封印の解放

 破壊神が復活する――そう言われても、相変わらずレインにはぴんと来ない。世界が破壊神によってどうにかされる、という考えは、ここにいたってもレインの頭の外にあった。
 だが、ネメアが失われるかもしれないというのには、非常に危機感を抱く。人生に不測の事態は付き物だ。特に、人の生き死にに関しては。
 レインは今、母を失ったときのことを思い出している。何もできなかったし、何もさせてもらえなかったあのときに比べれば、今はまだマシなほうだ。
 まだ、戦える。あのような絶望を、二度と味わってたまるものか、とレインは思っている。
 世の中には、『どうにかできること』と『どうしようもないこと』がある。人の生死にはそれが顕著だ。
 レインはネメアの運命に関しては『どうにかできること』だと思っている。少なくとも、今はまだ。
 『どうにかする』には、どうすればいいのか。まだ見当がつかないが、とにかく闇の神器をウルグの復活を目論むような連中が手にするより先に、手中に収めねばならないのは絶対だろう。
 たった一人、暗闇の中に放り出されてしまったと思っていたが、レインが進む道の先には、相変わらず黒い甲冑に覆われた幅広の背中がある。そこに続く道のありようは、ずいぶんと様変わりしてしまったが。
 いや、変わったのは自分なのかもしれない。あるいは、変わっていたものがもとに戻ったというべきか。
 レインは、目指すならあの男がよかった。レインより強い者ならいくらでもいる。オルファウスしかり、アンギルダンしかり、ゼネテスしかり――けれど、目指すならネメアの背中がいい。
 だからこそ、捨てねばならぬ。この道は、遠く険しく、ちんけな感情を抱えて歩めるような生ぬるい道ではない。そこにたどり着いたとき、こんなものを抱えていては、死ぬのはこちらだ。
 今必要なのは気休めの安寧ではない。鋼のような、己自身だ。
 エンシャントを離れたレインは、その日のうちに猫屋敷を出て、ロセン港に向かった。ロセンも帝国領だが、エンシャント港から出るよりはるかに安全である。何せ、レインはあのベルゼーヴァにエンシャントを訪れていたことを知られているのだ。監視の目が厳しくなっているに決まっている。
 馬は猫屋敷に置いてきた。どうせリベルダムで調達できるだろうし、馬を船に乗せるには金がかかりすぎる。
 レインはロセンの手前の宿場で行商人風の娘姿をして、ロセン港からリベルダムに向かった。
 潮風に吹かれながら、レインは穏やかな内海を見つめる。秋の空は相変わらず快晴で、薄雲と混ざり合うように空の青い色が薄い。その分、海の青が深く濃く見えた。
 当面の敵からネメアが外れたのは喜ばしいことだ。彼の動きに気を配らなくていい。まずは目の前のことに集中しよう。
 残る精霊神の封印はあと一つ。ようやくエステルを助け出すことができる。問題は、水の精霊神アキュリュースが言った言葉にある。
 残る封印はあと一つ。二人の巨人を駆逐せよ――。
 女の声をした精霊神は確かにそう言って、レインに水の加護を与えた。封印と巨人の数が合わないとは思っていたが、どうやら地の精霊神グラジェオンは強力に封じられているようだ。
 巨人二体を相手にせねばならない。これはなかなか骨の折れる作業である。アンギルダンがいてくれればかなり楽になったに違いないが、彼とレインが一緒に動けば必ず帝国にばれる。
 三人でやるしかないな、とレインは覚悟を決めた。
 リベルダムに到着したレインは、ヴァンたちと落ち合う約束をしている宿に向かった。この宿はギルドと酒場に近く、また、価格も割かし安いために、レインたちの定宿となっていた。
 再会を果たしたヴァンとナッジは、レインをまじまじと見つめて硬直した。
「……何?」
 不審げに眉をひそめたレインに、二人は顔を見合わせた。それから、ナッジがおずおずとレインの顔を覗き込むようにした。
「あの、何か、あった?」
 あったといえばあったが――そんなに顔に出ているだろうか。猫屋敷に戻ったときは何も言われなかったので、いつも通りの自分でいられていると思っていたが。
 レインは左手で自分の頬に手を添えた。
「え、変な顔してる? 疲れてるかな。最近、色々……動きっぱなしだから」
「いや、そういうことじゃなくてだな……。なぁ?」
「う、うん……」
 ヴァンが求めた同意にナッジが小刻みに何度も頷いた。何だか彼らの顔が赤いような青いような、レインに言わせれば、彼らのほうが挙動不審である。
 ええぇ? 何だ?
