楔
焼け落ちた神殿の瓦礫の中に、ちかりと光るものを見つけて、その男は足を止めた。
男は乞食であった。こうやって戦場や火事場に出かけては、金になるものをあさって売っている。
男はこの神殿がどういうものであるかを知らない。何を祀っていたのか――焦げた床に残った紋章を見てもわからなかった。すべてを見通す『目』と、力を示す『剣』、そして裁きを表す『雷』――神に祈るというバイアシオンでは当たり前のことすら知らないその男は、その奇妙な紋様が天空神の紋章であることも知らないのだ。
男は昨日、ディンガル帝国に敵対する義勇軍が、この神殿に攻め入るのを見ていた。戦場稼ぎにはちょうどよいと、騒乱が終わったころを見計らってやってきたのである。
もともと、ここには立派な屋敷が建っていたが、ほとんどが燃え落ちている。そのため、金目のものといったら兵隊たちの武具が主であった。
燃え落ちた屋敷を漁りまわるうちに、その一角に地下へと続く階段を見つけた。
男はもっと金目のものを探そうとして、その階段を慎重に下った。地下は何やら神殿めいていて、上の屋敷を燃やした炎がそうしたのか全体的にすすけていた。そして、ずいぶん派手な戦闘が行われたようで、いたるところが破壊されている。にもかかわらず、死体がひとつもなかった。
乞食の男は瓦礫をのけて、そこで光っていたものを取り上げた。
それは一振りの剣であった。
大きさは、一般的な片手剣よりいくらか大きい。赤紫色の鞘には幾何学模様のような紋様が彫りこまれている。いかにも業物といった空気をまとった剣だった。
こいつは一等、金になりそうだ――と乞食が剣の柄に手をかけたときだった。
コー……ン……コー……ン……
突然、何かが石の床を叩くような音が、地下神殿の高い天井いっぱいに響き渡った。男ははっとして、辺りをきょろきょろと見回した。そして、その音が、神殿の奥の壁いっぱいに造られている巨大な扉の向こうから聞こえてくるのだと気が付いた。
コー……ン……コー……ン……
扉は開け放たれており、その向こうには闇が広がっている。その闇の中から音が近づいてくるのだ。何だか足音のようにも聞こえる。
闇は塗料を塗ったように、完璧な黒である。このような戦場の、光も届かないような闇の中で、明かりも灯さずに誰が何をしているのだ。
それを考えた瞬間、男はそら恐ろしくなって逃げ出した。件の剣を腕に抱え、一目散にここまで下りてきた階段を目指して転がるように駆けていく。その背後から、何か礫のようなものが飛んできて、彼の肩口に当たった。
驚いた拍子に足がもつれた。派手にすっ転んで、剣を取り落す。乞食は剣をその場に放り出して、這う這うの体で階段を駆け上がっていった。
乞食の男の腕から放り出された剣は、すすけた石床に転がった。ふと、それを拾い上げるものがある。
地下神殿の薄闇の中でも、鈍く輝く見事な甲冑をまとった偉丈夫であった。後ろになでつけた鋼色の髪と同じ色の瞳には感情の色というものがまるでなかった。その目で、じっと足もとに転がる剣を見つめている。
男は無造作に剣を拾い上げた。そして、地下神殿を支配する薄闇の中に溶けるようにして消えてしまった。
その小さな島の上空には常に瘴気が充満している。島の中央に穿たれた闇の底まで届く大穴から、闇の気配が漏れ出しているせいだ。闇というのは不思議なもので、光を嫌う癖に走光性を持つ。暗い地の底からはい出したいと、常に蠢いている。
バルザーは闇の門の島の上空で、虚空に立つようにしてこの小さな島を見下ろしている。手には鞘に納められた一振りの片手剣を携えていた。
虚無の剣――刃を抜いたものと何かひとつを、完全にこの世から消し去る闇の神器である。この神器の力をもってしても、あの闇の門を消し去ることは不可能だろう。だが――。
バルザーは、不意に、虚無の剣を振りかぶるとそれを闇の門に向けて投擲した。魔人の膂力によって射出された闇の剣は、彗星のような速さで一直線に闇の大穴に向かった。猛禽が獲物を狙ったような、流星が地上に落ちてくるような速さであった。
稲妻が地に落ちたような轟音をとどろかせて、虚無の剣は大穴の縁のあたりに深々と突き刺さった。
これでよい――たとえ、門を消し去ることはできなくとも、楔にはなる。
『我らが主』の復活のときは、ひとまず遠ざかったがそれですべてが終わったわけではない。ゾフォルの予言はまだ生きている。
バルザーはちらりと北の方角に目をやった。
バルザーがやったことは、『あの子』の足もとに転がる小石をどけたようなものに過ぎない。依然として『あの子』の歩む道の先には、峻厳たる苦難が待ち構えているだろう。それでもバルザーは『あの子』の安寧を望む。
バルザーはもう一度、闇の門を見下ろした。そこに突き刺さった神器の楔を嫌って、地の底からはい出ようとしていた濃い闇は穴の奥底へと身を潜めている。
それを確かめて、バルザーは溶けるように虚空に消えた。
◇ひとこと◇
誰が闇の門の島に虚無の剣を持って行ったか、についてはゲーム中で言及がなかったと思いますが、もし見落としていたらすみません。
誰が持って行ったか知りませんが、バルザーが息子のために抗った結果であればよいな、という話。
潮騒の街
「君はよほど僕の邪魔がしたいらしいな」
潮風に銀色の長い髪をなぶらせながら、エルファスは細いあごをつんっと上に向けて、こちらを睨み上げた。
「ええぇ、別に邪魔なんかしてないよ」
レインはいささかむっとした。いつものように自警団の兵士に絡まれていたエルファスに手は貸したが、邪魔といわれるようなことをした覚えはない。むしろ、彼の説教をきちんと最後まで聞いた――理解はしていないが――くらいである。
「あのまま、僕が神の奇跡を見せてやろうと思ったのに」
エルファスは少女のような白面をしかめて、エルズの広場に転がる兵士に目をやった。大の男たちが折り重なるようにして倒れている。
「あっ。ああ、そっか!」
と、レインはようやく思い当たった。
先ほど、エルファスに向けて剣先を突き付けていた彼らは、神の奇跡で剣を払って見せよ、とのたまっていた。エルファスが何かする前にレインが連中を伸してしまったものだから、結局『神の奇跡』とやらはお披露目できなかったのだ。
「ごめん。そんなところまで考えてなかった」
