海と花束

 ゲヘナと名乗る火の巨人を打ち倒し、水の精霊神アキュリュースを無事に解放したレインたちは、びしょぬれのまま町に戻った。このころにはすっかり夜が明けてしまっていたので、彼女たちは白虎軍にばれないようにするために地下水路を通って、アンギルダンの隠れ家に身を寄せた。
 海水を洗い流し、ぐっすり眠って、明けて翌日――。
「そういえば、聞きましたか。副将」
 宿に戻らないまま、隠れ家で朝食を取っていたレインに、例のひげ面の士官が言った。
「何を」
 パンにバターを塗る手を止めて、レインは彼を見やった。
「玄武将軍が、体調不良で倒れたそうですよ」
「ザギヴが……? いつのことだ」
「えっと、今月の頭くらいかな」
 副将は将軍と個人的に親しかったようですので、と彼は締めくくった。
 レインは食事を続けながら、ザギヴのことを考えていた。そういえば、あのシャリとゾフォルは、同じ組織に属しているのだった。
 ロストールでシャリが動いた。ゾフォルも動いたのかもしれない。ザギヴの胎のマゴスを復活させるために。それは、是が非でも阻止せねばならない。
 幸いにして、ザギヴがいるエンシャント城にはネメアがいる。ベルゼーヴァ宰相もいる。めったなことは起こらないだろうが、連中がどんなからめ手を使ってくるかはわからない。
 ザギヴに会いたいが、今のレインがのこのこエンシャント政庁に赴けば、その場で捕らえられて磔刑である。
 レインは散々考えた末に、一人でエンシャントに向かうことにした。ちょうど、闇の神器のことで猫屋敷に寄らねばならないところだったのだ。
「俺らだけでリベルダムに向かうのか」
 先行してリベルダムに向かってくれ、と申し出るなり、ヴァンはこちら見上げた。
「どうせ、一緒に町を出るわけにはいかない。砂漠の民を訪ねて、地の精霊神の座所がどうなったか、詳しく聞いておいてくれ。それから、馬がいるだろうから、それも調達しておいてくれ」
 先行ばかりさせて悪いな、とレインが言うと、ナッジが頭を振った。
「僕らはそれでいいけど、レインはどうするの」
「猫屋敷に寄る」
 エンシャントのことは言わなかった。彼らはきっとレインを心配するだろう。レインが一人で帝都に向かおうと思ったのは、いざというとき、身動きが取れやすいようにするためであり、彼らにいらぬ嫌疑がかからないようにするためでもあった。
「いいのう、お主ら。わしも行きたいのう」
 同じ卓につきながら、アンギルダンが駄々っ子のように唇を尖らせた。それを、
「お父様」
 とイークレムンがたしなめた。彼女は、昨日戻るなりすぐに休んでしまったレインたちを案じて、今日もこの隠れ家を訪ねてきてくれたのだ。
「いけません。お父様は目立ちますから。レイン様たちのお邪魔になりますわ。もう少し、ここでおとなしくしておいてくださいませ」
 わかっとるわい、とアンギルダンは母親に叱られた小僧のように、拗ねたような顔をした。それが何ともおかしくて、レインたちは声を上げて笑った。
「もう尻に敷かれてるのか」
 レインがにやにや笑いながらそう茶化すと、アンギルダンはじろりとこちらを睨みつけた。
「親父は娘に弱いのじゃ」
 アンギルダンはそう言って、ぺろりと舌を出した。
 レインはその日のうちに荷物をまとめて宿を引き払うと、再び、行商人のふりをしてアキュリュースを出た。
 近くの宿場で男装に戻って、そこから進路を東に取り、賢者の森に入ったころには暦は十月に入っていた。
 秋を迎えた賢者の森は、赤く色づいた葉がはらはらと落ち始めている。レインはその真新しい落ち葉の絨毯をかさかさ言わせながら、森の奥を目指した。
 そういえば、この森でネメアと対峙したのは、まだ夏の盛りのころであった。つい、三ヶ月ほど前のことであるのに、ずいぶんと前のことのような気がする。
 あれから、二つの神器を手に入れた。エストから譲ってもらった『焦燥の耳飾り』と、ネメアの近衛であるオイフェと決闘して手に入れた『傲慢の首飾り』である。
 ネメアが一人で地下墓地に来たことを訝しんで、エストを先にロセンに返して罪深き者の迷宮に潜ったのが正解であった。また、レインは罪深き者の迷宮を何度か探索していたこともあって、地理が把握できていたのも大きかったと思う。オイフェたちが先行していたのは明らかであったが、鼻先差でレインのほうが神器に先にたどり着けた。
 オイフェに決闘を申し込まれたとき、かつてリベルダムで戦ったことを思い出した。正確に言えば、オイフェのことを思い出したのではない。ネメアと初めて会った日のことを思い出したのだ。
 あれから今まで、色々なことがあってネメアと袂を分かってしまった。レインはいまだ、少し悩んでいる。
 本当に、ネメアの邪魔をしていいのだろうか――。
 考え事をしながら歩くうち、猫屋敷にたどり着いた。いつもは庭の中ほどまで来ると屋敷のドアが開くのだが、今日はいっかな開かない。
