レインは十七歳になった。一年前も道連れのない旅の最中で誕生日を迎えたが、今回もほとんど似たようなものであった。
ドワーフの地下道を通り、アキュリュースに向かう間に、レインは変装用の衣装を購入した。男物の服ではない。
「……西部から来たのか」
湖を渡る船の監視を務めている兵士に、渡航許可証を見せたレインは、しおらしく頷いて見せた。
レインは今、そこらの村娘のような格好をしていた。ずいぶん伸びた黒髪を後ろで一つに束ねて、帝国西部の遊牧民風の頭巾で隠してある。解いた武装は、馬に負わせた荷物に忍ばせた。質素な生成りの麻のシャツに、くるぶしまで隠すような長いスカートをはいている。どれも古着で、くたびれていた。
「ずいぶん立派な馬を連れてるな」
渡航許可証を受け取るとき、兵士がレインの引く馬を見てそう言った。レインはちらりと兵士を窺って、自分の後ろでおとなしくしている栗毛の馬を見た。立派な体躯に艶やかな毛並みをしている。
「おととし生まれた一番いい馬よ。ここで買ってもらおうと思って、連れて来たの。よく走るわ。買う?」
兵士は面倒くさそうに頭を振った。早く行け、と追い立てる。
レインは何も言わずに、荷を負った馬を引いて湖を渡る帆船に乗り込んだ。その甲板で、レインはいかにも行商人の娘を装った。若い娘の一人旅と見て、声をかけるものがないわけではなかったが、色事よりも商魂をたくましくするこの大柄な娘に、巷で噂の『稲妻』の影を見るものはいなかったに違いない。
水上都市に上陸を果たしたレインは、まっすぐに町を進んだ。帝国の侵略にさらされたこの都市は、数ヶ月見ない間にもとの活気を取り戻していた。商店が路上の軒先にまで商品を並べ、売り子が威勢のよい声で呼びかける。昼飯の買出しをしに来た主婦たちが、水路の上にかかった橋の上で立ち話をしていた。
以前と変わったことといえば、美しい景観を損なうようにして、そこかしこに鈍色に光る甲冑姿の兵士が立っていることくらいである。
レインは商店通りを抜けて、住宅街のほうまで行くと、一軒の古い平屋に目をつけた。橙色の瓦の、大きくはないが狭くもない家だった。小さな庭には初秋の花々が咲き乱れ、湖を渡る風に花弁を揺らしている。庭の端には簡素な納屋もあるようだ。アキュリュースでは一般的であろう。
垣根に取り付けられた木戸をくぐり、馬を納屋の軒下につなぐと、レインは荷物の一部を負って屋敷のノッカーを叩いた。
少し待った後に、奥から中年の男が出てきた。ひげ面の男で、レインを訝しげに見ている。
「何か?」
「帝都から参りましたの。何かご入用ではないですか」
ああ、と男は頷いて、レインを家に招き入れた。
「私は帝都の人間でね。ちょっと、品物を見せてくれないか」
「ありがとうございます」
レインはぺこりと頭を下げると、男に促されるようにして家の中に入った。男がちらりと外の様子を確認して、戸を閉める。レインはそれを背中で感じながら、床に荷物を置いた。
男を振り返ると、彼はにかりと笑った。
「お久しぶりです、副将殿」
「面倒をかける」
頭巾を取って手を差し出すと、男はレインの手をしっかりと握り締めた。彼は朱雀軍の士官である。
何を今更、と士官は肩をすくめた。それから顔を引き締めると、レインを家の奥へと促した。
「アンギルダン将軍がお待ちです。こちらへ」
民家の奥には地下室に通じる階段があった。もとはワイン倉だったらしい地下室には、いくつかの小部屋があって、空になったワイン棚がいくつも置かれていた。その小部屋の一つを改装して、住居のようにしている。
聖光石のクズ石をいくつも丸いガラスの中に閉じ込めた明かりが、低い天井の中央からぶら下がっている。部屋の中央に木製の卓が置かれていて、粗末な椅子が四脚そろっていた。
「久しいの、レイン」
快活に笑った赤い巨星は、大きな手でレインと硬い握手を交わした。いつか別れたときと、何一つ変わらない豪快さで、アンギルダンはレインを迎えてくれた。
