冒険者になって、多くの怪物を見てきたが、イズキヤルは変わった怪物だった。まず言葉を話すし、笑ったり、怒ったりする。はっきりとした知性や感情があった。
昔はイオンズとひどくやりあったというが、レインが知る彼からはちょっと想像がつかない。
何て言えばいいんだろうな、とイズキヤルは紅玉髄のような四つの目をしばたかせた。
「あのころは、人間が憎くて憎くてたまらなくてよ。別に何をされたってわけじゃねぇんだ。生まれ落ちたときから、お前らが憎かったのさ」
たとえば、人間の赤子が誰に教わるでもなく立ち上がろうとするのと、同じようなものだ。闇から生まれた怪物は、誰に教わるでもなく人を憎む。身の内に宿す魂に、そうあれ、と刻まれている。
そう思っていた、とイズキヤルは大きな頭を傾げた。
「でも、違うんだなぁ。生き方ってのは選べるんだなぁ。もちろんよ、オレは運がいいんだろうさ。でもよ、そういう風に生まれちまったからって、全部あきらめちまうのはよ、ちょっともったいねぇなって思うんだなぁ。自分で選べるものもあるかもしれないのに――」
優しい怪物は、大きく裂けた口をにぃっと持ち上げて、ゲッゲッと不気味に笑った。真っ赤な飛び出た目玉が、ぎょろぎょろと動いている。
そんなお前に、何があったのだ――怪物が飛び去った夜空を見上げて、レインは震えた。
鬼ごっことかくれんぼが好きな優しい怪物が、なぜ突然、人に対して牙を向いたのだ。呆然と立ちすくむレインのもとへ、続々と被害報告が届く。陣内は慌しく、喧騒である。
朱雀軍の損害は軽微だった。怪我人は出たが、重傷者はいないし、死者も出なかった。ただ、天幕と物資がいくつか燃えてしまった。
レインは被害を確認して、怪我人の治療をしている天幕から出た。あとは治癒魔法が使える者に任せておいて大丈夫だろう。
まだ夜明けには遠い陣内には、煌々とかがり火が焚かれている。せわしなく走り回る兵士たちの喧騒が、闇を山影に追いやっていた。その喧騒の一部となって、足早に陣内を横切っていたレインの目に、ふと、呆然としているイオンズが入ってきた。小さな天幕の傍に置かれた木箱に浅く腰かけて、うな垂れるようにして地面を見つめている。
イオンズ――レインが呼びかけながら近づくと、彼はちらりと頭を上げた。
「ああ、レインか。すまん。まだ少し、酒が残っておるようじゃ」
頭巾に覆われた頭をかきながら、イオンズは力なく笑った。落ち込んでいるというより、まだ混乱しているのだろう。
「イオンズ、これからアンギルダンのところへ報告にいかねばならない。どうする。一緒に来ないか」
「……わしが行ってもいいのか」
「どうせイズキヤルのことを報告しなきゃならない。私より、あんたのほうが詳しいだろうし――……そっちのほうがいいだろう」
自分の知らないところで、友人の処断が決められるよりは――。
そのレインの心意気を汲み取ったのか、イオンズは、ありがとう、と立ち上がった。
レインはイオンズを伴って将軍の天幕へと向かった。アンギルダンの天幕は陣地の中でもひときわ大きく、人の出入りも多い。
入り口にかかった垂れ幕を右腕で払いのけながら天幕に入ったレインは、その場で足を止めた。後ろに続くイオンズが、訝しげな視線を送ってくるのがわかったが、レインは顔をしかめて天幕の奥を睨みつけた。
天幕の中にいたのは、アンギルダン、朱雀軍の将官、白虎軍の副将、その随伴、そして――夜闇のような黒髪の少年であった。
レインには彼に見覚えがある。近くはアトレイア姫に光をもたらすときにレインに接触を持った。そして、古くはヴァシュタール復活の際に関わった。少年シャリは、出入り口に立ったレインに気づいて、くすくすと笑った。切れ長の目を、三日月のようにしている。
「レイン、被害の報告を」
アンギルダンはレインの様子がおかしいことに気づいたのかもしれない。わざと、強い調子でレインを促した。レインはシャリを睨む瞳の強さを押さえずに、アンギルダンの傍に寄った。その後ろをイオンズも付いてくる。
