なるほどねぇ、とゼネテスは顎を撫でさすった。彼の目の前には仏頂面を浮かべたロクサーヌこと、レインが座っている。もはや隠す必要もなくなってしまったので、レインは無作法に腕と脚を組んで、椅子の背もたれにもたれかかっていた。
アトレイアの離宮の、小さな応接間は、柔らかいランプの明かりでぼんやりと照らされている。夜が明けるにはまだかかる。
「で、ティアナ王女は?」
レインはそう尋ねた。
アトレイアを離宮に送り届けたレインは、覚悟を決めてゼネテスを待った。そして、少し遅れてやってきたゼネテスに、自身がノーブル伯ロクサーヌ=リューガであることを明かしたのだった。シャリとの因縁に関しては、軽く説明した程度であるが。
レインの問いかけに、わかんね、とゼネテスは肩をすくめた。
「王女付きの侍女が言うには、離宮に戻るなり私室にこもって出てこないとさ。俺も入れてもらえなかった。ま、そりゃいつもだけどな」
あの、とアトレイアがおずおずと手を上げた。
「タルテュバ様は、どうなったのでしょう」
「ああ、そうだったな。ティアナのところに行く途中、兵士に命じて捜索させたが、見つからなかった」
「消えたか」
「まぁ、さすがに、あの巨体を見落とすってことはないと思うがな。警備は重くしてある」
レインは考える。今回の一件、何の目的があったのだろう。シャリは愉快犯的なところがあるが、本当に楽しいからという理由だけで動いているのだろうか。アトレイアに何かするつもりではないかと警戒していたが、そういうわけでもないようだ。
「ゼネテス、『システィーナの伝道師』って何か知ってるか」
「噂程度なら。秘密結社って話だが、目的はよく知らん。嘘かホントかは知らんが、あの妖術宰相ゾフォルが名を連ねてるって話だ」
ゾフォルといえば、ザギヴの一件でちらっと見た程度にしか知らない。あとは主に予言に関わる伝聞である。だが、ネメアやザギヴに関する予言を聞く限り、あまり仲良くしたくない類の人間だということは間違いなさそうだ。
こっちも噂だが、とゼネテスがさらに続けた。
「ほら、救世主っているだろ。最近、そこかしこの町やら村で弱者を救済してるっていう。あいつも、名を連ねていると聞く」
「……は?」
レインはぽかんと口を開けた。『救世主』といえば、あのエルファスのことである。つい先日ノーブルで再開した、レインに似たところのある、あの銀髪の青年だ。
あの青年が、シャリやゾフォルと同じ組織に属しているというのか。何の目的があるのだろう。レインは考えるが、思いつかない。エルファスは終末思想を唱え、『神』に祈れ、と言う。彼の性格上、自分への信仰を集めて特権階級に反乱を起こす、というような目的があるとは思えない。
レインはあのノーブルの田舎道を進む馬車の中で、彼が見せた笑顔を思い出した。
どんな目的があろうと、彼は引き返せる気がする。あんな、素直な笑顔をする青年だ。
目の前で、闇の中に身を投げようとしている人間を、レインは放っておけない。エルファスは、きっとまだ間に合う。
考え込んでいたレインは、ふと、こちらに注がれる視線に気がついた。顔を上げると、濃い茶色の視線とぶつかった。ゼネテスがこちらをしげしげと眺めている。
「え、何?」
「あー、いや、お前さん、金髪になると印象変わるなーと思ってな」
「たいがいのやつは髪の色変わったら印象も変わるだろう」
ましてや、髪型そのものが変わっているのだ。普段、短めの髪をしているレインと長い金髪のロクサーヌでは、見た目がまったく違う。
いや、うーん……、とゼネテスは後ろ頭をがしがしとかきむしった。困ったときの彼の癖である。
「そういうことじゃなくて……あー、何だろうな。よくわからん」
「あんたがわからんのなら、私はもっとわからん」
呆れたようなレインの隣で、アトレイアがきょとんとして二人を見ていた。
その後はひどかった。