 そうだった。いつもレインを迎えてくれる賢者は、今、猫の姿になっているのだった。
「よぉ」
 白い獣が、玄関ポーチのちょうど日当たりのいい場所で、長く寝そべっている。ブスなほうだ。
 腐っても魔人の気配におびえたのか、馬が棹立ちになっていなないた。レインは馬の首をなでてやりながら、ネモから遠ざかるようにして納屋の軒下に手綱をつないだ。
 荷物を鞍から降ろして、ネモのほうに向かう。
「おい、馬を怖がらせるなよ」
 階段を塞ぐようにして寝そべっているネモをまたぎながら、レインが言うと、
「知らねぇやい」
 けっ、とネモはのん気に毛づくろいをはじめた。
 レインが玄関ポーチに立ち、ノッカーを叩いてようやくドアが開いた。そういえば、この屋敷のノッカーを初めて使った気がする。
「おかえり、レイン」
 出迎えたケリュネイアに挨拶しながら、視線を感じてちらりとそちらを見やると、馬が心細そうな目でレインを見ていた。

 
「二万、払ってね」
 ダイニングテーブルに二つの神器を置いて、レインは茶の用意をするケリュネイアを見上げた。
 カップに香りの立つ茶を注ぎながら、払うけど、とケリュネイアは憮然とする。
「そんなにお金がいるの?」
 レインはカップを受け取って、三本の指を立てた右手をケリュネイアの鼻先に突きつけた。
「装備、馬、旅費。二万なんてすぐに飛ぶよ。――いただきます」
 茶菓子を口に放り込んで、それを茶で飲み下しながら、レインはテーブルにちょこんと座る白猫を見た。かわい子ちゃんのほうである。
「そうだ。色々、オルファウスさんに聞きたいことが」
「おや、何でしょう」
 白猫は長い尾をゆったり揺らしながら、新緑のような色の目を細めた。
「システィーナの伝道師という組織を知っていますか?」
 レインは言った。どうにも、その連中が、よからぬことを企てている、と。
「どうも、連中は闇に近しい気がします」
 そうですねぇ、とオルファウスはちょこんと首を傾げた。小さな白い子猫がやると、たまらなく可愛い仕草である。
 真面目な話をしているのに、にやついてしまう。
「詳しく知っているわけではありませんが、彼らはウルグ復活を目的に動いているようです。――真意はわかりませんが」
「ウルグ? 破壊神のウルグ?」
 ええ、とオルファウスは頷くように、大きなガラス玉のような目を瞬いた。
 また破壊神か。レインはテーブルの上で沈黙する二つの神器を見つめる。正直に言って、レインは破壊神といわれても今ひとつぴんと来ない。スケールが大きすぎるのだ。
「よくわからないなぁ。破壊神なんて言われても。私には話が大きすぎて、ついていけない」
 眉をひそめて首を傾げたレインに、ケリュネイアは呆れたような顔をする。
「精霊神の封印を解放して回ってる人間のセリフじゃないわよ」
「別に精霊神を解放したくてやってるわけではないもの」
 レインは茶の注がれたカップを、両手で包み込むように持った。
 精霊神だの破壊神だの、レインにはあまりにおとぎ話めいて聞こえて、現実味がなかった。もちろん、精霊神の声を聞いてその加護を受け取ったが、それでも直接彼らの姿を見たわけではない。
 神とはそういうものなのだ、とは思えど、身近に感じられるかというと否である。
 精霊神がどうのというより、あのエステルを助け出すことがレインの目的だ。
 レインはカップを抱えたまま、テーブルの端でのん気に毛づくろいをしている白い子猫を見やる。ネメアの思惑に疑問を抱きつつ対抗するのも、破壊神どうこうというより、目の前のこの小さな賢者の仇討ちのほうが大きかった。
「破壊神で思い出した。闇の神器について教えてください」
 エストの蔵書で闇の神器のことを調べたが、所在がよくわからない。当然である。ただ、残りの神器の名はわかった。『忘却の仮面』『憤怒の鎚』『貪欲の盾』そして『虚無の剣』――もう一つあるはずだが、どの文献にも載っていない。
「『忘却の仮面』はミイスの村にあったはずよ」
 ケリュネイアが言った。ミイスの村といえば、『禁断の聖杯』を狙っているアーギルシャイアが襲った小さな隠れ里である。
 早急にセラと連絡を取らねばならない。
「『貪欲の盾』は何とかって高僧が持っているらしいわ。でも詳しいことはわからない」
 高僧――ノトゥーン系なら、イオンズに聞けば詳しいかもしれない。ただ、これからアルノートゥンに向かうのは厳しい。あそこも白虎軍が占領しているし、アンギルダンたちもいないのだ。
 残りの神器の行方もよくわからないし、とりあえず、アーギルシャイアとゴブゴブ団を見つけるのが早い。この二つに関しては、ネメアより先に進んでいると見ていいだろう。
 レインはその日、手紙を一通したためて床についた。
