暗雲

 アルノートゥンは降伏した。イズキヤルの騒動の最中、町に軍が進入することを許した神官の町に、もはや抵抗する術はなかった。
「まったく、話にならん」
 コーンスの副将は憤慨して、理知的な目を吊り上げた。まるで威圧するようにレインを睨みつける。コーンスの男性は総じて背が高いが、上背ならレインだって負けていない。真っ向から睨み返してやった。
「朱雀軍の無能さには、ほとほと呆れたわ」
 どうやら、朱雀軍は上手く任務をこなしたらしい。ちゃらんぽらんのふりをして、うまく白虎軍の足を引っ張ってくれたようだ。
「そうですか」
 レインはそら惚けたような調子で応じる。
「うちの兵士はみな優秀ですよ。指揮官が悪かったのではないのですか。あ、これは失礼しました。こんな小娘に扱えて、おたくに扱えない、なんてことありませんよねぇ」
 白々しい顔をしたレインに対して、コーンスの副将は顔を真っ赤にして吐き捨てた。
「礼節を知らぬ娘だ。親の顔が見てみたいわ」
「礼節をつくす相手は選べと教わったもので」
 コーンスの副将は、ふんっと鼻を鳴らして、アルノートゥンの坂を下っていく。その途中で、白虎軍の士官を何やら怒鳴りつけていた。
「いけ好かない野郎ですね」
 レインの後ろに控えた朱雀軍の将官が、彼女に並び立つように歩み出て顔をしかめた。
 気にするな、とレインは笑った。
「あれだけ怒るということは、お前たちがしっかり仕事をしたという証拠だよ。連中、当てが外れたのでイライラしているんだ」
 そういえば、と将官が言った。
「副将がおっしゃっていた、例の小僧ですが、捜索隊が出たと同時に姿を消しまして。うちの魔道士連中では追えませんでした」
 シャリが何者であるのか、レインは知らない。どうやら、ロストール宮殿で宮廷道化師として東方の珍しい奇術を見せているらしいが、どうしてもただの奇術師には見えない。あの少年の持つ雰囲気というか、態度というか、存在そのものがレインにはよろしくないもののように思えてならなかった。
 彼が関わった事件はレインの気に入らないことばかりである。おそらく、ネメアなどに言わせれば闇の勢力、といったところだろうか。
 イズキヤルとの戦闘に、ちょっかいを出してこなかったのは幸いだったが――レインは考える。何のために白虎軍に雇われているのだろう。
 ロストール王宮の宮廷道化師が、王家に忠誠を誓ってディンガル軍にもぐりこんでいる、というわけではなさそうである。ロストールのためにディンガル軍に潜り込むなら、南方攻略を任されていた朱雀軍に潜入するのが筋だろう。
 アトレイア姫の一件でも思ったがロストール王宮に出入りしているのも、ディンガル軍で傭兵をやっているのも、それが目的ではない印象を受ける。もっと、別の――大きな目的があって、その手段として、ロストールやディンガルを巻き込んでいるような……。
 あの小僧、何を企んでいるんだ?――アルノートゥンの坂を下りながら考えていたレインの目に、ふと、泣きじゃくる少女の姿が飛び込んできた。宿屋の前で大声を上げながら、頬を伝う涙も垂れてくる鼻水も拭わず泣いている。イズキヤルを追いかけて鉱山に入った子供の一人だろう。彼らは坑道の中ほどで立ち往生していたところを、朱雀軍に発見保護されていた。
 少女の前には膝をついたイオンズがいて、彼女の後ろには困ったような悲しいような顔を浮かべた、母親らしき女が立っていた。
「イズキヤルは? イズキヤルはどうしたの」
 少女は泣きじゃくりながらイオンズにすがっている。イオンズは、もういつも通りの、飄々としたおっさんの顔に戻っていた。もともと細い目をさらに細めて、穏やかな笑みを浮かべて少女の肩に手を置いている。
「あやつはちょいと、母ちゃんに会ってくるそうじゃ」
「戻ってこないの……?」
「うーん、お前さんだって、母ちゃんが恋しかろ?」
 イオンズの言葉に、少女は涙をぼろぼろ流しながら、自分の後ろに立つ母親を見上げた。母親が小さく微笑みかけると、大きく鼻をすする。