一応、先に出たレムオンが馬車を残してくれていた。ゼネテスは律儀に、その馬車が待つ前庭まで送ってくれた。しかし、それがいけなかった。ぼろぼろのドレスに乱れた髪、裸足、といった格好のリューガの姫を見て、御者とお付の男は泣き崩れた。
ひどい誤解である。
屋敷に帰って、セバスチャンに事情を説明し、ドレスと鬘がボロボロになってしまったことを謝り倒した。靴もなくしたことも謝った。とにかく謝った。
よいのです、とリューガ邸の執事は言った。
「それより、レイネート様にお怪我がなくてようございました」
「本当に、ごめんなさい。がんばってお金ためて、弁償します」
しかしながら、貴族のドレスなどどれほどのものになるか、レインには想像もつかない。どれだけの依頼を遂行し、どれだけの財宝を持ち帰れば弁償できるのだろうか。
破産する未来しか見えない……――青ざめるレインに、セバスチャンは笑った。
「いいえ、そんなことはしなくて結構でございます。そのかわり、レムオン様とエスト様の力になって下さいませ」
ああ、そういえば、とレインは、先に帰ったはずのレムオンの姿が見えないことを思い出した。
「レムオン様でしたら、体調がすぐれないとかで、もうお休みになりました。あなたによろしくお伝えするように、と」
「よろしく、ね……」
レインはわずかに眉をひそめた。てっきり、叱責がくると思ったが、レムオンにそのつもりはないらしい。これ以上、ロクサーヌを演じるメリットはないように思われるが、レムオンにはまだ何か策があるというのだろうか。
レムオンは翌日になっても私室に閉じこもっていた。怪我でもしたのかと私室の扉を叩いてみたが、何でもない、の一点張りであった。返事はあったが、顔を見せない。
レインとて、いつまでもロストールに留まっていられるわけではない。アキュリュースからの報せが届けば、ただちに北へ向かわなければならない。レインはエストを呼び戻すことにした。
エストが今どこにいるか知らないが、最後に会ったときには、再びロセンへ向かうと言っていた。まだロセンにいてくれればいいが、こればっかりはわからない。
さらに翌日――空中庭園での一件から二日経った――になって、レムオンは私室から出てきた。彼の様子は、何というべきか、いたって普通であった。
ラウンジのソファに腰かけて、手紙の束を確かめているレインを見るなり、
「何だ、まだいたのか」
などと、青白い顔をしかめたほどである。
エストを呼び戻す必要はなかったかな、とレインは首を傾げた。本当にちょっと夜気に中てられたとか、その程度のことだったのかもしれない。
レインは手紙の束の中から、アキュリュースから届けられた封書をつまみ上げ、旅立ちの準備に取り掛かった。
その日のうちに旅立つということはしなかった。レインは日が暮れるのを待って、まずアトレイアの離宮を訪れた。もちろん、正面からではない。あの秘密の通路を通って、だ。
「また旅立つことになって」
レインが言うと、アトレイアは少しだけ寂しそうな顔をした。
アトレイアに会いにきたのは、言うまでもなくあのシャリの一件があったからだ。もともと、アトレイアは暗闇の中でシャリだけを相手にして生きてきた。レインが『色惑の瞳』を取ってきたときに、シャリとはもう関わらないと約束したのである。
ごめんね、と言うと、アトレイアは小さく微笑みながらかぶりを振った。
「少し、寂しいですけれど、わたくしのことは気にしないで下さいませ」
多くのものを与えてくださいました、とアトレイアはレインを見上げた。
「わたくし、酒場でレルラ=ロントン様とお会いして、テジャワの変のことを詳しくお聞きしましたの。わたくし、何も知らなかった。いいえ、知ろうとさえしていなかったのです。――まだ、エリス様と普通にお話はできそうにありません。けれど、少しだけ、あの方と歩み寄れそうな気がするのです」
テジャワの変でアトレイアが盲目になったことは知っている。けれど、レインはその事変の詳しい真相を知らない。レインには知る必要がない。
