。ティアナはしかめていた顔をゆるめて、いつも通り、光の王女と呼ばれるにふさわしい表情を彼に向ける。
「お前が、我々を呼んだのではないのか」
 ティアナがきょとんとしている。ゼネテスも訝しげにレムオンを見つめた。どうやら、それぞれ招待状を受け取ったようだが、差出人が異なっているようだ。
 レムオン、と彼を呼んだロクサーヌの声は、すっかりレイン本来の硬いものであった。ゼネテスがそれに気づいて、はっとロクサーヌへ視線をやった。だが、ロクサーヌ――いや、今やその仮面をかぶることをやめたレインは、アトレイアの招待状を彼らに差し出しながら言った。
「どうやら、謀られたらしい」

 
「やぁ、みなさん、おそろいで」
 きゃらきゃらと笑う声に見上げれば、城郭に小柄な人影がある。姿も声も、レインが知っているものである。顔をしかめて、小さな影を睥睨すると、闇夜に浮かび上がるようにしてその少年が唇を笑みの形に歪めているのが見えた。
「……またお前か」
 レインは憎々しげに呟いた。
 ラドラス以来に会ったシャリは、いつかと同じように人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。高い石造りの城郭に腰を下ろして、足をぶらぶらさせていた。
 よいしょっと、と軽く言いながら、シャリはふんわりと城郭から庭園へと飛び降りた。何らかの魔法であろうが、まるで重力を感じさせない動きである。
「貴様、宮廷の道化師ではないか」
 レムオンが言った。当惑している。ゼネテスやティアナ王女も、状況が飲み込めない様子である。かくいうレインとて、何が起こるのか――起こっているのか――よくわからない。だが、シャリのことだ。決してここにいる面々を祝福しようとしているわけではないだろう。
 シャリは城郭へ通じる空中回廊の中ほどに立って、くすくすと肩を揺らした。不思議なことに、この暗闇の中にあって、彼の姿は遠目にもはっきりと見える。
「こんばんは。ロストール宮廷道化師とは世を忍ぶ仮の姿、システィーナの伝道師『東方の博士』ことシャリにございます」
 シャリは演劇の口上のように、芝居がかった様子で名乗りを上げると、恭しくお辞儀をした。
 システィーナの伝道師?――また怪しげな名前が出てきた、とレインは顔をしかめる。背中でアトレイアをかばうようにするが、なにぶん、武装をしていない。
「で、何なんだ、こりゃ。どういう趣向のもんだ」
 ゼネテスがのん気な風を装いつつ、背に負った大剣の柄に手をかける。
「ちょっと、おもしろい演目が始まるんで、役者の皆さんにご足労願ったってわけ。タイトルは、そうだなぁ……『美しき姫君と嫉妬の怪物』ってのは、どう?」
 シャリがくすくすと笑って、城郭へ通じる回廊を振り返った。暗闇に沈む通路の奥から、誰か来る。ふらふらと、酩酊しているような足取りであった。
 薄暗闇の月明かりの下に出たその男に、レインは見覚えがあった。タルテュバである。この空中庭園でティアナに狼藉を働こうとし、アトレイアに暴言を吐き、レインに打ちのめされた、あの盆暗であった。
 レインに殴られた右頬が、まだわずかに腫れているのか、引きつっているように見える。相変わらず顔色が悪いが、その表情まで悪い。憎々しげに唇を歪め、鼻頭のシワに憎悪を浮かばせている。
 ちくしょう、とタルテュバは地団駄を踏んだ。
「俺は貴族なんだ。貴族なんだ、特別なんだ。ちくしょう、ちくしょう。クズどもめ」
 タルテュバがつばを吐いた。
 レインの背中越しに、揺れる瞳でタルテュバを見つめていたアトレイアが、
「……何だか、あの方、哀れですわ」
 と呟いた。その呟きを聞きつけたのか、タルテュバが三白眼の目でこちらを睨んでくる。白目のところが黄色く濁っている。土気色をした肌といい、歪んだ顔面といい、まるで怪物のようであった。
 レインがアトレイアをその視線から守るように立ちはだかった。胸を張って、全身に力をみなぎらせると、繊細なドレスが鍛え上げられた筋肉にはちきれそうに軋む。
