冒険者というと、市井の人々がまず思い浮かべるのは、ギルドで依頼を請け負って怪物を退治したり、危険地帯にある薬草などを採ってくる連中だろう。
それも冒険者の仕事ではあるが、冒険者たちに任される仕事とはそれだけではない。たとえば、各都市や国家に雇われて戦や都市防衛に務める傭兵や、逃げた犯罪者を捕らえる賞金稼ぎも冒険者ギルドに登録しているもののほうが多い。
当たり前に生きている普通の町人には、後者の連中は縁遠いだろう。
賞金稼ぎたちが出入りするのは、どこの都市にもひとつはある兵士の詰め所だ。詰めているのは正規の兵士だったり、自警団だったりと都市によって様々だが、ここ自由都市リベルダムでは百人会議によって雇われた自警団が取り仕切っている。冒険者ギルドの裏手にあり、冒険者の中でもいかにも強面の、屈強な連中が通りをうろついている。まっとうな商売をしている人間なら、近づくのをためらうような、そんな通りにある。
その通りに、ひとりの巨漢が足を踏み入れた。大きな体をボロ布で覆って、肩にはこれまた粗末なズタ袋を背負っていた。男はホコリまみれで、一見するとまるで乞食のような様相であった。
だが、大の男が見上げるような立派な巨躯といい、それを覆ったボロ布から覗く丸太のような太い腕といい、到底、乞食とは思えない。わずかに陽光の下にさらされた浅黒い肌は白くてかり、そこには黒々とした入れ墨が大蛇のようにうねっていた。
背負ったズタ袋は何やら到るところが黒く汚れている。どころか、袋の下部から赤黒いシミが広がって、滴がひとつ二つと滴り落ちていた。
巨漢は迷いなく通りを歩き、通りの中ほどにある兵士の詰め所の脇にある地下施設へと降りていく。その階段上でたむろしていた賞金稼ぎと思しきガラの悪い連中が、巨漢の風体に怯えたように道を開けた。男はズタ袋から血を滴らせ、ゆっくりとした足取りで階段を下っていく。
階段を降りきると、薄暗いが広い部屋がすぐに現れる。レンガ造りで、太い柱にも壁にもベタベタと薄茶けた紙が貼られていた。天井に設けられた天窓は格子がはめられていて、陽光が白い柱のように差し込んでいる。砂漠の日差しは強く、陽の当たらない影が一層暗く黒々としていた。
奥には鉄格子付きのカウンターがひとつきり。無骨な鉄格子の向こうに白い口ひげをはやした恰幅のいい親仁がいて、牛革のエプロンで丸いビール腹を覆っている。そのエプロンが、男が持ったズタ袋から滴るものと同じ液体で濡れている。
部屋は腑分け場のような臭いが充満していた。
男は無言のままカウンターに寄って行くと、ズタ袋を乱暴にそこに放りやった。巨躯を覆ったボロ布を剥ぎ取ると、立派な体躯が薄明かりの中にあらわになる。
体の要所のみを覆った防具をつけているが、全身を分厚い筋肉が覆っており、これではむしろ甲冑のたぐいは邪魔であろう。
男はボルダン族であった。全身に這う入れ墨は、彼らの種族によく見られる戦士の証である。
三白眼の瞳は鋭いが、鼻筋が通っていて、好男子である。ボルダン族といえば頭髪を剃り上げて、鶏のとさかのように中央部だけを伸ばして逆立てたり、三つ編みに編んで垂らしたりしているものが多いが、男はざんばら髪を後ろで適当に結わえているだけであった。
カウンターの親仁が、ズタ袋の中身を無造作にぶちまけた。ごろりごろりと鞠のようなものがカウンターの上に転がる。そのうちのひとつが、カウンターの下にまで転がり落ちてしまった。
人間の頭部である。どれもこれも濁った目を見開き、引きつったように大口を開けて硬直している。首の切断面は生々しく、まだ血が滴っているものもある。その顔面を覆うように人相書きの描かれた紙が、額に楔を打ち込まれて縫い留められていた。