朱雀軍の士官はアンギルダンを『将軍』と呼んだが、実際のところ、アンギルダンはもう将軍ではない。どころか、朱雀軍そのものがかなり縮小の憂き目に会い、ほとんどの兵士が残りの各三軍に振り分けられたようである。こことアルノートゥンに残ったものもすべてあわせて五百足らずであった。彼らはみな白虎軍の指揮下にあるが、こうして脱走兵のアンギルダンをかくまっているのである。
軍規違反は相変わらずで、レインはそんな彼らに安心する。
「イークレムンは元気?」
娘の名を出してやると、老いてなお盛んなこの男は、照れくさそうに笑った。
「うむ。なにぶん、親父が追われる身でな。ずっとともにはあれぬが、頻繁に顔を見せてくれよるわ」
立派なひげを指でならしながら、アンギルダンは呵々と笑った。その声が、地下室内に響き渡る。
「そういえば、ヴァンの小僧から聞いたぞ」
アンギルダンに椅子を勧められ、彼と卓を挟んで粗末な椅子に腰掛けた。
「ネメア様と争っておるそうじゃな」
非難されているのではない。アンギルダンはどことなく楽しそうだ。とび色の目を細めて、彼はにやりと笑った。
「わしとてあの方と刃を交えたことはないぞ」
して、どうじゃ――アンギルダンは卓に肘をついて身を乗り出した。
「どうもこうもない。もう二度とやらない。あれから、一度だけニアミスがあったが、一も二もなく逃げ出したよ」
あの人は恐ろしい、としみじみ言ったレインに、アンギルダンは愉快そうにしている。そうじゃろう、そうじゃろう、と鷹揚に頷く。
そこに、小部屋の戸がノックされたかと思うと、ヴァンが入ってきた。彼も変わらず元気そうである。
「よぉ、闇の神器が手に入ったんだって?」
言いながら、勧めもしないのにレインの隣に腰かけてくる。彼と一緒に入ってきた兵士――レインには見覚えがあった――が茶を入れてくれた。アンギルダンには酒を置いて、兵士は退室する。
無事に手に入った、とだけレインは言った。特に話すべきことはなかったからだ。
それで、とレインは本題に入る。
「神殿のほうはどうなっている」
「地下水路を使おうと思うておる」
アンギルダンは酒を呷った。グラスの中の琥珀色の液体が、瞬く間に空になった。手酌で酒を足しながら、彼は続けた。
「イークレムンが言うには、水の精霊神の座所は神殿の地下にあるそうじゃ。そこまで地下水路が続いておる。それを使う」
イークレムンが協力してくれたらしく、地下水路の道筋はすでにわかっているそうだ。レインはそこに向かって、水の精霊神を押さえつけている巨人を倒すだけでいい。
相談の結果、決行は明日の夜になった。もともと、レインがいつ来てもいいように準備はしていたが、レイン自身の準備もある。今日すぐにというわけにもいかない。
「そういえば、ナッジはどうした」
ヴァンを見やると、彼は退屈そうにひょいと肩をすくめた。
「最近、コーンスの連中と話してるぜ。ほら、白虎軍にはコーンスが多いだろ」
「……なるほど」
彼らの身分は、一応、白虎軍の傭兵ということになっている。白虎軍のコーンスとナッジが親しくしていても、不自然ではないだろう。
あっ、とヴァンが慌てたようにレインに向き直った。
「別に、あいつ、俺らのことをしゃべってるわけじゃないぜ。ただ、やっぱり、これだけ大勢のコーンスに会ったことないらしくてさ。話が弾んでるらしいんだ」
レインはきょとんとヴァンを見つめた。ナッジが種族意識でこちらを裏切るという発想はなかった。ナッジがレインをどう思っているかはわからないが、少なくともヴァンのことは大親友だと思っているだろう。何せ、ナッジが故郷を旅立ったのは、ほかならぬヴァンのためだったからだ。
「そんなこと、考えちゃいないよ」
レインの答えに、ヴァンは鼻白んだようにバツが悪そうな顔をした。
翌日の夜。日が暮れてからずいぶん経って、レインは宿を出た。アンギルダンの根城には泊まらなかった。レインはあくまでも、行商人の娘を装って、宿を取っていた。
