*グロテスク表現注意*
洞窟の中は明らかに人の手が加わっている。入り口付近こそ、天然の岩肌がむき出しであったが、奥に行くにつれ壁は木材で補強され、漆喰で固められている場所もある。低い天井からは魔法仕掛けの明かりがぶら下がっていた。
洞窟はいくつにも枝分かれしている。人が生活していた施設であったなごりだろうが、壁に道順を示す標識がかかっていたりする。
「どうしよう。広そうだよ」
エステルがその標識を見上げている。
「アーギルシャイアの居所ならわかる」
レインは言いながら、迷うことなく分かれ道を左へと曲がった。標識でいうなら、研究室の方面である。
アーギルシャイアがここにいるのは、間違いないとレインは確信を持っていた。首筋がひどく痛む。バルザーの闇の世界に比べれば、まったく平気ではあるが、筋が攣ったようなこの感覚は、闇の者がすぐ傍にいることを示していた。
二年余りの旅の経験が、レインの背中を押している。
人が立ち入らなくなった廃墟というものは、そうなるものなのか――内部には怪物がうろついていた。あるいは、ここがそういう施設であるせいなのかもしれない。
陰気な顔をしたホムンクルスを蹴散らし、ソーンナイトの茨の棘を打ち払う。
中には、レインの見たこともない怪物もいた。片手が異様に発達した、人型をしている。全身を鱗で覆われており、見た目は爬虫類に似ているが、不明瞭ながらも言葉らしきものを発するところをみると、もとは人間なのかもしれない。
アリの巣のように複雑に枝分かれした研究所内には、いくつもの実験施設のような部屋が散見した。大半を扉を開けて確かめもせずに駆け抜けたが、ある大部屋がレインの目に留まった。木製の扉は打ち壊されて、内部が見える。
「こっちだ」
試験管やら謎のガラスケースやらが並ぶ大部屋には、入ったのとは別の出口があって、その向こうにさらに通路が見えた。その方向から、強い闇の気配を感じる。
部屋の中に飛び込んで、レインは後ろを振り返った。怪物の数が多い。やり過ごしてきたのが追ってきているようであった。
「レーグ、エステル。ここを頼む」
レインは実験器具のようなものが乗った大きな机を蹴倒した。木製の床に書類やらガラス片やらが散らばる。それを介さず、テーブルを踏み越えようとしたリザードマンを、レインの体重を乗せた突きが襲った。どぉっと倒れたリザードマンを踏みつけて――ぎゃっという悲鳴が上がった――レーグが先頭に躍り出る。
「了解っ」
言いながら、エステルはレインが倒した机の後ろに身を隠した。抜き放った短剣を握り締めて、急ぎ呪文を口にしている。
レーグは竜巻のようになって、二刀の大剣を振るう。壁際に並ぶ人間大のガラスケースごと魔物の群れを叩き伏せた。血煙が上がった。
「魔人の気配が近い。行くぞ」
セラを促して、レインは例の別の出口から大部屋を出た。その先に続く少し汚れた漆喰の通路は、白々とした魔法ランプの明かりを受けていながらも、どこか禍々しい。
怪物を切り伏せながら、通路を進むと、突き当たりに一際大きな扉が待ち構えていた。木製の引き戸で、はげかかったペンキで何やら数字が書かれている。取っ手代わりの太い鎖を、セラと分担して引いていく。
重い音がして、ゆっくりと分厚い扉が開いていく。その瞬間を待ち構えていたように、光の矢が扉の向こうから飛来した。それらは分厚い扉を刺し貫き、一部は細く開いた扉の隙間からこちら側の床に突き刺さって、床の一部を蒸発させる。
「……邪魔はさせないわ」
扉の向こうから、追い詰められたような女の声が聞こえた。
「精霊を魔法の火種程度にしか考えていない人間どもに、死の苦しみを教えてあげる――!」
レインは分厚い扉を盾にしたまま、セラに目配せした。
「援護する。飛び込め」
言って、レインは土の呪文を唱える。床の木材を破壊しながら隆起した岩の棘が、二人の盾となって魔人の魔法の前に立ちはだかった。
岩山に身を伏せるようにしてセラが部屋に飛び込む。光の矢が、岩の盾をなぎ払う。もうもうと立ち込める土煙の中から躍り出た人影に、レインは槍を振り下ろした。