「イズキヤルも同じよ。それにあやつの母ちゃんがおるのは、遠い遠い空の向こうじゃ。あやつは翼があるからの。飛んでいってしもうた」
 わぁっと少女が泣き出した。母親のスカートに顔を埋めて、いやだいやだ、とお下げ髪を揺らしながら泣きじゃくる。母親が、彼女の小さな背中をさすりながら、なだめている。
 イオンズが、まいったな、とでもいうように頭をかきながら立ち上がった。
「さみしいよぉーお、イズキヤルー。イズキヤルー」
 幼子の泣き声が、レインの胸を締め付ける。目の奥にこみ上げてきた熱いものを堪えるために、ぎゅっと硬く目を閉じた。
 見開いた視界に、こちらを見つめるイオンズの姿が飛び込んできた。ちょっと困ったような、寂しいような、腹を立てているような、複雑な顔をしている。
 イオンズはレインには何も言わなかった。こちらから視線をそらして、泣きじゃくる少女の母親に向き直る。それから、いかにも神官らしい様子で、彼女を励ますように何事か話しかけていた。
 レインは深呼吸して胸を張った。高山のひんやりと澄んだ空気が肺を満たす。将官を促して、歩き出す。イオンズと親子の傍を通り過ぎたが、何も言わずにアルノートゥンの坂を下っていった。

 
 朱雀軍はアルノートゥンに五百を置いて、アキュリュースに向かうことになった。白虎軍にいいように扱われているが、今、朱雀軍は彼らより立場が下である。しかたない。
 アンギルダンは特に信頼の置ける者を見繕って部隊を編成し、彼らにアルノートゥンの治安を託した。アキュリュースまでの道は、行きがけに舗装したおかげで通りやすくなっている。アンギルダンは彼らに密に連絡を取るように指示した。
 レインはアンギルダンの後ろで騎乗しながら、今ひとつ納得しかねるように渋面を浮かべた。
「ずっと、疑問だったのだけど」
 レインの声にアンギルダンが肩越しにちらりと振り返った。
 彼らの右側は切り立った崖になっており、左側は断崖の絶壁である。道幅が広いために、行きがけに柵は取り付けていないが、はしゃげるような状況ではない。
「何で白虎軍なんだ? どちらかといえば、東の――青竜軍と足並み揃えたほうが、ロストールを落としやすいと思うんだけど」
 リベルダムが落ちれば、ロストールは孤立する。逃げるなら南に行くしかないが、南にはアミラルしかない。よしんば、海を渡ったとしても、海上を封鎖されたエルズはもろいだろう。何せ、エルズも自給自足というのに適さない土地だ。穀物をロストールからの輸入に頼っているくらいだから、港を封鎖されてしまえばいくらも持つまい――というのが、レインの考えである。
 レインの考えを黙って聞いていたアンギルダンは、だいたい合っておるな、と大きく頷いた。
「だいたい?」
「お主の考えには人の動きというのが入ってない。よいか。たとえば、ロストールにはあの雌狐がおる。エリス王妃は反帝国派に働きかけるだろう。その中には、当然、あのエルズの風の巫女もおるはずじゃ。エルズは反帝国、というよりは親ロストール、といったところじゃろうが、アミラルからの輸入を遮断されるのは嫌がるじゃろう」
 今のところ、エルズは本土の戦争に対して態度を決めていない。ロストールからの輸入に頼っているエルズは、帝国の南下に対して激しく抗議し、エンシャント港からの輸出を増やすことを条件に静観している。だが、これ以上南をつつけば、エルズはロストールにつくだろう。
 エンシャント港やリベルダム港からも船は出せる。だが、日にちは倍もかかる。日にちがかかるということは、荷の鮮度は落ちるだろうし、その分金もかかる。
「風の巫女は天地千年を見通す神通力の持ち主じゃ。ただでは行くまい。海峡を越えるのも骨が折れるじゃろうしな」
「では、アンギルダンは私たちの西方攻略が正しいと思っているのか?」
 いいや、とアンギルダンはあっさりと頭を振った。何だそりゃ、とレインは呆れてしまう。