 ゼネテスが息を吐いた。
「そっちのお姫さんの言うとおりだぜ、タルテュバよ。お前は哀れな男だよ。ほかならぬ自分が、お前さん自身を愛してないんだからな」
 ティアナを守るように立つレムオンは、しらっとした冷たい視線をタルテュバに注いでいる。ティアナ王女は、じっとゼネテスを見ているようであった。
 ううぅ……、とタルテュバが苦しげに呻きながら、その場に膝をついた。ぜぇぜぇと荒い息をつきながら、引き付けを起こしたように口から泡を吹いている。様子がおかしいのは一目瞭然であった。
 タルテュバの後ろに下がったシャリが、甲高い哄笑を上げた。
「さぁ、開幕といこうじゃないか」
 タルテュバの影が不自然に膨れ上がる。歪な翼が背中の皮膚を破いて突出する。衣装も皮膚も裂けて、漆黒の鱗に覆われた巨躯があらわになった。
 タルテュバはもう人ではなかった。シャリの表現を借りるなら、『嫉妬の怪物』そのものであった。ただ、黄色く濁った三白眼だけが、タルテュバの面影を残している。
「アトレイアとティアナ王女は下がれ」
 レインは言ったが、震え上がるティアナ王女は呆然と怪物を見つめるばかりで動こうとしない。こちらが前に出るしかない。レインが足を踏み出そうとしたときだ。
「ティアナ様、こちらへ」
 アトレイアがティアナのもとへと駆け寄った。それに怪物が牙をむく。黄色い乱杭歯がぬめる涎でぬれている。
 二人の姫君に迫る怪物の体を、七竜剣が押しとどめた。
「おら、俺が遊んでやっから。こっち来な」
 怪物の注意がゼネテスへ向く。両腕が変形した刃が、夜気を切り裂いて振り下ろされた。七竜剣とぶつかって火花を散らす。
 レムオン、とレインが非難めいた声を上げた。
「何をしてる。剣を抜け」
 レムオンは、呆然と立ち尽くしていた。レインの声にようやく我に返った様子で、青ざめた顔でこちらを見やる。剣を抜くことを、躊躇っている様子である。まさか、この男がこの状況で、怖いなどと言うつもりなのだろうか。
「私は武装してない。戦えない。お前がゼネテスと前に出ろ。私が魔法で援護する」
 レインの言葉に、それでもなお逡巡したようであった。だが、一拍の後に深緑の瞳に覚悟をみなぎらせると、腰に帯びたダブルブレードをすらりと抜き放った。曇り一つない白刃が、闇夜に閃いた。
 レインは急ぎ呪文の詠唱に取り掛かる。火の魔法は庭園に引火するのが怖いので、風の術にしておく。
 レムオンの二刀流が怪物の歪な翼を切り裂いた。レムオンに向かって振り下ろされた怪物の刃の腕を、ゼネテスが受け止める。レインの放った空気の塊が、怪物の足下をすくった。怪物がバランスを崩してたたらを踏んだ隙に、ゼネテスが距離を取る。
 怪物は周囲を見回しながら、黄色く濁る両眼をぎらりと光らせた。比喩ではない。本当に暗闇に光ったのだ。
 その両目から黒い光線がさっと走った。レインは慌てて体をひねり、その光線をかわす。靴のかかとが邪魔をして、植木の中に倒れこむようになる。庭園の石畳を切り裂いた光線の威力は高い。
「レイン」
 ゼネテスが後方のレインを振り返った。レインは植木の中でもがきながら、ぎろりとゼネテスを睨みつけた。
「ええい、情けない。しっかり敵の注意をそらせよ、バカ!」
「おぉーお、こえぇ、こえぇ」
 こちらは死にそうになったというのに、ゼネテスの調子はいつもどおり軽い。レインは動きづらい靴を脱ぎ捨てて、植木の中から起き上がった。土の精霊に干渉した魔法は、すでに完成している。
 精霊の力によって生み出された石の爪が、怪物目掛けて飛翔した。レムオンと切り結んでいた怪物が、翼でそれを叩き落す。石畳を踏み抜く勢いで大きく踏み込んだゼネテスの七竜剣が、風を切りながら怪物の肩口に叩きつけられた。硬い鱗を砕きながら、肩の骨を粉砕する音がレインのところまで響く。返す刀で右のわき腹にも強烈な一撃が入る。あれでは肋骨が砕けたに違いない。