「こりゃ大量だ」
親仁は半ば呆れたように言った。男はそれに答えなかったので、親仁の独り言になってしまった。
親仁はこの気味の悪い生首を一つひとつ検分し、それぞれの賞金額を古びたそろばんで計算した。首の数が多く、金額が大きくなってしまったので、親仁は金貨での支払いを諦めて、証文書を書くことになってしまった。
男はすっかり軽くなったズタ袋と証文をわしづかんで、この暗い腑分け場を立ち去って行った。ここに訪れてから一言も言葉を発しなかった。
「こえぇなぁ、今のボルダン」
ボルダン族の男が完全にいなくなったのを確認して、見習いの青年が親仁に同意を求めるようにして言った。親仁はカウンター下に転がる生首を慣れた手付きでひっつかむと、部屋の隅にある大樽にそれを放り込んだ。ひとつ二つと放り投げながら、
「素性はよく知らんが、最近よく来るな。他の連中が言ってたが、あの男、三撃いらずなんだと」
「二の太刀までで全員殺したってことっすか」
そりゃおっかねぇや、と見習いが、ボルダンの男が去っていった暗い階段のほうへと、無意識に目を向けた。暗闇に沈む階段には、当然、ボルダンの戦士の姿はもうない。
「おい、サボってねぇで、仕事だ」
親仁にどやされて、見習いの青年は慌てて作業場に戻っていった。
地下の支払い所から階段を上がりきったボルダンの男は、わずかに顔をしかめた。ただでさえ強い砂漠の日差しは、薄暗い地下に慣れた目に突き刺さる。
だが、男が眉間に深いシワを寄せたのは、日差しのせいだけではなかった。彼の行く手を阻むようしてローブ姿の人物が立っている。体格から見て、おそらくはこちらも男だろうと思われるが、頭巾で顔を隠しているので正確なところはわからない。何より、ボルダンの男と並んでしまうと人間族の男もよほど大柄でなければ華奢に見えてしまう。
「賞金稼ぎのレーグだな」
頭巾の下でローブの男がしゃがれた低い声を出した。ボルダンの男は応じない。じっと、相手を観察するように睨みつけている。
「殺してほしい賞金首がいる」
ローブの袂からざら紙を取り出し、ボルダンの男に差し出す。ボルダンはそれを警戒する様子もなく無造作に受け取って、ちらりとそれを確認した。
ざら紙は人相書きであった。そこに描かれていたのは、目付きの鋭い甲冑姿の男である。伸ばし放題に伸びた金髪で、槍を携えているようだ。賞金額は二百万ギアというとんでもない額がつけられている。
賞金首の名はネメアという。
「今、この大陸で最も強い男だ。お前でなければ殺せまい」
ローブの男が言った。ボルダンは人相書きから視線を目の前の男に移す。三白眼の瞳がぎらりと光る。
どうだね、とローブの下から男が伺うような声を出した。人相書きを受け取れるような距離にあっても、ローブの下にあるはずの男の顔は窺えない。まるで黒い布でも張っているようだ――あるいは、本当に何もないのか。
ボルダンの男は口をつぐんだまま人相書きを懐に収めた。そのとき、見えないはずのローブの下の顔が、ニヤリと笑った気がした。
瞬間、ボルダンの男がまとっていたボロ布を跳ねのけながら、腰の剣を引き抜いた。大剣と見紛うほどの段平が、砂漠の陽光を浴びて強く光を放つ。通りの人たちが小さく悲鳴を上げて、ぎゅっと目をつぶった。
ボルダンの刃は正確無比にローブの人物の首をすっぱりと刎ねた。そのはずであった。しかし、刎ね飛ばされた頭巾からはそこにあるはずの首が落ちることはなく、ただの布切れが乾いた風に舞っただけだった。ローブのほうも、すっかり形を失って通りの砂地の上にわだかまっている。