「なに?」
 強い調子で問いただすと、彼らは顔を背けて頭を振った。
「何でもない。もういいって」
 そう言ったきり、ヴァンとナッジは何も言わなかった。
 レインは顔をしかめて、首を傾げた。

 
 帝国からの追討令が解除されたのを知ったのは、レインが砂漠の民と会ったときのことであった。賭けがどうなったのかレインは知らないが、こんなことならアンギルダンをつれてくればよかった。
 砂漠の民の調査によれば、ラドラスから続く精霊神殿への道は完全に砂と瓦礫に埋まってしまったようだ。けれど、彼らが辛抱強く探した結果、砂虫の死骸から続く地下洞窟の先に神殿への道を見つけたという。
「神殿と思しき場所まで、道しるべを付けておきました。――エステル様を、どうか……頼みます」
 砂漠の民が用意してくれた馬にまたがり、砂漠を二日行ったところで、砂虫の死骸にたどり着いた。
 かつて十二の難事でネメアが斃したというこの巨大なミミズのような生物は、中身は腐って風化している。だが、硬い外皮は砂漠の強い日差しと風にさらされてもびくともしていない。どころか、まるで岩窟のように砂漠の陽炎の中に横たわっている。
 この中身がすべて腐り落ちた砂虫の外皮は、砂漠の地下とつながっている。砂虫が掘ったトンネルが、たまたま地下を流れる水脈とぶつかって、その先に地下遺跡があったのである。
 ラドラスに守られていたとはいえ、この厳しい環境で過ごしてきた砂漠の民は、優秀な冒険者でもあった。
 砂虫の巨大な体は、地下から地上へ伸びてきているためにほとんど垂直に近い。砂漠の民が、丈夫な縄と足場代わりのくさびをすでに用意してくれていた。これがなければ、降りるだけでも一苦労だったに違いない。
 地下洞窟には、冷たい地下水がどうどうと流れており、地上の焼け付くような暑さなど感じさせない様子である。むしろ、ひんやりとして肌寒く、湿った足場が三人の足もとをすくおうとする。
 砂漠の民が魔法ランプ代わりの聖光石の欠片をそこら中に置いて、レインたちの道しるべにしていた。彼らとて、エステルを助けたくて必死なのだ。
 不安定な足場を飛び移りながら進む。少しでも足を滑らせれば、冷たい地下水の濁流に飲まれてしまうだろう。
 そのうち周囲の様子が一変した。自然洞窟から人工物の壁に変わったのだ。
 水の精霊神の座所に向かうときに通った海中通路に、少し似ている。それ自体が淡く発光する紫色の石造りで、半分鍾乳石に埋まるようにして通路が続いていた。ここにも、砂漠の民が残してくれた目印の聖光石の欠片が、点々と落ちていた。
 通路は狭く、ここで怪物にでも挟まれると難儀である。だが、砂漠の民が駆逐してくれたのか、それとも元々いなかったのか、怪物の姿は見かけなかった。
 ヴァンを先頭にして先に進むと、途中の壁が壊されている。
「新しいな」
 レインが、破壊された壁の様子を確かめていると、ヴァンが壁の穴から身を乗り出して、あっ、と声を上げた。
「聖光石の欠片が落ちてる。こっちだ」
 壁の穴をくぐると、巨大な台座のようなものがあった。その台座まで上がる階段の上に、聖光石の欠片がほの白く光っている。
 台座は石造りで、こちらは通路と違って白く発光している。どうやら、砂漠の民の目印はここで終わりであるらしい。今度はレインが先頭になって、台座へ続く細い階段を上った。
 台座の上には、これまでの精霊神の座所で見たような、白い東屋のようなものがあった。白い四本の柱に、丸い屋根が載っている。石造りの丸い床には、四つの精霊を示す紋章が描かれており、その内の大地を示す紋章を除く三つが淡く光っていた。
 三人も、ここまで来るとなれたもので、その東屋の中央に身を寄せるとドーム状になった白い天井を見上げた。