レインは頭をがしがしと乱暴にかき乱しながら、ごまかすようにひきつった笑いを浮かべる。エルファスはそれを見越していたように、小さく息を吐いた。呆れ顔である。
エルファスはそのまま長い髪を翻して、港のほうへ向かう。レインも彼を追いかけるような形で、港へと足を向けた。数歩もいかないうちにエルファスが足を止めたので、レインも釣られて足を止めてしまう。
「……なぜついてくるんだ」
「いや、ついていってるわけじゃないよ。だって、船に乗るには港に行かなきゃいけないじゃないか」
レインが言うとエルファスは相変わらずのしかめ面を浮かべて、再び港へ向かって歩き始めた。どうやら納得したらしい。
船の時間までまだいくらかある。レインは港の端で船を待った。少し離れたところ――ちょうど人ひとり分の距離――に同じようにしてエルファスが立っている。二人は波止場に設置された転落防止用の柵にもたれかかっているのである。二人はまったくの無言であった。
レインはすっかり参ってしまって、腰をもたせていた柵から尻を上げた。海を振り返ると、ずっと遠くの水面を走る帆船やその少し手前で魚を捕る漁師の小舟が見える。南の島を囲う海は、美しいエメラルドグリーンをしていた。
濃い青色をした空を海鳥が、ニャアニャアとかまびすしく鳴きながら横切って行った。
「……にゃあにゃあって鳴くのはウミネコなんだって。カモメはギーヨギーヨって鳴くんだって」
船乗りのおじさんに教えてもらった、とレインは頭上を飛ぶ海鳥を指さした。エルファスは一瞬きょとんとして、月のような銀色の丸い瞳をぱちくりとさせた。しかし、次の瞬間には眉間にしわを寄せて、
「……だから?」
「いや、それだけなんだけど」
レインはいたたまれなくなって、ついつい語尾が細くなる。ごまかすように笑って、海の方を向く。それと同時に、聞きなれたため息が隣から聞こえてきた。
彼女にしては珍しく、おとなしく説法を聞いていたので、エルファスはてっきり彼女が心を入れ替えたのだと思った。おごりを捨て、力を求めるのをやめて、神にすべてをゆだねる気になったのだと。
ところが彼女は相変わらず傲慢にも、エルファスの眼前に迫った自警団の刃を、力づくでねじ伏せてしまった。
何ひとつ理解していないではないか――とエルファスは憤る。
同じ海辺に立ちながら、エルファスは海を眺めるレインの横顔を見つめた。青い空とエメラルド色の海の狭間に立つ彼女は、一枚の絵画のようであった。黙っていれば、充分に美しい女だと――。
「……にゃあにゃあって鳴くのはウミネコなんだって。カモメはギーヨギーヨって鳴くんだって」
突然レインがそんなことを言い出したので、エルファスは思考の渦から自分を引き上げた。そして、愕然とする。今、自分は何を思った。目の前のこの愚鈍な女に対して、いったい何を思ったのだ。
自然と語気が荒くなる。エルファスの憤りが何に対してのものなのか、想像もついていない様子のレインは、口の中でごにょごにょ言って口を閉ざした。ごまかすように笑って、海の方を向いている。
その少し寂しそうな横顔に、エルファスは釘づけになった。懐かしい姉の横顔が、ほんの一瞬だけ彼女の横顔に重なったからだ。
そんな馬鹿な話があるものか、とエルファスは深呼吸をした。早くなり始めた鼓動が、それで少し落ち着いた気がした。
もう一度、きちんと彼女の顔を確かめようとしたときだ。停泊している船にタラップが掛けられて、港で働く屈強なボルダンの男が乗船の時間を告げた。港でたむろしていた人の群れが、それに合わせて船の方に移動していく。
「あ、もう行かなきゃ」
レインもまた、その人の群れに合流するように歩き出した。あの美しい面影を確かめることはできなかった。エルファスはその場に立ち尽くしたまま、彼女の背中を見つめた。単なる勘違いだ、ただの見間違いだ、とおのれに言い聞かせながら。
ふと、不意にレインがこちらを振り返った。ぎくりとして、心臓が跳ね上がる気がした。
何だこれは……――エルファスはレインを睨み付ける。
「あの、行かないの?」
エルファスの胸中などどこ吹く風で、レインは停泊している船を指さした。どうやら、エルファスも乗船すると思っているらしい。
「行かないよ。船なんか乗る必要がない」
えっ、とレインは驚いたような顔をした。
「……じゃあ、何を待ってたの」
きょとんとしたレインの質問に、エルファスは愕然とした。
いったい、自分は何のために彼女の隣に立っていたのだろう。本来ならば、さっさとテレポートで彼女の前から去っていたはずなのに。いったい――。
エルファスの脳裏に、先ほど見たレインの横顔が思い浮かんだ。そのことに気が付いて、ぞわりと全身が総毛立つ。
「別に何でもいいだろう!」
声を荒らげると、船へ向かう人たちがちらほらこちらに視線をよこす。レインは呆気に取られたまま、ああ、ごめん……と小さく笑った。
戸惑ったような、寂しそうな彼女の笑顔が、エルファスの心臓に杭を打つようだった。
「……何でもない」
詫びにもならないことを言って、エルファスは精霊の小道に逃げ込んだ。
◇ひとこと◇
スケジュールの関係上、本編では書ききれませんでしたが、エルファスのイベントは一通りやってる体でした。
※エルファス生存
天罰
男は悪党であった。簡単な盗みから殺しまで、大方の悪行はやっているような男である。今は似たような仲間とつるんで、街道を行く行商人などを襲っている。日々をまっとうに生きている人間からすれば、社会のダニといってもいい。
その日、男たちが目をつけたのは、ロストールからリベルダムに向かう行商人であった。商人は道中の護衛に冒険者を雇ったらしい。
冒険者は女がひとりであった。たいそう大柄な女で、鈍く輝く胴鎧に身を包んで大きな穂先の槍を肩に負っていた。女は背が高く、連れの行商人よりも大きかった。
体躯は立派だが、年若い女である。組み伏せるには容易いだろう。商人から金と商品を奪って、女のほうはどこぞへ売り払ってやろう――男たちは喜び勇んで旅人たちの行く手に立ちふさがった。
ところがだ。悪党どもの思惑はあっさり砕け散った。この女冒険者がめっぽう強い。四方から取り囲むように襲いかかったが、槍の穂先が閃いたと思ったときには、地面に突っ伏していた。
悪党にも二種類いて、こういうときに面子にこだわって最期まで抵抗するやつと、あっさり逃げ出すやつがいる。男は後者であった。この世の中に自分より腕っ節の強いやつなんぞ、掃いて捨てるほどいる。まさか女に負けるとは予想外だが、それにこだわって命を落とすなど愚の骨頂だろう。
