二日休んで、レインは再び洋上の人となった。リベルダムからエンシャントへ向かう船の上である。もう変装はしていない。
レインは一人であった。一人で猫屋敷に戻るつもりである。
彼女は疲れていた。立て続けに起こったあれやこれやに、体と心が追いつかない。仲間の手前、平然としていたが、休息が必要であった。
ヴァンはかつてレインのことを『体力の化け物』とののしったが、化け物だって疲れるのだ。
猫屋敷に戻って休むだけだったので、レインは道連れを求めなかった。エステルはしばらくはラドラスの復興を手伝いたいと言った。ヴァンとナッジはどちらでもいいと言った。
遠慮なく、レインは一人で旅立った。彼らは闇の神器の探索なら、いつでも力を貸すと言ってくれた。ありがたい――だが、レインは神器を探すのはできるだけ一人でやろうと思っていた。
それが、レインの覚悟だった。
エンシャントに着いたのは、十月の終わりごろのことであった。ロセンから上っていては、十一月になっていただろう。追討令が廃止されて助かった。
そういえば、『稲妻』と『獅子』の追いかけっこの賭けは、『稲妻』が勝ったことになったらしい。『稲妻』が逃げ回って捕まらないので、獅子帝が諦めたというのだ。
現実は逆のような気もする。レインは港からライラネート神殿へ続く長い階段を見上げた。神殿には寄らなかった。
猫屋敷に戻り、しばらく休息を取る旨を伝えると、ケリュネイアがはりきってご馳走を用意してくれた。そういえば、この猫屋敷の娘は、あの予言がどういう意味かを知っているのだろうか。
暦が十一月に入って、レインはリューガ邸から借りっ放しの馬に車を引かせ、木材を調達してきた。板切れで、ずいぶん前に壊してしまった納屋を片付け始める。
もとより、閉鎖された田舎の村では、自分たちの家の修理は自分たちでやるのが当たり前だった。特に、レインの家ではこのような大工仕事は彼女の仕事であった。別に得意だったわけではない。気がついたらそのような仕事を押し付けられていたのである。
「レイン」
顔を上げると、庭の下生えの上で可愛いほうの白猫が眠たそうに目を細めている。
「屋根の修繕もお願いします」
母と暮らしていたころも――こんな具合に。
朱雀軍の工作作業を手伝ったのもよい経験だった。工具の扱いに手馴れている。
瓦を外して屋根板の腐った部分を取り外していたレインの傍で、一緒に上がってきた白猫が笑った。
「何だか、あの子がいたころを思い出しますね」
きょとんとしてレインが、白猫のガラス玉のような目を覗き込んだ。白猫は何度か瞬きをする。
「ネメアですよ」
「へぇ」
「この屋敷で面倒な仕事と力仕事は、全部あの子の仕事でした」
ああ、そんな感じ――レインは苦笑した。自分と母のように、この父親に頼まれたら断りきれなかっただろう男の顔は想像に難くない。
世間がどれだけネメアを畏れようと――あるいは恐れようと――レインにとっては、ネメアは普通の人であった。気安い、いい人だった。
彼は重厚で鋭く、他者を威圧するようなところがある。特に、しっかり目を見て話すところなど、レインもバツが悪くなる。彼の強い視線には、つい目を背けたくなってしまう。けれども、そういう人なのだとわかって、懐に飛び込んでしまえば、ただ朴訥とした男だと思った。
たまには失敗もする。悩んで考え込むこともある。基本的に言葉が足りないが、こちらが尋ねれば応じる。笑うこともあるが、どうにもレインとはタイミングがずれている。マイペースなのだ。
そういう、普通の男だった。
そんな普通の人間が、破壊神と向き合って対抗しきれるのだろうか。神を身近に感じたことなどないが、何だかすごい力を持っているから、神と呼ばれるのだろう。
そういう術を、ネメアは持っているのだろうか。あるいは――。
大工道具を片付けながら、オルファウスさん、とレインは顔を上げた。すぐ傍で、白猫が大きな丸い目をこちらに向けている。
「私、ネメアさんのこと好きですよ」
「そうですか。それはよかった」
オルファウスは笑うように目を細めた。親子喧嘩に巻き込んでしまってすいませんねぇ、とピンクの舌を出しながら言う。
「ちょっと、その『好き』はどの好きなの」