 よくぞ参った、と荘厳な声がした。レインの腕の中からエステルをさらったあのときの声だ。
「残る封印はあと一つ。さぁ、二人の巨人を駆逐せよ」
 ぐんっと体が引っ張られる。抵抗のないまま、精霊の小路を通過したレインたちは、見慣れた雲の中にいた。黄金色の雲が周囲にわだかまり、空中に浮いたような不可視の固い足場の上で、三人はそれぞれに身構える。三度も同じことを繰り返していれば、さすがにこれからの展開もわかっている。
 雲はぐんぐん後方に流れ、前方に見上げるような二体の人影が出現した。
「愚か者どもめ。闇の母の胎の封印を破ろうというのか」
「世界を闇に沈めようとは、不届き千万」
 二体の巨人はまるで魚のような頭をしていた。南の海に住む色鮮やかな魚のようであった。一方は青く、一方は紫色をしていた。
「この水の巨人パンタ・レイが、愚かなうぬらにバイアス様の鉄鎚を下してやろうぞ」
 青いほうが言った。
「このフルーヴもまた、兄者とともに剣を振るおうぞ」
 どうやら、この紫のほうは青いほうの弟らしい。
 彼らは水の巨人と名乗った。やはり、事前に予測しておいた通りである。
 レインは水の精霊に干渉する。本来であるならば、場の精霊を制御するのはナッジに任せたいところであるが、今回は巨人が二体である。精霊神の加護を受けたレインも、ナッジとともに、ある程度は魔法を使う気でいた。
 さぁ、アキュリュース――レインは心の中で念じる。お前の力をよこせ、と神に祈るような態度ではまるでなかった。
 場の精霊たちが怯え始める。巨人の側につくか、精霊神の側につくか。
 巨人が大きな足を踏み鳴らす。光り輝く剣が振り下ろされる。レインとヴァンは散開した。ナッジは後方に下がり、魔法の詠唱を続ける。
 巨人たちの眼前に生まれた光球から放たれた光線が、あたり一帯をなぎ払った。レインの制御下にある精霊たちが水を生み出し、その光線を明後日の方向に散らしていく。
 光線がどこかに飛んでいった隙に、レインは巨人の脚に切りつけた。巨人の黒い艶やかな肌を傷付けるには至らない。そのレインにもう一方の青い――パンタ・レイがつかみかかった。フルーヴの股の間をくぐるようにして、巨人の手の平をかわす。
 パンタ・レイがレインにつかみかかろうと、腰をかがめた。その魚の顔面に、ヴァンの拳が襲い掛かった。彼の拳にはまっているグローブが、燃えるように赤く輝いている。
 鱗のないつるりとした青い表皮を、ヴァンの拳が殴打した。魔法の影響もあるのだろうが、パンタ・レイの巨体がバランスを崩して転倒する。着地したヴァンを踏みつけようとしたフルーヴの軸足に、レインが切りつけた。腰を落とした深い一閃は、巨人の体をぐらつかせて、踏み下ろされた足をヴァンからそらすことに成功する。
 ぬぅ、と巨人が唸った。
「ゆくぞ、弟よ」
「おうよ、兄者」
 二人が言葉を交わしたとたん、周囲の気温がぐっと下がった。呼気が白い。水の精霊たちが動きを止めていく。
「ヴァン、下がれ」
 レインはヴァンとともにナッジのいるところまで後退した。肺の奥底から息を吐き出し、そこに宿る火の精霊に命じる。
 ウルカーンの加護がレインの体を包み込む。身を焦がす炎が全身をなめるようだ。レインの足下から頭の天辺までを包み込んだ炎は、そのまま彼女らの頭上へと浮揚した。自らを安定させるように丸まると、まるで小型の太陽のように赤々と燃え上がった。
 巨人兄弟の放った巨大な氷の塊が、足場から天からすべてのものを凍らせようと襲い掛かってくる。白い蔦のようなツララがレインたちを押し包む。
 しかし、レインが生み出した禁呪の炎が、迫り来る氷のことごとくを消し去っていく。もうもうと立ち込める蒸気に、精霊たちが悲鳴を上げて霧散していった。