最後に笑ったやつが勝ち――長い悪党人生で男が得た犯罪哲学である。
この女冒険者が『稲妻の何とか』という名のある冒険者であることを知ったのは、その少し後のことであった。
しかし、である。このときを堺にして、男はやることなすこと上手くいかなくなった。仲間の大半は女冒険者にやられてしまうし、憂さ晴らしに入った酒場で一悶着を起こし、駆けつけた憲兵に捕らえられて臭い飯を食う羽目になってしまった。
本来ならば数年は豚箱に入っているはずだったが、大きな戦争が起こって、その混乱に乗じて逃げ出すことができた。男にとって幸いだといえるのは、このことぐらいだろう。
戦火と災害から復興しつつあるリベルダムで、男がチンケな盗みや強盗を繰り返していたある日、彼は例の女冒険者と再会した。といっても、当然彼の方から話しかけたわけではない。遠目に、ちらりと、目にしたのだ。
自分がいらぬ苦労を背負わされたのに、相手は呑気にやっているのを目の当たりにすると腹が立つ。どうにかやり込めてやれないものだろうか――と男は女冒険者を逆恨みした。
名が売れると得することが増える反面、敵も多くなる。男は古いツテを頼ってこの『稲妻の何とか』に恨みを持つ連中を集めてそそのかし、この女を痛めつけてやることにした。
とはいえ、集まった面子で話し合ったところ、女を囲んで襲いかかるというのはどうにも無理そうだということで一致した。酒をほとんど飲まないし、多少飲んだところでちらとも酔わない。数日観察したが、おおよそ、物理的な弱点というものが見当たらなかった。
ただ、女は今は『救世主』を名乗る優男を道連れにしているらしかった。つけ込むとしたらこいつだろう。
男たちは結託し、救世主を誘い出すことにした。こいつを痛めつけて、女を誘い出し、二人まとめてちょっとばかし脅してやろうというのだ。
男たちはいかにもスラムの住人風を装って、救世主を訪ねていった。この男は、貧乏人に無償で治療を施すことがあるという。
表通りの冒険者がよく使う宿屋は、スラム街よりも明るかったが、それでも昼間のようにはいかない。薄明かりの下で見ると、救世主を名乗る男は少女に見えた。
男は仲間のひとりが急病で、ぜひ救世主様に診て欲しいと彼に頭を下げた。
救世主の男は、宿の部屋の奥を振り返って、急病人が出たみたいだ、と道連れに告げた。
「私も一緒に行こうか?」
と女が言う。
「いや。いいよ。僕だけで――」
女まで一緒に来られては大変だったが、都合のいいことに救世主だけおびき出すことができたようた。
男は救世主を連れてスラム街にあるアジトに戻った。アジトといっても、潰れた宿屋を勝手に拝借して、悪党どもの住処にしているだけだ。大通りと違って、スラムは暗闇が深い。満足にオイルランプも使えない屋内は、月明かりも届かないために、いっそう暗い。
病人は奥にいます、と男はその暗闇の中で声を潜めて笑った。奥の部屋には仲間たちがたむろしていて、この男を痛めつける準備をしているはずである。
暗くてすいませんね、などと言いながら、男は腰にぶら下げているオイルランプを取り出した。それと同時に小さな何かが床に落ちた。
「何か落としたようだよ」
長い銀髪を揺らしながら、救世主が身をかがめてそれを拾い上げてこちらへよこしてきた。オイルランプに明かりを灯して確認すると、二つ折りにされた紙片である。中を確認する。
『天がお前を見ている』
何だこりゃ、と男が首を傾げたときだ。点けたばかりのオイルランプの灯が、音もなく消えた。辺りが一瞬で暗闇に沈む。静寂が鼓膜を貫く。この宿はこんなに静かだっただろうか。仲間の連中は何をしているんだろう。いや、宿の外の音まで聞こえないってのはどういう了見だ――?
はっとして顔を上げる。暗い静寂の中に、満月のような双眸が爛々と輝いているのだけが見えた。
「……何やらこそこそと嗅ぎ回っていたようだが、僕に用があるのか? それとも、『彼女』か?」
何だこいつは、と男はのけぞった。男はこれまでチンケな盗みから強盗殺人まで、おおよその犯罪には手を染めてきた。つまり、それなりに修羅場はくぐっている。だからこそ、直感する。この男はやばい。
困惑する男をよそに、まぁいい、と救世主は言った。この暗闇だからどういう表情かはわからないが、声色にはこちらを嘲るような調子が含まれている。
「何にせよ、神を畏れぬ不届き者には、罰を与えなければ――」
◆◇◆
「昨日の急病人は、大丈夫だった?」
レインが尋ねると、ベッドに腰かけて荷物を整理しているエルファスが顔を上げた。安宿の小さな窓から差し込んでくる朝日に、彼の銀髪がきらめく。エルファスは美しい髪を揺らしながら、ああ、と頷いた。
「ただの感染症だよ。ちゃんとしたものを食べて、ゆっくり休めばすぐ治る」
エルファスの返答を受けて、そう、とレインは頷いた。レインには病気のことはよくわからない――そもそもカンセンショウとは何だろうか――が、エルファスが大事ないと言うならそうなのだろう。
「ああ、そういえば、スラムは大丈夫だった? 何かおかしいことはなかった?」
レインの問いかけに、エルファスはキョトンとしている。この分ではスラム街の噂話はまだ彼の耳に届いていないようだ。
「さっきさぁ、怖い話を聞いたんだ。スラム街で人が死んでたんだ」
「スラムで人が死ぬなんて、別に珍しくも何ともないだろう。酒場の裏口で、毎日いかれた酔っぱらいが死んでる」
「そうじゃないよ。殺されてたんだ」
それでも、スラムで人が殺されるのは別段珍しいことではない。強盗や揉め事など茶飯事の場所だからだ。ところが、だ。今朝知った事件はただの殺人ではない。
スラム街の一角によくない連中が根城にしている古い建物があった。潰れた宿屋を勝手に占拠していたらしい。その古い建物内には五、六人の悪党と三人の娼婦がいて、昨夜のうちに全員死んでいたというのだ。これほど大人数が一晩のうちに、同じ場所で死んでいるというのも異常だが、それ以上に奇妙なのは彼らの死因である。
「その人達、溺れ死んでたんだって」
死体を動かそうと持ち上げた途端、喉の奥から大量の水がこぼれ出てきたのだという。それも、澄んだ清水のような水が。
こんなスラム街の奥まった場所にある、古い建物の中で、どうやって――?