ボルダンの男はその布切れを一瞥すると、特に驚いた様子もなく、自分が跳ね上げたボロ布をつかみ上げて通りを歩き去った。
◇◆◇
故郷の森を旅立って、二年が経過した。兄の出立にくっついて一緒に森を飛び出したケリュネイアも、もう十五歳。まだ幼さが少し残るが充分、一端である。エルフの血を半分引いたことで、割りを食うことも多かったが、美貌には磨きがかかる。人にはない妖艶さがあって、彼女を子供だと侮るものは最早少ない。
だが、成長したのはケリュネイアだけではない。ケリュネイアは少しだけ前を歩く兄を見上げた。
白く輝く立派な甲冑に包まれた広い背中、長く伸ばした金髪は陽の光を浴びて輝いて、まるで冠を頂いているよう。背が高くて、手も脚も長くて、たくましい。森にいた頃からそんな風だったけれど、広い世界に飛び出したネメアはすっかり垢抜けてしまって、夢物語から飛び出してきた英雄のようだった。
人に優しく、けれど厳しく、正義の道を歩むネメアはケリュネイアの自慢の兄だ。彼とともに同じ道を歩めるのは誇らしいし、純粋に嬉しかった。そして、これからもネメアとともに同じ道を歩みたいと思っている。妹としてではなく、また違った形で――。
二人はテラネからウルカーンへと続く林道を進んでいるところである。ひと月ほど前、アルノートゥンからアキュリュースへと戻る途中でネメアとはぐれてしまったが、無事に再会した。それから、予定通り、アキュリュースを経由してエンシャントを迂回しつつテラネを回ってウルカーンへと進んでいる。
季節は秋を迎え、林道を囲む樹木は赤く色づき、ひらひらくるくると頭上から舞い落ちてくる。土がむき出しの林道は、降り落ちる枯れ葉に覆われてしまって、下生えと道の境目がわからなくなっている。
ブーツのつま先が枯れ葉に埋まり、足を踏み出す度に蹴り上げられたそれが舞う。風に揺すぶられた枝が震えて、さらに木の葉が降ってくる。積もった枯れ葉が風に煽られて、ガサガサと身を寄せた。
秋は存外、賑やかな季節だ。
秋の音に気を取られていたケリュネイアは、それでも耳ざとくそれに気がついた。エルフ由来の長い耳が、獣のように音を拾おうと小刻みに動く。
兄も気がついたようだ。足を止め、いつでも背負った槍を下ろせるように右半身が緊張する。
「何者だ」
ザァザァと耳に響く枯れ葉の音を破って、ネメアの誰何の低い声が響く。
赤と黄色の鮮やかな雨垂れの向こう――林の木陰からボロ布をまとった大きな人影がのそりと現れ、二人の前に立ちふさがった。
身にまとったボロ布を、降り注ぐ枯れ葉ともども脱ぎ捨てる。現れたのは立派な体躯をしたボルダンの男である。浅黒い肌は秋の柔らかな木漏れ日を浴びて照り輝き、体を覆う筋肉の鎧を一層浮かび上がらせている。腰――というより剣が大きくて背中に負っているような状態だが――に帯びた二本の大剣が、いかにも使い込まれて見えた。
兄ネメアも相当に上背が高く、巨漢といえるが、このボルダンの男はそれよりも一回りは大きい。こちらを睨みつける三白眼の鋭さも相当だ。
「……その首、貰い受ける」
言い終わるが早いか木漏れ日に白刃が閃いた。降りしきる枯れ葉の雨を引き裂いて、分厚い段平がネメアの首を刎ね飛ばさんと唸りを上げる。
ザァザァと枝葉がざわつく林道に、金属同士がぶつかる甲高い音が響いた。ネメアの槍が男の刃を受け止めている。
「兄さん!」
ケリュネイアは背中の矢筒に手を伸ばした。男の鋭い視線がこちらを貫く。