肉厚の短剣が、槍の穂先を受け止める。土煙を切り払いながら振り上げた槍をかわし、黒衣の男は、立ち込める土煙の中に身を隠した。
長い黒髪を翻しながら、セラが月光を振り下ろす。ほの白い燐光を放った白刃が、魔人の美しい体に襲い掛かった。
魔人の姿がふっと消える。かと思うと、セラの斜め左後方に現れた。振り向きざまに切りつけたセラの刃を、仮面の男が弾き返す。
アーギルシャイアは相当に弱って見えた。たった数歩の距離を転移した程度で息を切らしている。艶やかな黒髪が、汗で青白い瓜実顔に張り付いて、幽鬼のようだった。
セラとレインの周囲に、不自然に土煙がまとわりついてくる。精霊の干渉を感じる。ダストだ。
レインがサイフォスに向けて槍を振り下ろすと同時に、水の精霊に働きかけて土の精霊の力を打ち消した。土煙は急速に動きを失くして、床の辺りにわだかまっている。
槍を受け止めたサイフォスに向けて、セラが刃を閃かせた。
「サイフォスっ」
アーギルシャイアが悲鳴めいた声とともに、光の矢をセラに向けて射掛ける。月の光を模した刃はサイフォスの黒い衣を、わずかに引っ掛けただけだった。セラは身を翻して降り注ぐ魔法の矢を避ける。
槍を戻したレインは槍の柄をアーギルシャイアに向けて振り下ろした。だが、それは美しい女魔人には届かなかった。忠実な仮面の下僕が、身を挺してそれを防いだからだ。だが、それはこちらの望むところだ。
槍で殴打された左腕を治癒の術で庇いながら、サイフォスはレインに飛び掛ってきた。肉厚の短剣がぎらりと陽光のように輝いた。
さっと後方に飛び退ったレインの肩口を、その短剣の切っ先が引っかいた。甲冑とこすれて火花が散る。かまわず振り払った槍を、ひらりとよけて、サイフォスは油断なくレインと対峙した。
このサイフォスという男、かなりの手練れである。ただでさえ、槍と短剣では槍に分があるというのに、レインとて並みの槍使いではない。その懐に飛び込めるとは、なかなかできることではない。
光の矢をかいくぐったセラが、アーギルシャイアに肉薄する。二人の間に割って入ろうとするサイフォスを、レインの槍が引き止める。
短剣が槍の穂先を弾き飛ばしたが、返す形で振り上げた石突がサイフォスの鳩尾にめり込んだ。背中からどぉっと、サイフォスが倒れる。この隙を逃がすかと、レインが彼の右腕を蹴り飛ばした。陽光のような短剣がサイフォスの手から弾き飛ばされ、床を滑って壁際で止まる。
身をよじりながら起き上がろうとするサイフォスの仮面の下で、呪文の詠唱が聞こえる。知らない響きだが、どんな魔法であれ、完成させてやるわけにはいかない。
横薙ぎに振るった槍の柄が、サイフォスの左側頭部を殴打した。その拍子にがらんっと音を立てて仮面が剥がれ落ちた。落ちた拍子に石造りの仮面は、切り込みでも入れられていたかのようにして、真ん中から縦に真っ二つに割れてしまった。そのすぐ傍に、こめかみから血を流した青年が、うつ伏せている。もがきながら呻いている様子を見ると、仮面のおかげで衝撃が和らいだのかもしれない。
「ああっ、サイフォス」
思わずといった様子で、魔人が下僕に駆け寄ろうとした。彼女は今にも失神しそうなほど、青ざめている。
サイフォスと魔人の間に、レインが立ちはだかった。魔人の後ろには燐光をまとう白刃をぶら下げたセラの姿がある。
女は艶やかに紅を塗った唇を噛んだ。レインとセラを威嚇するように、黒い瞳を交互に二人に向けてくる。もはや空間を転移する余力もないのか。ふらふらと後退した背中が、むき出しの岩壁にぶつかって阻まれる。
黒玉の瞳の奥で、真っ赤な炎がぎらぎらしていた。荒い吐息が漏れる唇から、怨嗟のような呻きがこぼれ出る。
「殺してやる……全部、無に帰してやる……」
ふと、レインは自分の足首を握りつぶさんばかりに、誰かがつかんでいるのに気がついた。視線を落とせば、苦しげな顔をした青年が震える腕でレインの左足をつかんでいる。
「やめろ……っ、彼女は……――」