水は死体の中にしかなかった。床に一滴も落ちた形跡はなかった。ただ、全員が相当苦しみもがいたらしく、床や壁のいたるところに爪で引っ掻いたような跡が無数に残されていた。中には爪が剥がれてしまっているものもいたそうだ。
「ね? 何か怖い話でしょ」
とレインが同意を求めると、ふーん、と気のない返事が返ってきた。レインはそれにムッとする。
「ちょっとー、もっと興味持って!」
「だって、どうでもいい」
エルファスはいかにも気のなさそうな調子である。まるで、猫じゃらしにじゃれつくのに飽きた猫のような顔だ。エルファスは肩にかかる長い髪を払いながら、小さく息を吐いた。
「……大方、天罰でも下ったんだろうさ」
◇ひとこと◇
エルファスのアンサツ=ジツ! チンピラはしめやかに爆発四散!
猫と女将
仕事で長らく家を空けていた娘が帰って来た。
娘は冒険者だが、定期的に家に戻ってはたくさんの土産物を持ってくる。大抵はその土地の名産品だが、娘は工芸品や民芸品を買うのが好きらしい。店内のいたるところには、娘が大陸中から集めてきた土産物が飾られている。アキュリュースで買ってきたミズチのガラス細工や、アルノートゥンの石人形、炎竜岩の塊――土産物屋に売っているが、実用性はまるでなさそうなそれらをわざわざ買ってくるのだ。これらを店内に飾りたがるおかげで、店の無国籍感が増している。
だが、魔人がやっている飯屋としてはちょうどいいかもしれない。
「猫屋敷?」
アスティアがカウンターの向こうの娘にオウム返しすると、うん、と娘は頷いた。その勢いのまま、残り物のシチューを使ったパスタを頬張る。名指しで仕事が舞い込むくらいには一端になったのに、リスみたいに頬を膨らませて食べるその姿は、幼いころからあまり変わっていない。
「そう。村を出た頃にすごく世話になった人がいるって話をしたじゃない。ていうか、お母さん、猫屋敷を知らない?」
娘が持ち帰るのは土産物ばかりではない。土産話もそのひとつだ。
レインは仕事で訪れた町や、道中であった四方山話をよく披露する。そういえば、彼女は昔も誰それと何をして遊んだとか、よく報告していた記憶がある。話の内容こそ変わってしまったが、妙な懐かしさを感じる。
レインは猫屋敷に寄ってきた、と言った。確かに、アスティアが眠りについていた間の話によく出てきた名前だが、訪れたことがあるわけではない。
幾万もの昼と夜を通り抜けてきたが、まだ知らないことがある。世界とは恐ろしいものだ。
「知らないなぁ。あんたの話で聞いたのが初めてよ」
「猫屋敷には賢者様が、いるんだけど、村を出たころからとてもよくしてくださってね。今でも、よく寄ってる」
私の部屋もあるんだよ、とレインが言った。
娘はそれがさも当然のことのように語るが、母親としては心配である。
どんな人なのかしら?
いったい何の目的で娘に親切にしてくれたのかしら?
いや、それよりも、そんなによくしてくれているのに、娘は祖そうをしていないかしら?
聞けば、娘はしょっちゅうその屋敷にお邪魔して、別に何をするでもなく、寝食を厄介になっているという。
「……あんた、それ、大丈夫なの?」
「何が? あっ、そうそう。ネモがいるんだよ」
は?――とアスティアは聞き返した。よく聞こえなかった。
「猫?」
猫屋敷というからには猫がいるんだろう、と思った。
「猫でもあってるけど……ネモだよ。魔人のネ・モ!」
ネモ?――懐かしい同僚の名前に、思わず調理の手が止まる。あいつ、てっきりこの前の戦争で滅んだと思っていたけれど、現世に残っていたのか……。
内心の焦りが顔に出ていたのか、娘は軽く肩をすくめて、心配いらない、と言った。
「今は猫になってのん気に暮らしてるよ」
「ネモが猫になってる?」
娘の説明はアスティアにとってはちんぷんかんだ。魔人が猫になるだなんて、おとぎ話じゃあるまいし――……。
意識せず妙な顔になっていたらしい。昼飯を食べ尽くしたレインは空になった皿を手に立ち上がって、
「じゃあ、会いに行ってみる? お母さんのテレポートならすぐだよ」
◆◇◆
仕事で長らく家を空けていた娘が帰って来た。
あの息子と違って、娘はよく土産物を持ってくる。大抵はその時節の旬のものになる。たまには、いい布やら道具やらを買ってくることもあるけれど。
今回はアキュリュースに行っていたらしく、風桜の実をバスケットにいっぱい詰めて持って返ってきた。今日のお茶請けにはちょうどいい。残ったものはジャムにしてしまおう。
「――それでね、偽りの森の奥に小さな村があって……名前は何て言ったかしら――そこにそんな辺鄙な村にしては結構大きな宿屋があって、酒場も兼ねてるんだけどそこの料理がめちゃくちゃ美味しかったのよね」
娘はあまり土産話をしない。それが仕事上の守秘義務のためなのか、それとも父親に心配をかけないためなのか、オルファウスには判断がつかないが、ケリュネイアが話したくないものをあばこうとは思わなかった。
ただ、まれに、旅先であったことを話してくれることがある。どこそこで食べた何々が美味しかったので家でも作ってみたいとか、どこそこの景色で珍しいものを見たとか――森からあまり離れようとしない父親の目となり耳となって、娘は世界を語ってくれる。
オルファウスはこの世界とともに長く生きたが、それでも娘の口から語られる世界は知らないものばかりで、それがとても楽しい。
「そうですか。それはいい穴場を見つけましたね」
「女将さんが一人でやってたけど、娘さんが一人いて冒険者やってるらしい」
家持ちのくせに冒険者になるなんて変わってるわね、と娘は風桜の実を口に放り込んだ。
「それをあなたが言いますかね」
オルファウスが呆れて茶をすする。娘はそれに聞こえなかったふりをして、風桜の実の種を口の中から取り出している。
「でも、料理は美味しかったけど、店の中が……何ていうか、ごちゃごちゃしてたわ」
「ごちゃごちゃ?」
「統一感ないっていうか――ほら、土産物屋で売ってる謎の置物があるじゃない? ああいうのが何かいっぱい置いてあった」
ミズチのガラス細工はアキュリュースの土産物だし、南国の木の実で作った人形はエルズの土産だ。ケリュネイアはその飯屋で見た土産物を指折り一つひとつ上げていく。確かに、聞く限りでは多国籍すぎて統一感はないかもしれない。