朱雀軍の連中が言うには、あまりレインには見えないらしい。男装よりも、こちらのほうが敵の目を欺きやすいのかもしれない。ただ、武装するには不便だが。
レインは男物の衣装に甲冑を着込み、布で覆った槍を携えて、闇に沈んだ水の都を進んだ。甲冑が町の街灯に反射して目立たないように、暗めの外套を頭から羽織っている。
路地裏で煙管を吸って、たむろしている男たちの前に立つ。
「一服貸してくれないか」
レインが言うと、彼らはにやにや笑いながら、もっといいのがあるぜ、と奥の小路を指差して促した。
「旦那も好きだね」
などと言いながら、彼らはレインの前後を挟むように歩き出す。一人は残って、路地裏の入り口で、相変わらず煙管を吹かしていた。
「神殿の警備は平時と変わりません」
前を行く男が小声でレインに囁いた。
彼らは朱雀軍の兵士である。何せ、町中のいたるところに白虎軍の目があるのだ。いかに変装しているとはいえ、レイン一人では神殿まで行くのも難しいだろう。また、あのアンギルダンの隠れ家に、頻繁に外からの人間が出入りするのも怪しまれる。そういった理由から、このような回りくどいやり方で合流することになったのだった。
小路の先は階段になっている。階段を下りた先は、ほとんど湖面に浸かりかけているような、狭い犬走りが続いていた。その先が、地下水路に続いているらしかった。
レインを地下水路の入り口まで案内すると、男は魔法ランプを手渡しながら、まっすぐ進んでください、と囁いた。地下水路の入り口は、広いが大半が水路で、足場は狭くぬれている。
「足場悪いんで、くれぐれも気をつけて。先に進むと小船が待っています。――副将、ご武運を」
敬礼こそしなかったが、彼はそう言って、レインと硬い握手を交わした。レインはその場で外套を脱ぎ、槍の覆いを外すと彼に手渡した。大きく頷いて、行ってくる、と地下水路を進んだ。
地下水路は彼の言うとおり、非常に進み辛かった。足場は半分水路に浸かっているし、水路の天井は低く、レインのような長身の人間は上体をかがめて先に進まねばならなかった。
案内の兵士が言ったとおり、まっすぐに進んでいくと、奥のほうに明かりを絞った魔法ランプの灯火が見えた。ごうごうと唸る水の音に混じって、ぼそぼそと人が話す声もしている。
レインはランプの光量を調節して目立つように明かりを大きくすると、左右に振って見せた。すると、あちらからも応答がある。足場のせいで急ぐことができないために、レインはゆっくりと慎重にそのランプの明かりを目指して進んだ。
「よぉ」
小船に乗ったヴァンがランプを揺らしながら、にやっと笑った。その後ろにナッジの姿があり、船の中央にはアンギルダンが陣取っていた。
ナッジとは今日の昼に再会を果たしており、アンギルダンが今回の戦闘に参加してくれるのも承知済みである。最近、ちっとも体を動かせていないアンギルダンは、強敵との戦いに、目に見えて浮かれていた。
レインを乗せて、小船は出発した。魔法に長けた兵士が一人、舵取りに乗っている。小船は風と水の精霊の力で推進力を得て、水路をぐんぐん進んでいった。
曲がりくねった水路を進むうち、天井が高くなってきた。水路の水の勢いが衰え、穏やかになってくる。
やがて、大きな円形のホールのような場所に出た。池のようになっており、流れはない。その円形の池の縁に、ランプを掲げた外套姿の女を見止めて、レインは軽く手を振った。
「イークレムン」
「お久しぶりです、レイン様」
池の縁にぐるりと柵のついた足場があって、レインたちはそこに小船を寄せた。イークレムンはまずアンギルダンと抱擁を交わすと、レインに向かってぺこりと頭を下げた。その拍子に、両耳についた人魚の鱗の耳飾りが、ランプの明かりにきらりと揺れた。
「協力してくれてありがとう。イークレムン」
いいのです、とイークレムンは相変わらずたおやかに笑った。それから、少し眉をひそめた。