「レイネート様のおかげです。わたくし、目が見えるようになって、本当によかった。怖いものも多く見ましたけれど、それでも、わたくしはこの世界で生きていきます」
アトレイアはもう闇の中で生きる卑屈なお姫様ではなかった。安易に闇の中に逃げ込むのではなく、光の中を歩めるようになった。
まだ少し、気弱なところはあるけれど、闇の中に自分から飛び込んでいくようなまねはしないだろう。
レインは頭を振る。
「それはアトレイアが知ろうとしたからだよ。がんばって、王宮の外に出てみようと歩き出したからだ。そうだ、手紙を書くよ。だって、アトレイアはもう字が読めるもの」
まぁ、とアトレイアは顔をほころばせる。
「また楽しみが増えてしまいました。もっとたくさんお勉強をして、わたくしからもお返事を書きますわ」
何かあったら、ゼネテスを頼れ、と言い残して、レインはアトレイアの離宮を辞した。細い月が浮かぶ夜空に、王宮は黒い影の塊となって存在している。今もこの黒く巨大な石の城に、あの憎たらしい小僧はいるのだろうか。
まだ、あの小僧と戦ったことはないが、アキュリュース侵攻でのあの魔法を見る限り、なかなかの強敵だといえそうだ。
敵が増えたな、とレインは貴族街への坂を下りだす。魔人ヴァシュタール、シャリ、精霊神の封印を守る巨人、そして、目下最大の敵はあの獅子帝ネメアである。
ぽつりぽつりと立ち並ぶ魔法ランプの街灯の明かりを頼りに、レインは閑静な貴族街をリューガ邸に向けて進んだ。そこらの屋敷から、酒宴らしき楽しげな声が聞こえてくる。
下町ならば乞食や酔客の影があるだろうというのに、貴族街はひと気がない。たまに、王宮へ向かうらしい馬車が坂道を上がっていくばかりだ。
ふと、レインはその通りを、白い衣を翻して男が横切るのを見た。人目を気にするようにしながらも、足早に立ち去っていく。その人影に、ひどく見覚えがある気がして、思わず足が止まる。その人影が横切った軌跡をなぞるように、今度は大柄な人影が通りに出てきた。こちらにも見覚えがある。
「ゼネテス」
レインの声に、大柄な人影が弾かれたように立ち止まってこちらを振り返った。
「お前か」
「何してる。ここには酒場はないぞ」
大股に彼に歩み寄ると、ゼネテスはブルネットの髪をかき乱しながら、苦笑した。
「いや、珍しいやつに会ったもんでな」
十中八九、先ほどの白い衣の男のことだろう。
「ツェラシェルか」
白い衣の男の名を尋ねると、ゼネテスは驚いたように瞬目した。知り合いか、と尋ねてくるので、レインは言葉を濁した。
「どうも様子が妙でな。後を追っている」
レインは頷いた。ゼネテスとともに、ツェラシェルの後を追う。どうせ、あの男のことだ。金のために汚いことをやろうとしているに違いない。ツェラシェルの手がどれだけ汚れようが、レインの知ったことではないが、それで迷惑をこうむる人間がいることを考えると放ってもおけない。
ツェラシェルが向かったらしきほうへと走るうち、レインの胸は妙な予感にざわめいた。こちらのほうには、リューガ邸がある。
「お前さんに会えたのは、ラッキーだったな」
リューガの屋敷の大きな門前に立ち、ゼネテスはそう呟いた。馬車が出入りする大きな鉄格子の正門は閉ざされている。だが、その隣にひっそりと設けられた、家人が出入りする小さな格子戸が、細く開けられて揺れている。
「門衛がいない」
言うなり、レインは格子戸をくぐった。その後ろを、大きな体をかがめてゼネテスが続く。
レインは、庭の垣根の下に鉄の脛当てに覆われた脚を見つけて、その場にかがみこんだ。リューガの門衛だ。倒れこんだ彼をゼネテスが引っ張り出す。死んではいないようだ。青白い顔をして昏睡している。魔法で眠らされているようだ。
「行くぜ」
ゼネテスが屋敷に向かって駆け出した。レインもそれに続く。