男はもう一方の剣を抜き放つと、器用に左手でそれを振るった。狙いはケリュネイアだ。木漏れ日が巨大な刃で遮られ、ケリュネイアの眼前に影を落とす。
影の中で強い光が目を焼いた。ネメアの槍がひらめいて、すんでのところで男が剣を引く。
兄はケリュネイアを背中にかばうように男の前に立ちふさがっていた。広い背中を白い甲冑が木漏れ日に輝く。
「殺されたくなければ女を下がらせろ」
容赦なく男が言った。その物言いに、カチンと来たケリュネイアは言い返そうと口を開く。が、言葉を発する前に、兄が言った。
「ケリュネイア、下がっていろ」
「兄さん!」
じっとりと冷や汗で湿る手で弓を握りしめる。兄はこちらに背を向けたまま、振り向きもしない。ボルダンの刺客を油断なく睨み据えている。
しかし奇妙なことだが、ボルダンの刺客は大剣を両手にぶら下げたまま、じっとこちらの会話が途切れるのを待っている。
いいから、と兄はケリュネイアの体を押して、林道から外れて木立の影に彼女を隠そうとする。そこから出てくるなよ、と言った。
「でも、兄さん……!」
なおも言い募るケリュネイアに、大丈夫だから、とネメアは小さく笑った。それから、背負っていた荷を下ろして、身軽になると、槍だけを携えて林道の方へと戻っていった。
木の葉の雨が降る。ネメアが手の中で槍を回すと、枯れ葉の雨音をかき消して鋼鉄の塊が風を切る音が響く。ネメアが槍を構えると、林道には再び枯れ葉の音しかしなくなった。重苦しい沈黙が満ち、二人の男の間に、触れれば切れるような殺気と緊張感が張り詰める。
先に動いたのはボルダンの男の方だった。降りしきる鮮やかな枯れ葉の中を、巨躯が疾駆する。その速さと言ったら。あの巨体からは想像もつかない速さで間合いを詰めると、右手の大剣を振り下ろした。
分厚い刃をネメアは槍の柄で受け止める。紅い落葉の中にさらに明るい火花が散った。ネメアが男の刃を振り払い、槍を巧みに操ってすくい上げる。間髪を入れずに振るわれた男のもうひとつの段平が、ネメアの穂先と絡まり、跳ね上げられる。ネメアが斬りつけた槍の穂先を男が振り払い、もう片方の剣を振り下ろす。振り下ろされた刃を槍の柄で絡め取る。
男の分厚い段平を弾き飛ばして、ネメアがわずかに後退した。ボルダンは追わない。また、さっきのようにじっとして、ネメアを睨み据えている。ただ、両手の段平を改めて握り直した。
「……我が名はレーグ」
唐突にボルダンが名乗りを上げた。声はそれほど大きくなかったが、低い声はケリュネイアのところまで届いてきた。
ネメアがひと呼吸置いてから、
「……私はネメア=ランガスターだ。わざわざ名乗ってくれるとは。律儀な賞金稼ぎだな」
と――この期に及んで――小さく笑いながら名乗り返すと、レーグと名乗ったボルダンは両手の双剣を構え直した。
「名乗ることにしている。真に強い者には――」
降りしきる木の葉を跳ねのけながらレーグがネメアへと突進する。大きく振り上げられた右の段平が一息に振り下ろされる。槍の柄で受け止めたネメアがそれを振り払い、流れるような動きで斬りつける。レーグの左の段平が、槍の穂先を食い止めた。穂先が段平を押さえつけるが、レーグが自由な右の刃を突き出してくる。身をかがめて避ける。だが、かすった刃がネメアの金髪を一房切り裂き、金糸のようなそれが木の葉に紛れて宙を舞った。
二刀流とは厄介だ。片方を押さえつけても自由な方の刃が襲ってくる。おまけにボルダン族というのがよろしくない。単純な力勝負では拮抗する。