「あの、私がこのようなことを言うのは、筋違いかもしれませんが。精霊神の言うことを、あまり信用しないほうがいいと思います」
レインは驚いてイークレムンに目を見張った。イークレムンは水の巫女だ。精霊神に仕える巫女である。その巫女が、自分が仕える神に対して不信心なことを言う。
親父に似て豪胆な娘である。レインは小さく笑った。
「うん、イークレムンの言うとおりだと思う。でも、エステルを人質に取られている以上、引くわけにはいかない。ありがとう、イークレムン」
レインがイークレムンの肩に手を置くと、イークレムンは再びにっこりと笑った。それから、また頭を下げて、
「どうぞ、父をよろしくお願いしまいたします」
「こりゃ、イークレムン。わしはこんな若造どもによろしくされるほど耄碌しておらんぞ」
顔をしかめた親父殿の隣で、ヴァンが呆れたように言った。
「じーさんはみんなそう言うんだよ」
「こいつめ」
アンギルダンが巌のような拳をヴァンの脳天に振り下ろした。目から火花を飛ばして頭を押さえるヴァンに、ナッジが腹を抱えて笑っている。
イークレムンと別れて、一行は地下通路を奥に進んだ。古いレンガ造りの通路は、壁や床から染み出した清水が、床にたまって小さな水流を作っていた。そのせいで、相変わらず足場はぬれていて、立ち回るのが億劫である。地下通路は神殿の真下にあって、龍の姿を模したオブジェが立っている広間などもある。
そのうちに、レインは妙な息苦しさを感じた。いつもの、闇に近づいたときに感じる首筋の痛みとはまた別の感覚である。進入を拒まれているような、誰かが見えない垂れ幕を通路に張っているような、そんな感覚だ。ケリュネイアに連れられて猫屋敷にテレポートしたあのときの感覚に近い。
「何か、進みにくくないか」
額にじっとりと汗を浮かばせたレインが、息を大きく吐きながらそう言うと、
「うん……何か、嫌な感じ」
と、ナッジが頷いた。ところが、アンギルダンとヴァンはけろっとしている。
「特に何も感じんぞ」
先頭を歩いているアンギルダンが、こちらを振り向きもせずに言った。その後ろに続くヴァンは肩越しに後続の二人を振り返った。
「うわ、お前らすげぇ汗だな」
地下通路は涼しかった。確かに湿気はあるが、残暑の中にあっても晩秋のように涼しい。とてもではないが、ちょっと歩いただけで汗ばむほどではない。
誰かがプレッシャーをかけている。この場に充満した精霊がおびえているのか、レインたちにも影響が出ているようだ。すでに二柱の精霊神から加護を受けたレインと、もともと精霊の動きに敏感なコーンスのナッジはそれが顕著である。
そのうち、地下通路の様子が変わってきた。それまでレンガ造りであった通路が、自然窟になってきたのである。ごつごつとした岩肌が露出しているが、その岩に聖光石が混ざっているのか、淡い輝きが通路全体を照らしている。
「え……」
「ほぉお、こりゃすごい」
「うわ、すごい」
「何じゃこりゃ」
不思議な光景であった。薄いガラスの板のようなものが岩壁に埋め込まれている。ひょっとしたら、天然の水晶かもしれないが、そんなものがこれほど滑らかな表面を保つだろうか。とにかく、ガラス窓のようになったその透明な壁の向こうには、深海の光景が広がっていた。
上方から太陽光が届いているところを見ると、それほど深くはないようだ。目の前を、銀色の鱗を翻してイワシの群れが泳いでいる。そのイワシの群れの中に、大型の魚が口を大きく開けて突っ込んでいく。
一面の青である。空の色よりも深いその青といい、泳いでいる魚といい、どうやらここは西の海域であるようだ。地図上で見て、アキュリュースの神殿から西の海までは相当離れている。それほど歩いた覚えはなかった。
「ちょっと、妙な感じだな」
誰かの圧力はどんどん強くなっている。レインは全員に注意を促した。
不思議な海中通路をさらに進む。レインたちにとって幸いであったのは、この通路が一本道であったことだ。