この男は、操られているのではない。ましてや、闇に魅入られているわけでもない。
己の意志で、魔人の命乞いをしている。
レインは見た。自らの命を顧みず、己の命乞いをする男を見つめる魔人の瞳が揺らぐのを。黒玉の中で燃え盛っていた怨讐の炎が消えるのを。
魔人に向けて、セラが月光を振り下ろす。燐光の軌跡が青白い弧を描いた。足もとの青年が声にならない悲鳴を上げた。
レインは大きく振りかぶって、槍を投擲した。空気を切り裂いて飛んだ槍は、けたたましい音を立てて、セラの白刃と交錯した。その穂先が、月光の刃を弾くのと、壁際で立ち尽くした女が力なく倒れるのとは、同時であった。
月光の刃を押しとどめた槍は壁にぶつかって床に落ち、うるさい音を立てて跳ねた。セラがこちらに、恨めしいような視線を向けてきたが、レインはそれを黙殺した。
栗色の髪の青年は、足もとにうつ伏せたまま、呆気に取られたように跳ねる槍を見つめている。その彼の腕を取って立ち上がらせてやると、彼は理知的な茶色の瞳でレインをまじまじと見つめてきた。
青年に肩を貸してやったところで、壁にもたれるように座り込んでいた女が、ゆっくりとまぶたを開けて数度瞬いた。青白い顔を上げて、すぐ傍に立つ自分とよく似た面差しの男を見つめる。
「あ……セラ……?」
セラがはっとして女に駆け寄った。その顔にいつもの鋭さはなかった。女の傍に跪き、彼女のむき出しの白い肩をつかんで、その顔を覗き込む。
「姉さん。姉さんだな」
弟の呼びかけに応じず、女はぼんやりした顔をこちらに向けた。レインが肩を貸してやっている青年を見るなり、安堵したような、愛しいような顔をする。
「……あなたたちは、恋人同士だったんだな」
レインがポツリと呟いた言葉に、一番わかりやすい反応をよこしたのはセラであった。むすくれたような、拗ねたような、憮然とした表情でこちらを見上げている。
当人同士は何も言わない。ただ、お互い初対面のような顔をして、けれど、昔から愛し合ったような恋人同士のような顔をして、見つめあっている。
あれ……? 何かまずいことを言ったかな――。
何ともいえない空気に、レインはいたたまれなくなって、口を開いた。
「私はレイネートと言います。冒険者をやっていて、闇の神器を追っているのです。その件で、セラと知り合い、あなた方を追いました」
青年を女の隣に座らせてやりながら、レインは己の事情を簡単に説明した。彼らの傍らに跪き、羽織った外套を脱ぎながら続ける。
「闇のものどもが破壊神の復活をたくらみ、あれらの神器を狙っている。――ミイス村の方ですね? 神器の守り手のあなたには悪いが、あれを預からせていただきたい」
レインの視線の先を、青年の目が追った。そこには真っ二つに分かれてしまった石仮面が転がっている。
視線を目の前のレインに戻して、青年は言った。
「私はミイス村のロイと申します。ただ、一つお聞かせ願いたい」
女のほうに外套をかけてやりながら、レインは、何でしょう、と彼を見やる。
「何のために、闇の神器を?」
「破壊神の復活を阻止するためです。そのために、闇からあれらを守らねばなりません」
ロイはレインの真意を確かめるように、じっと彼女の空色の瞳を見つめた。そして、わかりました、と頷いた。
「あなたほどの高潔な戦士であれば、闇の神器の守り手にふさわしい。神器をお預けいたそう」
「ありがとう。必ず守る。それから――」
レインが女のほうに視線をやると、シェスターと申します、と女は会釈した。アーギルシャイアの衣装が恥ずかしいのか寒いのか、レインが着せてやった外套の前をかき合わせるようにしている。
アーギルシャイアのときのような、刺々しさがまるでなかった。化粧こそ魔人の派手ないでたちだが、雰囲気は野花のような素朴さがあった。
「アーギルシャイアは私の中で眠っています。滅んだわけではありません」
その口ぶりに、レインはシェスターが尋ねているのだと思った。魔人を身の内に宿す自分を、なぜ助けたのか、と。
「セラもロイさんもいるし。大丈夫ではないですか」