 日が変わって、レインは昼時を狙ってエンシャントに入った。腰にナイフと薬類の入ったバックパックを下げているが、武装はしていない。槍は目立つ。
 男装に外套姿で人ごみにまぎれたレインは、昼の賑わいを見せる大通りを横切って、町の東側に向かった。そこには港とライラネート神殿がある。
 レインに用があるのは、ライラネート神殿のほうだ。神殿の敷地内には帝都を一望できる高台と、庭園と、愛の神ライラネートの彫像と、そして墓地がある。
 この墓地にはザギヴの家族の墓があった。レインが彼女と初めて出会ったのも、そこである。
 忙しい公務の合間を縫って、ザギヴは家族の墓参りを欠かさない。体調不良で寝込んでいても、いずれいつかは墓に来る。手紙を残しておこうと思ったのである。
 レインは港側から迂回するようにして、ライラネート神殿の敷地に入ろうとした。が、敷地への階段を、レインは素通りした。そのまま港をうろつく旅行者に混じって、港の奥に進む。
 倉庫街まで来て、レインは荷物の影にさっと身を隠した。
 何であんなに兵士が立ってるんだ――レインはちらりと神殿のほうを窺った。港からライラネート神殿の敷地内へ上がるための階段を、兵士が封鎖している。
 レインはさらに倉庫街の奥へ進み、ひと気がないことを確認して、倉庫の屋根に登った。そこからさらに、石垣をよじ登って、ライラネート神殿の敷地内に侵入する。背の低い植木に身を潜めて、レインは神殿のほうを窺った。
 やたらと黒鎧騎士がいる。公人が乗る馬車もある。ひょっとしたら、ライラネート神殿の祭事か何かに、高官の誰かが出席しているのかもしれない。
 面倒だな、と思いながらも、レインはザギヴの姿を探した。ひょっとしたら、いるかもしれない。元気な姿を見れたら、少しは安心できる。
「げっ」
 レインは思わず漏れ出た呻き声を飲み込むように口もとを両手で覆った。
 両腕を広げた巨大なライラネートの彫像の下に、見間違えようのない特徴的なトンガリ頭が見えたのである。
 ひぃいいい、宰相までいんのかよ。今日、何やってんの?
 レインは逡巡した。墓地に入るには、宰相のいるところを通らねばならない。無理だ。ほかの騎士ならばいざ知らず、あのベルゼーヴァをだまくらかせるわけがない。ひょっとしたら、もうすでにレインの存在に気づいていて、黒鎧騎士に捕らえるように指示しているかもしれない。
 今日はやめよう、とレインは引き返そうとした。だが、ふと、このまま茂みを通って墓地の裏手に出れば、彼らの前を通らずとも墓地に入れる、とも思った。
 レインはしばし、騎士たちの様子を観察した。それから、ザギヴの姿を改めて注意深く探した。充分に考えて、レインは墓地への侵入を試みることにした。
 ゾフォルたちが動きを大きくしている今、ザギヴを放ってはおけない。ネメアやベルゼーヴァがいてくれるとはいえ、四六時中一緒にいるわけではない。ネメアは神器の探索に帝都を留守にすることもあるだろうし、ベルゼーヴァとて今のように公務で城を出てしまうこともあるのだ。
 手紙には、闇の勢力の連中が活発に動いていること、いざとなったら猫屋敷に逃げ込めるようにオルファウスに話をつけておいたこと、それからオルファウスが猫の姿になっているが気にしないように、と書いてある。
 気配と足音を消しつつ、レインは墓地の裏手の林の中に逃げ込んだ。
 墓地は高い柵で囲まれているが、レインの身体能力ではないにも等しい。墓参りの人間はいないようだ。あれだけ兵士がうろうろして規制しているのだ。町側から入る道も見張りが立っているに違いない。
 今、墓地に人はいないだろう。レインは高い鉄柵をつかんでひょいひょいと上ると、すんなり墓地内に侵入を果たした。問題はこれからだ。ザギヴの家族の墓は、墓地の入り口近くにある。普通に行けば間違いなく騎士たちに見つかるだろう。
 レインはまっすぐに墓地内を進まずに、墓標を利用して近づこうとした。だが、見通しがよすぎて中ほどまで進むのが精一杯であった。
 くそ、ここまでが限界か。あとはここで、宰相たちが帰るのを待つしかないな。
 夜までとかだったらどうしよう……、とレインは自身の短慮さを呪った。墓標を盾にしたまま、下生えの上に腹ばいになって、夜まで――。
 いつまで経ってもレインは思慮の足りない、間抜けのままであった。
 ああ、もっと賢くなりたい……。
 そんなどうしようもない愚痴を内心でこぼしながら、隠れ蓑にしている石の墓標から兵士たちの様子を窺うために顔を覗かせたときだった。
 整然と並ぶ墓標の列の向こうで、誰かがすっくと立ち上がった。その姿に思わず息が漏れる。
 漏れた気配を見逃してくれるわけがなかった。なぜなら、その人は、獅子帝ネメア=ランガスター=ディンガルであったからだ。

 
 ライラネート神殿のほうじゃなかったのか。というか、墓地!? なぜ、墓地に皇帝が!?
