レインはラドラスにいた。ラドラスの制御室にたった一人で立っている。制御室には相変わらず、よくわからない装置が置かれていて、唸るようなハム音が響いていた。
頭上からかすかな風を感じて振り仰ぐと、あの大小の制御球がゆっくりと回っていた。天井は差し込む光が眩しくて、よく見えない。
その光の中を、何かの影がさっとよぎった。竜だ。翼を大きく広げた竜が、ぐるりとラドラスの上空を旋回している。
あっ、と思ったとたんに、制御球が落ちてきた。きっと、天の底が抜けると星はこんなふうに落ちてくるのだろうと思った。
眩しいほどに明るかったはずが、急に真っ暗になった。息ができない。苦しい。だが、動けない。きっと、ラドラスと一緒に竜骨の砂漠に埋まってしまったのだ、とレインは思った。
苦しい、苦しい。全身がひどく痛む。このままでは死んでしまう。
砂をかき分けようともがくレインの視界が、急に晴れた。一面の青だ。世界中の青が集まったようだった。青が渦を巻いて、レインの周りを取り囲んでいる。
深い深い、海の底にいるのだ。海面の揺らぎも見えないほど深い場所に。レインの体はなす術もなく、深海へと沈んでいった。
あまりの苦しさにはっと目を覚めた。どうやら眠って、悪夢を見ていたらしい。目の前にあったのは海色の青ではなかった。琥珀色の獣の目である。
「よぉ」
白い体毛の猫は、ピンクの舌をぺろりと出してそう言った。ネモは仰向けに横になったレインの胸の上に四足で立って、これまたピンク色の鼻先をこちらの顔先に突きつけている。
「……重い。息苦しいと思ったら。また、あんた?」
レインはネモを払いのけるようにして、被っていた夜具を左手で払った。ふと、まだ親指がくっついていることに気づく。そこに指輪はなかったが、それもそうだと妙に納得した。
レインに邪険にされたネモだが、それを気にした様子がない。ひらりと床に着地すると、きらりとした琥珀の瞳でこちらを見上げてくる。
「あんたさぁ、寝込んでる怪我人の上に乗るのやめろよ。苦しいんだよ」
軋む体を起こしながら、ネモに言った。どうもこいつはレインの腹を寝床だと思っているフシがある。初めて猫屋敷を訪れたときも、こいつは初対面であるレインの腹を寝床代わりにしていたのだ。
ネモは、猫らしからぬ――本性は猫ではないから当然だが――ケケケ、という嫌な笑いを残して、細く開いた扉から廊下へと出て行った。揺れる白い尾が消えて、レインは一つため息をついた。
夜具の上に投げ出した左手の、親指の動作を確認する。問題ないように思えるが、何しろ体中が痛いために、局所的な痛みがどうのと感じない。
「大丈夫ですか?」
オルファウスの優しい声が聞こえて、はい、とレインは返事をしながらそちらを振り向いた。
このとき、レインは彼が死んだことなど、すっかり頭の中から転げ落ちていた。殺しても死にそうにない人という表現が、一番的確に当てはまる人だったからかもしれない。
レインの頭の中では、寝台脇の、サイドボードのあるあたりの窓辺に、オルファウスが腰かけていた。女性めいた柔和な笑みを浮かべて、ちょっと首を傾げて。その拍子に、彼のさらさらの金髪が揺れるのだ。
だが、振り返ったレインは、間抜けな顔をしてぽかんと口を開けた。
窓からの日差しを浴びて、白猫が一匹、悠然と寝そべっている。ネモより少し小柄な、雪のように真っ白な体毛の『かわい子ちゃん』である。
そうか、とレインはそこで、ようやく、オルファウスが死んでしまったのだということを思い出した。あまりのショックに、彼の声を幻聴でもしたのだろうか――。
白い子猫はゆったりとした動作で身を起こした。足裏が綺麗なピンク色をしている。そして、日差しの中に座りなおすと、新緑のような見事な碧い目でレインをひたりと見据えた。
「体、痛くありませんか? なにせ、この姿だと上手く魔法も使えないので。困りものですね」
白猫のほうからオルファウスの落ち着いた声が聞こえてきたので、レインはぽかんと開いていた口を、さらに大きく、あんぐりと開けた。
「ええ、私です」
猫はこくりと頷いて、オルファウスがやるようにちょっと首を傾げてみせた。目を細めている様子は、オルファウスの笑顔に通じるものがある。
「はっ、えっ、あっばばばばばば」