屋敷は不自然に静かだった。確かに、それほど賑やかな時間でもないが、大貴族の屋敷ともなると、誰かしら起きていて何かしらの仕事をしていることが多い。人の息遣いや衣擦れの音が聞こえてくるはずだというのに、今はそれがまるでなかった。
簡易照明の魔法ランプがぼんやりと屋敷のエントランスを照らしている。天窓から弱々しい月明かりが差し込んでいた。
レインは腰にナイフを帯びていることを確認する。さすがに、アトレイアのところを訪れるのに、槍を持ち歩いてはいない。
二階で物音がした。何か花瓶のようなものが割れる音だ。獣の唸りのようなものも聞こえてくる。
先に階段を駆け上がったのはレインだったかゼネテスだったか。とにかく二人はほとんど同時に二階へと駆け上がり、唸り声が響く廊下を駆け抜けた。
レインは、その激しい声がしている部屋に、はっとする。そこはレムオンの私室であった。
一瞬、躊躇したレインを尻目に、ゼネテスは無遠慮に私室の扉を蹴り開けた。
真っ先に視界に飛び込んできたのは、獣のような唸り声を上げてうずくまるレムオンの姿であった。いつもはきっちりと後ろに流して一つにまとめている髪を振り乱し、床に敷かれた絨毯に爪を立てている。
「レムオンっ。――何だ?」
室内に足を踏み入れたレインの鼻に、妙な匂いが香ってきた。
「よぉ、よく会うな」
かけられた声に窓際を見れば、ツェラシェルが億劫そうに窓辺に腰かけている。青白い顔ににやけたような笑みを貼り付け、レインとゼネテスを見ていた。彼の手の上には小さな香炉のようなものがあって、香りつきの白い煙が細く立ち上っている。
ツェラシェルは香炉を窓辺に置いて、そこから立ち上がった。
「ツェラシェル、どういうことだ」
歩み寄ろうとしたゼネテスに、おっと動くな、とツェラシェルは大きな袖からスローイングナイフをちらつかせた。そして、まぁ聞けよ、と薄く笑う。
「こいつは『新月の香』と言ってな」
ツェラシェルはナイフの切っ先で香炉を弾いた。金属同士がぶつかる、軽い音がする。
「昔、ダルケニス狩りに使われたものだ。人間やほかの種族にとってはただの香だが、ダルケニスには吸血衝動を引き起こす劇薬になる。つまり――」
こういうこと、とツェラシェルは床に這いつくばって苦しむレムオンを示した。
ダルケニス?――レインは目を見張って、床のレムオンを見やった。
ダルケニスといえば吸血種族だ。レムオンがそのダルケニスだというのか。特別に親しいわけでもないが、それでも、何ヶ月もともに一つ屋根の下で生活した仲である。だが、レムオンは自分がダルケニスであるそぶりなど、これっぽっちも見せなかった。
「がぁあああああああっ」
うずくまっていたレムオンが、獣のような咆哮を上げて立ち上がった。振り乱された金髪が、白に近いような銀色に変色している。その向こうに、いつも以上に青白い面が覗く。爛々と狂気めいた光を宿した目が赤い。血がにじんだように赤い。
気をつけろよ、とツェラシェルが言った。
「ダルケニスは若い女の生き血が好みと聞くからな」
正気ではないレムオンが、雄叫びを上げながらレインに突進してくるのと、ツェラシェルが魔法で消えるのとは同時であった。
レインとレムオンの間にゼネテスが立ちはだかる。そのゼネテスの巨体を、レムオンが軽々と弾き飛ばした。
「うおっ」
平素のレムオンでは考えられない膂力である。投げ飛ばされたゼネテスは、背中から激しく壁に叩きつけられた。
レムオンが、鋭い爪が伸びた手をレインに伸ばす。彼女のスカーフに覆われた首筋に、大きく変化した犬歯を突き立てようと口を開いた。レインはとっさに、レムオンの左手首をつかんで投げ飛ばそうとした。しかし、
「ぐっ」
そのまま体を壁に押し付けられる。首もとに迫るレムオンの牙を、彼の首を左手で押さえつけるようにして押しとどめる。だが、何という力だろう。このままでは押し負ける。
マジか! いつものレムオンの力とは思えない!