 焦って身を起こしたが、青い視線に射すくめられて、レインは硬直した。硬直したまま、相手の出方を観察する。
 武装はしていない。上等な衣装を着て、黒いベルベットの豪奢な外套を着ているだけだ。呪文の詠唱はしていない。ぎりぎり間合いの外だろうか。しかし、ネメアが動けば意味のない距離だ。
 レインは膝立ちのまま、腰のナイフに手をやった。体術勝負で勝てる気はなかった。何とかして逃げるしかない。テレポートの詠唱が間に合うだろうか。その前に、立てるだろうか。そんな隙があるだろうか。
 突然、ネメアが体をすっと横に移動させた。それに、意図せずして体がびくりと震えた。
「……裏から登ったのか」
「えっ」
 よく登れたな、とネメアはあっけらかんとしている。
「墓参りか?」
 何だこれは……、とレインは彼を見上げた。ネメアの様子は以前と変わらない。猫屋敷でやりあう前、エンシャント城で槍の扱いを教えてくれたころと。
 だが、レインはそういうわけにはいかない。三ヶ月ほど前にこっぴどくやられた苦い経験が、警戒心を抱かせる。
 レインはネメアの青い目を見つめたまま、しばし考え、ふと気づいた。そして、彼女はあまりにも無防備に、すっくとその場に立ち上がった。
 墓二つ程度の距離を保ったまま、ネメアと正面に向き合う。
 ネメアが真っ先に体を横にずらしたのは、レインを宰相たちの目から庇うためだと気づいたからだ。この角度なら、ネメアの大きな背中でレインは彼らから見えないだろう。
 だが、これが限界だ。間合いを詰めるのはやはり、怖い。
「ザ、ザギヴが……あの、ザギヴの体調が悪いと聞いて……」
 レインは言葉を選びながら続ける。
「あ……別に、ザギヴがいつも私と連絡を取り合っているわけではありません。私が勝手に、心配しているだけです」
「だろうな」
 ネメアは小さく頷いた。
「公務に支障はない。闇の影響はかなりあるが」
「そ、そうですか」
 しばし、沈黙。
「伝言があるなら伝えよう」
「あ、手紙が……」
 と言いかけて、レインははっとした。
 いやいやいや、皇帝だぞ。勇者だぞ。それを駆け出し冒険者への依頼じゃあるまいに、郵便配達なんぞさせていいものか――。
「手紙があるのか」
「えっ」
「渡してやろう。貸しなさい」
 レインは顔をしかめてネメアを見上げた。ネメアは表情を変えぬまま、ああ、と言った。
「別に見やしない」
 そういうことを気にしているのではない。そもそも、ザギヴへの手紙にはネメアに見られて困るようなことは書いていない。
 懐から、手紙を取り出して、再びレインは硬直する。これを、ネメアに渡すということは、彼にかなり近づかなくてはならない。
 ネメアはじっと、レインを観察するようにこちらに視線を注いでいる。
 この人に先に動かれるのは怖いな――レインは意を決した。一歩踏み出し、ネメアに近づいていく。視線は常に、彼の目から外せない。この気迫に負けてしまえば、その瞬間喉もとを押さえられているかもしれないのだ。
 レインはネメアの懐まで歩み寄って、押し付けるように手紙を差し出した。
「お願いします」
「……よかろう」
 レインの手から手紙を受け取って、ネメアは懐にそれを収めた。そして、レインへ鋭い視線を送った。空気が一気に緊張する。
 レインはぎくりと身を強張らせる。自然と腰のナイフに手が触れた。
「オイフェたちから聞いた。よほど私の邪魔がしたいらしいな」
 ネメアは言いながら、レインから少し距離を取った。無造作に彼女に対して横を向く。
 穏やかな海のような青い目が、獅子の目に変わった。
「父を殺したのが相当に不満と見える」
 レインは愕然とした。思わず、身構えるのも忘れて、俯いた。
 何てことを言うのだ、と思った。ネメアは、明らかな殺意を持って、オルファウスへ槍を振るったのだ。あの日の光景がレインの脳裏にありありと蘇った。オルファウスは丸腰で、構えもしていなかった。息子のすべてを受け入れるような、オルファウスの背中を思い出す。
 上げた顔には、ありありと目の前の男に対する不信と不満が浮かんでいた。
「だが、私は言葉や情ではもはや止まらぬ。次は、真っ先に、迷わず、その腰のナイフを抜くことだ」
 ネメアはレインに背を向けた。あまりにも無造作に。翻った黒い外套に刺繍された、金糸の獅子がぎらりと陽光を照り返した。
「せいぜい、挑むがよい」
 ネメアは無人の墓地を悠然と去っていく。
 レインは憮然としたまま、その場に立ち尽くした。追いかけるでもなく、切りかかるでもなく、罵声を浴びせるのでもなく――。ただ、なす術もなく、阿呆のように立ち尽くした。

 
 レインは重いため息をついた。いきなりネメアに会って驚いたとか、緊張から解放されたとか、理由は色々あったが、それ以上に、彼女は傷ついていた。
 がっくりと肩を落としてうな垂れる。視線を落とした墓地の白い石畳の上で、汚れた黒いブーツがひどく浮いて見えた。
 あんな言い方しなくてもいいじゃないか、とレインはまたため息をついた。
 ネメアの真意を測ろうと、必死で考えていた自分が馬鹿のようであった。いっそ、ケリュネイアのように、彼は闇に落ちてしまったのだと確信を持って戦えたらどんなにいいだろうか。
 レインはネメアを信じていた。ここにいたっても、彼を師と仰ぎ、彼の背中を追っていた。阿呆のように、ネメアを信じていた。
 あらゆるものを振り払って、独りで覇道を突き進むネメアの背中は見えない。まるで見えない。今まで、おぼろげに見えていたものが、あの日、あの猫屋敷の庭で、陽炎のように消えてしまった。レインは暗闇の荒野の中に、またひとりで放り出されてしまったのである。
 自分の黒いブーツのつま先を、じっと見つめていたレインの視界の端で、白い何かが揺れた。顔を上げて、そちらを見やると、墓前に手向けられた白い花のブーケが、風に揺れている。
 白百合と白薔薇の真っ白な花束だ。ネメアが手向けたのだろうか。
 レインはその墓に寄った。そして、真っ白い花に埋まるようにしてある小さな墓標を見つめた。レインはその知らない墓が、彼が尊敬したというエリュマルク皇帝の墓だと思った。
「え……?」
 墓碑銘はイズ――ネメアがさらい、エリュマルク皇帝の妃となった女。エルファスの姉。レインの知らない美貌の女。
 墓石の傍で、白いブーケがものも言わずに揺れている。
 レインは急に、脚に力が入らなくなって、がっくりと墓前に膝をついた。
 え……何で? 何で、イズ……皇后の墓に、ネメアさんが参るんだ……?