レインは驚きのあまり言葉にならない。おたおたしながらきょろきょろと周りを見回す。いつも、猫屋敷を訪れたときに、レインが寝起きさせてもらっている小部屋である。中にいるのは、レインと白猫の二人――一人と一匹――だけだ。
何だ。どうなってるんだ。目に見えて混乱した様子のレインを、猫は愉快そうに眺めている。
「あ、ああああ、あの、お、おおお……オル、オルファウス、さん……?」
震える手を白猫のほうに、おそるおそる差し出す。すると、白猫は『お手』をするようにレインの手の甲に、白い手を乗せた。ぷにぷにの肉球の感触がある。
「はい、オルファウスですよ」
「ひゃあああああああああっ」
レインの上げた悲鳴に、ケリュネイアたちが駆けつけてくるのは、この直後のことであった。
なるほど、とレインは頷いた。
あの後、場所をダイニングに移し、レインは事の顛末と自身が気を失った後のことを知った。
まず、なぜオルファウスとネメアが対立するようなことになってしまったかというと、例の『魂吸いの指輪』をネメアが取りに来たからだ。神器はかつてバロルの動乱の際に旧エンシャント城の宝物庫で発見され、オルファウスが保管していたのである。
「まぁ、黙ってあげちゃってもいいかなーとは思ったんですけど、手土産もなしにというのはね」
育て方を間違えましたかねぇ、などと白猫になったオルファウスはため息をつきながら、丸い頭をふるふる振った。
あげていいわけないでしょ!――と、ケリュネイアが憤慨している。
オルファウスがなぜこんな猫の姿になってしまったのか、というのも疑問である。どういう仕組みだか知らないが、オルファウスはネメアの槍に貫かれる前に自分の魂を肉体から切り離し、この猫の体に移し替えたというのだ。
「いやぁ、力ずくで来られたらちょっと勝てそうになかったので、逃げちゃいました。我が子ながら、大きくなったものです」
はっはっはっ、と子猫は白い体を揺らして笑う。
笑っている場合ではない、と思えど、本人はあまり気にしていない様子である。
その後、レインがこてんぱんにやられたのはご覧の通りで、ネメアはあっさりと神器を奪取。そのまま森を去ったそうだ。
「――で、みんなであなたを運び入れて、治療したのよ」
と、ケリュネイアは締めくくった。昨日の話である。
話を聞いて、なるほど、とレインはケリュネイアが用意してくれたサンドウィッチを片手に頷いたのだった。
サンドウィッチをお茶で流し込んで、レインはオルファウスとケリュネイアを交互に見つめた。
「ところで、二人はどういう関係?」
「言ってませんでした? この子、私の娘です」
「娘がいる、とは聞きましたね」
そうでしたか、とオルファウスはまったく悪びれもなく言った。
レインは改めて、ケリュネイアをマジマジと見つめた。エルフの女は少しバツが悪いようなそぶりを見せている。
「あんまり似ていませんね」
「この子も拾い子ですから」
オルファウスの言葉を受けて、ケリュネイアが補足するように続けた。
「私はハーフエルフ。父さんはハイエルフ。兄さんは半魔。誰も血は繋がっちゃいないわ」
えっ、とレインはサンドウィッチを口に運ぶ手を止めて、小さな白猫に目をやった。
「えぇえええええっ、オルファウスさん、エルフなんですか」
「はい、そうです」
あっさり応じられて、レインは深くため息をついた。
「どうりで、若いな、と思ってた」
おや、ショックを受けてますね、とオルファウスが笑いを含んだ調子で言った。猫の表情はよくわからないが、目を細めている様子が微笑んでいるようにも見える。
「そうですね。オルファウスさんがエルフだっていう発想がなかったので、少し驚きました」
ネメアは自分が三十いくつと言っていたし、オルファウスだって三十年ほど前に彼を拾ったと言っていた。そこから考えれば、最低でもオルファウスは五十前後ということになる。
今でこそ猫だが、本来の彼は妙齢の女のような見目麗しい、若々しい姿をしている。その姿からどれだけ年齢を高く見積もっても、三十半ばがせいぜいだろう。これで人間だと考えるのは無理がある。エルフのような長命種族だと考えるのが普通であろう。
「よく気づかなかったわね」
ケリュネイアも呆れた様子である。
「今まで出会ったエルフがろくなもんじゃない。――言っとくけど、あんたも含まれてるからね」