やがて、通路が開けた。大きな広間のようであるが、床が半分近く海水に浸かっている。床は人工物で平らであるが、天井は半分以上が鍾乳石の垂れ下がる自然物で、半分は石造りであった。壁は天井と同じ、青緑色の不思議な材質の石で作られており、広間の先はさらにこれまでと似たような通路が続いている。
床の下は海につながっているらしい。海水が波立って、床をぬらしていた。
レインは足を止めて、じっとその海面を見た。海面は薄ぼんやりと明るい。レインの後ろに続いていたナッジが、訝しげに彼女の顔を覗き込んだ。
「何か……」
いないか?――と言いかけたレインの言葉を遮って、海面が突然銛を投げつけてきた。慌てて跳び退ったレインとヴァンの間に、深い溝が刻まれている。刻み付けたのは水だ。銛のように見えたのは高圧で射出された水で、その圧力が石を穿ったのだ。
叫ぶ暇もなく海面が盛り上がり、レインたちに覆い被さってきた。
「下がれ!」
アンギルダンの怒号が響き渡るのと、押し寄せた海水がレインたちを壁に叩き付けるのはほとんど同時であった。石壁のわずかな隙間に爪を立て、引いていく潮力に抗っていたレインの耳に、ごろごろと唸る声が響いた。空間いっぱいにこだまするそれは、荒れ狂う波の音にも似ていた。
「愚かな人間どもめ。この先に何があるのか、知らぬわけではあるまい」
振り返ったレインは、黄色の巨大な目に睨みつけられ、ぎくりと硬直した。
竜である。青い鱗に大きなひれ、長い首をもたげてレインを睨み据えている。大きな口には二枚歯になった細かい牙がびっしりと並んでいた。
青い竜はレインをぎろりと睨むと、全身の鱗をざわめかせて口を大きく開けた。
「貴様か。翔王の気配が消えたと思えば――偉大なる三竜の一角を打ち倒すとは、恐れを知らぬ愚か者なり」
レインはびしょぬれになった顔を手で拭いながら、竜に向き直った。
「一つ聞きたいんだがな。どうしてあんたらバイアスの眷属ってのは、そうも人を愚か者扱いするんだ」
竜がぐわっと口を開いた。ざわめき立った鱗がこすれあい、さざ波のような音を立てる。
「愚か者を愚か者と言って何が悪い。我ら三竜には、かつてこの地を治められた神々の御意志どおりに、世界を管理する義務がある。そなたらの安寧は、我らの作る秩序の上にこそ成り立っておる。そなたら人の子はその秩序に逆らい、無益に混沌を生み出している。これを愚かと呼ばず何というのだ」
レインは少し腹が立った。そんなに秩序が大事で、人を管理したいのなら、あの精霊神に囚われたかわいそうなエステルを、竜が助けてやればいいのだ。大地の安寧が大事だというなら、なぜヴァシュタールが復活するのを黙って見ていたのだ。
お前らが何をしてくれたというのだ。レインと共に歩み、レインを助け、レインを導いてくれたのは、竜が愚か者と呼ぶ者たちに他ならない。
「愚か、愚かと、まるで自分が賢いような言い分だな。真の賢者はそのようなものの言い方はしない。お前はただの犬だ。いや、畜生でももっと己の意志がある」
竜が大きなひれを海面に叩きつけた。飛沫がかかって、またびしょぬれになる。
「この大海の秩序を任された海王を愚弄するとは、不届き千万。驕るな、弱き人の子よ」
海王が上げた咆哮が、開戦の合図となった。
咆哮が洞窟内の大気を震わせる。ナッジに援護を頼むなり、レインは槍を構えて飛び出した。海王が制御する海水の銛が、レインの体を狙って降り注ぐ。濡れた床に飛び込むようにして前転し、海王の長い首の下に潜り込んだ。首を盾にしつつ、その少し白っぽい鱗に槍の穂先を突き立てる。
まるで、金属のような鱗だ。穂先が引っかかる。
海王が長い首を唸らせて、レインに叩きつけてくる。身をかがめてそれをかわす。頭のすぐ上を破城鎚のような、極太の丸太のような首が通り過ぎていった。