「あれ、娘さんが買ってくるのかしらね」
何となく聞きそびれた、とケリュネイアは締めくくった。
そのちょうどよいタイミングで、白猫がとことことリビングを横切って玄関戸の方へ歩いていくのが見えた。どうやら来客らしいが、彼がそれを出迎えようとするのは珍しい。白い三角の耳をそばだてているが、警戒している風ではない。――なるほど、何やら妙な気配がある。
オルファウスが席を立って、玄関戸を開けるとネモが先にポーチに歩み出た。庭へ降りる階段の端で腰を下ろす。
森の木々が作る緑のトンネルの向こうから、二つの人影がこちらへ歩んでくるのが見えた。
◆◇◆
「不思議な場所だわ」
賢者の森を歩きながら、アスティアは周囲を見回した。見てくれはただの森だが、道を隠すように魔法を敷いている。木と木の間に蜘蛛が糸を張るように、不可視の魔法の糸が張り巡らされている。隙間なく張られたそれらを避けて歩くのは困難だ。見えない者――たとえば娘がそうだが――ならなおさらだろう。
「ああ、何か、結界?――を張ってるとか何とか言ってた」
アスティアを先導するように少し前を歩くレインは、呑気な様子でそういった。肩越しにこちらを振り向きながら、迷うことなく森を歩いている。獣道に張り出した木の根を乗り越える拍子に、魔道で紡がれた不可視の糸を、体でぷつりと切った。森は糸を切った相手によって、道を組み替えている。レインが魔道の糸を切った途端に森が形を変えて、曲がりくねった獣道を歩きやすい下生えの生えた森の小道へ変化させそこを歩くものを導いていく。
アスティアのように魔道に明るければこの糸をたどって、大元までたどり着くことはできるだろう。だが、それは魔人の力を持ってしても、非常に面倒臭そうである。偽の糸を巧妙に混ぜている。正解の糸だけを選別するのは骨が折れそうだ。
また、ちらりと見ただけだから何とも言えないが、どうやら正解の糸にも罠を仕掛けているようだ。こういう魔道はエルフがよくやるが、ここまで意地の悪いのは見たことがない。
「猫屋敷の賢者様はひょっとしてエルフ?」
「よく分かるね。エルフの偉い人だよ」
えぇーっと、何ていったかな、と娘は記憶を探っている。
「クィーダ?」
「そうそう。そんなやつ」
クィーダがエルフの森から離れるものだろうか。どちらにせよこの森の主は相当に変わり者で、相当偏屈な人物だ。そんな人物が、よく娘の手助けとなってくれたものだ。
レインが森を進むたび、森はその姿を変えて彼女を先導していく。そのうちに、古い木々が枝葉を伸ばしてトンネルを作ったような場所に出た。足もとは均されていて、人の手が入っていることがわかる。
トンネルの向こうにはきれいに整えられた小さな庭が広がっていた。レンガを並べて作られた花壇はよく手入れされており、時季の花々が風に揺れている。この庭の上だけ森の木々が途切れていて、青空がこちらを覗き込んでいた。
庭の向こうには、古いが手入れのされた平屋の屋敷が建っている。その玄関ポーチにローブ姿のエルフと奇妙な模様の白猫がじっとこちらを観察していた。
「あっ」
と、アスティアが足を止めたので、先に庭に入ったレインがこちらを振り返った。だが、アスティアの視線は玄関ポーチに立ったエルフと白猫から外れていない。
その視線を受けて屋敷の主人はニィと笑った。
「おや、まぁ、これはこれは……懐かしい方がいらっしゃいましたねぇ」
そう言って、屋敷の主人らしきエルフがくすんだ緑色のローブの袖で口もとを覆った。
何てことかしら!――アスティアは左右で色の違う瞳を、目玉がこぼれ落ちるんじゃないかというほど見開いた。
「あなた! パルシェンじゃないの!」
庭を横切って、ポーチから降りてきたエルフに指を突きつけると、彼は新緑色の瞳を細めて口角を持ち上げた。
「ええ、お久しぶりですねぇ。こちらで会うのは初めてでしたか」
エルフのパルシェンは、いつかの面影など微塵もない様子でにこりと笑った。いや、面影はある。エルフの中でも際立って美しい面は、当然アスティアが彼と交流を持っていたころと変わっていない。だが、雰囲気が――。
眼の前の男は、何だかすっかり落ち着いてしまっていた。アスティアがまだ冥界を統べていたころ、生と死の道理を捻じ曲げては彼女の怒りを買っていたあのころのエルフの悪ガキと結びつかない。
だが、この森に張り巡らされたあの底意地の悪い結界には、在りし日のパルシェンが思い浮かび、妙に納得してしまう。だが、驚きすぎて二の句が継げない。大きく開いた目をパチパチと瞬くばかりだ。
「あれ……お母さん、オルファウスさんと知り合いだったの?」
ぱっくり口を開けたまま呆気に取られて立ち尽くすアスティアを、レインが覗き込んでくる。その声に、アスティアは我を取り戻した。
「え、ええ……まぁ、大昔にね」
果たしてこの何も知らない娘にどこから説明したものか――いや、説明したところで理解できるかどうか。
「若いころには、エルフの小僧ぶぜいが、とよく叱ってもらったものですよ」
パルシェンはそう言って、ニヤリと笑みを浮かべる。そのいかにも意地の悪そうな面に、かつての悪ガキの面影を見た。
「小僧?」
娘は眉をひそめて、首を傾げている。小僧……小僧……と口の中で何度か呟きながら、パルシェンを見つめる。どうにも、このエルフの若き――エルフに若いも老いもないのだが――日というのが、想像つかない様子である。
「まったく、方々でやらかしてんな、お前は」
玄関ポーチに腰掛けていた白猫が、ぼやきとともに足音を立てずに階段を降りてきた。
◆◇◆
「よう、アスティア。久しいな」
緑の下生えの上からネモがアスティアを見上げた。魔力を帯びた琥珀色の猫の目が、怪しげにギラリと光る――と、
「ぶーっっ! 嘘でしょ、あんた、ネモ!?」
アスティアは吹き出して笑った。猫らしからぬネモの眼光も何のその、膝を折って、小さな元同僚に目線を合わせるようにする。すっかり落ちぶれたこの白猫に、笑いが止まらない様子である。白猫の小さな体を持ち上げて、その柔らかな獣の体を確かめている。
ネモは白くて細いしっぽをわずかに膨らませて、小さな牙を剥いた。
「あんだよ!?」
「ああ、おかしい! あんた、すっかり可愛くなっちゃって!」