レインは正直な胸の内を打ち明けた。
「知り合いに、のん気に暮らしている魔人がいて――人の子を拾って育てた魔人もいる」
そうですか……、とシェスターは小さく笑った。
「アーギルシャイアの魂に侵食されていた私の魂が、今、こうしてここにあるのは、彼女の心の中に私を受け入れ、守ってくれる灯火があったから」
そう言って、シェスターは隣に座るロイを見た。レインが小さく頷くと、シェスターは再びこちらへと視線をよこした。セラとよく似た黒玉の瞳が、不安げに曇る。
「……アーギルシャイアは死にゆく精霊の無念の声から生まれた魔人です。そのためにひどく人間を恨んでいました。聖杯の英知を使って、最強の生物を生み出し、それで人間を滅ぼそうと考えたのです」
「――聖杯は、今どこに?」
アンティノが持っています、とシェスターは言った。
「この研究所のさらに地下です。こんなことを頼める立場ではありませんが、どうか急いでください。もうほとんど『エクリプス』は完成しているのです」
エクリプス、というのがアーギルシャイアが作り出そうとした、最強の生物であるのに違いない。
「もとからそのつもりで来たのだ。あなたが気に病むことではありません」
では、私はもう行きます、とレインは槍を拾い上げながら、立ち上がった。それから、思い出したようにセラを見下ろす。
「セラ、あんたはここまででいい。ずいぶん世話になったな」
セラは姉の傍に膝をついたままじっとレインを見上げて、ポツリと言った。
「――この借りはいずれ返す」
割れてしまった『忘却の仮面』は、手近な布切れ――所員の白衣の切れっ端だろう――でぐるぐる巻きにし、腰のベルトに挟んでおいた。
もと来た道をひとりで引き返し、露払いを頼んだレーグとエステルと合流した。死屍累々たる有様の大部屋を横断しながら、レインは事の顛末をかいつまんで説明する。
「じゃあ、セラのお姉さんはあの仮面の人といい感じになっちゃってたんだ」
「……そういう風に見えたけど。部外者がそう、立ち入れる話じゃない」
静かな通路を、今度は地下を目指しながら小走りに進む。怪物の姿はほとんどない。レーグたちの露払いが功を奏したのか、彼を見たとたん怪物のほうから身を隠す始末だ。
「そうだよね。二人がいつから一緒にいるか知らないけど、ずっと一緒にいたら好きになっちゃうよね」
そう言ったエステルは、胸の前で両手を組んで大きなつぶらな目をキラキラさせている。
のん気である。レインとて、そういう話は嫌いではないが、状況がそれを許さない。シェスターの語った最強の生物『エクリプス』が完成していなければ、アンティノを拘束して聖杯を奪取するだけでいいだろう。だが、もしすでに完成していたら――。
「エステル、そういう話は後だ。気を抜くな」
「わかってるよ!」
シェスターの言葉の通り、順路に従って『最終試験場』を目指すと、やがて長い階段に行き着いた。階段は狭く、人がどうにかすれ違えるかという程度の広さしかない。レインが先頭に立ち、次にエステル、レーグと続く。
他に分かれ道もないので、ひたすらに下を目指した。階段の終わりは、小さな扉に閉ざされている。扉を開ける。すると、風が吹きぬけた。どこか隙間を通り抜けたのか、すすり泣きのような高い音を立てている。
扉の向こうは大空洞である。ずいぶん降りてきたはずだが、すぐそこが海なのだろう。潮騒が聞こえている。
レインたちがいる場所は、大空洞の中ほどである。天井までも距離があり、下の地面までも距離がある。湿った岩肌がむき出しの壁に沿って、木製の足場が組まれていた。足場はさらに下に続く階段につながっているようである。
壁と同じく地面も岩肌がむき出しであった。地下水が染み出してくるのか、壁に吊るされた魔法の明かりにてらてらと光っており、広範囲に苔が生していた。
そのむき出しの岩場の中心に、大きな円柱状のガラスケースが設置されている。その周辺には、レインにはよくわからない四角い箱型の魔道機器のようなものが置かれていた。その機器から色とりどりの線が、伸びている。それらは組紐のように絡まりながら、真ん中に置かれた巨大なガラスケースにつながっているようだ。