レインが言うと、ケリュネイアはむっとした表情を浮かべる。その白い頬にさっと赤みが差した。
「どういう意味?」
「あんな上から目線でやってこられたら、依頼なんか受けない」
あなた、何やったんです、と猫姿の父親に詰め寄られて、ケリュネイアはうっと口ごもる。
「何か私に黙って、こそこそやってると思ったら。――すみませんね、レイン。うちの子たちが……」
いいえ、とレインが応じると、ケリュネイアはすねた子供のような顔をして、ごめんなさい……と唇を尖らせた。
何だか、どっと疲れたな――レインは息を吐いて茶に口付ける。それから、茶菓子を口いっぱいに頬張っているヴァンと、彼の隣に腰かけているナッジに視線を向けた。
「二人には悪いけど、二、三日ここに留まりたい。これからの予定も考え直したいし、それに……ちょっと、疲れた」
ヴァンとナッジは顔を見合わせて、かまわない、と言った。それから、少し、面食らったような顔で、
「というか、二、三日、でいいの? レイン、ずっと、戦いっぱなしだよ」
と、ナッジが言った。
「そりゃあ、休めるならいくらでも休みたいけど、時間がない」
険しい顔をしたレインに、ヴァンが言う。
「お前、体どうなってんの?」
体力の化け物だな、とヴァンは失礼極まりないことを言った。レインは手元に置いてあった布巾を、思い切り彼の顔面に投げつけてやった。
翌日から、レインは荒らされた庭を片付け始めた。ケリュネイアたちもレインのことがあったせいだろうが、庭には手をつけていなかった。
オルファウスはかまわないと言ったが、レインは黙々と庭を片付けた。
歪んでしまった花壇のレンガを敷き直す。踏み荒らされた花々はかわいそうだがもうダメだ。引っこ抜いて土をならした。
植木棚のほうはもっと悲惨だ。棚はもう使い物にならない。鉢植えもひとつ、二つは無事なものはあったが、大半はダメになった。土の中から欠片を拾い上げて、土は花壇に戻し、植木鉢は納屋の隅にまとめておいた。
そして、その納屋は、まず雑然となった内部の片づけをした。それから、レインがぶつかって破壊した壁をさらに大きく取り除いた。ランカが引き裂いた部分も同様だ。壁の大部分がなくなってしまったが、今現在はほかにどうしようもない。木材が足りないからだ。また、後日、補修することにする。
その日は一日中庭の片付けをしていた。飯を食って、風呂に入って、眠る。その間、レインはネメアについて何も話さなかったし、ほかの者も、彼女にそれを尋ねなかった。
翌日になって、レインは今度は裏の畑の修復に取り掛かった。畑に鍬を入れ、土を盛り、畝を作る。七月の汗ばむ陽気の中、森の木陰を吹きぬける風は心地よい。
「レイン、ちょっと休憩しようぜ」
ヴァンが声をかけたが、レインの耳には届かなかった。流れる汗をそのまま拭いもせずに、一心不乱に畑を耕している。
ヴァンとナッジは顔を見合わせて、休憩している、ともう一度レインに声をかけて屋敷の中に戻った。レインは返事をしなかった。ただ、土に鍬を突き立てた。
ヴァンとナッジがいなくなっても、レインは手を休めなかった。ようやく一通り、耕し終わって、腰を伸ばそうとかがめていた上体を起こす。緑の天蓋がぽっかり途切れた木々の隙間から、夏の青空が望めた。
レインは鍬の柄に手をかけて、それを見上げた。眩しいくらいに白い雲が、一塊だけぽつんと浮かんでいる。その白い雲が、ゆっくり風に流されていくのを、レインは一人、じっと見つめていた。
日が暮れて、夕食を取った後の気だるい食後の一服の時間。膨れた腹で急に動くのは億劫で、全員がダイニングテーブルに残っている。
ケリュネイアが茶を用意してくれているのを知って、レインは一度部屋に戻った。それから、いくらもしないうちにダイニングに戻ってきた。ケリュネイアが茶を出すタイミングと、ほとんど同じだった。
レインは手に持っていた、古びた銀細工の腕輪をテーブルの上に置いた。細かい意匠のほどこされた、どこにでもあるような腕輪は、天井から吊るされた魔法ランプの明かりを受けて鈍く輝いている。
ケリュネイアが、その腕輪にはっと顔を強張らせた。
「闇の神器を、本格的に集めようと思っている」
レインは言った。ダイニングのテーブルに対して、横を向くように椅子に腰掛け、腕と脚を組んでいる。