 息が詰まる。考えるほどに息が詰まる。胸を押さえて、四つん這いになったレインの眼前に、真っ白いブーケがあった。それに触れようとした手が、躊躇してびくりと止まる。花に触れることもできぬまま、ぎゅっと拳を握り締めて、膝の上に置いた。
 まるで、心臓のようではないか、とレインは思う。墓の下の女に、自らの心臓を捧げるようだ。この花束は、ネメアの心臓のように見えた。
 あれ? 何だ――?
 胸が詰まって苦しかった。息ができない。レインは跪いたまま天を仰いだ。憎たらしいほどの青い空と、秋らしい薄い雲が広がっている。
 息ができない代わりに、涙が溢れそうだった。胸の奥が寒々しかった。胸にぽっかりと空いた空洞に、寂寞の風が吹きぬけた。泣いてはいけない、とレインは歯を食いしばった。かみ締めた奥歯がぎりりと鳴る。涙の代わりに鼻水が出てきて、レインはわざと大きくすすり上げた。
 憧れだと思っていた。ネメアに対するこの気持ちは。憧れでよかったのに――きらめくような憧憬の中に、小さな小さな恋の炎が灯っていた。レイン自身も今の今まで気づかなかったような、そんなちっぽけな恋心である。
 その恋の炎は、今、レインの胸を吹き荒れる寂寞の風に吹かれて消えた。心の奥の小さな炎を守るには、今のレインはあまりに幼すぎた。
 この花束は、贖罪ではない。同情でも、哀れみでもない。ネメアに恋したレインには、それがよくわかる。誰よりもネメアを見てきた。ともにいれた時間は短いけれど、誰よりも近くに行きたいと追い続けた。だから、わかる。
 ネメアは、この墓の下の女に恋をしている。
 泣いている場合ではない。考えろ!――涙を飲み込んで、レインは痺れた脳みそに活を入れた。眼前には、眩しいほどに白いブーケが、風に揺れている。
 こんなことをする人が、こんな純粋な人が、なぜあのような物言いをするのだ。ほかの者を振り払いながら、なぜ独りで覇道を歩むのだ。苛烈なまでに闇の神器を求め、実の父以上に慕う養父を、なぜ殺したのだ。
 レインの瞳が鋭くなった。冴え冴えとした青が、灰まだらの光彩の中で輝く。
 闇の勢力に関する噂を聞かないか――。
 初めて、リベルダムのギルドで出会ったとき、ネメアは闇の勢力と戦っていた。魔人しかり、あのシャリたちしかり、世界を混沌に陥れる連中である。それは、きっと今も変わらないだろう。
 ネメアの深い海のような青い瞳を思い出す。
 何のために戦うのだ。あのような、穏やかな瞳をする人が、何のために。
 私は自分のためにしか戦えぬ男だ――。
 かつてネメアはそう言った。自分のため、とは何だ。自分の『何の』ためだろうか。
 『死の獅子が槍の主を殺す。我らが主は死の獅子に宿る』――。
 オルファウスの言葉が頭の中で反響した。
 運命について――。
 バルザーはそう言った。
 ああ、そうか、とレインは瞠目する。見開かれたレインの両眼に、白百合の花弁が大きく跳ねるように風に揺れるのが映りこんだ。
 己の、運命のために、戦っているのか。
「我らの主……死の獅子……闇、闇の神器……。――ああ、何てこと」
 レインは溢れ出そうになる涙を懸命に飲み込んだ。自分の思い付きが、まるで縄のようにレインの首を絞めていく。何の確証もないはずなのに、それはまさしく真実のように、ぴたりと符合が一致して、そこから動いてくれない。
 あのネメアに、レインがひたむきに目指してきた男に、破壊神が宿るというのか。
 何で言ってくれないんだ、とレインは憤る。ともに闇と戦おうと、破壊神と戦おうと、なぜ言ってくれないのだろうか。それほどに、自分は頼りないだろうか。
「え……破壊神と、戦う?」
 破壊神はネメアに宿ると言われているのに、誰が戦うのだ。
 未熟さを越えた先でしか、見れぬ背中もあるだろう――。
 ネメアは未熟さを越えろと言った。強くなれと言った。レインに槍を教え、用兵を教え、暗闇に立つレインに道を教えた。
 せいぜい、挑むがいい――。
 そして、挑めと言った。
「ああ、そんな……嘘でしょう?」
 レインは今にも泣きそうな顔をして、頭を抱えた。
 ネメアは、このレインに、己を誰よりも慕うこの寄る辺ない娘に、破壊神が宿った自分を殺せというのだ。
 レインに神器を集めさせるのもそのせいだろう。煽るようなことを言って、オルファウスを殺してみせて、レインの義憤を敵愾心を、自分に向けようとしている。そうすれば、レインは、容赦なく、ネメアに挑みかかるだろう。あの猫屋敷でそうであったように。
 レインに何も言わないのは、もし、言ってしまえば彼女の心が鈍るからだ。鈍った槍で殺せるほど、ネメアは弱い男ではない。