落ち葉を巻き上げながら槍を切り上げる。レーグが大きくのけぞりながら、わずかに後退した。ネメアはそれに合わせて距離を取る。槍がひらめく。
段平の分厚い刃が、薄い木の葉を切り裂きながら槍の穂先を弾く。その勢いのまま、間合いを詰めようとしたレーグの眼前に、刺突された槍の穂先が迫る。レーグの足が止まる。
レーグは一度後退し、深く腰を落とした。次の瞬間、レーグの巨体が陽炎のようにかき消えた。いや、目にも留まらぬとはこのことで、猛然と突進してきたのだ。その勢いは凄まじく、爆風で落ち葉が巻き上がり、枯れ葉が元いた梢のところまで吹き飛んた。
いつまでも鼓膜に残るような轟音とともに、ネメアの構えた槍とレーグの双剣がぶつかった。火花がぱっと散ると同時に、二人の巨体も反発するように真反対にそれぞれ吹き飛んだ。地面に降り積もった枯れ葉を巻き込みながら、二人はゴロゴロと秋の街道を転がってほとんど同時に体勢を立て直す。
果たして、先に駆け出したのはどちらだっただろうか。段平の間合いに入らないように接近しながら、ネメアは槍を振るった。大きく距離を取って逃げながら、間合いの外から魔法でも撃てば、もっとやりやすかったかもしれない。だが、ネメアは魔法を使うのはやめようと決意していた。槍一本で、この男を負かしてやろうと決めた。
槍の一閃をかい潜り、レーグの段平がネメアまで届く。すんでのところで身を捩ると、白い甲冑の胸元を、段平の切っ先がかすって火花を散らした。
バランスを崩しながらも槍の穂先の返し刃を、レーグの左のふくらはぎに引っ掛ける。踏ん張りをかけたレーグの靴底が、降り積もった落ち葉で滑った。バランスを崩して仰向けに倒れたレーグにネメアは容赦なく槍を突き立てる。レーグはといえば落ち葉を巻き上げつつゴロリゴロリと転がって、穂先を払い除けながら体勢を立て直す。
その隙きを突いて、ネメアが大きく槍を引いた。獅子の心臓がどくりと大きく跳ね上がる。心臓で燃え上がった黄金色の闘気が、血潮とともに全身を駆け巡る。黄金のきらめきが体から噴き上がり、陽炎のように揺らめきながらネメアの体を包み込んだ。
次の瞬間、雨垂れのように降り続いていた紅葉が、ピタリと止まった。葉が落ちるのがやんだわけではない。落ちていた葉が縫い留められたかのように空中で静止しているのである。
その赤や黄色の葉のカーテンの向こうで、レーグがゆっくりと立ち上がり、これまたゆっくりと二刀の段平を構え直すのが見えた。空中で留まる鮮やかな落ち葉に幅広の刀身がぶつかると、やはりゆっくりと落ち葉は後方に移動していく。その様子は水を掻くようでひどく滑稽だが、レーグにはふざけている様子はもちろんなかった。
黄金の獅子のソウルがネメアの肉体を活性化させ、感覚を鋭敏にさせているのだ。実際には落ち葉は今までと変わらない速度で地面に向かって落ち続けているし、レーグの動きもゆっくりではない。ネメアのほうがはるかに高速で動いているので、そのような錯覚を起こしているのだ。
ネメアの槍がレーグの右肩を貫き、右太ももを殴打する。穿たれた傷口から噴き出した鮮血すらゆっくりだ。レーグが斬りつけてきた段平を避けながら、さらに横腹を斬りつける。
傍から見ていれば――例えばケリュネイアの目からは、ネメアの影がレーグとすれ違っただけに見えたはずだ。途端に、ザァザァと降りしきる落ち葉の音が、ネメアの耳に戻ってきた。風の音、その風に揺れる木々の音、そして――。
「何と」
ネメアの槍の柄が甲高い金属音を立ててポッキリと折れた。その背後では肩と脇腹から激しく出血しながらもレーグが左の段平を振り上げるところである。多少の加減はしたが、それでも並みの人間なら立ってはいられないほどの怪我である。