我を失っているせいか、レムオンの力は人間のそれをはるかに凌駕していた。押さえつけられているレインの体が軋む。
「ゼネテス、香を!」
レムオンと押し合いながら、レインは叫んだ。身を起こしたゼネテスが窓辺に駆け寄って香炉を叩き落とす。
何だ!?――レインの体ががくりと傾いだ。脚に力が入らない。眩暈がする。レインは歯を食いしばって、レムオンの喉もとを押さえる手に力を込めた。窒息して落ちてくれればと思うが、レムオンの力は増すばかりだ。
「ぐああああっ。レムオン、やめろ!」
レインはほとんど、レムオンに覆い被さられるようになっていた。体が痺れたように動かない。レムオンを押し戻そうとするレインの手足を支えているのは、ほとんど気力だけであった。
もがくレインの横手から、ゼネテスの拳がレムオンの左頬を抉るように殴打した。レムオンの体がレインの眼前から吹っ飛んで消えた。レムオンは背中を本棚に打ちつけて、床に倒れ伏す。レムオンがぶつかった拍子に棚の本がばさばさと、彼の体に降り注いだ。
レインは壁に沿うように、ずるずると座り込んだ。尋常ではない疲労である。体に力が入らない。頭が割れるように痛い。
「大丈夫か」
膝を折ったゼネテスがレインの青白い顔を覗き込む。レインは頭痛を振り払うように、頭を振った。
「何もされてないが……力が入らない……。何だこりゃ」
「精気を吸われたな」
ゼネテスがレインの肩を叩いた。彼が言うには、ダルケニスは吸血以外に精気を吸う術も身につけているとか。具体的にどうやるのかは知らないが、どうやらずいぶん精気を吸われてしまったらしい。この倦怠感はそのせいだろう。
何度か深く呼吸をして、レインは壁に手をついてふらふらと立ち上がった。レインを支えようとしてくれたゼネテスに、
「レムオンを頼む……。ちょっと、私じゃ、無理そうだ」
ゼネテスは肩をすくめて、
「できることなら、女を抱えたかったね」
と笑った。
レインはアキュリュースに旅立つのを遅らせざるをえなくなった。レムオンのこともあったが、とにかく体がだるい。
騒動の翌日、体のだるさを抱えて青白い顔をするレインのもとに、レムオンが見舞いに来た。バツが悪そうな気まずげな表情をしていたが、意外にも元気そうである。ゼネテスが殴りつけた左頬も、あまり目立ってない。顔色など、平素よりもいいのではないだろうか。
「あー……」
レムオンが気まずそうに口を開いたので、レインはため息をついた。
「別に気にしてない。ちょっと体はだるいが、怪我をしたわけではない」
レムオンは顔をしかめた。
「俺はお前を殺すところだった」
「故意にやったわけじゃないだろう。その意志があったわけではないし、何より私は死んでない」
レインは寝台の上に起き上がった。カーテンが開け放たれた大きな窓から、爽やかな晩夏の日差しが室内に注いでいる。
色々冒険してきて、死にかけたことがないわけではないが、今回はそういうときに感じる危機感というのがまるでなかった。レインの感覚では、ちょっと怪我をした、程度のもので、レムオンの認識とはずいぶん差があるのかもしれない。
「私は気にしてない。気にしてるのはあんただ」
レムオンはいまだにしかめ面をしている。レインの寝台の横に置かれた椅子に腰掛け、腕を組んで、こちらをじっと見つめている。今まで冷ややかな視線はいくらでも受けてきたが、このような苦悩と哀れみの入り混じったような視線をこの男からもらったのは初めてであった。
レインはじっと、レムオンを見つめ返した。そして、あのさぁ、と口を開いた。
「悪いと思ってるなら、一つ聞いていいか」
レムオンはぎくりと顔を強張らせた。
「……何だ」
「その目さぁ、何でダルケニスになる――っていうか、その……本性が出ると、赤くなるんだ?」
レムオンが呆れたような顔をした。しかし、あまり近しい人にダルケニスがいないレインには単純に不思議である。赤眼の人間もいるが、どちらかといえば赤茶に近い。あのような、血を連想させる赤い目は、ダルケニスの特徴なのだろう。
レムオンは、呆れて、ふっと息をつくと、ゆっくりと目を閉じた。それから、次に目を開けたときには、その目がダルケニスの赤い目に変わっている。
「おお、すごい。どうなってんの?」
レインはしげしげとレムオンの赤い目を覗き込んだ。異種族の特徴を笑いたいわけではない。未知のものに出会った好奇心である。
「普段は皮膜で覆っている」
レムオンは言った。へぇ、とレインは唸った。人間社会で正体を隠して生きている彼らならではだ。
「髪は? ダルケニスって白っぽいでしょ」