アスティアは笑いながら、ネモの丸い顔を両手で包むようにして柔らかい毛をもてあそんでいる。やめろよ、とネモが抵抗するものの、小さな獣の力は通じないようだ。アスティアは相変わらずケタケタ笑っている。
「変わっちまったのはお前も同じだろ。ミーハーなおばはんになりやがって! 放せっ。いい加減、放せよ!」
「あぁ?」
「いってぇ! ひげを引っ張るな!」
アスティアが猫の細ひげを強く引っ張るので、ついにひげが一本抜けてしまった。ネモはぎゃっと悲鳴を上げて飛び上がった。さっと身を翻して、オルファウスの足もとに隠れてしまう。ひげが抜けた痛みをごまかそうと、必死で顔を洗っている。
女魔人は抜けた猫の白ひげを、指先でぴんっと弾き飛ばすと、夕焼けと森の色をした双眸をオルファウスに向けてきた。何やら言いたげだが、口をつぐんだまま何も言おうとしない。
ふと、背後の屋敷の玄関戸が開いた。振り返れば、ケリュネイアがひょっこり顔をのぞかせている。
「ちょっと、父さん。いつまで庭先で話してるの。お茶が入ったから、お客さんを――あれ?」
ケリュネイアはアスティアを認めると、あなたこの間の女将さん、と言った。どうやら彼女もアスティアに覚えがあるらしい。
世界は広いが世間は狭いとはよくいったものだ。妙な縁があったらしい。これだから世界は面白い。
ああ、そうでしたね、とオルファウスは手を叩いた。
「まずはお茶にしましょう。積もる話もありますからね」
どうぞ、とオルファウスが促すと、アスティアは立ち上がってぼんやりと屋敷を見上げた。何かを確かめているような、そんな顔をしている。
「お母さん、行こうよ」
いつまでも動かない母を見かねたのか、レインが彼女の手を引いた。彼女らにとっては当たり前なのだけれど、あの冥府の女王が『お母さん』と呼ばれているのは、なかなか面白いものがある。
いや、それは自分も一緒か――とオルファウスは我が身を振り返る。きっと、アスティアの目にも、この自分が父と呼ばれていることが奇妙に映っていることだろう。そう考えると何だか少し、くすぐったいけれど。
お互い長く生きて争うこともあったが、こうして歩む道が交わったのは幸運なことだ。ここまでのその道程を茶請けに、今はひとまずお茶にしよう――。
◇ひとこと◇
アスティア母ちゃんやオルファウスさんをひとり残して大陸を出るのが心配なので、茶飲み友達になってて欲しい。
※エルファス生存
卵
母の胸に抱かれたことがない。
母は自分を生んですぐに死んだらしい。特別に体が弱いということはなかったが、子供を生むには少し歳を取りすぎていたために最後の出産に耐えきれなかったのだそうだ。
敬虔な人だった、と聞いた。きっと、予言に示されるまま父と夫婦になり、子を生んで死んだのだろう。果たして、この夫婦の間に愛があったかどうかは、エルファスの知るところではない。
エルファスの周りには顔のない暗殺者しかおらず、物心ついたころに自分を抱きしめてくれるのは姉だけだった。姉の腕の中は暖かくて心地よかった。
姉の手を握るとどこまでも行ける気がした。玉のような姉の手を取って歩くと、それだけで万能な気分になれた。
小さなエルファスは姉の手を引いて、施文院の大聖堂の庭を歩いた。春の日差しは柔らかく、青空には鳥が歌い、庭には鮮やかな花が咲いている。エルファスはその花をひとつ手折って姉に差し出した。
黒いヴェールの向こうで姉が微笑んだ。姉の微笑みの前では、春の日差しも、小鳥の歌声も、隆盛を極める大輪の花も――すべて霞んでしまう。幼いエルファスでもわかる。姉は、この世のあらゆるものの中で一番美しいのだ、と。
そして、そんな彼女から愛してもらえるのは、自分だけなのだ、とエルファスはその光栄を自覚している。繋いだ手から伝わる温もりが、エルファスにそれを知らせてくれるのだ。
大聖堂の庭は高い石壁に囲まれていて、教会の中に入ろうとすると、一気に周囲が薄暗くなる。石壁の作る影は重苦しく、あれほど輝いていた青空も、影の中から見ると何となく寒々しいような色をしている。庭に咲いた花々も、何だか作り物のような色をして見えた。
姉の手が離れた。反射的に振り仰ぐと、姉は少し離れたところに立っていて、じっとこちらを見つめている。彼女の美しい面を守る薄いヴェールが、春の強い風になぶられて揺れている。わずかに持ち上がった薄紗の隙間から、紅も塗られていないのに美しくきらめくイズの唇が覗いた。
「姉さん?」
エルファスは震える声で小さく姉を呼んだ。何だか嫌な感じだ。胸の奥がざわついて、心臓がドキドキと脈打ち始めた。
ヴェールの裾がひらりひらりと風に揺れる。その向こうにちらりと覗く唇が開いた。
「姉さん、そこには行けないわ。そこは狭すぎるもの」
え?――姉の言葉が理解できず、エルファスが聞き返した瞬間だった。辺りの様子が一変した。見えない絵筆が黒い顔料を塗ったように、エルファスを取り残して周囲が暗闇に変わった。大聖堂を囲う石壁も、光漂う庭も、まばゆい空もない。
不思議なことに、姉の周辺にはまだ光が残っている。闇色の顔料が尽きてしまったのか、エルファスのいるこちら側は真っ暗なのに、イズの立つ側には景色が残っている。光も、風も、空も、大地も、何もかも――イズの周囲には存在しているのに、エルファスの傍には何もなかった。そう――姉でさえ、傍にはいなかったのだ。
エルファスは急に恐ろしくなって、荒い息をついた。吐いた息が白い。だが、その白もすぐに闇の中に溶けて消えてしまう。この場所は、真冬のような寒さであった。
今すぐ姉に抱きしめてもらわなければ、凍えてしまう。エルファスはすぐさま駆け出して、イズに飛びつこうとした。だが、姉に駆け寄ろうとした途端、不可視の壁のようなものに阻まれて、その場で蹴つまづいてしまう。
氷の張ったような冷たい地面に這いつくばりながら、エルファスは姉を見上げた。きっと姉はエルファスを心配して、すぐに歩み寄ってきて抱きしめてくれるに違いない。
だが、イズは――こちらを見てもいなかった。彼女は、たとえば空の果てのような、どこか遠くを見つめている。エルファスのことが見えていないどころか、その存在すら忘れてしまったようだ。
「姉さん! 姉さん!」