アンギルダンが戦斧を、海水に半分浸かった海王のひれに振り下ろした。鱗が飛び散る。海王の咆哮に海面が波立つ。避けきれぬと見たアンギルダンが戦斧を盾にして防御姿勢を取った。戦斧の腹に、超高圧の水鉄砲がぶつかる。アンギルダンの体が大きく吹き飛ぶが、彼はその衝撃をものともせずに息をつきながら立ち上がった。
ナッジの炎の魔法が乱れ飛び、海水の銛を打ち落としていく。
「ヴァン、目を狙え!」
レインの声に海王が首を引く。しかし、それより速く、ヴァンがその長い首にかじりついた。まるでサルのように海王の首をよじ登っていく。そのヴァンを、ナッジの風の魔法が援護する。
レインは低く腰を落とした。大きく槍を引き、呼吸を整える。深く吸い、深く吐く。全身に闘気がみなぎっていく。
ヴァンを振り落とそうと大きくしならせた首を、海王はレインに叩きつけようとしている。海王の破城鎚のような首と、レインの間に赤い鎧が躍り出た。
気合の唸り声とともに振り上げた戦斧が、竜の首とぶつかり合う。弾け飛んだ青い鱗が、洞窟の明かりにきらめいた。
竜の勢いがわずかに止まる。レインが大きく踏み込む。叩きつけるような靴底に、海水が跳ねる。
渾身の闘気を乗せた槍が竜の硬い鱗を引き裂いた。そのまま力任せに横に薙ぐ。返しの刃が肉を引き裂き、竜の鮮血が青い海面にぱっと散った。
ナッジの援護もあってか、かろうじてしがみついていたヴァンが、海王の頭に到達した。レインが使っているものよりもいくらか小さいナイフを、口にくわえている。
海王が激しく暴れた。海水がしぶきを上げて天井高くまで舞い上がり、雨のように降り注いだ。
レインが引き裂いた傷に、アンギルダンがさらに追い討ちをかける。
戦斧が首の付け根の傷に食い込むと、海王が咆哮を上げた。だが、すでに場の大気はナッジの制御下にあり、海王がレインらを痺れさせようと放った空気の波は、同じ形の波をぶつけられて意味をなさない。
「うおっ」
海王は自分の頭ごとヴァンを海面に叩きつけようとした。ヴァンが諦めて手を放す。海王の頭と海面に挟まれる前に、ヴァンは海中に逃れている。
海王がヴァンにかまけている間に、レインが再び全身に闘気をみなぎらせた。その間にも、アンギルダンの戦斧が、先ほどの傷口を広げている。
レインの全身に黄金色の闘気がみなぎった。鼓動が高鳴る。波のしぶき一つひとつを数えられるほどに、周りがゆっくりと見える。自分の心臓の律動しか聞こえなくなる。
アンギルダンが広げた傷目掛けて、レインは槍を繰り出した、突きたて、引き裂き、槍を戻して、もう一突き――あと一打。心臓が悲鳴を上げる。
「がぁあああああっ」
レインは獅子のような咆哮を上げた。渾身の突きが竜の体を貫く。
周りの喧騒が戻るのと、レインが槍を引き戻すのはほとんど同時であった。海王の巨体が傾ぐ。竜の体が海面に叩きつけられ、盛大な水柱が上がった。
海王の体はゆっくりと海底に沈んでいく。レインたちからは見えないが、その巨体が海底の砂を巻き上げると同時に、四散し、青白い無数の光の玉となった。その光の玉は、海流に乗ってこの海の隅々にまで行き渡った。
びしょぬれのレインは荒い息をつきながら、濡れた石の床にへたり込んでいた。バーニンレイヴは最大で五連撃打てるが、レインはこれまでに四打も連撃を打ち込んだことがなかった。体にかかる負荷が尋常ではない。
鳴り止まない鼓動を静めようとしているレインの傍に、ナッジが駆け寄ってきた。彼が治癒の魔法をかけてくれて、何とか落ち着きを取り戻す。
アンギルダンが差し出した手を支えに立ち上がる。濡れた髪をかき上げながら、元気な老兵を見上げた。
「……あんた、元気だな」
「まったくだぜ。歳、考えろよ、おっさん」
ヴァンが耳に入った海水を、頭を揺すって取りながら言った。彼は海水に浸かったせいで、誰よりもびしょぬれになっている。
「竜に喧嘩を売っとるお前らに言われとうはないわい」
そう言って、アンギルダンは、がはははっ、と胸をそらして笑った。
◇ひとこと◇
しぶきの群島まで行く時間がないので、海王様には出張っていただきました。