 大きくバランスを崩した怪物の腹部を、レムオンの二刀流が切り裂いた。どばっと黒い墨のような血が噴出す。怪物は腹から黒い血を撒き散らしながら、空中回廊の下へと身を投げた。引き裂かれた翼が力なく空をかいたが、それは意味をなさなかった。
 回廊の欄干へ駆け寄ったレインは、そこから身を乗り出して、下を覗きこんだ。しかし彼女が見たのは、暗闇であった。高い城郭のかなり高所にあるこの回廊からは、地上の様子がわからない。
「……これから、兵士に確認させるさ」
 見れば、隣に七竜剣を背中に負いなおしたゼネテスが、レインと同じように回廊の下を覗きこんでいた。
「シャリがいない。気づいたか」
「いや、気づかなかったな。あいつ、何者?」
 さぁ、とレインは首を傾げた。『システィーナの伝道師』だとか名乗っていたが、また調べなければならないことが増えたようだ。
 シャリの目的はわからないが、少なくとも、レインはあの小僧を敵だと認識していた。そもそも、母が食い止めていたヴァシュタールを復活させたのは、あの小僧である。ラドラスの件もそうだが、いかな理由があっても、許しがたい。
 そもそも、あの小僧の目的は何だ。今回の件も何が目的なのかよくわからない。なぜ、タルテュバを怪物にしてこちらを襲わせたのだろう。闇の神器を集めるレインが邪魔だったのだろうか。だとしても、ゼネテスたち――二人の姫たちまで――を偽の招待状で呼び出す目的とは――?
「レイネート様」
 アトレイアが駆け寄ってきた。
「お怪我はありませんか」
「私は平気。――それよりも、ティアナ王女は……」
 レインはティアナ王女のほうに視線をやってぎょっとした。
 彼女はあの美しいサファイアの瞳で、じっとりとレインたちを見つめていた。知性に溢れていたサファイアブルーは、何か憤怒のような感情でかげり、曇っている。お人形さんのように可愛らしかった王女の相貌は、左右非対称に引きつっていた。
 レインはあの光り輝くような姫君が、急に怖くなった。何だか、突然、別人になったように感じたからだ。
「レ、レムオン、ゼネテス、あの、王女様をお部屋にお連れしたほうが――」
 焦るレインの脇を、青白い顔をしたレムオンが通り過ぎた。ティアナのほうに向かったのではない。城郭のほうへ向かったのである。
 彼は刃のような鋭い視線をレインへと向けた。その目が、いつもの濃緑色でないような気がして、レインは思わず目を見張る。しかし、この暗さではよくわからない。
「これで俺は、失脚に一歩近づいた」
「……は?」
 呆然とするレインを放って、レムオンは足早に回廊を渡って城郭内の闇の中に消えた。
 視界の端で白いドレスが翻ったのが見えた。ティアナ王女が弾かれたように駆け出したのだ。離宮への回廊を駆けていく。
「あ、ほら、ゼネテス。王女様が……」
 隣の男を見やる。彼は、じっとレインを見ていた。いつものちゃらんぽらんの不真面目な冒険者の顔ではない。ファーロスの御曹司の顔をしていた。
 そこで、レインの顔がさっと青ざめた。
「ああああああああっ。ばぁあああれたぁあああ!」
 レインは絶叫した。傍に控えていたアトレイアが体を大きく震わせて、レインを見上げている。
 レムオンの、失脚が近づいた、という言葉は、ロクサーヌという人間が存在しないことがファーロス側にばれた、という意味だったに違いない。
「お下品でしてよ、ロクサーヌちゃん」
 ゼネテスがにやにやと笑って、無精ひげの生えた顎をさすった。いつも通りの、ちゃらんぽらんの顔をしている。
「ひぃいいいいっ。やめて、何も言うな。何も見なかったことに」
「できるか。――とにかく、アトレイアの姫さん送ってくんだろ。そっちの離宮で待ってな」
 逃げるなよ、と念を押して、ゼネテスはティアナ王女が去った回廊へと走り出す。
 レインは真っ青な顔をして、頭を抱えた。

 


◇ひとこと◇
 アトレイアの心の闇イベントは、何というか、助長になってしまったので、ばっさりカットしました。ごめんね、アトレイア。
 というわけで、ティアナが闇堕ち決定です。

 

≪第40話

第42話≫