獅子帝よりも先に集める、とレインは言った。レインが、ネメアのことを『獅子帝』と呼んだことに、ケリュネイアは視線をさまよわせる。
「これは『束縛の腕輪』だ。偶然、なりゆきで手に入れたものだが、過程は問わないだろう。ケリュネイア、金を払ってくれ。一万だ」
「それは、かまわないけど」
ケリュネイアはポットを持ったまま立ち尽くしていた。ようやく、それに気づいて、ポットを置いて着席する。
「エステルはどうするんだ」
ヴァンに尋ねられて、レインは彼に視線を向けた。
「もちろん、エステルのことも助けるさ。闇の神器の所在は明らかになっていないものが多い。その情報を集めながら、精霊神の座所を回る。少し旅程が変わるが、ウルカーンへ向かい、ロセンからリベルダムを経由して、先にエルズへ向かう」
エルズのエアに会おうかと考えている、とレインは言った。彼女なら、何かレインの必要な情報を知っているだろう。
レインはさらに続ける。
「ケリュネイア、あとで手紙を二通渡すから、明日、エンシャントへ行ってギルドに出しておいてくれ」
いいけど、とケリュネイアは首を傾げる。
「自分で出さないの?」
「私はしばらく、エンシャントには寄らない。おそらく、私の追討令が出ている」
ネメアと敵対行動を取った、ということに関してではない。ディンガルを出奔したことについてだ。ネメアはそれを問わないだろうが、ベルゼーヴァは必ずそうするだろう。『人の動き』を考えるのであれば。
「一通は聖杯を追っている仲間宛だ」
「ああ、セラだね」
ナッジの言葉に、レインは頷く。
「もう一つは、エスト=リューガというロストールの学者宛だ。『焦燥の耳飾り』を持っている。この二人と早急に連絡を取りたい。特に、エストのほうは獅子帝に狙われる可能性が高い。その前に保護する」
明朝、ウルカーンへ発つ――レインは言った。
ヴァンとナッジが彼らに割り当てられた部屋に引っ込んでも、レインは戻らなかった。リビングの窓辺にすえられたベンチに腰かけ、じっと暗い庭を見ている。
夕食の片づけを終えたらしいケリュネイアが、ダイニングのほうから出てきた。明かりを落とした暗いリビングに、誰かがいるとは思っていなかったのだろう。ぎくりと体を強張らせて、足を止めた。
レインが彼女のほうに顔を向けると、びっくりした、とケリュネイアは素直に言った。それから、少し戸惑ったあと、こちらに寄ってきてベンチの端に座る。レインは窓辺に頬杖をついて、いつか彼女と会ったときも、こうして長椅子に座っていたな、と思い出した。
あの……とケリュネイアが切り出したので、レインは視線を庭からケリュネイアに移した。ケリュネイアはこちらを見ずに、まっすぐ膝をそろえて座っている。
「何か……巻き込んじゃって、ごめんなさい」
「え、何、急に」
愁傷な様子を見せるケリュネイアに、レインはぎょっとして彼女の顔を覗き込んだ。
「オルファウスさんに怒られたの?」
違うわよ、とケリュネイアはこちらを振り返る。
「そりゃあ……兄さんと戦ってって言ったのは私だけど――だから、軽率なことを言ったと思って」
ケリュネイアは再び顔を俯かせて、もごもごと小声でしゃべった。そして、ごめんなさい、ともう一度謝った。
どうやら、レインの惨状を見て後悔があったようだ。親しい間柄とはいえない関係だが、どうにも彼女は直情的な性格をしているという印象を抱く。具体的に言うと、覚悟が足りない。
ネメアと本格的に戦うなら、今回のような傷は軽いほうだろう。次は死ぬかもしれない。
「まぁ、わかってくれたんならいいよ。巻き込まれたというか、最終的に自分から巻き込まれに行ったみたいなところもあるし」
ケリュネイアに助けを求められて、それに応じる決断をしたのは自分自身だ。オルファウスに槍を振り下ろすネメアを見て、許せぬと憤慨し敵対したのも自分だ。
傷つくのが怖ければ、闇の神器が持ち去られるのを黙って見ていればよかったのだ。だが、殺されるかもしれないと思いながらも、レインにはそれがどうしてもできなかった。
「巻き込まれてあげるよ」
とレインが小さく笑うと、ありがとう、とケリュネイアは震える声で礼を言った。それから、兄さんは、と続けた。
「闇に、落ちてると、思う?」