「レイン!」
 ナッジが叫ぶと同時にレインのつかんだ槍に炎がまとわりついた。火の力を帯びた槍を構えて、レインが蒸気の立ち込める中を疾走した。
 場を支配する火の精霊の力に押されて、体勢が崩れたフルーヴのほうへ、渾身の力を込めて一閃した。槍の穂先が潜り込んだ先から、炎の力が水の巨人を滅ぼしていく。胴体がちぎれ飛んだフルーヴは、水泡のようになって消えた。
 おのれっ、とパンタ・レイが踏み出そうとした足に、ヴァンが体当たりした。火の精霊によってずいぶん弱められた水の巨人の体が、炎の力を帯びた拳とあいまって、もろくも崩れ去る。がくりと膝をついた巨人の、魚のような頭を小さな太陽のような炎の塊が、消し飛ばした。どぉっと倒れこんだ巨人の体が、泡になって消えていく。
「た、斃した……」
 ヴァンが流れ落ちる汗を手の甲で拭いながら、ふぅっと息をついた。
 膝をついていたレインが、槍を支えに立ち上がる。肉体的にどうのというより、炎の禁呪を使ったことによる精神的な疲労が大きい。青白い顔に玉のような汗を浮かばせたレインの顔を、駆け寄ったナッジが覗き込んできた。心配げな彼に、大丈夫、と答えようとして、ぎくりとした。
 周囲の様子が一変している。先ほどまで、黄金色の雲が渦巻く不思議な空間にいたのだが、今は何もない。真っ暗だ。一瞬前まで自分の顔を覗き込んでいたナッジの顔もない。どころか、二人の姿も気配もなかった。
 呆気に取られて周囲を見回すレインの目の前に、ぼっと音を立てて炎が生まれた。次いで、自分の右側にごうごうと吹き荒れる風の塊が生まれる。かと思えば、左側でこぽこぽと涼やかな音を立てて水の塊が、不安定に揺れている。
「よくぞ我ら精霊神の封印を解放した。母なるティラの懐にて、汝に祝福をもたらそう」
 レインの背後で静かに、大地に埋まる鉱石の塊のようなものが、金色に輝きながら生まれた。
「汝に祝福あれ。雄々しき炎の祝福あれ」
「汝に祝福あれ。清き風の祝福あれ」
「汝に祝福あれ。優しき水の祝福あれ」
「汝に祝福あれ。気高き大地の祝福あれ」
 精霊神たちはレインの周囲を取り囲み、それぞれにそれぞれの声で祝福をもたらした。
 さぁ、約束だ――グラジェオンが言った。金色の鉱石の塊から光の粒子が漏れ出てきた。レインはとっさにそれが、エステルだと思った。
 光の粒子はレインが広げた腕の中で、人の形をかたどった。小柄な女の子の重みを感じる。
 その次の瞬間、レインはまたぐんっと引っ張られるような感覚を味わった。今度は奪われてなるものかと、しっかりとエステルの体を抱きとめる。その耳に、含み笑いのような精霊神たちの声が届いた。
「我らの悲願は成就せり。偉大なる母は、しかるべきときに、この大地に再臨されるであろう」

 
「うおっ」
 なつかしいヴァンの声が間近で聞こえ、エステルは唐突に覚醒した。今ひとつ記憶が曖昧で、目の焦点があわない。
「どこだここは」
 自分のすぐ真上から緊張したような、ハスキーな女の声が聞こえて、エステルは目をしばたかせた。
 甲冑に覆われた胸のすぐ上に、骨ばった細い顎が見えた。青白い頬に高い鼻。エステルが知っているより、ずいぶん長く伸びた黒髪が、彼女の頬の辺りをさまよっている。
「レイン……?」
 するりと喉の奥からこぼれ出た友人の名前に、彼女が振り向く。銀の意匠を施されたような菫青石の瞳が、エステルのほうを向いた。目を見張った彼女は、エステルが知っているより、ずいぶん大人びて、ずいぶん美しく見えた。
「エステル」
「エステル! えっ、何で、いつ助かったんだ?」
「エステル、大丈夫?」
