*オリジナル展開注意*
「ザギヴがとても感謝していた」
言われて、レインはきょとんとネメアを見つめた。彼は運ばれてきた茶には手をつけずに、ただ座って、レインを見つめている。
目を見て話す人だなぁ、とレインは少しだけ居心地の悪さを感じて、目を伏せた。
「ネメアさんにですか?」
「お前にだ」
皇帝に直訴など、なかなかできることではない――ネメアは言う。
「緊張で死にそうでした」
苦笑しながら、レインは肩をすくめた。でも、とレインは続ける。
「宰相に頼むよりは、気安いかな。あー……これは、失礼になるのかな」
田舎育ちのレインには、マナーというものがよくわからない。心情的に聞きにくいと思うこともあるが、聞いてはいけないのかどうかはわからないのだ。何せ、村にやってきた冒険者に、気安く話しかけているわけではない。ちょっとしたことが不敬にあたるのかもしれない。
ところが、レインにはネメアが皇帝だという意識があまりなかった。出会った当初、お互いがただの冒険者だったせいか、レインは彼に対して尊敬と親しみを持っていた。
だが、今は、お互いに立場が違っている。ただの冒険者の先輩後輩というわけにはいかない。
首を傾げるレインに、ネメアは鷹揚に頭を振る。その動きに合わせて、彼の豊かな金髪が揺れた。魔法ランプの光を浴びて、キラキラと輝いている。
「いいや、畏まられるよりよほど好ましいな。――そうか、気安いか。そう言われたのは初めてだな」
みな、私を恐れる、とネメアは言う。
「あの……正直言うと、私もちょっとだけ怖いです」
レインは正直に言った。ウルカーンでネメアを真正面から見据えたときに感じた、あの恐怖はいまだ拭い去れるものではない。
「敵を睨むときのあなたの目はとても怖い」
「……敵に甘い顔をしてやるわけにはいかん」
「そう……だから、ウルカーンで対峙したとき――あああーっ、ウルカーンで思い出した!」
レインははっと顔を上げて、勢いあまって立ち上がった。ネメアが驚いたように見上げている。レインはテーブルに手をついて、彼のほうに身を乗り出した。その拍子にテーブルに置かれたティーカップが、ソーサーの上で揺れて音を立てた。
「『束縛の腕輪』! あれ、どうしましょう。私、渡さなきゃいけませんか」
まくし立てたレインに、ネメアは、何を言ってるんだ、という顔をする。
「あれは、お前に預けたはずだが」
「だって、ザギヴの処遇と引き換えに渡せって――」
「言ったらどうする、と聞いただけだ。渡せとは言ってない」
言ってたも同然じゃないか――レインはあまりの理不尽さに愕然としてソファに座り直した。何だか、腰が抜けたような気分だ。
それほどまでに――自分が命を救った娘を盾にしてまで、闇の神器を求めるのか。ケリュネイアの言葉は正しかったのか。
あんなに悩んだのに――。
「……ひどい」
レインは拗ねたように眉間にしわを寄せる。そして、頭を抱えるように額に手を押し当てた。そんな彼女を見て、ネメアは愉快そうに肩を揺らした。
「あれはお前が大事に持っていろ。――たとえ、何があっても」
ネメアの真意はよくわからない。レインは額に押し当てた手の平の下で考える。ウルカーンを攻め落としてまで求めた『束縛の腕輪』を、レインが持っていていいと言う。奪う機会など、いくらでもあるだろうに――。
何の目的で求めているのだ――レインはネメアへと向き直る。尋ねても、答えが返ってくるだろうか――。
「あの、何で闇の神器を集めようとしてるんですか」
ネメアはレインの質問に少しだけ沈黙した。彼は普段から急いて話す人物ではなかったため、この間を『沈黙』であると気づけるものは、よほど親しい人物だけだったに違いない。
つまり、レインはそれに気づかなかった。
「私の目的に必要だからだ」
目的?――続けて尋ねようとしたレインに、ところで、とネメアが続けた。
「闇の神器は今、どこに保管している?」
「言いませんよっ」
反射的に噛み付くように言ったレインに、ネメアは満足そうに笑った。
「それでいい」
皇帝になったネメアは、レインと以前とあまり変わらない態度で接してくれる。意外なことだが、ネメアはよく笑う。きちんと向き合って話せば、存外、普通の感覚を持った人だと驚くときもある。