 あるいは、どこで耳をそばだてているかわからない闇の連中に、レインの存在を悟らせまいとしているのかもしれない。
「くそ……っ」
 どうする?――もしこのまま闇の神器を集め続ければ、レインはネメアを殺すことになるかもしれない。可能性でしかない。けれども、その可能性は確実にあるのだ。
 その覚悟ができなければ、今すぐ、彼に神器を渡して去るべきだ。二度と、関わるべきではない。今ならば、まだ引き返せるだろう。
 レインは震える体に力を込めた。立ち上がった拍子に、ブーケが風もないのに揺れた。白百合の大きな花弁が、頷くように跳ねている。
 外套を翻してレインは墓地を駆け抜けた。ネメアの姿が見えない。
 墓地を囲う黒い鉄柵の向こう。黒鎧騎士の鈍く光る甲冑の群れの向こうに、レインは陽光にきらめく金色の髪が翻るのを見た。今にも馬車に乗り込もうとしている。
 ここを逃せば、もう二度とは会えないかもしれない。今、伝えなければ。レインがこれからどうするのか――。
「ネメアさん、待って! ネメアさん!」

 
 ネメアさん!――なつかしい呼び声に、ネメアははっとして振り返った。乗り込みかけた馬車から体を乗り出すと、外套を翻しながら墓地の入り口からレインが駆けてくる。
 一つにくくれるほど長く伸びた薄墨色の髪を揺らしながら、長い脚で石畳を蹴ってくる。人目を欺くために男の格好をしているせいで、若い娘特有の内側からあふれ出る生命力が浮き立っていた。それがひどくアンバランスで、ひどく神秘的であった。
 日の光を浴びながら躍動する彼女は、輝いて見えた。日に焼けてなお白い肌が、黒髪とあいまって輝いている。
 そして、その場にいる誰にもそらさず、まっすぐにネメアを見据える彼女の双眸は、平素よりもその青が冴え冴えとしていた。
 レインは美しかった。美しく、愛らしく、力強く――そして、ネメアには、切なかった。
「脱走兵だ。捕らえよ」
 ネメアのすぐ傍でベルゼーヴァがそう命じた。大きくはないが、力強い宰相の声に、黒鎧騎士たちが前に出て抜剣した。鞘から滑り出た白刃が、陽にぎらりと強い光を返した。
 レインの足が止まる。しかし、瞳の輝きはいっそう強くなる。
 ネメアは馬車から降り立つと、騎士たちを押し退けて前に出ながら、よい、と言った。
「下がれ」
「ネメア様!」
 ベルゼーヴァがなおもたしなめるように名を呼んだが、ネメアはそれを片手を上げて制した。友人の非難めいた視線を背中に感じながら、ネメアはレインと相対した。彼らの間を遮るものは、何もなかった。
 お互いの間合いの外から、レインはまっすぐにネメアを見据えている。雲の合間から覗くような空色の青が、いつも以上に澄み切っていた。その空に、ちかりちかりと星の瞬きのような光を見て、ネメアは目を見張った。
 猫屋敷で対峙したときと同じだ。星色の炎がレインの内側から爆発するように燃え上がると、空色の瞳の中で瞬くのだ。
 まるで、体内に天空を擁するようである。
「不満です」
 レインはきっぱりと断言した。そう大きな声ではなかったが、ハスキーな強い声ははっきりと神殿の庭園内に響き渡った。
「あなたのやり方が大いに不満だ。あなたのやり方は、性急すぎる。苛烈すぎる。――私ならばこのようなやり方は絶対にしない」
 そこまで言うとレインは言葉を切って、口をつぐんだ。瞳の中の流星群が、一際その輝きを増したかと思うと、ふっと消えた。空の色の冴え冴えした青ばかりが目立つ。
 レインはまっすぐにネメアと向き合った。それから、背筋をしゃんと伸ばし、胸を張った。ネメアはその様子に目を見張る。
 レインは笑った。ネメアに対する親しみと、尊敬と、愛を込めて――。あなたは気安いと言ったあの時と同じ顔をしている。
「けれど、あなたの瞳は海のようだ。リベルダムのギルドで初めて会ったときと、何ら変わらない……穏やかな海のような、青い目をしている」
 にっこり微笑んだまま、レインは言うなり会釈して身を翻した。無造作に、ネメアを取り囲む騎士たちに背を向けて、高台のほうへと走り去る。
「追え」
 ベルゼーヴァの声に騎士たちが逡巡した。彼らが走り出すより早く、振り返ったネメアが命じた。
「追うな。捨て置け」
「なりません」
 宰相は涼やかな目元を険しくして、皇帝を見上げた。
「脱走の罪はともかく、今のは明らかにあなたに対する宣戦布告です。この帝都で、そのような不敬を許すわけにはまいりません」
 たとえあなたが許しても、とベルゼーヴァは言外に言った。紫黒色の切れ長の目が、非難の色を強くしている。
 ネメアはじっと、その紫をずっと濃くしたような黒い目を見つめた。ネメアの青い瞳に強い光が宿る。