ガラスケースは何かの液体で満たされており、中に何かが詰まっている。だが、ここからは明かりの照り返しでよく見えない。
ひぃいいいいい……ひぃいいいいい……。
潮騒に混じって風の音が空洞に響き渡っている。いや、これは風の鳴き声ではない。狂人の笑い声だ。正気を失った人間が、笑い狂っているのだ。
不気味な狂人の哄笑がわだかまる大空洞内を、レインは槍を構えて駆け出した。岩壁に沿った細い通路を走り抜け、さらに下に続く階段を駆け下りる。
ガラスケースの周りに並ぶ魔道機器が、ぼんやりとした光を放っている。その向こう――円柱状のガラスケースを前にして、男が座り込んでいた。
神殿で神像に祈る姿に似ている。禿げ上がった頭にまばらに生えている髪が、ぼさぼさに乱れていた。体を覆っている青い上着は、上等なしつらえものだったが、今は見るも無残に汚れている。相変わらず丸い体をしていたが、最後に見たときよりいくらか小さくなっているような気がした。
顔面はそれが顕著だった。頬がこけて影を作り、落ち窪んだ目が血走っている。顔色が悪く、土色をしていて、死ぬ直前の老人のように見えた。
ガラスケースを前にして狂ったように笑い続けている老人は、容姿こそ一変していたが、あのアンティノ=マモンであった。
彼はレインたちにも気がつかない様子で、熱心にガラスケースの中へ語りかけている。
「ああ、なんて幸福なのだ。あれほど夢見たお前に、こうして――念願かなって、会えるなんて」
レインはぎょっとした。真正面から見たガラスケースの中には、アンティノ以上に異様な風体のものが入れられていたからだ。
生き物の臓物のようにも見える。あるいは、キマイラのようにも見えた。とにかく、一つの『何か』ではなく、『個の集合体』であった。
透明の液体に入れられたそれは、ガラスケースの中で忙しなく大きな一つ目をぎょろつかせている。
「俺は満足だ。お前に会えて――」
魔道機器が甲高いビープ音を鳴らした。だが、それがどういう意味なのか、わかる者はレインたちの中にはいない。ただ、呆然と、排水されるガラスケースを見つめるばかりだ。
ケースの中で獣が暴れた。受け口気味に開いた大きな下あごに、イノシシのような牙が生えている。体を揺するたびにその牙がガラスに当たって、それにひびを入れるのだ。
「醜く、強大で、歪つな――本当の俺」
ガラスケースが割れた。空気を振動させる巨獣の咆哮がとどろく。嵐の日の、風の音にも似ていた。
正直にいって、どう形容しようもない姿をしていた。異常に大きな頭はイノシシに似ている。だが、目は一つしかない。頭頂部についた大きな目は黄色く濁っていたが、ぎょろぎょろと忙しなく動き回っている。
そして体――というより、体などほとんどない。大きな頭の半分以上を乱杭歯の生えた口が占めている。その頭の端っこから、昆虫のようなカニのような、節足動物の足のようなものが飛び出していたり、獣の手のようなものがでたらめに生えていた。手は色々あるくせに、足は大きな蹄のついたのが一本きりしかない。その足の上部から、さそりの尾のような尻尾が二本生えており、それぞれがでたらめにうねっていた。
その異様な獣の姿に、思わずレインたちは後退した。だが、アンティノはその場に跪いたまま動こうとはしなかった。ガラスケースの台座からのそりと這い出た怪物を、アンティノは受け止めるように両手を広げた。
怪物は、無数に生えたちぐはぐな手と、一本だけの足を器用に動かして、親に擦り寄った。そして、その巨躯の半分を占める大口を、やおら開いたかと思うと、アンティノの上半身をくわえ込んだ。そして、そのまま強靭な顎で、くわえた胴を食いちぎってしまった。
「ひぃいいいいいひひひひひひ、はははははははは……」
怪物の口の中から狂ったような笑い声が、くぐもって聞こえてくる。怪物の頑強な歯が、人の肉と骨を噛み砕く嫌な咀嚼音に、笑い声が重なっている。赤黒い血を噴き出しながら、残った下半身のほうが血溜りに沈んだ。