ケリュネイアは終始俯いていた。薄い茶色の髪が横顔にかかって、表情は見えない。脚と同じく、きっちり揃えて膝の上に置かれた彼女の白い拳が、さらに力を込めて握り締められている。
レインは真っ直ぐに座り直して、壁に背を預けると、脚を組んだ。窓から差し込む白々とした月光に照らされて、彼女の右太ももに浮き出た深い傷痕があらわになる。ランカによって付けられた傷だ。魔法で治りはしたが、細胞の新古の差はいかんともしがたい。傷痕は白い線になっている。
「わからない。ケリュネイアはどう思うの」
レインはじっと、前を見た。オリーブ色のソファの上に、キルトとクッションが置かれてある。窓から差し込む月光に、キルトが鮮やかに映える。
私は……、と口を開いたケリュネイアは、まだ俯いている。
「私……。――兄さんは、本当はあんな人じゃないの。強くて、優しくて……もっと穏やかな人なの。こんな……こんなことをする人じゃない」
ケリュネイアの声は涙に濡れている。彼女が不意に顔を上げて、こちらを振り返った。頬に涙の筋を作りながら、ケリュネイアは訴える。
「権力にこだわるなんて信じられない。ましてや、自分の叔父を殺してまで、だなんて……。どうかしてなきゃ――」
「だから、闇に落ちたって思ったんだね?」
ケリュネイアは、小さく首肯した。
「私、兄さんのこと好きだった。ううん、今も、愛してる。だから、もとの兄さんに……戻って……」
ケリュネイアは震える声でそう言って、顔を両手で覆った。暗く沈んだリビングに、彼女の嗚咽だけが響く。
レインは何も言わずに、ケリュネイアの丸まった背中を、優しく、あやすように叩いてやった。
ごめんね、ケリュネイア――ただ、心の中でそう詫びた。
本心をいえば、レインはネメアが闇に落ちていないと考えている。理由は単純に、レインを殺さなかったからだ。
ネメアにとってはレインは取るに足らないだろう。わざわざ殺す必要もなければ、わざわざ生かす必要もない。神器奪取の邪魔になるなら、今回の戦闘でさっさと殺せばよかったのだ。
ネメアが手加減をしていたのは明らかだ、とレインは感づいている。闇に落ちている人間が、そんな寛大な施しをしてくれるだろうか。
ネメアは闇に落ちていない。だが、それはそれでやりにくい、とレインは思う。狂人を相手にするより、何らかの信念を持って突き進んでいる人間のほうがはるかに厄介だ。そういう手合は、往々にして強力で強固だ。
レインがネメアと闇の神器を争えば、彼は強大で強固な壁となって立ちはだかるだろう。それでも、レインはネメアと神器を争うことを決めた。この二日間よく考えて、誰にも流されず、自分の意志だけで決めた。
ネメアはオルファウスを殺そうとした。理由はそれで充分だ。
すべての人の親が、素晴らしい人間だとはさすがにレインも思っていない。どうしようもないクズもいるだろう。
だが、オルファウスは違う。血のつながらない――身も蓋もなくいってしまえば、扶養義務のない子供たちに、愛情を注いでいたのは明らかだ。
そんな父親を、あんな古びた指輪のために殺すというのは、どう考えたって間違っている。
間違ったことは誰かが諌めなければならん。わしや、あるいは、お主がな――。
かつて、アンギルダンにそう言われたときには、自分がネメアの間違いに気づけるだろうかと思ったものだったが。
たとえ、何かの目的があって、あえてこの道を選んだのだとしても、間違っているものは間違っている。誰かがそれを正さねばならない。
しかし、何のために、あれほど苛烈なまでに闇の神器を求めるのだろう。以前、何のために闇の神器を求めるのかと尋ねたレインに、彼は己の目的のために、と答えた。だが、ネメアが闇に落ちていないと確信を抱けば抱くほど、その目的がわからなくなる。
破壊神をあえて呼び出して、自分で斃そうとしてるんじゃないだろうな――意外とありえそうな考えである。
しかし、その割には、レインが持っている『束縛の腕輪』は放置している。むしろ、レインが持つように、誰にも渡すなと念を押すほどだ。
よくわからないな。そのよくわからない心象で、愛しい人を想って泣く目の前の女を混乱させたくはなかった。
レインはため息をついて、咽び泣くケリュネイアの背中を優しくなでさすった。
◇ひとこと◇
ここでまた一区切り。