かけられた声に振り返ると、はしごからケリュネイアがむすくれた顔を屋根の上に出している。お茶が入ったんだけど、と怒ったような調子で続けた。
ケリュネイア、とオルファウスが呆れたような、たしなめるような声を出したが、レインはかまわなかった。
ただ純粋に、好きな人を好きだと想い続けられるケリュネイアは好ましく、羨ましかった。レインはあまりにも弱く、臆病で、そこまで誰かを想えそうにない。
だって、戦えなくなる。体が動かなくなる。そうしたら、失ってしまう。何もかも。そんなことは、耐えられないではないか。
「違うよ。尊敬してるって意味。好きじゃなきゃ、尊敬できないでしょ」
レインは笑いながら、ケリュネイアが占領しているはしごではなく、屋根から直接地面へと飛び降りた。ごろりと転がって受身を取る。
屋根の上を見上げると、はしごに登ったままのケリュネイアが仏頂面を浮かべてこちらを振り向いていた。オルファウスが、屋根の縁からひょっこり顔を覗かせている。
「オルファウスさんも大好き」
微笑みかけると、白猫はひょいっとレイン目掛けて飛び降りてきた。小さな白い体を抱きしめる。
「うふふ、それはどうもありがとう」
猫特有の柔毛に頬ずりすると、心地よかった。つい今まで日向ぼっこをしていた白猫は、陽だまりの匂いがする。
はしごを降りてきたケリュネイアが、納得のいかないような憮然とした顔をしている。
「ケリュネイアも好きよ。さぁ、お茶にしよう。おなかが減ったよ」
はいはい、とケリュネイアがため息混じりに、屋敷の裏口から屋内に入っていった。その背中を見ながら、彼女はきっとあの予言の行きつく先を知らないのではないかと思った。
知らないならそのほうがいいのかもしれない。知らないのならば、もし、ネメアの首を刎ねたときに、彼女はその純粋さのままにレインを恨めるだろうから。
アルノートゥンに出した手紙に返事が来た。『貪欲の盾』を持つという高僧について尋ねた返事である。
結論から言えば、空振りであった。イオンズは聞いたことがない、と書いてよこした。代わりに、かつての傭兵仲間や神官仲間に闇の神器について聞いてみよう、とも書いていた。
『――気にしなくてもよい。稼がせてもらったお礼だ。逃げ切ってくれてありがとう、『稲妻』よ!』
あの腐れ坊主め――どいつもこいつも、レインを賭けの対象にして、しかも勝っている。レインだけが損をしているようである。
セラからの返事はない。行き違いでロストールまで行っていなければいいが、そもそも、ちゃんと手紙を受け取ってくれたのかも怪しい。
代わりに、といっては何だが、ザギヴから返事が来た。
帝国を出奔してしまったことに関しては気にしていない。むしろ、そんな中で気づかってくれてありがとう、とある。レインはネメアに預けた手紙で、出奔に関して謝り倒していた。
それから、ネメアが手紙を届けたことに驚いたこと、墓地で会ったことを聞いたこと、手紙の一部を彼に見せたことが書かれていた。別に問題はない。
『――システィーナの伝道師に関しては、ネメア様も動向を探るそうよ。心配しないで。それから、オルファウス様の猫の件も、ネメア様から事情を聞きました。あまり無茶をしないでね』
猫屋敷で一戦交えたことまで話したのだろうな、とレインは推測する。別に話されて困ることではないが、何となく、決まりが悪い。
それにしても――レインは手紙の束をしまった。ネメアはオルファウスが猫の姿になっていることを知っている。
元に戻す方法を知っているということだろうか。しかし、死んだものを蘇らせる、というのはどうにも想像がつかない。オルファウスならできそうな気もするが、本人が本人に対してそういう術を使うというのは難しい――ような気がする。何より、自分でできるなら今すぐにでも蘇生しているはずだ。
ネメアはその方法を知っているのだろうか。知っていて、父親に槍を向けたのだろうか。だとしたら、レインはやられ損のような気もする。
仲間たちに手紙を書きながら、レインはエンシャント近辺でできる簡単な仕事で日銭を稼いだ。これまでに比べたら、のんびりとした日々であった。そんな、十一月半ばのことである。