ひっ、と小さな悲鳴を上げたエステルを庇うように抱えながら、レインは怪物から目をそらさなかった。正直に言えば、こんな恐ろしいものを直視したくはなかったが、今、目をそらせば奴の動きが見えなくなる。
ごくり、と生みの親を飲み込んだ怪物は、ぎょろぎょろと黄色い目玉を動かして、ひたりとこちらを見据えた。その目が、にやりと歪んだ気がした。
「……人の味を覚えたな」
レーグが低い声でぽつりと言った。レインははっとして、エステルを後ろに追いやると、槍を構えなおした。
「こいつはこの場で殺す。何があろうとだ」
最強の怪物が咆哮を上げた。それは哀れな商人の哄笑の残響をかき消して、大空洞内に響き渡った。
エステルを後ろに追いやるようにしながら、レインは前に出る。レーグがそれに並び立った。
「エステル、可能な限り下がれ」
言い置いて、レインはエクリプスの右側に回りこむ。レーグに目配せすると、彼は二刀を構えて左側へと回り込んだ。
黄色い目がレーグを捕らえた。どうバランスを取っているのかわからないが、細かい手を動かして方向を変えると、一本足で地を蹴った。獣の体が石弓でも使ったように、レーグに向かって一直線に飛んでいく。
驚くべき突進力で、並ぶ魔道機器を破壊し、洞窟の岩肌にぶつかって止まる。巨体がぶつかった激しい音が、空洞内に反響した。ばらばらと音を立てながら、小石が降ってくる。
レーグは無事であった。さすがに受け止める気はなかったと見えて、横に飛び退っていた。壁際で方向転換する獣の、毛むくじゃらの体に剛刃と閃刃で切りつける。
レーグの頭を狙って、さそりの尻尾が鞭のようにしなった。後方から追いついたレインの槍が、その尻尾を叩き落す。
瞬間、衝撃が走った。二本目の尻尾が、レインの腹を殴打したのだ。丸太か何かで殴られたような衝撃であった。当然、レインの体は大きく吹き飛ばされ、固い岩盤の上を転がった。
「レインっ」
駆け寄ったエステルが、すぐさま治癒の術を唱え始める。激しく咳き込みながら、レインは槍にすがって立ち上がった。甲冑を着込んでいなかったら、あの尾っぽの先端についた針で刺し貫かれていたところだ。
壁際で方向を変えたエクリプスは、ぎょろりと大目玉を動かした。その丸い表面にぎらりと不自然な光が走った。
「光線が来るぞっ!」
エクリプスの目から白い光線が放たれるのと、レインが叫んでエステルを押し倒すのは同時であった。レインの一つに結んだ黒髪の、馬の尾のような先端を光線が焦がしていく。
レーグは剛刃と閃刃を盾にして、光線を弾き返した。さすがに伝説の英雄が使った武器と見えて、怪物の光線にもびくともしない。弾かれた光線はむき出しの岩肌に穴を穿った。
エステルに覆い被さっていたレインは、さっと立ち上がった。
「あいつの足を止めろ」
言って、走り出す。後ろでは、起き上がったエステルが術を唱えている。
エクリプスは巨体のわりに動きが早い。しかも、何というべきか、生理的に嫌悪したくなる動きをする。家の壁に張り付く、害虫を想像するとわかりやすい。
でたらめな手をがさがさ言わせながら、獣が前進する。すくい上げるようなレーグの剛刃が、獣の下あごに肉薄する。だが、剛刃が顎を砕く前に、獣が顎をしゃくり上げた。大きく湾曲した牙が、レーグの体を突き上げる。
レーグの巨体が易々と跳ね飛ばされ、岩盤に叩きつけられた。さらに踏み潰そうと前進する獣の手が、突然ぴたりと止まった。
一つ目が虚空をさまよっている。何かを追っている。
エステルのストップが作り出した魔法の幻影を、エクリプスは追っているらしかった。この獣がどんなもので足を止めるのかは知らないが、これは好機である。
レインの槍が鉤爪の付いた昆虫の足を叩き折る。そのまま返す刀で獣の腹に穂先を突き立てた。
エクリプスが吼えた。こんなグロテスクな形をしていても、痛いものは痛いらしい。体を激しく揺さぶって、レインの槍を引き抜こうとしている。