「インビジブルって魔法があるだろう。あれと似たようなもので、光の反射をごまかして、色を変えている」
へぇー、とレインは感心した。ダルケニスだけの魔法なのか。それとも、魔法に明るいなら誰でも使えるのかはわからないが、便利といえば便利だ。ロクサーヌの鬘の面倒くささを知るレインは、どうせならそれで何とかしてくれればいいのに、などとも思う。
「それだけか?」
いつもの黒いような緑のような目に戻ったレムオンは、その目をレインに向けてきた。
「ああ。うん」
あっさり頷いた彼女に、レムオンはいつもの彼らしい冷ややかな視線を向けた。それに、レインは苦笑する。
「お前の能天気さには呆れたな」
レムオンは立ち上がり、レインを見下ろして困ったような泣きたいような、複雑な顔をして小さく笑った。
「すまなかった。早く、よくなってくれ」
問題なのは、レインがどう思うかではない。レムオンはいまだ失脚する可能性の渦中にいた。
ツェラシェルがなぜ『新月の香』を用いたのか。レムオンがダルケニスだということを、誰かが疑惑として持っていたということである。誰かが、ツェラシェルを雇って、それを疑惑から確信へと変えようとしたのだ。
その誰か――エリス王妃からの召喚状を受けて、レインはロクサーヌの格好をしてレムオンに同行した。向かったのは王宮、謁見の間である。
以前、ここを唯一訪れたときには、ここに暇そうな貴族がうじゃうじゃしていたが、今はいない。壇上に、相変わらず虚ろな顔をしたセルモノー王が腰かけており、その隣にはこちらも相変わらず知的な光彩を放つエリス王妃が座していた。そのエリス王妃側の壇下に、ゼネテスが控えている。帯剣はしていないが、いかにも貴族の坊ちゃんというぱりっとした格好をしていた。
ゼネテスはロクサーヌに視線を送ると、ばちっと様になったウインクを送った。どう反応していいか困惑していると、レムオンが恭しく礼をしたので、ロクサーヌもそれに倣って礼をした。
エリエナイ公、と口火を切ったのは、やはりエリス王妃であった。セルモノー王は、ぼんやりと空中を見ている。
「今日、そなたらに登城願ったのは、問いただしたいことがあるからだ。エリエナイ公、そなた、よもやダルケニスではなかろうな」
ロクサーヌの少し前に立つレムオンは、王妃の言葉を一笑に伏した。
「ご冗談を」
「我が手のものが、そなたが血を求め、獣のように吠えておったのを見たというのだ。ダルケニス族のような赤い目をしていたそうだ」
ロクサーヌはレムオンを窺った。レムオンはじっと壇上の王妃を見上げている。ロクサーヌが何か言おうと口を開きかけたときだった。
「叔母貴よ」
静かな低い声が、ロクサーヌを押しとどめた。ゼネテスである。
「そりゃいつの話だ」
「一昨日だったかな」
「一昨日? 新月じゃなかったと思うが」
王妃は静かな視線を甥に向けた。ゼネテスは王妃の視線を受けても、けろっとしている。
「『新月の香』を使ったのだ」
「どこで? まさか、リューガの屋敷に人を送り込んで、香を焚いたのか? そんな盗人のような真似を、叔母貴が指示したわけではないよな」
エリス王妃は少しだけ、ゼネテスに向けた視線を鋭くした。
ロクサーヌは目を見張った。どうやら、ゼネテスは敬愛する叔母ではなく、政敵であるレムオン側についたらしい。
ゼネテスの気持ちはわからなくもない。
「……ツェラシェルが勝手にやったことだ。わたくしの指示ではない」
「ツェラシェル!」
ゼネテスがわざとらしく声を上げた。
「あいつなら、一昨日の晩は俺と飲んでたんですがね」
「一昨日の晩でしたら――」
ロクサーヌは言った。レムオンが肩越しに、ちらりとロクサーヌを窺い見たが、ロクサーヌは義兄のほうを見なかった。
「兄はわたくしとともに居りました。ノーブルの税収が去年よりも減ってしまったので、そのことについて相談しておりましたの。夜半までかかりましたので、わたくしはその後、熱を出し、昨日まで、兄はわたくしに付き添っていて下さいました」
ロクサーヌはまだ少し青い顔を王妃に向けた。王妃は知的なサファイアの瞳で、ロクサーヌを注視している。ロクサーヌの脳裏に、ティアナ王女のことが思い出された。
「もしも、兄がダルケニス族であったなら、わたくしはここにはいないでしょう」
「総司令、ノーブル伯」
突然、聞きなれない男の声がしたので、ロクサーヌは弾かれたようにそちらに顔を向けた。エリスもまた同様に、自身の右隣に腰かけた王を見やった。
セルモノー王は相変わらず虚ろな目をしていた。ゼネテスやロクサーヌを見ているような気もするが、ロクサーヌには彼がこちらを見ているという意識のようなものを感じられなかった。