「レイン、古の樹海へ行ってきてくれませんか」
夕食の席で、オルファウスがそんなことを言い出した。
「……別に、かまいませんけど。行って……何をすればいいんです」
「樹海の奥に、泉があります。そこの様子を、見てきて欲しいのです」
古の樹海には何度か立ち入ったことがあるが、泉を見た覚えはない。そんなものがあっただろうか。
レインは翌日、エンシャントで準備を整えて、その翌日に猫屋敷を発った。馬での旅ならば、それほど時間はかからないだろう。
進路を西に取って街道を行く。これまで馬での旅は何度も経験してきたが、こんなにのんびりとした旅は初めてであった。
オルファウスは、年が変わるまでには戻ってください、と言った。あとひと月以上もある。余裕である。
冬が近づく晩秋の空は薄青い快晴である。風はすでに冷たく、冬の匂いが濃かった。枯れた下生えが覆う丘陵が、薄茶色い。街道沿いに点在する防風林が、黒々とした針葉を北風に揺さぶっている。
焦りがないわけではないが、どうしようもないことはある。何より、決してレインが奪取せずとも、ネメアが持つ分にはあまり影響がないように思う。
闇の神器に関して――。もちろん、ネメアにただでくれてやる気はないが、意固地になる必要も無いのではないか、と考えていた。ネメアが闇の神器を集めるのは、あれが闇に近しいものの手に渡るのを防ぐ意味合いもあるのではないか、と思うのだ。
そういう意味では、レインがまとめて持つよりネメアと分担して持っていたほうが、安全のような気もしてくる。
いや、しかしながら、闇の手がどこまでネメアに迫っているのかもわからない。やはりレインが保管して、怪しい連中から守ったほうが確実なのかもしれない。
うーん、難しいな――足りない頭がもどかしい。ネメアやオルファウスのように、二手、三手先まで読んで行動できればいいが、レインは目の前のあれやこれやで精一杯だ。
たとえばこんなふうに――。
レインははっと顔を上げて、馬の腹を蹴った。若い女の悲鳴が聞こえた気がした。
街道の土を巻き上げながら馬を走らせると、防風林に挟まれた道の真ん中で、数人がたむろしている。そのうちの、赤に近い明るい茶髪と鈍く光る甲冑に覆われた小さな背中に見覚えがあった。
「ノエル!」
振り返った小さな白面には、大きな丸い琥珀色の目が輝いている。レインを捉えると、ノエルは焦ったような表情に、ほんのわずかな安堵の色をにじませた。
「レインさん!」
馬を操るレインの前には、ノエルとカフィンがいる。カフィンはノエルの前――レインから見て奥――に出て敵から彼女を守るようにしていた。いつも影のようにノエルを守っているはずのレイヴンは、彼女らから少しだけ離れた場所でがっくりと膝をついている。あのナーシェスの姿はない。
レインはぎょっとした。馬上のレインを睨みつけるその銀色の瞳が、また君か、と物語っている。
ノエルたちと争っているのは、エルファスであった。
レインは慌てて馬から下りると、エルファスとレイヴンの間に立ちはだかった。
「何をしてる。どういうことだ」
「わからないなら、下がっていろ」
冷ややかな視線を向けるエルファスに、レインはむっとして言った。
「わからないから、説明を求めてる。何をしてる」
エルファスは肩にかかる長い銀髪をかき上げながら、ふぅっと息をついた。レインから視線を外して、その後ろで荒い息をつくレイヴンを見やる。
むき出しの土の上に膝を突いたレイヴンは、苦しげだ。もともと顔色のいい男ではないが、今は死人のような土気色をしていた。その額に玉のような汗が浮かんでいる。
「自分の部下の不始末をつけている」
部下?――訝しげな顔をしたレインの足もとで、レイヴンがぎくりと身を強張らせた。
「その男は施文院の暗殺者、告死天使の一人だ。ねぇ、『死の羽音』? 任務を遂行できなかっただけでなく、浅ましくも逃げ延び、おめおめと生き続けている。無様な男さ」
エルファスの言葉にレイヴンは苦しげな表情をさらに歪ませた。暗い灰色の視線を俯けて、奥歯を噛み締めている様子である。ノエルがレイヴンの傍に駆け寄って、膝を折った。だが、レイヴンはそんなノエルから顔をそむける。