 次々になつかしい声が降ってくる。どうやら、エステルはレインに抱きかかえられているらしかった。レインは地面に膝をついて、エステルを横抱きにしている。
 エステルはすぐに彼女らの顔が見えなくなった。涙でにじんでぼやけてしまう。エステルのつぶらな目から、滾々と湧き出るオアシスの泉のように涙がこぼれ落ちた。
 そのとき、エステルはすべてを理解した。自分は地の精霊神グラジェオンとともに大地を支える柱となるはずであった。それを、目の前のこの友人らが、闇の母の封印を解くことになろうとも、エステルを自由にするために奔走したのだ。彼女らが踏みしめた大地は、エステルとともにあった。友人たちがいかに苦労して、自分を地上に引き戻したか、そして何を犠牲にしたのか――エステルは彼女らが大地を踏みしめるたびに感じたのである。
「バカ、バカ、バカ! 何てことしたんだ。ティラが復活しちゃう。闇が地の底から溢れちゃうよ」
 レインに飛びつきながら、エステルは泣いた。この大地と自分と、天秤にかけて、果たして自分のほうが価値があると言えるだろうか。エステルは自分のことをただの小娘だと思っている。とても大地と同等の価値などない、どこにでもいる娘だと。
 自由が欲しくないわけではない。好きなときに好きなところへ行って、好きな人と好きに過ごす――そんな自由に憧れた。エステルはずっとこの砂漠に縛られてばかりだった。
 けれど、いざ、ラドラスが消えるとなったとき、エステルは故郷を捨てられなかった。好きなときに好きなところへ行けるのは、帰れる場所があるからだ。
 大地の支柱になるのも、まぁ、いいかな、とエステルは思っていたのに。暗いくらい地の底で、彼らが大地を踏みしめるたび、そう言い聞かせてきた。彼らの帰るべき故郷になれるなら、それもいいかな、なんて……――大嘘だ。
 レインたち三人は顔を見合わせた。それから、三人で息を合わせて、
「バカって何だよ」
 と顔をしかめた。
「ティラだか何だか知らないけど、エステル一人の力でどうにかできるんでしょ。だったら別に大したことないんじゃないの」
「おう、レイン。お前、頭いいな」
「いいぞ。もっと言え」
「そんなことより、ここどこ? ラドラスっぽいね」
「ナッジー! 『そんなこと』って何さー!」
 騒々しさがなつかしい。エステルは再びレインの首根っこにかじりついて、大声を上げて泣いた。子供じみたエステルの泣き声が、ラドラスの九柱の間の高い天井に反響している。

 
 砂漠の民たちの歓待を受けて、エステルたちはラドラスで休むことになった。エステルはとても知らなかったが、ラドラスはほとんど破壊されていたが、居住するには問題がなかった。
 あるとするなら、今までラドラスを守っていた蜃気楼のバリアが消えてしまったことだ。貯水池もプラントの管理も、今までラドラスが自動でやっていたことができなくなっていた。
 それでも砂漠の民たちは、地下水脈から水を引き上げ、プラントを自分たちで管理し、このほとんど死に体の砂漠の町を守ろうとしていた。
 エステルが助け出されて、二日が経った。
 ここまでとにかく全速力で、巨人五体と死闘を演じたレインたちの疲労は、とてつもなかった。エステルが聞いたところによれば、特にレインは、エステルの救出と平行してあの獅子帝ネメアと闇の神器を争って対決したという。
 レインは変わった。エステルと旅をしていたときと、どことなく変わってしまった。
 すっかりおなじみになってしまった巫女服をぞろりと引きながら、エステルはその友人を探した。居住スペースになっている搭はいくつかあるが、エステルが使っている搭は彼女専用のものである。部屋はいっぱいあるので、レインたちもこの塔に宿泊している。