王は息を吐くとともに言った。
「そなたらの言に偽りはないな」
「千年樹にかけて真実です、陛下」
ゼネテスが右手を上げてセルモノーに向き直った。ロクサーヌも慌てて、白い手袋をはめた右手を上げた。
「わたくしも、同様でございます。陛下」
王は再び、息を吐いた。
「……両名が言うのである。間違いなかろう。エリエナイ公、とんだ災難であったな」
余は疲れた、と言い残して、王は侍従を伴って退席した。
セルモノー王は何を考えているのかよくわからない。そもそも、彼に何かするという意志があるかどうかも怪しい。
ロクサーヌは首に鈍い痛みが走るのを感じた。王宮は以前に訪れたよりも、ひどく陰鬱な気がした。あのシャリのせいかもしれない。
「……お兄様、申し訳ありません。ちょっと、気分が……」
首筋を押さえ俯きながら言うロクサーヌに、レムオンが振り返った。
「妹の加減が悪いようだ。今日はこれで失礼させていただく。……この借りは必ずお返しいたそう」
レムオンは王妃に宣言すると、ちらりとゼネテスを見やった。冷ややかな視線を受けても、ゼネテスは平然としていた。そして、ロクサーヌに目をやって、お大事に、と肩をすくめた。
ロクサーヌのドレスを脱ぎ捨てたレインは、着慣れた甲冑に身を包んで、レムオンの書斎を訪れた。すっかり旅支度が整っている。
「もう行くのか」
すまん、とレインはまったく悪びれもせずに言った。
「エストを呼び戻しておいた。体調不良と言ってある」
「……余計な真似を」
困ったような、嬉しいような顔をしたレムオンは、ごまかすようにしかめ面を浮かべてため息をついた。
レインはそれに肩をすくめる。
「いいじゃない。エストにもたまには兄孝行してもらえ」
レムオンは立ち上がった。書類の積まれた大きな執務机を回り込んで、レインに向かう。レインの真向かいに立って、彼はバツの悪そうな顔をして腕を組んだ。
「……お前の、思っているとおりだ」
何が、と視線で尋ねたレインに、レムオンは視線を彼女からそらして頭を振った。
「俺はティアナが好きだった」
子供のころから、ずっと、とレムオンは呻くように言った。
レインは困惑した。なぜ、急に、この男がそんな心情を吐露したのかと。何だか聞いてはいけないことを聞いている気がして、レインは目をしばたかせる。
「あ、えーっと、別に……え、何で、過去形?」
「ティアナはロストールの王女だ。俺の政敵『ファーロスの雌狐』の娘だ。そして、俺はダルケニスだ」
レインは顔をそらした。何も言えなかった。
ロストールは差別意識の高い国だ。人であっても、貴族や平民という明確な階級が存在しているし、冒険者はそれより下に見られる。
ダルケニスという被差別種族のレムオンが、この国で貴族として生きていくのは相当な苦労があったに違いない。大陸の大多数を占める人間族であり、国境を持たない冒険者であるレインには想像がつかない。
今、彼に何を言っても、誤魔化しになるような気がして、レインは口をつぐむしかなかった。
レムオンは沈黙してしまったレインを尻目に、机の上の皮袋をつかみ上げると、それを彼女の手に握らせた。ずしりと重い。
「お、おい」
「餞別だ。持っていけ」
ロクサーヌを演じた仕事料とは言わなかった。口止め代とも言わなかった。レインはレムオンの真意を測ろうと、皮膜に覆われた彼の濃緑色の瞳をじっと見つめる。
レムオンは少し、逡巡したような、言いにくそうな態度で口を開いた。
「あー……その、がんばれよ。その、お前は、確かに、人よりちょっと大柄で、女らしくはないが……あー、魅力がないわけではない。充分、魅力的だ」
いよいよおかしなことを言い出したレムオンを、レインは訝しげな、胡乱げな視線でまじまじと見つめた。
レムオンの濃緑色の瞳は、励ましと哀れみの複雑な思いに揺れているようであった。レインには、彼からそのような視線を送られる覚えがない。というより、どちらかといえば、立場が逆である。
「何なんだ」
レインは眉根を寄せて、不審げな顔をした。そんな彼女の疑いを無理やり断ち切らせるように、とにかく、とレムオンは言った。
「がんばれ……色々」
「ああ、うん」
納得いかないまま頷いたレインに、レムオンはバツが悪そうに咳払いをした。
「セバスチャンに言って、馬を用意してもらえ。――色々、世話をかけたな」
リューガの馬に乗って、レインは昼下がりのロストールを出た。馬首は、北に向いている。
◇ひとこと◇
ゲームではいつもこの辺のイベントフラグを立て忘れてしまいます。