エルファスが何かしている様子はレインには確認できない。しかし、レイヴンの様子を見る限り、何らかの魔法をかけているように思われる。
レインはエルファスとレイヴンの間に立ちふさがるように体をずらした。エルファスがぎくりとして、少し驚いたような顔をしてこちらを見上げてくる。それから、すぐさま顔をしかめて、嫌悪感をあらわにした。
「……そんな男を庇うつもりか」
そうこちらを非難したエルファスの瞳は、強い銀色を発している。
そうじゃない、と冷静に返しながら、レインは続けた。
「この前の続きを話そう」
「え?」
「私が何を尋ねたか、覚えてる?」
毒気を抜かれた顔をして、エルファスは少し高いところにあるレインの双眸を見つめた。それから、気を取り直したように厳しい表情を浮かべる。
「……それは今しなけりゃいけない話かい」
「あなた、テレポートですぐ消えちゃうじゃないか。魔法で逃げられると私にはどうしようもない」
それはいいことを聞いた、とエルファスはレインから顔を背ける。
どうせ知っていたでしょう――そう言いながらレインは、エルファスの腕を取った。それにぎょっとしてエルファスが、自分の腕をつかむレインの手を見た。
「話をしよう。私と」
その言葉にエルファスが彼女を睨み上げる。少女のような美しい面をこれでもかとしかめていた。
「僕はそんなに暇じゃない」
「無様な男を追い詰める暇はあるようだけど。そのくだらない時間を私にちょうだいと言っている」
へぇ、とエルファスは嘲りの形に口角を歪める。
「よほど楽しい時間を提供する自信があるらしいね」
「それはあなた次第だ。――なぜエリュマルク帝ではなく、あの人を憎むの」
エルファスは一瞬沈黙した。それから、ちらりと、レインの背後に目を向ける。つられて、レインも肩越しに振り返るとノエルとカフィンが心配そうにこちらを注視している。
「……人がいないほうがいいのなら、後でいい」
逃げないでね、とレインが耳打ちすると、エルファスは大きく肩を震わせて、彼女が唇を寄せた方の耳を手で押さえた。一歩後ずさって、レインから距離を取る。
そのエルファスの仕草に、レインはぽかんとして彼を見つめた。それほど好かれているとは思っていないが、そこまでとは思わなかった。
レインはエルファスの態度に少しばかりショックを受けた。だが、そんな彼女の内心など知る由もなく、エルファスはバツが悪そうに髪を指で梳かしながら、
「わかった……」
と小さく頷いた。
「待って、レイヴン」
背後の声に振り返ると、ふらふらと立ち上がったレイヴンが、ノエルに背を向けて立ち去ろうとしている。
「……もう、君の傍にはいられない。すまない、ノエル」
「ちょっと、レイヴン」
カフィンが非難がましい声を上げた。だが、レイヴンには届いていなかったようだ。
「どうして。待って、レイヴン」
俯くようにして歩み出すレイヴンの丸まった背中にノエルが追いすがった。
「俺は……俺は、汚らわしい殺し屋だ。一緒にいないほうがいい」
レイヴンはそこでいったん言葉を切った。そして、ちらりとこちらを――正確にはレインの一歩後ろにいるエルファスを確認する。
「……わかっただろう。これまでも告死天使が俺たちを襲ってきたのは、俺のせいだ。わざわざ危険なやつと一緒にいることなどない。そんなのは、愚か者のすることだ」
「そんなこと!」
ノエルがかぶりを振った拍子に、琥珀色の丸い瞳から涙がこぼれ落ちた。きらめくしずくが、白い滑らかな頬を伝っていく。
「告死天使が何だっていうの。彼らがあなたを傷つけるというなら、私はいつだって戦うわ」
レインはちらりと背後のエルファスの姿を確認する。彼は――少なくともレインよりは――当事者のひとりでもあるにもかかわらず、目の前で繰り広げられる二人のやり取りに興味がなさそうにそっぽを向いていた。
「……告死天使を彼らに?」
レインが小声で尋ねると、エルファスは視線をレインに向けたあと、ちらりとレイヴンとノエルにやった。それから、もう一度レインに戻す。
「施文院は足抜けを許さない」
「『施文院』は? あなたは?」
「……僕が施文院の法だ」
許してあげなよ、とレインが小声でたしなめると、エルファスは沈黙した。例の満月のような瞳でレイヴンを見ている。