大きく揺さぶられた彼女の体が、槍ごと放り出される。再び岩盤に叩きつけられそうになったレインを受け止めたのは、あっさり復活したレーグであった。
さしもの剣聖も勢いがついたレインの体を、無事に受け止めるのは不可能だったようだ。二人はもつれるようにして、ぬめる岩盤の上に転がった。レーグのおかげで、レインにダメージはほとんどない。
すぐさま身を起こした二人の眼前に、獣の巨体が迫る。と、その瞬間、前触れなく岩盤が隆起した。巨大な石筍となった岩の槍が、エクリプスの体を刺し貫いた。
さすがは地の巫女エステルのスタラグである。作り出した岩の錐の巨大なこと。レインの使う同じ魔法とは、比べ物にならない。
岩の錐に刺し貫かれたエクリプスは、何とか自由を取り戻そうと身をよじる。そのたびに肉が裂け、体液が勢いよく飛び出した。引きちぎられるような声で絶え間なく鳴いている。
レインとレーグが左右に展開する。レーグの連撃が巨大な頭蓋を叩き割る。レインの槍がうねる尻尾を根元から引き裂いた。
エクリプスが一際大きく鳴いた。風が逆巻き、大地が揺れた。四元素の精霊たちが悲鳴を上げている。
何か来る。
「伏せろ!」
レインは言うなり、その場に身を伏せた。他の者がどうしたかは見えない。大空洞内は嵐の中にあった。エクリプスが発した咆哮は、魔力を帯び、精霊への呼びかけとなっていた。
風が渦を巻いて、稲妻が空間中を走り回った。雷は網のようにあらゆる場所を走っていく。このままでは逃げ場がない。
レインははっと伏せていた顔を上げた。エステルが立っている。
「エステル!」
友の名を悲鳴のような声で呼んだレインは、彼女の様子がおかしいことに気がついた。
エステルが掲げた両手の間に、光球が生まれた。かと思うと、あれだけ走り回っていた雷が整列するようにその光球に絡め取られていくではないか。
浮き足立っていた精霊たちが次第に落ち着きを取り戻していく。
レインとレーグが立ち上がる。ほとんど余力の残っていないエクリプスに向けて、レーグが二刀を振り下ろす。頭蓋を砕いた肉厚の刃が怪物の上あごと下あごを切り落とした。
レインの槍がそこから体内へと侵入した。柔らかい肉の中に、鋼鉄が無遠慮に押し入っていく。
何か硬いものに穂先が触れた。と思った瞬間、エクリプスの巨体がびくりと震えた。槍を引き戻すと、歪つな怪物の体はどろりと溶け出し、しゅうしゅうと音を立てて蒸発し始める。
獣の毛一本も残さずに溶け消えた怪物のいた場所から、カランっと軽い音を立てて何かが転げ落ちた。魔法ランプの明かりを受けて鈍く光るそれは、レインが旅立ち当初から追い続けてきた『禁断の聖杯』であった。
「うわ……拾いたくない」
岩盤の上に転がって沈黙する闇の神器は、エクリプスの体内にあったのは明白であった。アンティノが持っていて一緒に食われたのか、エクリプスの体内に埋め込まれていたのか――定かではないが、どちらにせよあまり触れたくない。
「拾いなよ。あれを追いかけてたんでしょ」
歩み寄ってきたエステルが促すので、レインはしかたなく聖杯を拾い上げた。変な液体で湿っていたら嫌だな、と思ったが、存外、聖杯はただの金属の感触しか返してこなかった。
「エステル、さっきのあれ、何?」
すごかったな、と言うレインに、エステルは、そうかな、と首を傾げた。
「魔道士なら結構使える人がいると思うけど。スペルブロックっていってね、魔法を相殺できるんだ。万能でもないけど」
へぇ、と素直に感心したレインの少し後ろで、レーグがぽつりと言った。
「……強いな」
その三白眼の目が小さなエステルを見下ろしていたので、レインはぎょっとする。
「おい、やめとけ」
泡を食ったようなレインに対して、レーグは相変わらずの鉄面皮だ。彼の発言の真意は知れない。
一方、さっぱり意味のわからない様子のエステルは、二人のやりとりにきょとんとしていた。
◇ひとこと◇
ミイス組はどうしてもレインが部外者になってしまうので、ずいぶん簡素なイベントになってしまいました。レインと別れた後、ちゃんと身内同士で話し合っているんじゃないですかね。