「ロストールを落とすならば、青竜軍と足並みをそろえたほうが早かろうな。だが、さっきも言ったように、お主は人の動きというのがわかっておらぬ。この西方攻略を命じたのは誰だ」
「宰相」
「そうじゃ。宰相殿はわしやあの東の尻出し娘が、帝国に反乱する気でおると睨んでおる」
 はぁ?――レインは眉をひそめる。そういえば、ザギヴもカルラの動きに不審を持っていたように思う。それにしたって、なぜ反乱など起こさねばならないのか。
「わしや青竜将軍は言いたいことは言う性分よ。現に、わしは過去二人の皇帝に仕えたが、そのどちらにも諫言して疎まれておる。ネメア様がわしや青竜将軍を重用してくれたのは、そこを買ってくれておるのだろう」
 アンギルダンは、ふぅっと息を吐いた。
「だが、宰相殿にはその諫言が、反抗に見えるのだろう。宰相殿の目にネメア様がどう映っておるかは――まぁ、概ね想像通りだろうが、ネメア様とて完璧な人間ではない。迷うこともあれば、間違うこともあるだろう。誰かがそれを諌めねばならん」
 アンギルダンの言う、『人の動き』とは、他者の視点に立ってものを見るということだろうか――とレインは学習する。確かに、レインは自軍の動きを見ることはずいぶんできるようになったが、相手がどう出るかというところまでは、うまいこと把握できていなかった。
 レインはアルノートゥンでイオンズが自分の呼びかけに応じない、というところまでは想像がつかなかった。彼は応じるだろうと思っていた。そのため、少し相手の反応が遅れると、無茶があったかなと首をひねることになったのだ。さらにいえば、ネメアがザギヴの処遇と引き換えに、『束縛の腕輪』を求めたときも、ひどく焦ったのである。
 戦を生業にしていくのなら、相手の出方を注意しなければならない。
 軍馬を操りながら視線を上げると、曲がりくねった険しい山道を、車を引いた馬が列をなしている。兵士たちが車輪が落ちないよう、馬を巧みに誘導しているのが見えた。
 今の帝国はあれによく似ている。四軍という馬が国という車を引っ張っている。
「えーっと、宰相やザギヴが帝国って馬車の鞭で、アンギルダンやカルラが、手綱ってところか」
 ネメアさんが御者だな、とレインは胸のうちで付け加えた。馬の速度を上げる鞭や、減速をかける手綱が御者の意思を離れて好き勝手にやっている感も多少あるが、彼の手の内にある間は大丈夫だろう。
「あるいは、お主がな」
「えっ」
「手綱じゃよ。手綱」
 アンギルダンは立派なひげの下で、にやりと笑った。しかし、レインは首を傾げる。果たしてネメアが間違っているとして、レインがそれに気づけるだろうか。レインが気づくような間違いなら、ネメアは自分で気づきそうな気もする。
「じゃあ、バシッと言ってやればよかったのに。枢密院の会議で」
「お主が言っておったではないか。あれで充分よ」
 そう言って、アンギルダンは呵々と笑った。

 
 アキュリュースは『グラジェオンの足跡』と呼ばれる大きな湖の中心にある。周囲を深い湖に囲まれているため、乗り込むには船がいる。まさに天然の要塞であった。
 また、アルノートゥンと違って、土地も豊かであり、水資源も豊富――つまり篭城すればこちらの消耗のほうが大きいということである。
 白虎軍は古の樹海から木材を調達し、小さめの軍船を作った。エンシャントから船を持ってくるより賢いだろうが、エルフから何を言われるかと考えると恐ろしい気もする。
 これを知ったら、あのフェティが顔を真っ赤にして怒鳴り散らしそうだと、レインは苦い顔をした。
「それで、私らは白虎軍様の盾ってわけか」
 船の甲板で肩をすくめながら、レインはアンギルダンを振り向いた。黒い帆が鳥の胸のように張っている。帆には、ディンガルの国章である金の獅子が描かれていた。
 湖面を滑るように走る小型の帆船は、あのジラーク将軍の設計である。本人はレインとは気が合いそうにないが、船の設計はかなりいい。船のことには詳しくないが、かなり足が速い。