レイヴンがその視線に気づいたのか、こちらを確認して、ノエルに小さくかぶりを振った。それを見てノエルは激しくレイヴンにすがりついた。
「レイヴンが何者でも関係ない。私が知っているレイヴンは暗殺者の『死の羽音』じゃないもの。――レイヴンに、傍にいて欲しい」
レイヴンは土気色をした顔を緊張で強張らせている。すっかり土人形になってしまったように、いっかな動こうとしない。
ノエルがレイヴンから離れて、こちらに向き直った。悠久の時を封じ込めた琥珀のような瞳に、決意をみなぎらせているのがレインにもわかる。
こちらに歩み寄ってくるノエルを、カフィンが小走りに追いかけてくる。ちょっといいの!?――と彼女はレイヴンの肩をつかんで声をかけたが、彼に反応はなかった。
「お願いです。もう彼に手を出さないで。私たちのことは放っておいて」
ノエルの言葉を聞いて、エルファスが小さく笑った。彼には手を出さないで、か――と自嘲するような響きだった。
「君は彼のために死ぬ覚悟があるか?」
エルファスの不意の質問に、ノエルは一瞬面食らったように沈黙した。だが、しかし、彼女はすぐに丸いつぶらな瞳を、まっすぐにエルファスに向けた。
レインはそのとき、ノエルのアンバーの瞳が黄金に輝くのを見た。いや、正確には彼女の瞳の奥に、とても強い光の塊のような何かが見えたのだ。とても大きな――自分の身を任せてしまいたくなるような、強い力を感じたのだ。
「いいえ、私は死にません。レイヴンたちとともに生きます」
ノエルの瞳に宿った光に見とれていたレインのすぐ傍で、なるほど、とエルファスが小さくつぶやいた。その右手が持ち上がる――前に、レインの左手がそれを止めた。
「何を――」
エルファスが不満の声を上げる前に、レインが口を開く。
「それはこちらのセリフだ。何をする気だ」
「身の程を教えてやろうと思っただけだ」
平然と言い放ったエルファスとまっすぐに彼を見据えるノエルの間に、カフィンが立ちふさがった。そして、いまだ土気色の顔をしたレイヴンもまた、ノエルを守るように彼女を背中でかばっているではないか。
レインはエルファスの腕をつかんだまま、彼に詰め寄った。
「これを見ればわかるだろう。彼らはもう自分の生きる道を決めている。あなたが出る幕じゃない」
「……君に僕の何がわかる」
エルファスがレインを見上げた。彼らの距離はとても近く、お互いの吐息を感じるほどだった。
わかりゃしないさ、とレインはエルファスの腕をつかむ手に力を込めた。
「あなたは何も教えてくれないじゃないか。……わかるもんか。私は私のことを話したのに。あなたはいつもだんまりだ。――私はエアのような力は持ってない」
あなたが話してくれないと、私にあなたのことはわからない。レインがそう言うと、
「話したってわからないだろう。いつも、よくわからない、と言ってるじゃないか」
とエルファスはレインがつかんだ腕を振りほどこうとした。だが、レインはしっかりと彼の腕をつかんだまま、まっすぐにエルファスを見つめている。
「それは預言の話だろう。私が聞きたいのは、あなたの話だ」
エルファスが動きを止めた。じっと目の前にあるレインを見上げてくる。その視線に不快なものが一切ないことは、きっとレインの勘違いではないだろう。
エルファスは沈黙して、小さく息をついた。それから、こちらのやり取りを注視しているノエルたちに気がついて、バツが悪そうにかぶりを振った。
「……わかった。もういい。もう、どうでもいい。そんな、役立たずの、ゴミのために、ここまでしつこく絡まれるなんて、割に合わない」
「告死天使を送りつけたり……先に絡んでいったの、エルファスじゃないか」
横からレインが口を挟むと、君は黙っていろ、と自由なほうの指を突きつけてくる。
ぽかんとしてそれを見ていたノエルが、レイヴンの背後から一歩歩み出ようとした。が、レイヴンがそれを片腕で押しとどめる。
「あの、それは、レイヴンをもう追わないということですか」
ノエルの言葉に、エルファスは彼女を睨みつけた。庇うように前に出たレイヴンが、青白い顔でエルファスと対峙している。