振り下ろされた段平を避けようとした足がたたらを踏む。どくどくと鼓動が早く、足もとがおぼつかない。バーニンレイヴの反動が来た。
避けそこねた段平の切っ先が額をかすった。紅葉の落ち葉の中に、ぱっと血が渋く。妹の悲鳴が聞こえる。
赤く染まる視界の中、さらにレーグが段平を振り上げるのが見えた。それは最早、剣技とは呼べないが、得物がでかいだけにその膂力で振り下ろされれば充分脅威だ。ネメアの頭蓋を割ることくらい造作も無いだろう。段平を弾き飛ばすための武器もない。今、ネメアの手にあるのは、折れてしまった槍の柄の片割れだけだ。
だが、ネメアは距離を取らなかった。むしろレーグの方へ飛び込むように前転しながら段平を避ける。ネメアの後ろ髪が逃げ遅れて、一房段平に切り裂かれた。宙に舞った金糸が木漏れ日にきらめく。
「うぅぐぐぐぅ……」
レーグが噛み締めた奥歯の向こうから、うめき声を上げた。口の端で血混じりの唾液が赤い泡を作っている。
ボルダンの巨体の脇腹から、金属棒が生えている。というのはおかしな表現だが、折れた槍の柄が突き刺さっているのだ。ネメアがすれ違いざまに、折れた槍の柄を脇腹の傷口めがけて突き立てたのだ。
普通の人間相手なら、もうとっくに倒れているだろう。だが、レーグは両手に段平をぶら下げたまま、倒れもせずにこちらを振り返った。何てタフな男だろう、とネメアは目を見張った。それと同時に、正真正銘もはや武器もなく、この強者とこれからどう相対したものかと、背中を冷たいものが伝った。
だが次の瞬間、ボルダンの巨体がぐらりと傾いだ。そのままどぉっと前のめりに倒れてしまう。衝撃で周囲の落ち葉が巻き上がり、ひらひらとレーグの大きな背中に降り積もっていく。
「兄さん!」
ついにケリュネイアが木立の影から飛び出してきた。蒼白を通り越したような真っ青な顔をしている。一目散にネメアの傍へ駆け寄って来て、額の傷に手をかざそうとする。ネメアはその妹の小さな手を取った。
「私はいい。それより、その男を治療してやってくれ」
ネメアが視線で示したのは、倒れ伏したレーグである。ピクリとも動かないボルダンの巨体の上には、どんどん落ち葉が積もっていく。
兄のその言葉にケリュネイアは、緑色の丸い瞳がこぼれ落ちてしまうのではないかというほど目を見開いた。伏したレーグと目の前のネメアを見比べて、言葉にあぐねたように口をパクパクと開閉させた。
「な、何で!? どうしてよ。こいつは兄さんの首を狙ってたのよ」
いいから、とネメアは自分で額の傷を抑えて、赤い地面に倒れたレーグを見やった。なるべく殺さずにおこうと思ったが、強すぎてそうもいかなかった。あれ以上加減すれば、立場は逆だっただろう。
ネメアに諭されて、ケリュネイアは渋々レーグの傍に膝をついた。治癒の魔法を唱え始める。ネメアはその様子を見ながら、近くの木の根に腰を下ろし、顔にべったりと付着した血を手ぬぐいで拭き、薬で止血を終えた。
「治療、終わったわよ」
そのうち、ケリュネイアが渋い顔でそう言って、立ち上がった。落ち葉の上に横たえられたレーグは、よくよく観察しなければ死体のようにも見えた。肩や脇腹の傷も塞がっており、鮮血まみれの槍の柄がその傍に転がっている。
「傷は塞いだけど、目が覚めるかどうかは本人の体力次第だわ」
「なるほど。そういうことなら大丈夫だろう」
ネメアは言いながら荷物を背負って、さっさと街道を歩き始める。ケリュネイアが一瞬、戸惑って、それから慌てた様子でこちらに追いついてきた。