エルファスはその場に膝をついたまま、小さな手を光と影の境界にある見えない壁に這わせて、あるいは拳を叩きつけながら、何度も姉を呼んだ。小さな胸の奥がざわざわして、痛いほどだった。このままでは、何かよくないことが起こる気がする。姉が、本当に自分のことを忘れ去ってしまう。
焦っても、泣いても喚いても、どうすることもできない。壁は消えないし、姉がエルファスのもとに来てくれることもない。
強い風が彼女の美しい顔を覆うヴェールを揺らしている。
庭の奥の茂みを揺らして、誰かがやってくるのが見えた。その光景にひどく胸がざわついて、見ていられなくなる。涙で視界がにじむ。エルファスが思わず顔をうつむけると、ぽとりぽとりと涙の粒が目の縁からこぼれ落ちた。
二人分の足音が遠ざかっていくのが聞こえる。足音は一度も止まらないまま、やがて聞こえなくなった。姉は行ってしまった。小さなエルファスを、暗く、狭く、冷たい場所に置き去りにして。光り輝く春の庭からやってきた知らない男の腕に抱かれて、行ってしまった。
エルファスは、しばらく、その事実が信じられずに、その場に座り込んだまま泣きじゃくった。あるいは、ひょっとしたら、姉が戻ってきてくれるのではないかと、根拠のない期待を抱いてその場に留まっていた。
だが、やがて、自分の涙が溢れる音しか聞こえないことに気がついて顔をあげると、大聖堂の庭はすっかり消え失せていた。あたりは完全な暗闇で、もはや天も地も存在していない。流した涙も見えない。
何だか、世界でたったひとり取り残されてしまったようだと思った。あるいはそれは、単なる比喩ではないように思われた。
◆◇◆
エルファスは辛くてつらくて、悲しくて。その場でうずくまって膝を抱えた。そうしなければ、凍えるような寒さで死んでしまいそうだったから。それでも指先から感覚が失くなってきて、痛みばかりが体中を満たしていく。その痛みは耐え難く、エルファスはもはや何も考えられなくなってしまった。
エルファス自身も自分が起きているのか眠っているのかわからないような、まんじりとしたまどろみの中にあった。目を開けようと思わないでもなかったが、まつげに霜が降りているみたいにくっついてしまって、いっかな目が開かない。
いっそこのまま眠ってしまえば、こんなわずらわしい思いをしないですむのではないか。そうやって意識を手放そうとするのだが、今度は誰かが話しかけてくる。
「ちょっと。ねぇ。ちょっと」
うるさいなぁ……――とエルファスは顔をしかめた。その拍子にあれほど開かなかったまぶたが開いた。瞳を閉ざす前は真っ暗闇だったはずだが、ほのかに明るい。何度も瞬きをして、周囲を見回す。頭上のずっとずっと高いところから、白い光が差し込んでいる。ちらちらと揺れているのが、水面のようだと思った。ここに届く光は大した強さではないはずなのに、ずっと閉ざされていた瞳には眩しすぎた。
明かりはそれきりで、エルファスの周りをかろうじて照らしている程度である。周囲は相変わらず顔料を塗ったような暗闇で覆われていて、大聖堂の庭がどうなってしまったのか、ここがどこなのか、まったくわからない。
エルファスはつるりとした冷たい――白大理石のような――地面に座り込んでいて、彼の前には女が立っている。両手に白い大きな花弁のような何かを抱えていた。
「ねぇ、これもらっていい?」
女はそう言って、両手に抱えた白い何かを差し出してくる。花びらに見間違えたそれは、細かく割れた卵の殻であった。よく見れば、エルファスの周りに白い卵の殻が無数に散らばっている。
「……そんなものは知らない。勝手に持っていけ」
エルファスがかすれた声で吐き捨てると、へぇ、と腑抜けたような返事がある。そして女はエルファスを気にも止めないで、卵の殻を拾い始めた。
エルファスはしばし、ぼんやりとその女の行動を見ていた。女に見覚えはない――というより顔が見えない。あるときは闇に紛れてしまい、あるときはちらつく光が眩しくて、どうにも女の正体はつかめないのだ。
その知らない女は、エルファスの視線に気づいていないのか、黙々と卵の殻を集めている。服の余ったたるみの部分を使って袋のようにしていて、うまいことやるもんだなと感心した。
「そんなもの拾って、どうするんだ……?」
ポツリとこぼしたつぶやきに、女が動きを止めた。こちらを振り向いた気配があったが、やはり顔は濃い闇に紛れてしまって、確認できない。
「畑に撒くんだよ。肥やしになるから」
女はそう言って、少しだけ沈黙し、知らないの、と首を傾げたようだった。
知らない、と応じると、女は一歩こちらに近づいてきた。
「ねぇ、あなた、こんなところで何をしてるの?」
女はいっそう疑問に思ったようなふうで首を傾げた。はっきりこちらを向いているのに、頭上から差し込む光が影を落として、やはり顔はよくわからない。女が動くたびに、抱えた殻がカサカサいった。
「……――姉さんを、待ってる……」
知らない女に自分の事情を話すなんて、いつもの自分では考えられない。けれども、この場は寒くて暗くて寂しくて――この知らない女にでもすがらなければ、壊れてしまいそうだった。
女はエルファスの支離滅裂な話を辛抱強く聞き、笑わなかった。そう……と小さく頷いて、
「じゃあ、探しに行こうか」
と、さも自然な動作でエルファスの手を取った。女の手は火のように熱く、取られた手が火傷するかと思った。驚いて、振り払おうとしたが、女の手は焼き付いてしまったかのようにエルファスの腕から離れない。そのうち、彼女の熱がエルファスに移ってきたようで、先程までの寒さが嘘のように心地よくなってくる。
もうずいぶん遠い昔、姉と歩いたあの春の庭のようであった。
「探すって?」
「お姉さんをだよ。こんなところにいたら、お姉さん戻ってきても、気づかないよ」
こんなところ――と言いながら、女は顎でエルファスのいる場所を指し示した。それにつられて、自分の足元を見ると、ひび割れた卵の殻のようなものがある。卵の殻は巨大で、おおよそアクィラの卵くらいあった。人間が膝を曲げて座り込めるくらいの大きさである。
ひょっとして、かつて自分と姉を隔てた不可視の壁は、この殻だったのだろうか。自分は、この殻の中に入っていたのだろうか。いったい、いつの間に……?