「預けておくだけだ。死の羽音、お前の犯した罪は消えない。どこまでもお前を追っていくだろう。お前が、逃げおおせるかな」
エルファスのその言葉に、ノエルが何か言おうとしたときだ。
「これはいったい、何の騒ぎだ」
振り返れば、いつからいたやら、緑の神官服に身を包んだエルフがノエルたちの後ろから、こちらに歩み寄ってくるところである。波打つ金髪を、北風になぶらせて、向かい合って立つ一同から少し離れて止まった。
「……あんた、今までどこにいたのよ」
カフィンの非難めいた言葉に、ナーシェスはちらりとエルフらしい緑の視線を彼女に向けた。
「遅いと思えば、何をしている」
ナーシェスはカフィンの問いかけには応えなかった。彼女に向けた視線を戻して、一同を見回した。そして、ノエルたちの奥に立つレインとエルファスで、視線を止める。睨むような、観察するような様子である。
「これはこれは、預言者どの。またお会いしましたな」
そう言ったナーシェスの唇の端には、こちらを見下すような笑みがこびりついて見えた。
「何でも、貧しいものに神の教えを説いておられるとか。同じく神に仕える者として見習わなければなりますまい。――おやおや。しかし、そのような闇の神器を求めているような、卑しい冒険者と一緒におられるとは。これは、如何なことで――」
「胡散臭さもそこまでいくとあっぱれだな。また、闇に落としてやろうか」
エルファスはエルフの神官を嘲るように小さく笑った。ナーシェスの片眉が、ぴくりと跳ねる。それを無視して、エルファスは居丈高に続ける。
「真実を知りながら、迷えるものたちにあえてそれを告げないでいる神官もどうかと思うがね。自分が神の代行者にでもなったつもりか? それとも、その牧者が、神を気取って真実を隠せと言っているのか? どちらにしろ傲慢にすぎる。恥を知れ」
少なくとも、とエルファスは続ける。
「彼女はお前たちのように恥知らずではない」
エルファスの言葉に、レインは目を見張った。まじまじと彼を見つめる。
彼はレインをナーシェスからかばっている。あのエルファスが!
「罪人同士でかばい合いか。滑稽だな」
「羊飼いと裁判官の見分けもつかないお前ほどではない」
レインはつかんでいたエルファスの腕を放した。ナーシェスと睨み合っていたエルファスが、それにつられるようにしてレインへと視線を向ける。
レインはおとなしく待っていた馬の手綱を引いてくると、ノエルたちの前で足を止めた。
「……私たちはもう行く。何かあったら言え。できる限り、力は貸そう」
ナーシェスを警戒するあまり、つい硬い声が出る。
レイヴンが理解しているように、レインを見つめて目を眇めた。まだ顔色は悪い。その傍で、ノエルがこちらを見上げている。
「あの、レインさん、ありがとうございました」
「礼は私よりエルファスに言ったほうがいい」
エルファスに視線をやると、いかにも不機嫌そうな顔をしていた。それにかまわず、ノエルは金赤の髪を揺らして、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました。レイヴンは私の、大切な仲間です」
「任務からも裁きからも逃げた男だ。どこまで付き合ってくれるか、見ものだな」
そんな皮肉を言われても、ノエルはまったく動じる様子がない。常々思っていたことだが、どうにも彼女は大物であるようだ。
待ちたまえ、と背後から声がかかって、レインは足を止めた。振り返ると、ナーシェスがこちらをじっと見つめている。あの観察するような嫌な視線だ。
「君はこれからどこに行く?」
「……古の樹海に」
なぜそんなことを尋ねるのか。大いに疑問ではあったが、それでも隠すようなことではない。レインは硬い声ながらも、正直に告げた。嘘をついて、変に探られるのも困る。
奇遇ですね、とノエルがレインを見上げてくる。
「私たちも、ちょうど行ってきたところなんです――」
「何をしにいく」
ノエルの言葉を遮るようにして、ナーシェスが割り込んだ。何だか妙な具合だ。あの樹海に、何があるというのだろう。あるいは、彼が何かしたのだろうか。
「仕事をしに行くだけだ。別に何もしない」
ナーシェスは相変わらずレインを探るように見つめている。おそらく、こちらの言葉の真偽を図っているのだろう。