「損害は軽微だ。怪我人は出たが、大したことはない。あの怪物に関して、イオンズが詳しい。つれてきた」
レインはそれだけを言うと、将官が譲ってくれた将几に腰を下ろした。シャリとの距離が縮まった。甲冑は身に着けたが、槍は携帯していない。今、槍が手元にあったなら、レインは彼の首もとに穂先を突きつけていたかもしれない。
「ふむ、イオンズ殿、聞かせてもらえるかな」
アンギルダンに促され、イオンズはイズキヤルの過去を語った。彼がティラの娘と呼ばれる闇の怪物であること。彼とやりあう内、友情を深め、小さくなる魔法と名を与えたこと。そして、イズキヤルの意志がなければ、あの魔法は解けないこと――。
「えっ」
語られた真実に思わず声が出た。アンギルダンに訴えるように語るイオンズを見上げる。彼は勧められた将几に腰かけようともしていない。
「つまり、そのイズキヤルという怪物は、自らの意志で、魔法を解き、ディンガル軍に攻撃を仕掛けたということですな」
白虎軍の副将に言われ、イオンズは激しく頭を振った。
「それは……理屈ではそうなるやもしれん。だが、あのイズキヤルに限って、人を襲うようなまねはせん」
「人を襲っていたから、かつてお主が討伐に出たのだろう? それに何より、なぜその怪物の存在を、我が軍に秘匿していたのだ」
「これは人の戦じゃ。怪物のイズキヤルには関係ない」
どうだか、とコーンスの副将は言った。イオンズの言葉を受けて、副将の隣に控えていたシャリがくすくすと笑った。
「アルノートゥンがやらせたんじゃあないの? 町を制圧しようとした軍と戦って、ってお願いしたとかさー」
それはない――レインはシャリを睨みつけた。
「交渉は和睦に向けて進められていた。アルノートゥン側が、わざわざ戦を起こす必要はない」
確かに、イズキヤルの力は脅威になるだろう。だが、イズキヤルが彼の意志でこちらを襲ったとはどうしても思えない。イズキヤルは賢いのだ。たとえ、町民に頼まれたとしても、自分が軍を襲えば己はおろか町にどんな被害をもたらすのか、わからないやつではなかった。
「どうかなぁー?」
シャリは首を傾げながらニヤニヤ笑う。彼が動くと、絹織物のような黒髪がさらさらと衣擦れにも似た音を立てた。
不愉快だ、とレインは思う。色惑の瞳の一件では盲目のアトレイアへの同情心から手を貸したが、シャリは過去に一度、あのエステルを拐かすという大事件を起こしている。母のときもそうだが、レインはこの人形めいた小僧が好きになれない。
「貴様、何をしたのだ」
終始ふざけた態度のシャリに、レインは詰問するような、強い調子を発した。眉間に深いしわが寄る。だが、シャリはひょいっと大げさに肩をすくめただけだった。
「そもそもさぁ、アルノートゥンは嘘をついてるよね。聖光石の廃鉱、クズ石しか採れないなんて嘘だよねー」
「嘘など、ついてはおらぬ」
顔をしかめたイオンズに、シャリは芝居がかった動作でちっちっちっと指を振った。
「あるよね。聖光石の生きた鉱脈。そこで眠ってるんでしょ? 邪竜イシュバアルが」
イオンズがぎょっと体を強張らせた。シャリの語ることの真偽を、レインも知らない。だが、イオンズの反応は驚きである。誰も知り得ないはずの真実を、なぜこの小僧が知り得ているのか、という驚き。
「それは由々しき事態だ。あの怪物もろとも、邪竜は滅さねばならん。ついては、その聖光石の鉱脈に案内してもらいたいものだな」
コーンスの副将がニヤリと笑った。レインは、白虎軍の目的を知った。彼らは最初から聖光石の鉱脈が目的であったのに違いない。シャリとどう接触を図ったか知らないが、シャリがイズキヤルの魔法を力ずくで解いて、ディンガル軍を襲わせたのだ。
レインははらわたが煮えくり返りそうに憤慨した。なんせ彼女は、イズキヤルが子供たちと遊ぶ様をこの目で見ている。こんな生き方ができて幸せだ、と鋭い牙が並ぶ大きな口を歪めて笑うイズキヤルを見ているのだ。
そのイズキヤルに人を襲わせたのだ。人ともに生きようとした者を――レインは将几を蹴倒すようにして立ち上がった。