だが、バルザーを殺したときの顔や、ウルカーンでレインを睥睨したときのことを思い出すと、どうしようもなく怖くなる。レインの心に思い描く、絵の中の英雄と実際の英雄の姿がずれてくる。
ケリュネイアの言葉は正しかったのか。
エルファスの言葉は正しかったのか。
虚像と実像の間隙は埋まるのか――埋めるためには、レインはネメアと向き合わねばならない。だが、それは恐ろしく勇気のいる作業だ。
「あの、ネメアさん。もうひとつ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
ネメアはこともなげに促して、すっかり冷めてしまっただろう茶を一口すする。
「えーっと、あの……何で今更、皇帝になったんですか」
レインの言葉に、ネメアはぴたりと動きを止めた。ゆっくりとレインへ視線を向ける。敵意のある目ではないが、鋭い視線だ。
「いや、あの、バロルを打ち倒したときに皇帝になれば……っていう、人がいて」
レインはその視線の鋭さに負けた。言葉が弱くなる。俯けた視線の端で、ネメアが脚を組んだのがわかった。
「お前は、どういう人間が皇帝にふさわしいと思う」
えっ、とレインは視線を上げた。こちらの回答を待つネメアは静かな目をしている。レインは考えをまとめるために、視線を空中にさ迷わせた。
「えーっと……か、賢い人かな。色々な問題を思いつけて、色々な解決方法を考えつける人」
「私は優しい人間が、皇帝になるべきだと思った」
ディンガルは争いの多い国だ、とネメアは言う。暴君と呼ばれたヌアドもバロルも、見ようによっては賢帝だったかもしれない。だが、その本質は激しいものだ、と。
「まるで、厳冬のような皇帝が続いた。ディンガルという大輪を咲かせるのに、冬は確かに必要だっただろう。だが、冬が続けば、種は凍って腐ってしまう。私は、新たな皇帝に、春のような、穏やかさを求めた。それがきっと、この国をよくすると思った」
ネメアは青い瞳でどこか遠くを見ていた。今ではない遠い昔を見ている。そうしていると、本当に海を見ているようだ、とレインは思う。ネメアが見つめている海が、彼の瞳に映っているように見えた。
「エリュマルクはよい男だった。優しい男だった。――私は、あの男が好きだったよ。あのようになりたいと思ったものだ」
意外だと思った。レインの知るエリュマルク帝は、卑屈で、卑怯で、嫉妬深い、嫌な男だった。無論、レインは市民レベルの、噂話でしか彼を知らない。けれど、ディンガルの誰もが、彼女と同じ印象を持っていたに違いない。
ネメアを除いて。この強く、気高い英雄を除いて。
「誰かのために、剣を取れる男だった。私には真似できない。私は、自分のためにしか戦えぬ男だ」
でも……――レインは俯いて、小さな反論を試みた。ネメアのような偉大な男が、エリュマルクを慕うことにではない。
「ネメアさんが戦うことで、救われている人は多くいますよ。だから、勇者と呼ばれているのではないのですか」
「私は自分が勇者だと思ったことなど一度もない」
誰かのために戦ったことはない――ネメアは言った。静かだったが、強い口調である。そのため、レインは萎縮して反論する勇気がなくなってしまう。
「結果的に救われた者があるとしよう。だが、私は自分の目的のために、それ以上のものを犠牲にしてきた。――今もそうしている」
レインはうなだれるように顔を俯けた。膝の上で組んだ手に力がこもる。手の甲に爪あとが残るほど強く握り締めた。
「あまり、そういうことを、言わないでください」
揺らいでしまう――レインは歯を食いしばった。レインの中の、目指すべき英雄像が、陽炎のように消えてしまう。美しく、気高く、強い、英雄の姿が。
ネメアは何も言わない。腕を組み、口をつぐんだまま、鋭いまなざしをレインに向けている。
レインは喉の奥から搾り出すように声を出した。
「……あなたを、ただの簒奪者だと言う人もいます。戦争を起こして、闇の神器を求めて――バロルのように闇に落ちてしまった、と言う人もいます」
「お前はどう思うのだ」
尋ねられて、レインはゆっくりと頭を振った。
「わからない。それを判断できるほど、私はあなたを知らないでいる」