だが、レインはその視線を無視して、彼に背を向けた。エルファスを促して、さあ行こう、と馬の手綱を引く。エルファスは律儀にそれに従って、レインの少し後ろをついてくる。
「レインさん、ありがとうございました。本当に……またどこかでー!」
「じゃあね、子猫ちゃん」
かけられた言葉に肩越しに振り返って手を振る。手を振り返す彼らの中で、唯一、ナーシェスだけがじっとりとした不審な視線を送っていた。
少しばかり無言で歩き、ノエルたちの気配が完全に消え去ると、途端に冬の街道は静かになった。頭上高くを横切っていく渡り鳥の甲高い鳴き声や、激しく吹き付ける北風のごうごうという音ばかりが響く。
ああ、そうだ、とレインは歩みを緩めて、半歩後ろを歩くエルファスを振り返った。
「さっきはありがとう。かばってくれて」
エルファスは少しばかり眉根を寄せて、思い出しているような素振りを見せた。そして、レインの言葉が意味するところに思い当たったのか、そういうことじゃない、と否定した。
「あのエルフが気に食わなかっただけだ。――だが、忠告はしよう。あのエルフと竜王には気をつけることだ。君を利用しようとするか、それができないようなら消そうとするだろう」
君の場合は後者だろうがね、とエルファスは言う。
「ああ、この前は悪の魔道士の手先にされかけたよ」
レインがロセンの地下墓地であったことを端的に語ると、エルファスはそれを鼻で笑った。それから、彼は足を止めて、改めてレインを見上げた。だから、レインも足を止めて、彼を見つめ返した。
レインは、彼が改めて自分の質問を待っているのだ、と察した。同じ質問をするのはこれで三度目だ。
「なぜ、エリュマルク帝ではなく、あの人を憎むの」
「姉をさらいに来たのがあいつだからだ」
「それは知ってる。でも、それだけ?」
あなたはとても賢い人だ、とレインは続けた。
「あの人がお姉さんをさらったのは手段だ。目的じゃない。目的ではなく手段を憎むというのは、違和感がある。あなたのような賢い人が、それを見誤るとは思えない」
エルファスは口をつぐんだ。そして、しばらく、南の空を渡っていく雁の群れを眺めていた。
レインは彼が口を開くのを辛抱強く待った。同じく待ちぼうけを食らっている馬が、道草を食い始める。沈黙がずいぶん居座った後、エルファスは北風に飲まれそうなささやくような声で、ぽつりと呟いた。
「……姉さんが死ぬ直前に会った」
「エンシャント城の後宮に?」
そうだ、と頷いたエルファスの声はわずかに震えていた。それはおそらく、この冬の寒さのせいではないだろう。
「姉さんは死に場所を決めていた。――死ぬ理由も」
「……あの人のために死んだの?」
「そうだ。だから許せない」
ふーん、とレインは頷いた。その圧倒的な軽さに、エルファスは不快感をあらわにしたように、顔をしかめて彼女を睨みつけた。それに、レインはかぶりを振りながら、なるほどなぁと思っただけだ、と言った。
「ある人が、イズ皇后があの人を見つめ続けたのは復讐のためだと言ってた。でもそうじゃなかったんだと思って、ちょっと――感動しただけだ」
「感動?」
「誰かのために命をかけるなんて、普通はできない。よほどの意志と、覚悟と――愛がなければ。強くなければ、できない。強い人は優しいから、きっと優しい人だったんだろう」
レインは感動と言ったが、実のところ安堵したと言ったほうが正しい。ネメアが心臓を捧げた女が、ちんけな復讐のために弟を裏切るような真似をする女ではなかったと知って、ほっとした。彼らが愛した女を軽蔑せずにすむ。
「あなたのお姉さんは素晴らしい人だ」
「……会ったこともない君に、姉さんのことがわかるのか」
「わからないけど……違うの?」
エルファスは少し不服そうに押し黙った。レインから顔をそらして、ごまかしの言葉を探しているように見えた。薄青色の空を眩そうに見つめるエルファスの横顔は、気難しい少女のようだったが、その一方で悲しみに打ちひしがれる美しい少年めいてもいた。
やがて、エルファスは再びレインへと視線を戻して、違わない、と言った。どうやら、ごまかしの言葉は見つからなかったようだ。あるいは、見つかったけれども使わないことにしたのかもしれない。