「なんて恥知らずな。戦を綺麗にやれとは言わんが、限度ってもんがあるだろう」
「まるで、我々が何かしたような言い分だが、朱雀軍副将。証拠はあるのかね」
「そっちの小僧の身柄をよこせ。問いただす」
レインがコーンスの副将を睨みつけながら、シャリに向けて顎をしゃくった。すると、シャリはまた大きく肩をすくめた。ニヤニヤ笑いながら、こちらを見ている。いちいち芝居がかったその仕草が、レインの鼻に付く。
「やだー。あのお姉さんこーわーいー」
そう言って、きゃらきゃらと笑うのである。
この野郎っ――レインが今にも卓を飛び越えて、シャリにつかみかかろうとしたときだった。
「レイン、自軍の仲間を疑うのはよろしくない。何の証拠もないのじゃ。それとも、何か証拠があるのか」
アンギルダンの断じるような言葉が、レインの動きを止めた。
朱雀軍に所属してはいるが、全体で見ればレインもこのコーンスの副将もディンガルの将官であることに変わりはない。仲間と言われればそうだが、釈然としないものがある。
ようするに、落ち着け、と言われているのだ――レインはアンギルダンの言葉の真意を汲み取って、大きく深呼吸した。
「勘だ。女の勘」
冗談めかして言いながら座りなおすレインを、コーンスの副将が鼻で笑った。
「女の勘は侮れんが、証拠としては弱いの」
アンギルダンはふっとレインに笑いかけると、すぐに顔を引き締めた。一瞬で茶目っ気たっぷりの老翁から、歴戦の将になる。
「さて、問題はあのイズキヤルのことだ。いかによくならした獣といえど、一度人を襲えばそれは脅威になる。アルノートゥンの総意として、イズキヤルを助けるというのなら、わしはアルノートゥンに攻め込まねばならん。イオンズ殿、わかってくれとは言わん。お主らには抵抗する権利がある。わしらを憎む権利も、恨む権利もだ」
イオンズは承服しかねるようだった。イズキヤルを討つことも、聖光石の鉱脈に軍を入れることも、アルノートゥンとディンガル軍が衝突することも――イオンズはそのどれもに迷っているように見えた。
だが、状況は容赦なくイオンズを追い詰めている。彼の拳を握る音が、こちらにまで聞こえてきそうだった。
そのときだ。
「失礼いたします。イオンズ殿はいらっしゃるでしょうか」
天幕の外からの声に、会議中である、と朱雀軍の将官が応じた。だが、しかし……、と天幕の外からは困ったような声がする。
「町の代表者が来ております。緊急のようです」
アンギルダンが目配せすると、士官の一人がそれに応じた。天幕の入り口を覆う垂れ幕を払い上げると、町の者らしい中年の男たちが転がり込んできた。いかにも町民らしい者もいれば、神官の格好をして者もいる。
「どうしたというのだ、みなのもの」
イオンズが先頭で座り込んでいる男に歩み寄って、膝をつき、彼の肩に手を置いた。男がイオンズにすがりつくように腕をつかんだ。
「そ、それが、子供たちが――」
町民の説明によれば、事態はさらに悪い方向へと向かっている。子供たちの幾人かが、イズキヤルを追って聖光石の鉱山に向かったというのである。普段ならば、イズキヤルがいるのなら鉱山の怪物も恐ろしくはなかろうというところだが、今はそのイズキヤルが危険である。
もはや、一刻の猶予もない。
「鉱山に兵を送る」
アンギルダンが決断した。しかし、それを聞いた町民たちが真っ青な顔をして、いっせいに声を上げた。
「だ、ダメだ。聖光石の山によそ者を立ち入らせるわけにいかない」
「聖光石の力が再び軍事利用されれば、恐ろしいことになる」
口々に叫ぶ彼らの口を閉ざしたのは、アンギルダンの振り下ろした拳が木製の卓を打ち砕く音であった。呆気にとられるアルノートゥンの人々を見つめて、アンギルダンは静かに、しかし重々しく口を開いた。
「子らの命がかかっておる。お主らの訴えはわかる。わしらを恐れ、信用できんのもわかる。だが、過去の遺産を守るのか、未来への遺産を守るのか――どちらか決めねばならんのだとしたら、わしは未来をとる」