レインは顔を上げた。鋭い青い目がこちらを見つめている。
「……――闇の中で、一人、立っているような気分です。あなたを目標に、手探りで進んできたけれど……その目標が、見えなくなってしまった――……あなたを目指したいのに、背中も見えない」
レインの言葉は次第に尻すぼみになっていく。自分でも何を言っているのかわからなくなって、どうしようもなくうなだれてしまった。指の節が白くなるまで握り締めた拳に、自らの赤い爪あとが浮かんでいる。
「レイン」
呼ばれて、弾かれたように顔を上げると、青い視線とかち合った。
「お前、今、眠いか?」
思わずぽかんとした。今はそんなことを話していたのではない。確かに、レインの言葉は亡羊として要領を得なかった。ネメアにとってはただのたわ言に聞こえたかもしれないが――。
「あの、別に……そんなことは、ありませんけど」
では、とネメアは立ち上がった。
「ついてこい」
ネメアは暗い城内を迷いなく歩き、レインを導いた。彼の少し後ろをついて歩きながら、白い絹のシャツを着たネメアの広い背中を見つめる。
二人はその間、一言も口を利かなかった。静寂に満ちた廊下に二人の靴音だけが響いている。
ネメアがレインを連れてきたのは、城の地下にある練兵場であった。広い円形のホールで、下は砂地である。明かりが落とされたホールの中を、天井に等間隔で設けられた天窓から、白々とした月明かりが照らしていた。だが、練兵場は広く、ここにわだかまるすべての闇を払うにはその光ではあまりにも弱い。ぐるりとホールを囲む回廊は幅が広く、その端に無造作に練習用の剣や盾などが立てかけられてあった。
そうか、練兵場を通ればよかった――レインは自分の考えの足りなさに呆れてしまう。練兵場は各棟へとつながっている。確かに遠回りではあるが、とにかく下へ下へとくだって、練兵場から南棟に出ればよかったのだ。
アホらしい……、とレインがため息をついたときだった。ネメアがこちらに何かを投げてよこした。反射的に受け取ると、硬く乾燥した木の棒である。練習用の槍で、先端に梵天がついている。
「えっ」
驚いてネメアを見やると、彼もまた片手に同じ練習用の槍を持って、練兵場に降りていく。カフスを外して、袖をまくり、首もとを緩めて、ぽかんとしているレインを振り返った。
「何をしている。早く来い」
レインはこれから何が起こるのか、見当もつかないまま、ネメアを追って練兵場へと降りた。
砂地の上で、棒を持ったままぽかんとしているレインに、ネメアは、いいのか、と尋ねてくる。
「えっ」
「そのままで、いいのか?」
いいのか、と言われても、何がどういいのかわからない。はぁ、とぼんやりとした返事をした瞬間――。
ネメアの右腕が動いた。高速で打ち込まれた槍の一打をいなせたのは、ひとえに、レインの冒険者としての経験があったからだ。意識よりも反射で動き、左側頭部を狙った槍を打ち払う。静まり返った練兵場に、乾燥した木と木がぶつかった清々しい音が響き渡った。
「何をするんです!?」
非難めいた声を上げたレインに、ネメアは鋭い視線を向ける。射抜かれたら竦んでしまうような、強い視線だ。
「この状況でダンスの訓練でもすると思ったか。構えろ。次は加減はせんぞ」
加減?――レインは肩を回した。腕が少し痺れている。いかにレインが構えていなかったとはいえ、強烈だ。
腑抜けた頭が覚醒する。練習用の槍とはいえ、殴られれば昏倒しそうだ。
油断なく構えたレインの足をすくうように、ネメアの槍が低く滑るように迫る。槍の軌道を描くように細かい砂が舞い上がり、月光に照らされて霧のように踊る。レインは砂埃とともに槍の柄でそれを打ち払った。槍同士がぶつかった乾いた音が練兵場に響く。ネメアが槍を引く。それを追いかけるようにレインの槍がネメアの首を狙った。
「遅い。もっと踏み込め」
それを軽く受け止めながら、ネメアが言った。言いながら、槍をひねる。レインのバランスが崩れる。よろめいた脚の、脛を、ネメアの槍の柄が払った。転ぶのは免れたが、それにしたって痛い。
痛みに耐えかねて、大きく後ろに下がったレインを、ネメアは見逃してくれない。受け止め切れなかった一打が、レインの肩を打った。