「え……い、いいの? あの人、あのままで」
「そのうち起きるだろう。また襲ってこられては厄介だ。とっとと先を急ごう」
ネメアは振り返りもせず、秋の街道を進み続ける。ケリュネイアは呆気にとられて少し足を止めて、兄の背中を見つめた。それから、すぐにまた追いついてきて、
「じゃあ、何で助けたのよ!」
非難する妹をなだめるように、ネメアは笑った。
「すぐにわかる」
◇◆◇
数日の後、ネメアとケリュネイアはウルカーンを経由してロセンへと至った。この頃のロセン王国はディンガル帝国の傀儡国家となっていたが、神聖王国歴一二〇〇年代に取られた鎖国政策時よりも、旅人や冒険者に対して広く門戸を開いていた。
戦時下にあっても人の往来は多く、昼時の酒場はなかなか盛況である。といってもこのような時勢であるから、やはり傭兵のような荒っぽい連中が多い。体中に傷のある大男や、ほとんど裸に近いような衣装の怪しげな女術士。使い込まれた甲冑姿の男は伸ばし放題に伸びたひげに顔面が埋もれている。
そんな中にあって、ネメアの容姿はひどく目立った。遠巻きに、兄妹の様子を伺っている視線を感じる。おそらく、店の連中の中には賞金稼ぎをやっている者もいるのだろう。
ふと突然、酒場の喧騒がピタリと止んだ。次の瞬間、ダンッという大きな音とともに、ネメアたちのテーブルの中心に、金属の棒が突き立てられた。テーブルに載せられた食器とともに、ケリュネイアの体がビクリと跳ね上がる。
ネメアが顔を上げると同時に、彼の向かいにどかりと大きな人影が腰を下ろした。おお、とネメアがのん気な声を上げると、ケリュネイアが若草色の瞳を釣り上げて、立ち上がった。椅子が蹴り倒され、静まり返った店内に派手な音を響かせる。
「兄さん、どうしてそんなにのん気にしてられるの!」
「まぁ、落ち着け」
ネメアは変わらずのん気な調子で、ケリュネイアに座るように促した。それから、テーブルを挟んで真向かいに腰掛けた彼に、酒瓶を向ける。それが、まったく自然なことのような様子である。まるで、この酒場で待ち合わせていた道連れが、ちょっと遅れてやってきたといった調子だ。
だが、酒を勧められたほう――レーグは特にグラスを持つでもなく、じっとネメアを観察するようにしている。
「調子はどうだ」
ネメアが尋ねると、レーグはグラスに注がれた酒をちらりと一瞥した。
「……再戦を望む」
「ちょっと!」
いきり立った妹に、ケリュネイア、とネメアがなだめる。ケリュネイアは普段はつるりとした眉間に今は深いしわを寄せて、ふくれっ面を隠そうともせずに椅子に腰掛けた。
調子がよさそうだ、とネメアはレーグに向き直って、
「戦ってやりたいところだが、お前に折られてしまって得物がない」
ネメアがそう言いながら、テーブルの中心に突き立てられた金属棒を引き抜いた。先日、ネメアがレーグの脇腹に突き立てた槍の柄の片割れである。ネメアがそれを無造作にテーブルの上に転がすと、食器が再びガチャンと鳴った。それから、コロリと転がって、グラスに引っかかってレーグの前でピタリと止まる。
レーグは沈黙したままだ。むっつりと口をつぐんで、転がってきた槍の柄に一瞥もくれなかったし、その槍を止めたグラスにも手を付けずにネメアを見つめている。
「この状態で戦っても――まぁ、努力はするが――お前が勝つ」
ケリュネイアが何事か口を挟もうと身を乗り出したが、ネメアは軽く手を振ってそれを制した。ケリュネイアは不満そうなまま口をへの字につぐむ。