天幕を沈黙が支配した。幕外の兵士たちの喧騒だけが聞こえる。やがて、その重々しい空気を破ったのは、イオンズであった。
「すまぬ、みんな。わしは、アンギルダン殿を信じようと思っておる。わしらの町の子らを、『未来への遺産』と呼んでくれる、この人を信じようと思うのじゃ」
アンギルダンがレインに頷いて見せた。レインもそれに応える。
「将官士官連中を集めろ。部隊を編成する」
レインは朱雀軍に三つの任務を与えた。一つ、レインらとともに鉱山へ行き、子供たちを見つけ出すこと。一つ、町に残り、その警備をすること。そして、最後の一つは――。
「お前たちは白虎軍を監視せよ」
「白虎軍をですか」
任務を与えられた将官は少しだけ顔を緊張させた。仲間を見張れというのだ。無理からぬことだろう。
「あの怪物を操ったのが、白虎軍の傭兵である可能性がある」
「何ですって。うちは怪我人が出てるんですよ」
憤慨して思わず声が大きくなる将官を、なだめるように肩を組んで、レインは声を潜める。
「疑ってはいるが、証拠がない。だが、また妙な動きをするかもしれん。それとなく監視していてくれ」
「わかりました」
将官は神妙な顔で頷いた。無理はしなくていい、とレインは念を押して、軍馬にまたがった。
白虎軍三百と、朱雀軍五百が聖光石の山に出立したのは、もう明け方近くのことであった。空は徐々にその色を変化させ、東の山の際が白く輝き始める。レインたちはほとんど寝ずのまま、朝日に背を向けて、暗い坑道の中に入らねばならなかった。
聖光石の鉱脈があるのは、廃鉱山の一部分である。だが、そこにたどり着くには、迷路のように掘られた坑道を進まねばならない。そのため、案内人として町の男たち二十人が随伴した。
実は、内密にイオンズたちと打ち合わせをしている。つまり、案内するふりをして、時間を稼げと。その間に、鉱山のことをよく知るイオンズの導きで、レインとアンギルダンがイズキヤルを探し出す算段になっている。白虎軍は鉱脈を探したがるだろうが、町民と朱雀軍がそれとなく足を引っ張ることにしていた。もちろん、子供たちの確保が最優先ではあるが――。
鉱山内は、廃鉱とはいえ、壁にはまだ聖光石の欠片が埋まっている。そのおかげでほんのり明るい。入り口付近は、冒険者として訪れたことのあるレインだったが、奥のほうまでは行ったことがない。
少人数に別れて進む坑道の中では、時折、そこを根城にしている怪物と出くわすことがあった。戦いなれたレインたちにはどうということはないが、兵士たちには少しきついかもしれない。
暗がりを利用して隊から外れた三人は、イオンズを先頭に、レイン、アンギルダンと続いて聖光石の鉱脈へと急いだ。
「見当がついてるのか」
レインが先を進むイオンズの背中に尋ねる。明かりを絞った魔法ランプを掲げたイオンズが小さく頷いた。
「まだ生きている鉱脈はいくつかあるが、おそらく、一番大きな鉱脈だろう。そこには、邪竜イシュバアルが眠っておるのだ」
魔法ランプと聖光石に照らされたイオンズの表情は険しい。いかに、レインやアンギルダンを信用してくれているとはいえ、できることならよその人間には立ち入らせたくないのに違いない。
イオンズが言うには、その大量の聖光石の力でイシュバアルを封印しているらしい。確かに、もし帝国にでも見つかって、採掘でもされたら大事である。
そのうち、坑道の中が明るくなってきた。イオンズが魔法ランプを消した。周りの石壁全体が、青、緑、黄色など様々に輝いている。昼のように、とはいかないが、ここで読み書きしろと言われても問題ないくらい明るい。これが、生きた鉱脈であろう。
「確かに、相当な量の聖光石じゃな」
アンギルダンが周囲を見回しながら呟いた。
レインは首筋にずきりとした痛みを感じて、思わず足を止めた。筋を痛めたときのような、鈍い痛みが走ってすぐに収まった。
「どうした」
アンギルダンが背後から覗き込むようにしてレインに尋ねてくる。レインは首を左右にひねりながら、イオンズ、と前を向いた。
「イズキヤルが近い」
「わかるのか」
尋ねられて、レインはアンギルダンのほうを肩越しに振り仰いだ。小さく肩をすくめる。