滑るように足を踏み出すと、それにあわせて砂が舞う。大きく振り下ろしたレインの槍の柄を、ネメアは素手で受け止める。肉を打つ音が響いたが、ネメアはそれを意に介していないようだった。
ネメアがつかんだ槍の柄をひねると、それに合わせてレインの体が回転した。槍が手からすっぽ抜けて、硬い地面に投げ飛ばされる。受身を取って砂地の上を転がると、ネメアがレインから奪った槍を投げてよこした。レインの目の前で、放られた槍が音を立てて跳ねている。
「立て」
ネメアが短く言った。答えずに、レインは無言で槍を握って立ち上がる。
巻き上げた砂埃を切り裂いて、ネメアが穂先を振り上げる。レインはそれを槍の柄で受け止めるが、とにかく重い。足が前に出ない。後退を余儀なくされて、レインは徐々に壁際へと追い詰められていく。
これ以上は下がれないというところまできて、レインが受け止め損ねた一撃が、彼女の左わき腹を直撃した。抉るようだ。踏ん張りきれずに体が浮く。叩きつけられるように、練兵場の白壁に倒れ掛かる。思わず膝をついた。
呼吸するとひどく痛んだ。意識が飛びそうだ。
「私と力比べをする気か? 重心をもっと素早く移動させろ。攻撃を受け止めるな。流すんだ。――立て」
レインはわき腹を押さえたまま、荒い息をついた。額に浮かんだ汗で前髪が張り付いて気持ち悪い。
「……あの、ちょっとだけ、時間もらっていいですか」
すぐに済みます、というレインの言葉に、ネメアは何も返さなかった。ただ、無造作に槍を携え、こちらを見ている。
レインはそれを許可と取った。すぐに練兵場の回廊に戻って、着ていたブラウスの裾をスカートから引っ張り出し、わき腹を確認する。回廊にまで月光は届かない。ネメアからは見えないだろう。
うわ、ひどいな、とレインは苦笑すらもらした。腫れてうっ血している。首もとを緩める際に確認すると、肩への一打も痣になっている。ブラウスの裾をスカートに戻して、いつもしているスカーフを鉢巻代わりに額に結ぶ。これで、汗に気を取られることはないだろう。
ふと、白い月の光の中に立つネメアを見やる。彼は顔にかかる金髪をかき上げている。ほんの少し、息を切らせているようだが、レインほどではない。
女だからと手加減はしてくれないらしい。だが、それはレインとても同じことだ。女であることを言い訳に、弱さを甘受するつもりはない。
お待たせしました、とレインは袖を捲り上げながら練兵場へと戻った。
「もう一度お願いします」
首の傷が見えたはずだが、ネメアは何も言わなかった。あるいは、この光量では見えなかったのかもしれない。
レインが打ち込んだ一撃を、ネメアが身をひねって避ける。ネメアの槍がレインの肩口に肉薄する。それを受け止めたレインは、わずかに左へと重心を寄せるが――。
「遅い。考えている暇はないぞ」
「はい」
レインの行動の一つひとつに指導が入る。よかったものにはよいと言うが、その数はとにかく少ない。
ネメアの指導は、練兵場の天窓から注ぐ光が白々とした朝日になるまで続いた。そのころには、レインはすっかり参ってしまって、両肘と両膝をついてへたばってしまっていた。全身から噴き出した汗が、肌を伝い落ちて練兵場の砂地に染みを作った。
ここにいたって、回廊のほうが騒がしくなった。大勢が駆け込んでくるような足音が聞こえてくる。
「ネメア様!」
真っ先に練兵場に駆け込んできたのは、言わずもがなベルゼーヴァであった。その後ろに歩哨らしき玄武軍の兵士が随伴している。どうやら、警邏をしていた彼らが気づいて、告げ口をしたらしい。
ベルゼーヴァはネメアとレインの様子を見て、ぎょっとして足を止めた。とたんに顔に渋面が浮かぶ。
ネメアもレインも、汗みずくであるし、巻き上げた砂で顔といわず服といわず汚れている。特にレインのほうは、露出している場所に痣や傷が見えたはずだ。レインは立ち上がれないほど疲弊しており、二人は練習用の槍を携えている。
彼女らが何をしていたのかは明らかで、ベルゼーヴァが怒る理由も明白である。
「いったい、君は何をしているのだ」
ベルゼーヴァがまなじりを吊り上げてこちらを睨むので、レインは立ち上がろうと身を起こした。けれど、膝立ちになったところで動きが止まる。立ち上がれそうにない。