「まぁ、しかたないのぉ」
 情けないように顔をしかめたアンギルダンは、いつものように赤い鎧に身を包んでいる。一方、レインは槍こそ愛用の品だが、鎧は軽い胸鎧を着用していた。何といっても、足場の悪い船上で戦うかもしれないのだ。重たい鎧は不利である。
 ジラーク将軍の立てた作戦はこうである。まず、朱雀軍の船団が前に出る。アキュリュースの防衛の要は、湖に住むミズチである。水の精霊の一種であるこの妖精は、大型の軍船でも沈められるという。水上戦では圧倒的な力を誇る。
 朱雀軍の船団がこのミズチ相手に時間を稼いでいるうちに、白虎軍がこのミズチを倒し、上陸する、と――ようするに、朱雀軍は盾となり捨て駒となる、ということだ。
 もちろん、アンギルダンは反対したが、とにかくジラークは頑なだった。おそらく、アルノートゥンが朱雀軍が来てからわずかの間に落ちたのが、気に入らなかったのだろう。
 気に入らんのはこっちだ。レインは遠くに青く霞む、アキュリュースの都を睨みながら腕を組んだ。
 ジラークがミズチを倒す手立てとして紹介したのが、あのシャリだったのだ。当然、レインは猛烈に反対したが、結局、ジラークに天幕を追い出されてしまった。
 シャリはジラークに『東方の博士』とか呼ばれていた。バイアシオンではなく、外の大陸から来たとか。レインも旅の最中に、広い海の向こうには、ほかの大陸があるようなことを耳にしたことはあった。実際、流れ着いている者もいると聞く。
 だが、外洋を越えるのは今のところ不可能だといわれている。大陸間同士で交流もないし、帝国もロストールも、外洋に出てほかの大陸を探そうなどと思ってはいないようである。
 流れ着いた、という印象は受けない――レインはシャリについて、そう思っている。そもそも、シャリの見た目は十二、三といったところである。もちろん、エルフのように、外見と生きた年齢が合致しない種族なのかもしれないが。それにしたって、右も左もわからないよその庭で、こんなに暴れ回るものだろうか。
 外の大陸が先に航海技術が発達して、攻め込む準備として乗り込んできたんじゃないだろうな。そこまで考えて、さすがにそれは飛躍しすぎか、と息を吐いた。
 見上げた空は青が八分に白が二分といった所で、陽気が心地よい。特に、水上だからか吹きぬける風が爽やかである。
 戦ばかりやっているから、妙な考えに発展したりするのだ。レインは深呼吸した。水上らしいひんやりとした空気で肺が膨らむ。
 船団の先頭が、にわかに騒がしくなった。鏡を使って信号を送ってくる。
「来ました。ミズチです」
 見張り台に立った歩哨が怒鳴る。船が大きく揺れた。それまで静かだった湖面が、激しく波立ち始める。
「作戦通りだ。散開して水蛇どもの気を引け」
 レインの命令を、鏡の光を使って前方の船団に送る。船が舵を切る。激しく船が揺れる。船体に当たった波しぶきが、陽光を浴びて虹色を帯びた。しかし、その美しさに見とれているような時間はない。わびしいものである。
「帆をたため。舵を切れ」
「面舵いっぱい」
 荒れた湖面に船が軌跡を描く。ミズチが大きな体をくねらせて水中から頭をもたげた。まさに、大きな水蛇である。鱗がなく、つるりとした青みがかった白い体に、手足はない。頭の横に、ひれのような膜があって、今は威嚇のためにか大きく広げている。かっと開いた口には小さなのこぎりのような歯が、びっしりとついていた。
 ミズチが体をくねらせると、小さな船体が真っ二つになった。兵士たちがわらわらと湖面に落ちる。
「みなの救助を優先せよ」
 アンギルダンが吼えたときだった。
 それまで呆れるほどに好天であった空が、突如として曇り始めた。鉛色の分厚い雷雲が、白雲を飲み込み、蒼穹を埋めていく。にわか雨、にしたって限度がある。これは、魔法だ。
 レインは揺れる甲板の上を走り、縁から体を乗り出した。遥か後方、安全圏にある大きな船の甲板が、不気味な紫色に輝いている。