 不敬?――ネメアの低い呟きに、ベルゼーヴァがぎくりと身を強張らせた。その場に言いようのない緊張が走る。騎士たちが甲冑をがちゃつかせて身じろぎした。
「……私の意に沿わぬのが不敬ならば、お前も不敬か? 宰相」
「――……何の……」
「アンギルダンの処刑の話は聞いていない」
 それは……、とベルゼーヴァが言いよどみ、一歩引いた。先ほどまで強い光を放っていた黒い瞳が揺らぐ。
 ネメアはふっと青い目に込めた強い光を弱めた。いつも通りの、友人に向ける穏やかな目をして、ベルゼーヴァの肩を叩く。
「わかっている。ならばこれも、芝居でよいではないか。私はお前を失いたくはないぞ、ベルゼーヴァ」
 城へ戻るぞ、とネメアはベルゼーヴァを促した。友人はどうにも納得いっていない様子であったが、ついには小さく息を吐いてネメアに従った。
「二人にかけた追討令を廃せ。無意味だ」
「……承知いたしました」
 狭い馬車内で斜向かいに腰かけたベルゼーヴァは、ネメアの言葉を聞くなり、難しい顔をした。不機嫌そうに薄い唇を引き結んで、眉宇をしかめている。
 付き合いの長い彼は、ネメアがめったに彼の仕事に異を唱えることがない代わりに、一度言い出したら決して覆らないことを熟知していた。何のかのと言いながら、彼は城に戻れば二人の追討令を廃止するだろう。
 それでいい、とネメアは胸中で呟きながら腕を組み、小さな車窓から外を眺めた。ゆったりとライラネート神殿を離れた馬車は、黒鎧騎士たちの行列を引き連れて町に入っていく。石畳に馬車の車輪が跳ね、車体が揺れた。
 レインにもアンギルダンにも、自由でいてもらわなくては困る。もしものときには、彼らはともに立ち上がるのだろうから。
 ネメアは楽天家ではなかった。ネメアの運命が示された予言が外れる、などという根拠のない自信は持てない。ゾフォルの予言は、今のところ外れたためしがなかった。
 あるいは自信家でもなかった。彼は自分が破壊神に対抗しきれるほど強いとも、思っていなかった。
 人生に不測の事態は付き物だ。ネメアが闇に落ちてしまわないとは限らない。
 ネメアは、もし自分に破壊神が宿れば、この大陸に生きるすべての生命という生命の魂を刈り取るだろう、と考えていた。そこに一切の妥協も迷いもない。男も女も、老人も赤子も関係ない。人と獣の判別すら付けずに刈りつくすだろう。
 ネメアはとても慎重な男であった。臆病であるといってもよい。特に自身のことに関しては、弱さばかりが目に余る。それでまた、臆病になるのだ。
 レインが指摘するネメアの苛烈さは、その臆病さの裏返しである。
 バロルのような天才は、天才であるがゆえに己に絶対の自信を持つ。それが慢心につながる。かつてバロルはゾフォルの予言を恐れて、ディンガル国内の金髪の男児という男児を殺した。だが、もしもネメアがバロルの立場にあったなら、金髪の男児に限らずありとあらゆる赤子を殺したに違いない。
 臆病で慎重、ゆえにネメアには慢心がなかった。もしも自分が闇に落ちれば、己を排そうとするすべてを掃討するだろう。
 その意志のもとに、ネメアが率いる闇の軍勢は大陸を覆いつくすのだ。その軍勢の前では、ディンガルもロストールも、いや、人間もエルフもボルダンも――ありとあらゆる区別がない。
 大陸に生きるすべての者が兵となり、一つの意志のもとで軍となり、対抗せねばとても勝てぬ。ネメアはそう考えている。そのための大陸統一である。
 その軍勢を率いる者が必要であった。有名な戦士や冒険者はいくらでもいる。アンギルダンしかり、目の前のベルゼーヴァしかり――だが足りない。彼らでは闇の軍勢に立ち向かうすべての生命の希望にはなりえない。
 ディンガルを出て以来、多くの若者を見てきた。みな未来への希望に満ち、活力に溢れ、未知の物への探究心に瞳を輝かせていた。けれども、闇に落ちたネメアに対抗し、すべての生命の先頭に立つには、あまりにも弱く凡俗で頼りなかった。
 初めて出会ったときのレインなど、その最たるものであった。ネメアの目から見たあのときのレインは、体の大きな子供であった。どこか頼りなげで、自信なげで、ネメアと話していてもおどおどとしているような娘だった。
 次に会ったバルザーの闇の空間の中では、もっと悲惨だった。始終青い顔をして、泣きそうな顔をしていた。
 それでも、魔人を斃せるくらいになりたいと言う。事情は言わない。ただ、斃したいと言う。強くなりたい、と。
 ほんの少し、自分に似たところのある娘であった。弱く、頼りなく、けれどもそれゆえに、それを撥ね退ける力を求めている。平素であったなら、目をかけていたかもしれない。だが、今は一刻を争う緊急事態だ。ネメアの個人的な感情などどうでもいい。