 エステルはその一室で足を止めた。
 窓はない。破壊された壁から吹きさらしの室内に、砂漠の細かい砂が風に乗って入り込んでいる。その破壊された壁の瓦礫の上に、友人が腰を下ろしていた。
 長い脚を瓦礫にかけて無造作に投げ出し、片膝を立てて、背中はやはり瓦礫にもたれている。砂漠の乾いた風に、一つ結びの後ろ髪をなぶらせながら、彼女は地平のかなたに沈む夕日を見ていた。
 眩しそうに眇めた青い目を、黒いレース飾りのようなたっぷりとしたまつげが縁取っている。高い鼻が西日に濃い影を作っていた。
 レインは変わった。何だか妙に大人びて見えた。ひどく美しく、ひどく脆そうに見えた。
 今の彼女は、目を離した隙にその壁の穴から身を投げそうなほど、儚かった。それは、わずかな間にしか見ることのできない夕日にも似ている。その様が、エステルには美しく見えた。
 名を呼ぼうと口を開きかけると、友人がさっとこちらを振り向いて、ぱっと笑った。
「エステル、何してるの」
 その笑顔に脆さなどない。昔と同じ、溌剌とした華やかな笑顔をしている。
 何って、と言いながら、エステルは彼女に近寄った。長い巫女装束の裾が、瓦礫に引っかからないようにたくし上げる。
「レインこそ何してんの」
「夕日、見てた。すっごい綺麗だなー、と思って」
 そう言ってレインはまた夕日に顔を向ける。少しこけたような、やせた頬が何だか痛々しかった。エステルの胸を、締め付けるのだ。
 エステルはレインの隣に腰かけながら、ねぇ、と足をぶらぶらさせた。
「何かあったの?」
 レインが驚いたように目を丸くしながら、こちらを振り返った。
「えっ、何で?」
「だ、だって、何か……様子が変」
 レインは困ったような顔をした。それから、またほとんど沈みかける夕日に目をやって、目を眇める。その顔が泣きそうなのを我慢しているように見えた。
 お母さんを救うまで泣かない、と出会ったばかりの頃に言っていたのを思い出す。
 レインは膝を抱えてそこらに視線をさまよわせた。それから、膝頭に頭を乗っけて、エステルを窺うように見つめてくる。
「……誰にも、言わないでね」
「言わないよ」
「笑うのもなし」
「笑わないって」
 エステルは即答したが、それでもレインは迷っているようだった。額を自分の膝に押し付け、腿の間でため息をつく。そのままの姿勢で、レインは呻くように言った。
「し……失恋、した……」
 くぐもった声が、砂漠の風の音にかき消されそうだった。
 エステルは思わず、えええっ、と声を上げた。レインは溌剌として、かっこよくて、男相手でもひるまない。綺麗だけど、男の影など感じさせない女の子だったのに。いったい、いつどこで誰に恋をして――破れたというのだろう。
 レインは赤らんだ顔をさっと上げると、隣に腰かけたエステルを睨みつけた。
「そんな……っ、驚かなくても、いいじゃん……」
 と、拗ねたような顔をする。その顔が、一気に幼さを増して見えて、エステルはにまにまと笑った。
 もうっ、とレインは顔をしかめて、エステルのむき出しになった肩を、ぺしっと叩いた。
「だから、言うの嫌だったの。笑わないって言ったくせに」
「ごめん、ごめん。違うって。今のはそういうあれじゃないって」
 弁解するエステルに、ふいっとレインはそっぽを向いた。その仕草がまた子供じみていておかしい。
 エステルは友人のほうに身を乗り出した。
「ねぇ、相手は? 誰? ボクの知ってる人?」
「そんな好奇心で目をキラキラさせてる人には言わないっ」
 意固地になったようにレインは言った。
「何て告白したの?」
 こちらを振り返ったレインが不愉快そうに顔をしかめた。
「……してない」
「えっ」