「女の勘だ」
イオンズが坑道の先を指差した。緩く大気の対流を感じる。どこか近くが外に通じているのだろう。
「この先に、大きな吹き抜けがある。そこかもしれん」
何の手がかりもないが、夜空を飛び去るイズキヤルはずいぶんと巨体だった。この狭い坑道を飛び回ることはできないだろう。
広い場所にいてくれるのは僥倖である。何せ、ここにいる三人が扱う武器は長柄物である。狭い坑道内ではただでさえ扱いにくいし、お互いの動きの妨げになる。レインには一応、大型のナイフがあるが、できれば使い慣れたほうの武器で戦いたい。強力な怪物が相手ならなおさらだ。
それに、朱雀軍の天幕を焼いたあの黒い炎もある。この狭い坑道内で火を吹かれたらひとたまりもないだろう。
だが、とイオンズが緊張した声を出した。
「そこにはイシュバアルが眠っている」
「何とか、刺激しないようにしてみよう」
レインが言ったが、男二人は答えなかった。それが、彼女の気休めであるとわかったからであろう。
やがて、坑道を吹きぬける風が強くなってきた。レインははじめ、それが風の音だと思った。だが、濃密な闇の臭いが鼻につく。何ともいえない、独特の臭気である。
この鼓膜を震わせる低い音は、風の音ではない。獣の唸り声である。ふと、唸り声がやんだ。次の瞬間――。
戦闘はいきなり始まった。慎重に進んでいた三人の前に、黒い炎の壁が立ちふさがったのだ。レインは臆せず炎の中に飛び込んだ。狭い坑道内で三人で立ち往生してもしかたない。一瞬、ほんの一瞬だけ、レインは炎が自分の全身をなめるのを感じたが、それはすぐに後方へと過ぎ去っていった。
飛び込みながら前転して受身を取ったレインは、油断なく立ち上がった。すぐさま槍を構え直す。
イオンズとアンギルダンはお世辞にも身軽とはいえない。イオンズが魔法で炎を消火している。
そこは大空洞である。天井に小さく穴が開いていて、青空が浮いたようにぽっかりと覗いている。小さく見えるが、おそらく実際には相当に大きな穴が開いているのだろう。天井は見上げるほどに高い。周囲は鍾乳石のように聖光石の結晶が垂れ下がっている。まるで、シャンデリアを吊るしているようだ。
レインの立っているところは断崖の上であった。立ち回るには充分すぎる広さがある岩棚の上だ。だが、いたるところに石筍のように突き出た聖光石の結晶が邪魔である。
そして――レインは見上げた。広い空中で翼を羽ばたかせる、黒い怪物の姿を。
聖光石の光の下で見た怪物は、どこまでもイズキヤルだった。大きくなったイズキヤルそのものの姿で、ぎらぎらと濡れた牙をむき、力強く翼を羽ばたかせて体を空中で静止させている。
「イズキヤル、よせ」
ようやくほとんど鎮火した炎の壁を乗り越えて、大空洞内に進入したイオンズが叫んだ。悲鳴に近かった。
「ギィイイイイイイイ」
耳障りなイズキヤルの鳴き声が、空洞内を埋めた。滑空するように、一番手前にいるレインへと突進してくる。大きな四つ指の爪は、小型のナイフほどもある。
レインは一瞬、その爪を受け止めるかどうかを逡巡した。もし、相対していたのがイズキヤルではなく、ただの怪物だったなら、レインは迷いなく爪を受け止めて返す刃で切りつけていただろう。
だが、レインは身を翻してイズキヤルの巨体をかわすにとどめた。
アンギルダンがイオンズの前に出る。その戦斧が、イズキヤルの爪を打ち払った。
「イズキヤル、目を覚ませ」
特殊な形状をした戦鎚をぶら下げたまま、イオンズがまた叫んだ。イズキヤルは一声、甲高く鳴くと、大きく羽ばたいて飛翔する。
レインは、イズキヤルが逃げる、と思った。高く飛び上がられては、地を這うレインたちにはどうすることもできない。ましてや、あの天井に穿たれた青空へ続く穴に逃げられては、追うのも大変である。
だが、イズキヤルは逃げなかった。レインたちの得物が届かない位置で静止して、四つの真っ赤な目でこちらを見ている。うっすら開いた口から、よだれが糸を引いて垂れていた。
「ギィイイイイ……オン……」