エルファスは卵の殻を注視したまま固まった。無機質な卵の殻が、不気味な怪物に見えて恐ろしかった。不意に、腕が小さく引かれて、ようやく我に返った。
「どうしたの? 行かないの?」
顔を巨大な卵の殻からそちらに向けると、エルファスの手を握ったまま女が不思議そうにしている。顔は相変わらず判然としないが、雰囲気が何となく伝わってきた。
「……卵の殻は――もういいのかい」
と尋ねると、どうせまた来る、と女は言った。
「こんな寂しいところにまた来るのか」
エルファスは言外にその目的を尋ねたが、女はただ頷いただけで、詳しい説明はしなかった。エルファスの意図に気づかなかったのか、あるいはあえて無視したのかはわからない。だが、何となく尋ね直すのがはばかられて、エルファスは口を閉じた。
じゃあ、行こうか――と、女がエルファスの手を引いた。姉はもう戻ってこないのだ、と絶望していながらも、心の何処かで姉がここに戻ってくるのではないか、と未だに期待していないでもなかった。それでも女の温もりは離れがたく、エルファスには抗うすべがない。
エルファスは女に手を引かれて、暗闇の中を歩き始めた。あたりは相変わらず冷え込んでいて、しんと静まり返っている。二人分の足音が、闇の中に吸い込まれていった。自分の手を引く女の手がなければ、自分の存在すら見失ってしまいそうになる。
では彼女はどうなんだろう。自分は彼女の温もりが、寒さを退けてくれているが、彼女は寒くないのだろうか。
遠慮がちに手を握ると、応じるように女の手が握り返してきた。それが――なぜだか、とても尊いような気がして、エルファスは暗闇の中で、気付かれないように嗚咽を漏らした。
◆◇◆
……――というような夢を見た。
目覚めると視界に入ってきたのは暗闇ではなく、薄暗い安宿の天井であった。煤けた太い梁が、窓から差し込む光にわずかに形を浮かび上がらせている。首を巡らせて見れば、窓の外はまだ白み始めたばかり。曙光が僅かに夜の天幕を押し上げているような状態である。
エルファスは薄闇の中で粗末な薄い夜具に包まれていて、すぐ隣には妻が寝ている。シーツの上に広がった彼女の黒髪は、ちょうど墨を垂らしたようだ。
大きな瞳を閉ざして眠るレインは、陶器製の冷たい人形のようである。妙な夢を見たせいだろうか。エルファスは急に不安になって、そっと彼女のなめらかな頬に触れてみた。柔らかく、温かいことにほっとする。
夢の中で手を引いた女が、果たして彼女だったどうかはよくわからない。夢とうつつはお茶に注いだミルクのように混ざりあって、今や混濁した曖昧な記憶があるばかりだ。夢で見た女のことを思い出そうと試みても、たとえばそれはお茶に混ざったミルクだけを飲むような、困難なことであった。
けれども、どうせ自分が見た夢だ。影響があるのは自分だけならば、好きなように解釈してしまおう。
そのうち、寝息を立てていたレインが身じろぎした。長いまつげに縁取られたまぶたが重たげに持ち上がり、旭光に照らされる空と同じような色の瞳が現れる。視線が合った。
「ごめんよ。起こしたね」
エルファスが詫びると、彼女はうーんと唸りながら、首をもたげて窓の外を見た。
「……何だ。まだ暗いじゃないか。もう少し寝ていようよ」
言うなり、エルファスの腕を取って寝台の中に引きずり込んでしまう。抵抗せずにされるがままにしていると、レインはエルファスを掻き抱くようにして再び眠り始めた。
頭のすぐ上からレインの寝息が聞こえてくる。眼の前にはそれに合わせて上下する彼女の乳房がある。引き寄せられるようにそこに顔をうずめると、柔らかくて温かくて、何とも言えず心地がよい。
母の胸に抱かれたことがない。母の温もりを知らない。エルファスが知る温もりは、姉の手だけだったのに。その姉も知らない男の手を取って、今は冷たい墓土の下だ。
姉は知っていたのだろうか。自分の行く先を――そんなことを考えることが増えた。レインと出会う前は姉のことを思うと、悲しさと悔恨と恐怖ばかりに苛まれていたのに。
柔らかな肉の向こうで、妻の心臓が脈打っている。その心地よいリズムを聞きながら、考える。
自分ならどうするだろう。彼女に手を引かれて辿り着く先が墓の下だったとしたら。
たとえ行く先が墓土の下だったとしても、この温もりは離れがたく、もはや、暗闇めいたこの世を渡っていくには、彼女がいなければ不可能だ。彼女という光がアスラータよりもなお明るく、この世を照らしてくれるから、世界は色を持ち鮮やかに映るのだ。
自分はレインという光が温もりを与えてくれるから、冷たい闇の底でも凍えずに生きていける。でも彼女はどうなんだろう。ちゃんと自分の体温を感じてくれているだろうか。凍えてはいないだろうか。
エルファスは眠るレインの腰に腕を回して、彼女を暗闇の冷たさから守るように抱きしめながら、再び目を閉じた。
◇ひとこと◇
殻から産まれたての救世主は、初めて見たものを光だと思ってついていきます。