 シャリが魔法を使っている、と思った。
 ミズチたちはさすがに魔法の力に敏感と見えて、目の前の小船の群れより空から来る『何か』のほうが危ういと判断したようだ。みな一様に天を仰いで口を開き、頭の横についたひれを震わせて威嚇している。
 稲光が瞬く。あたりは薄暗く、まるで嵐のようである。風がごうごうと唸り声を上げて逆巻き、湖面を波立たせている。
 レインは、黒い雷雲の中を何かの獣が疾駆するのを見た。何か、四つ足の――。
 ミズチたちの天を仰ぐ鼻先に水球のようなものが現れる。その水玉から、水を固めた銛のようなものが、高速で天に向かって打ち出された。
 水の銛は雷雲を貫いたが、そこから飛び出してきた一匹の獣には当たらなかった。ヒョウに似ている。紫がかった白い体躯は、全身雷でできているらしく、細かい紫電が飛び散っている。まさに雷獣である。
 雷獣は空中を太い四つ足で駆けると、ミズチが放つ水の銛をよけて一匹の喉もとに食らいついた。
 どぉっとミズチが湖面に倒れる。雷獣が威嚇するように体を膨らませた。放電が激しくなる。こちらの船にまで稲妻が落ちてくる。
 前線は混乱した。シャリの放った雷獣がミズチといわず、こちらの船といわず、走り回って稲妻を落とすのだ。敵も味方もなかった。
 大きく船が揺れて、バランスを崩したレインは船の縁に叩きつけられた。立ち上がろうにも、船が揺れて足もとがおぼつかない。頭から水を被って、濡れた衣服が重い。
「船を捨てるのじゃ」
 アンギルダンが雷鳴にも負けないような大声で命令した。
「湖に飛び込め!」
「おい、本気か。こっちは武装してるんだぞ」
 レインは青い顔をして間近に迫った湖面を見た。先ほどまで澄み切った青色をしていたはずの湖は、空の雷雲を映して墨を溶かしたように黒い。
 アンギルダンはレインの腰のベルトをつかむと、
「死ぬよりマシじゃ」
 と怒鳴るなり彼女の体を湖に放り込んだ。
 天地が逆転する。視界が黒の中に沈む。ごぽごぽという気泡の音がレインから聴覚を奪った。水を吸った衣服が体に絡みついて動きを制限する。
 いかに装備をなるべく軽くしたといえ、武装は武装である。胸鎧と体にくくりつけた槍が重い。レインの体が沈む。息が続かない。
 まずい、とレインが焦ったときだった。何かがぐいっとレインを湖面へと引っ張り上げた。
 空中に飛び出すような勢いで浮上する。酸素を求めて荒い息をついた。急激に空気を吸い込んで、頭がくらくらする。すぐ間近にミズチの白い巨体があって、レインはぎょっとした。
「レイン、大丈夫か」
 すぐ近くに聞こえた声に首を巡らせると、浮いた樽にしがみついた赤い鎧の老人が見えた。よくよく確認すれば、アンギルダンの大きな力強い手が、レインの手首をつかんでいる。
 アンギルダンはレインの体を引き寄せると、水面に浮かぶ樽にしがみつかせてくれた。
「あんた、よく泳げるな」
 獣の吼え声にも似た雷鳴がうるさい中、レインはすぐ隣にいるアンギルダンに声を張り上げた。
「若いもんが情けない。なんじゃ、その顔は」
 傑作じゃ、とアンギルダンは豪快に笑った。
 ついてけない、とレインは胸中で呆れて苦笑する。
「岸まで泳ぐ。ついて来い」
 言うなり、アンギルダンは力強い動きでざっぱさっぱと水をかき始める。
「……嘘だろう……何もんだよ、あのじーさん」
 全身鎧に戦斧を担ぎ、沈むどころかものすごい速さで泳ぎ出す――人間業ではない。あそこまで強くなければ、名将とまで呼ばれないのだろうか。
 しばらく呆気に取られていたが、レインはようやく樽から身を離して水をかき始めた。幸い、岸は近い。

 


◇ひとこと◇
 湖を泳いだイベントを見て、アンギルダンすげぇ、と思ったのは私だけではないはず。七十なんて信じないぞ。

 

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