 けれど、レインは自分で追いついてきた。ウルカーンでの対峙が、ネメアの意志を決めさせた。
 『束縛の腕輪』は渡せない――。
 ネメアの視線を受け止めて、ひるまず、媚びず、逆に問いただすような視線を向けてくる。そのレインの強い目で決めた。
 この娘にしよう。この娘がいい。破壊神が宿った私を殺すのは、この娘がいい。
 ネメアはあの時、そう思った。だからこそ、闇の神器を預けている。レインは決して誰にもあれらを渡さないだろう。ネメアにすら。
 自分を討ち取る勇者を決めたネメアにとって、アンギルダンが彼女を副将にしたいと言い出したのは、渡りに船であった。アンギルダンとともに戦場に出れば、よい経験になるに違いなかった。将来、彼女は大軍勢を率いなければならないかもしれないのだ。
 あなたのように強くなりたい――。
 そう言った彼女に槍や用兵を教えたのは、何も彼女のためにやったわけではない。レインは強くならなければならない。ネメアを殺すために。そのために、ネメアは自分の経験と知識のすべてを彼女に与えた。
 あの娘の気持ちを利用したのである。武器になるものを惜しめるほど、ネメアの戦争は甘くなかった。
 私の決断は間違っていなかった、とネメアは確信を抱く。組んだ脚の上に置かれた右手の中指に、意匠のない金の指輪がはまっている。窓から差し込んだ光に、指輪は笑いかけるようにきらりと輝いた。
 猫屋敷でのあの一戦は、ネメアにとって愉悦以外の何物でもなかった。長いこと戦の中に身を置いてきて、はじめて、愉悦を感じた一戦であった。
 レインの振舞い方は、ネメアの理想どおりだった。ネメアと睨みあって一歩も引かない胆力といい、迷いなく振るう槍といい、何より容赦なくネメアを殺そうとしたのがよい。
 ネメアはあのときの痺れを思い出した。指輪のはまった右手を、確かめるように強く握る。もちろん、もう痺れは取れている。
 レインは強くなった。だが、ネメアを殺すにはまだ弱い。もう少し、時間を稼がねばならない。闇の手がどこまで伸びているか、わからないが。
 もちろん、闇の侵食におびえているばかりではない。ネメアは自分にできるすべての可能性の種をばら撒いた。
 大陸統一、種族平等政策、闇の神器探索、『魂吸いの指輪』――それらすべてが、いずれあのレインの武器となる。いまや、レインの成長はネメアの撒いた可能性の種の中で、燦然と輝く希望であった。
 よい目をするようになった――星の輝きを帯びる瞳。あの輝きが何なのかはわからないが、ネメアすら圧倒するあの輝きに、ネメアは希望を抱くのだ。
 馬車の小さな車窓から見上げた空は、ネメアの希望が持つ瞳と同じ薄い青をしている。
「――……あなたの瞳は、海のよう……」
 ぽつりと漏れた呟きに、ベルゼーヴァが訝しげな視線をこちらに向けてくる。ネメアはそれに片手で、何でもない、と示しながら、ぼんやりと考える。
 なぜ、あんなことを言ったのだ。わざわざネメアを追いかけてまで。ベルゼーヴァたちがいることは、彼女も知っていただろうに。ネメアのやり方に不満を持っているのは、猫屋敷での一戦でわかっていることだ。今さら――。
 私ならば、このようなやり方は絶対にしない――。
 ……『このような』やり方?
 リベルダムのギルドで初めて会ったときと、何ら変わらない……青い目をしている――。
 ネメアははっとした。レインは気づいている。ネメアの目的も意図も、何もかも正しく理解したうえで、ネメアに挑むのだ。今のレインは、迷いなく、ネメアに槍を突きつけるだろう。憎しみではなく、愛を込めて。
 そのうえで、同じ道を歩むと言う。ネメアとは違うやり方で、破壊神の復活を阻止すると言う。
「ふふ……」
 思わず漏れ出た笑いに、斜向かいに座った親友がぎょっとしている。口もとを押さえて肩を揺らすネメアの顔を、覗き込んだベルゼーヴァは訝しげである。
「ネ、ネメア様……?」
 おかしくて、楽しくて、嬉しくて、笑いが止まらない。ベルゼーヴァの言うとおり、あれは宣戦布告だ。しかし、なんと頼もしい宣戦布告だろう。
「いや……ふふふ。お前の言うことは正しいな、ベルゼーヴァ」
「は?」
 このような自分をはじめて見るだろうベルゼーヴァをよそに置いて、ネメアは笑う。その手元で、『魂吸いの指輪』がきらりときらめいた。

 


◇ひとこと◇
 ネメアがイズに惚れてるってのは、当然のように私の妄想です。
 こんな妄想を垂れ流しているのは私が悪い。だが、私は謝らない。

 

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