「レインが帝位継承を渋っている」
退位の決まった皇帝を目の前にして、ザギヴは言葉に詰まる。ああ、またこの話かと、自然と眉間にしわが寄り、顔が俯く。
まぁ、そんな顔をするな、とネメアは苦笑した。
「お前があの予言に対して、いかに戦ってきたかというのは、私も理解している。枢密院からの後押しもあるし、レインの説得に尽力する」
ネメアが退位することを表明した後、次期皇帝として指名したのはザギヴであった。主要な人間を集めての場で宣言したとき、多くの人間はそれに反対した。ザギヴ自身も反対した。
ゾフォルの予言のことがある。ザギヴが予言どおりに、帝国を治めれば、必ず不幸が起きる。
それに――ザギヴは目の前の現皇帝へと視線を向けた。古めかしい大きな執務机に着いた彼は、輝いて見えた。背中に負った大きな窓辺から差し込む陽光に、彼の金髪がきらめいている。
生まれながらに、玉座に座っているような人だ。持っているものが違う。こういう人間を、ザギヴはもう一人知っている。
ザギヴを守るために、マゴスに立ち向かったレインの背中を思い出す。ああやって、誰かに何かを与えるために生まれてきた者がいるのだ。そういう者が、頂きに着くべきだ。
ザギヴはそう考えている。
あの子を城に呼び出しておいたから、お前も同席してくれ――と皇帝は珍しく疲れたような顔をしていた。あの子は私の話を聞かぬ、と。
あのレインが、ネメアの言葉を聞かないというなら、よっぽど嫌がっているのだろう。あの娘の性格を考えれば、わからなくもないが――。
暗い城内を足早に歩きながら、ザギヴは一人で頭を振った。闇の中に彼女の艶やかな黒髪がばさりと広がる。
いいえ、どうあっても、ふさわしい人間が玉座に座るべきだわ。
ザギヴは決意を新たに、皇帝の執務室へと急いだ。もうすでに、レインがやってきている。
暗い回廊に、細く開いた執務室の扉から柔らかい魔法ランプの明かりが漏れて、闇の中に筋を作っていた。
「嫌ですよ」
部屋の中から聞き覚えのある声がしている。
「だいたい、ロストールの田舎娘が皇帝になるなんて、ほかが許しても宰相が許すわけないじゃないですか」
「ベルゼーヴァは私が諾と言ったものでよい、と言ったぞ」
なおさら、私じゃなくてもいいじゃないですか!――と、レインはいきり立っている。
魔法ランプのシャンデリアが煌々と照らす執務室のソファに、二人は対面になって腰掛けている。本当に、同じ光を持っている人たちだ、とザギヴは暗い回廊から彼らを覗き見て思う。
彼らとザギヴの間にはこの執務室の扉のように、決定的な隔たりがある。彼らは光り輝くあちら側で、ザギヴは暗く闇に沈むこちら側だ。持って生まれたものは、もうどうしようもない。
ザギヴは、扉をノックしようとした。だが、それよりも先にレインが口を開いたので、つい、その手を引っ込めてしまった。
「ねぇ、ネメアさん、前に、自分は冬のような人間だ、と言ったのを覚えていますか」
ザギヴには何の話かわからなかったが、きっと、彼らの間でそういう会話があったのだろうと推測する。ネメアは、ああ、と小さく頷いた。
「今でもそう思っていますか」
「……そうだな。春のようにはなれぬ」
まぁ、春はないですよね、とレインはけらけらと笑った。ネメアは腕を組んで、むっつりとしかめ面を浮かべている。
「でも、冬でもないと思う」
レインは続ける。
「私はネメアさんは夏のような人だと思いますよ」
「……まぁ、夏の生まれだが」
そうじゃなくて、とレインは小さく苦笑した。
「光も影も、何もかもが勢いを増して、その境界線をはっきりと浮かび上がらせる季節。暑さに参ってしまう人もいるけど、誰もが活発に動き回る隆盛の季節だと。――あなたはそういう人だ」
そこで言葉を切って、レインは自分の手を胸に当てた。
「おこがましいけど、私もどっちかっていうと、そっち側の人間ですよ。勢いがあるのはいいけど、騒がしいっていうか――いらない火種をまくタイプです」
これからの時代には向いてない――とレインはゆるゆると頭を振った。
「厳しい暑さが穏やかになる時期が、もう来ている。ザギヴは賢い人です。大事なものを失くす辛さを知り、それを跳ね除けながら自分で努力してきた人だ。あのような人が、私はこれからの時代にはふさわしいと思う」
レインはしっかりと、目の前に座るネメアを見ていた。けれども、なぜだろうか――ザギヴは扉のこちら側にいる自分に語りかけられている気がした。
レインが皇帝になることを固辞していたのは、決して、彼女が個人の感情のまま拒否していたからではない。帝国の、果てはこの大陸の未来のために、自分ではなくザギヴを推すと言うのだ。
対して、自分はどうだった。皇帝になるのを、ただ恐れていただけではなかったか。国の未来を考えたか。そこに暮らす人々を思ったか。ただ、自分が嫌だから、彼女にそれを押し付けようとしていなかったか。
レインの言葉を聞きながら、ネメアは鷹揚な態度で何度か頷いた。
「冬、春、夏と来て、秋が足りぬな」
ソファに腰掛けたまま、レインは胸を張った。そして、まるで、それが我が事のようにこう言った。
「ザギヴはよい皇帝になるでしょう。実り多き、秋のような」
ザギヴは漏れ出た嗚咽を、口を手で覆って何とか堪えた。そのまま、後ろを振り向かずにその場を走り去る。
レインの言葉が、ザギヴの中でこだましている。
ザギヴはよい皇帝になるでしょう――。
それは、ゾフォルが残した予言よりも確かな言葉だった。マゴスが去った体の空虚な一部に落ち着いて、そこでほのかにぬくもりを放つ。
レインも、ネメアも、ゾフォルの予言を知りながら、ザギヴを皇帝に推挙したのは、あの予言以上にザギヴに対する信頼があったからに他ならない。
不吉な予言以上に、彼らはザギヴに信を置いている。ザギヴが今まで生きてきたその道程が、彼らが生まれ持った輝きにもふさわしいと――。
城のテラスから遠くに連なる山々へ目をやれば、すっかり赤や黄色の外套を着込んでいる。いわし雲が、青空を海のように群れだって泳いでいた。
あれから、何年も経って、国もザギヴもすっかり変わってしまった。自分は歳を取ったし、帝国は崩壊から立ち直って、以前以上の発展を見せた。
去ってしまった彼らが、今の自分を見たら何と言ってくれるだろう。自分が彼女の言葉に報いれているかは、まだ自信がないけれど、少しは褒めてくれるかしら。
「陛下、そろそろ行幸のお時間です」
ええ、とザギヴは頷いて、振り返った。秋の鮮やかな山々と、澄み切った青空を背負って、彼女は笑う。
「行幸にはよい時候になりました。――秋は私の季節だもの」
◇ひとこと◇
なぜこの国の人間はINT74が皇帝にふさわしいと思ったのか。