こちらを威嚇するような声に混じって、風鳴きのような、切ないような声が混じった。イオンズが一歩前に出た。
「ギィイイイ……オンズゥウウ……ルシィギィイイ……」
イズキヤルがかっと口を開いた。喉の奥から真っ黒い炎が噴出してくる。アンギルダンがイオンズを庇って、彼の体を突き飛ばした。炎を戦斧が切り払う。
レインは岩盤の上を駆けた。覚悟を決めなければならない。
イズキヤルが滑空してくる。その爪を柄で弾いたレインは、穂先を返してイズキヤルの蝙蝠のような翼に切りつけた。薄い膜を切り裂かれたイズキヤルは、ぎゃっとひと鳴きして岩盤に叩きつけられた。
間髪いれずに、アンギルダンが戦斧を振り下ろした。イズキヤルがさっと身を起こしてかわす。戦斧が岩盤に突き出た聖光石の石筍を打ち砕いた。粉々に砕かれた聖光石が、洞窟内の光を乱反射させる。
その光の中を黒い影となったイズキヤルが飛び上がった。まだ飛べるらしい。翼を切り落とさなければならない。レインはしっかりと槍を握り締めた。
イズキヤルの爪がいまだ逡巡するイオンズに迫る。レインはイオンズを押し退けるようにして間に割って入ると、その爪を受け止めた。イズキヤルが身を翻す。長く太い尾がレインのわき腹を殴打した。
鎧の上からでも、ぎしりと肋骨が軋んだのがわかる。軽装なものなら、骨を砕かれていたに違いない。
レインは岩盤の上を転がって、聖光石の石筍を砕きながら止まった。砕かれた聖光石が鋭いガラス片のようにレインの肌を裂く。鮮血が頬を伝う。
イオンズがレインを見ている。いい歳をした男が泣きそうな顔をしている。彼の背後には凶悪さをむき出しにして、巨大な口をこれでもかと開いたイズキヤルが迫っている。レインは槍を支えに立ち上がろうとした。
その時だ。イオンズがさっと身を翻した。聖光石の光の中を滑空して突進してくるイズキヤルに向き直る。そして戦鎚を振りかぶり、風を唸らせながら振り下ろす。
レインは見た。イオンズが振り下ろした戦鎚に合わせるように、イズキヤルが頭を垂れるのを。まるで、自身がそう望んだように従順であった。
戦鎚が、肉を打ち、骨を砕く音が、大空洞内いっぱいに広がった。
これでいい、とイズキヤルは言った。
闇の怪物特有の、死に様である。あのタールのような粘液がイズキヤルの体から染み出るように、岩盤へ流れていく。流れ出た先から黒い灰のような塵になって、坑道から吹き込んでくる風に巻かれていくのだ。
「俺たち、闇の怪物は、死ねば、母の懐に帰るのだ。俺の、優しい、思い出を、抱いて、母は、少しだけ、癒されてくれるだろう。次に、生まれてくる、怪物は、ほんの、少し、だけ、優しく、なる」
イズキヤルは途切れ途切れに言葉を紡いだ。そして、そこでいったん、言葉を切ると、四つの赤い目を大きくしばたかせた。レインには、それが涙を堪えているようなしぐさに見えた。
「レイン、鬼ごっこ、楽し、かったな……。赤い、おっさん、イオンズを、頼むよ……。――俺の、親友……イオンズ。ありがとう、ありがとう。言葉、では、とても、足りない……お、れ、は……しあわせ……だ……」
赤い瞳を細めて、イズキヤルの体がぼろりと崩れ去った。イオンズの手の中には、黒い塵しか残らなかった。しかし、その塵も、空洞内を逆巻く風に巻き上げられてしまう。イオンズは天井に穿たれた穴から、青空へと旅立っていくその塵を、追いかけるように見上げた。
膝をついて座り込む彼の少し後ろに立ち、レインは顔をしかめた。何と言っていいのかわからない。もどかしさで喉の奥がひどく苦い。ぼんやりとイオンズの背中を見つめることしかできない。
アンギルダンが無言でレインの肩に手を置いた。我に返って彼を見上げると、坑道へと顎をしゃくっている。独りにしてやれ、ということらしい。
レインはアンギルダンの後ろを、とぼとぼとついていった。レインたちが大空洞から坑道へと入ると、その背後から、風の音にも似た男の慟哭が聞こえてきた。
◇ひとこと◇
自分で書いておいてなんですが、何でこんな悲しい話を書かないかんのだ。