「してない!」
 彼女は怒ったような顔をして、そっぽを向いた。エステルは首を傾げる。
 思いも告げていないのに、失恋したとはどういうことだろう。エステルはまだ恋を知らない。恋愛物語を読むことはあるけれど、その甘さも苦さも知らないでいる。
 それに気づいたのか、レインはこちらをちらりと一瞥して、バツが悪そうに顔を俯けた。
「……もういいんだ。もっと大事なことがあるって気づいたから。だから、もう、これはいい」
「え、どういうこと? ほかに好きな人ができたってこと?」
「いいや」
 彼女は短く言って、もう半分以上沈んでしまった夕日に目をやった。いずれ来る夜の闇を睨むような視線が恐かった。
「今抱えているものが重過ぎる。これ以上背負うとどれかを無くす。それはとても耐えられない。だから、これを、捨てるんだ」
「あ、諦めるってこと!? いいの?」
 エステルの言葉に振り返ったレインは、相変わらず強張ったような恐ろしい顔をしていた。戦っている彼女を、真正面から見たことはない――エステルが見ているのは横顔がせいぜいだ――が、きっとこれくらい恐ろしい顔をしていると思った。
「その程度ってことだ。真剣じゃなかった。子供じみた、おままごとみたいな、ちんけな恋だ。……心臓を奉げるような、恋じゃなかった。どうでもいい。惜しむようなものじゃない」
 レインは強い言葉で自分自身をひどくなじった。自分の心を自分で踏みにじっているようなその行為に、エステルは胸が苦しくなった。
 いったい、この友人は、何を背負っているのだ。それを思って、エステルは気づく。
 彼女は闇の神器を集めている。闇の神器といえば、あの破壊神ウルグに関係があるに決まっている。まさか、この友人が破壊神を呼び出してどうこうしようなどと、考えるはずもない。その逆だ。きっと、大地の裏側で密やかに蠢く闇に、対抗しようとしている。
 そしてレインは、エステルを助けるために封印を解いてしまったティラのことも背負おうとしている。ティラが復活したとき、彼女は真っ先に動くだろう。エステルたちの先頭に立って、その槍を掲げるだろう。
 あらゆる物を背負って、レインは戦うのだ。背負った分だけ、自分を捨てて、そこにまた新たに誰かを背負う。
 エステルはたまらなくなって、ついにはぼろぼろと涙をこぼした。だって、それは、とても、悲しいことだ。
「何で、エステルが泣くのさ」
「だってぇ……、だってぇ……」
 もぉ~……、とため息をつきながら、レインはひょいっと瓦礫の山から飛び降りた。しゃくり上げながら、鼻水をすするエステルの傍に立って、顔を覗きこんでくる。
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった彼女の顔を、自らのシャツの袖で拭ってやりながら、
「ほら。――ああ、エステルが泣いてくれたから、すっきりしたわ。ありがとう、エステル」
 夕日が沈んでしまった、とレインはなおも泣きじゃくるエステルを抱えた。支えるようにして、立ち上がらせる。砂漠の風はすでに夜の匂いが濃かった。冷たく、乾燥した強風が、エステルの巫女装束をはためかせた。
「さぁ、もう戻ろう」
 エステルのむき出しの肩を抱くようにして、レインは瓦礫の積まれた部屋を歩き出した。
 こうやって、誰かを抱えて、レインは戦う気でいる。エステルは彼女を思って泣いた。彼女の底知れない優しさと、痛ましいほどの強靭さに、涙が止まらなかった。

 


◇ひとこと◇
 初恋と失恋は青春の重要なファクターだと思っています。異論は認める。

 

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