「ベルゼーヴァ」
名を呼ばれて、宰相の矛先は皇帝のほうに向かった。
「ネメア様、お戯れもいい加減にしていただきたい。いったい何を――」
「ベルゼーヴァ」
ネメアにたしなめられるように名を呼ばれて、ベルゼーヴァはしかめ面を浮かべたまま口をつぐんだ。
「ちょっと、お前、その上着を貸してくれ」
ネメアに言われて、ベルゼーヴァは何も言わずにいつも着ている丈の長い上着を脱いだ。ネメアはそれを受け取るなり、膝をついたままのレインに放り投げるようにしてかける。宰相のほうも、使用目的を察していたらしい。何も言わなかった。
レインが少し離れて立つネメアを見上げると、彼は携えていた槍を放り投げ、片付けておけ、と言った。それから、こう続けた。
「またおいで。いつでも、というわけにもいかんが、時間が取れれば見てやろう」
何か言いかけたベルゼーヴァを片手で制し、
「未熟さを越えた先でしか、見れぬ背中もあるだろう」
ネメアはレインに背を向けて、練兵場を去っていく。その後ろに、ベルゼーヴァと兵士たちが続いた。
レインはその場に膝立ちになったまま、ネメアたちが見えなくなっても彼らが去った方向を見つめ続けた。
遠い、と思った。全身で感じる痛みと疲れが、その距離をいやでも自覚させる。だが、彼はいる。レインが進む道の先に。暗闇に沈んだ、その先に――確実にいるのだ。
絵の中の英雄は、あいかわらずレインのすぐ傍で燦然と光り輝いている。けれどそれは幻だ。レインの願望に過ぎない。こんな幻でいいのなら、強さなど求めなかった。母を失った悲しみと絶望に身を浸して、そこで心を止めていただろう。
ネメアは絵の中の英雄ではない。美しくない、気高くない、そして強くない――そんな一面もある、ただの人。だが、それでもいい。あの人がいい。目指すのならあの人がいい。あの人のようになりたい。あの背中を目指すのだ。
レインはゆっくりと立ち上がった。脚に力が入らない。膝が笑う。まともにわき腹に食らった一打がひどく痛んだ。
レインは荒い息をつきながら、ベルゼーヴァの上着を羽織ると、よろよろとおぼつかない足取りで練兵場を後にした。
「ネメア様」
すぐ隣を歩くベルゼーヴァが、ひどく険しい顔をしている。説教が長引きそうだ、とネメアは捲り上げた袖を下ろしながら思う。
「このようなことはおやめください」
「……まだ、あのようなひよっこに負けるつもりはないのだがな」
そういうことではございません、とベルゼーヴァは硬い声を出した。足早に通路を進む彼らの靴音と、兵士の甲冑がこすれる音が、早朝の城内に響いている。
「他の者に示しがつきません。権威というものがございます。――だいたい、あなたはあの娘に甘すぎる。飴だけでは人は育ちますまい。怠惰な家畜になるだけです」
廊下の窓から見える早朝の空は、まだ薄暗く、青と紺の境界のような色をしている。東の空が白んできて、朝と夜の境の空はレインの瞳と同じ薄青色である。
ネメアは窓外の景色から、隣を歩くベルゼーヴァに視線を戻した。
「鞭なら、お前が振るっているではないか。お前は少しあの娘に、きつすぎる」
そうさせているのは彼女です、と友人は言った。これを本気で言っているのが、この男の面白いところである。もっとも、あの娘がこの発言を聞いたなら、愛らしい顔をことさらに歪めたに違いなかった。
「鞭だけでは人は卑屈になる。私は奴隷がほしいわけではない」
ネメアが足を止めると、友人も同じく足を止めた。ベルゼーヴァは黒い瞳でこちらを見つめ返してくる。その目を見る限り、どうやら、ネメアの目的は察してくれているらしい。
ネメアはベルゼーヴァの肩を叩いて言った。
「あらゆる可能性を、模索せねばならん。私たちはそういう戦争をしているのだ」
少しばかり表情を緩めた友人は、私とて、と言う。
「彼女の可能性は買っております」
そうか、と笑って、ネメアは再び自室へ向かう廊下を歩み始める。慌てたようにベルゼーヴァが追いついてきて、
「しかし、それとこれとは話が別です」
どうやら、丸め込まれてはくれないらしい。
◇ひとこと◇
書きたかったシーンの一つがこれだったりします。