ネメアが黙ってしまうと、テーブルには静寂が満ちた。レーグはじっと目の前の男を睨むように観察しているし、ケリュネイアは今にも飛びかかりそうな顔でそのレーグを凝視している。また店内の誰もが皆、この珍妙な一行の動向に注目していた。
店内を包む緊張感も何のその。ネメアだけがのん気だ。ひとり食事を続けながら、口の中を酒ですすぐ。それから、
「魔王バロルを討つために、強者を探している。レーグ、お前、私と一緒に来てくれないか」
と、突拍子もないことを言った。
「えぇーっ!」
悲鳴を上げたのはケリュネイアだ。また椅子を蹴倒しながら立ち上がり、テーブルに手をついてネメアへと身を乗り出している。
「兄さん、こんな人連れて行っちゃったら、いつどこで裏切られるかわかんないじゃない!」
ケリュネイアが細い指をレーグに突きつけた。レーグがそんなケリュネイアを見上げる。怒っているやら気分を害しているやら、レーグの厳めしい顔からは読み取れない。
レーグはケリュネイアからネメアへと視線を移した。
「……敵でなければ戦えぬ」
レーグが静かに言うと、ほれ見たことか、とケリュネイアがネメアに詰め寄った。
「ほらぁ! 敵とか言ってるぅ!」
「ケリュネイア、大丈夫だから。ちょっと落ち着け」
ネメアは笑いながら妹をなだめ、レーグに向かって続けた。
「そうか? お前ははじめから、私の敵であろうとはしていなかった」
レーグは沈黙する。視線を落として、自分の前に転がっている槍の柄の片割れに向けた。
ネメアが思うに、この男はそこらの賞金稼ぎとはまったく違う。わかりやすく言えば、金が目的でネメアを襲ったわけではない。わざわざ姿を現したり、ケリュネイアを戦いから遠ざけたり――普通ならば、身を隠したまま闇討ちしたり、ケリュネイアを真っ先に狙うだろう。卑怯といえばそうだが、戦とはそういうものだ。それを非難するものは戦事に関わるべきではない。
あれは戦ではなかったのだ。あれは――少なくとも、ネメアにとっては。
「強者が必要だ。レーグ、一緒に戦ってくれ」
言いながら、ネメアはレーグの前に置かれたグラスを再び勧めた。酒は波々と注がれたままだ。
レーグは未だ沈黙している。しばらく、テーブルの上には沈黙が満ちた。今度はネメアも食事の手を止めて、レーグの返答を待っている。
やがて、レーグが重々しく沈黙を破った。
「……うぬと戦う時が?」
「あるいは」
ネメアが小さく頷くと、すばやくレーグの右手が動いた。ケリュネイアが緊張する。
だが、ボルダンの大きな手がつかんだのは、ネメアの喉笛ではない。彼の眼の前に置かれたグラスである。人間やエルフにとっては普通サイズだが、ボルダンの中でも特に大きなレーグにとってはまるでショットグラスだ。
レーグはグラスの酒を一息に飲み干すと、威勢よく空のグラスをネメアの前に叩きつけた。
「……いいだろう。うぬと再び刃を交えるときまで、我が閃刃と剛刃を貸そう」
「そうか。ありがとう、レーグ」
ネメアは頷きながら、眼の前に置かれた空になったグラスに酒を注ぎ入れた。それから、ケリュネイアに向き直って、
「ケリュネイア、仲間が増えたぞ。よかったな」
と笑った。
ケリュネイアは形のよい小さな口をポカンと開けて、少し呆然としていた。だが、次第に、色白の頬を真っ赤に染めて、わなわなと震え始めた。ついには三度、椅子を蹴倒して立ち上がり、バァンとけたたましい音を立ててテーブルに両手を突いた。テーブル上の食器がガチャガチャと踊った。
「よくないわよッ! 兄さんのバカッ!」
◇ひとこと◇
レーグ優しすぎない? 獅子に甘いのか何なのか。どっちにしろ、いいやつすぎる。