「話してくれてありがとう」
「君から逃げ回っていると思われるのが、不服だっただけだ」
「それでも、私には嬉しい。――そういえば、私の知人に自分のために戦っているという人がいて、でもその人が戦うたび、救われている人がいる。私もそのひとりだ」
あなたの言い分は少しそれに似ている、と言ってレインは失笑した。エルファスがそれに面食らって、奇妙なものでも見るように彼女をためつすがめつしている。
「ごめんなさい。でも、あなたのそういうところはとても好き」
笑いながら率直に思うところを告げたレインとは対称的に、エルファスはあんぐりと口を開けて長いまつげで縁取られたまぶたをぱちくりと瞬かせた。それから、すぐさまふいっとレインに背を向ける。
「……そんな、莫迦なことを言うもんじゃない!――……もういいだろう。僕はもう行く」
「え、ああ、うん。そうだね。ありがとう。あなたと話ができてよかった」
エルファスはちらりと肩越しにレインを振り向いた。北風になぶられる長い銀髪の向こうから見える月色の瞳に、不快なものは一切なかった。こちらに対する呆れや嫌悪で覆われていない彼の視線は、彼の無垢な魂そのもののような気がして、レインは一瞬心臓がどくりと跳ね上がったのを感じた。
じゃあ、また……――小さく言ったエルファスの体が、魔道の光に包まれた。魔道力の発露に、彼の美しい銀髪が舞い上がる。こちらに背を向けたまま、エルファスは振り返りもせずにぽつりと呟いた。
「……姉さんのことを、悪く言わないでくれてありがとう」
そんな小さな彼の言葉を、レインは聞き逃さなかった。
エルファスと別れて、樹海手前の宿場に馬を預けたレインは、徒歩で古の樹海に分け入った。仕事でここにはたびたび訪れていたが、あまり奥まで入ったことはない。エルフの森だというこの樹海は、不用意に入るものを惑わせてしまう。
慎重に目印をつけながら深い森を突き進む。生態系がどうなっているか知らないが、こういう森の多くは、奥に進めば進むほど出てくる獣や怪物が強くなる傾向にある。もちろん、レインが彼らにやられるようなことはないが、面倒なことにかわりはない。小さな獣なら始末したほうが早いが、強力なものになると骨が折れる。
彼らの大半をやり過ごしながら、レインは奥へ奥へと進んだ。
森の中で寝起きしながら進むうち、やがて、うっそうと生い茂る原生林が途切れた。アーチを組むようにして木々が小路を作る。獣道ではない。かといって、人が作ったものでもない。自然がそのように作ったのだとしか思えない、森の道である。
緑の天蓋をくぐった先は、さらに不思議であった。森の中にぽっかりと空いた空間である。空に伸びる木々の枝葉が途切れ、丸い天窓のようになったそこからうす曇の空が望めた。
あたり一面、この季節にもかかわらず、豊かな緑の下生えが覆っている。踏み出そうとしたレインの足下に、名も知らぬ小さな白い花が揺れていて、彼女は足の置場所を変えた。
ちょうど、空が見える真下辺りに小さな泉があった。近寄ってみると、底が見える。水は澄み切っており、底にたまった白砂が水が湧き出るのにあわせて舞い上がっている。
このような美しい水場にもかかわらず、獣の気配がなかった。近づいてはいけないことを、獣たちは本能的に察知しているのか。あるいは、邪悪な気配を漂わせる怪物は近寄れないのかもしれない。
泉の中央には苔玉のような緑の、こんもりとした小さな島があった。その島の中央に枝葉のない木が、屹立している。遠目には、苔玉に棒が突き立てられているように見えた。
ここでよいはずだ。レインは辺りを見回す。
オルファウスから聞いていた特徴と合致する。だが、何もない。ここは静謐そのものであった。
様子を見てきてくれ、とは頼まれたが、具体的にどうするべきだろう。
レインは泉の縁に荷物を降ろすと、脛当てを外し、ブーツを脱いだ。それから、靴下を脱いで、騎乗用の下穿きを膝までめくり上げた。
そろりそろりと泉につま先をつける。冷たい。もうほとんど冬である。水の冷たさも頷ける。
脛を全部水につけながら、レインは泉の底を歩いた。細かい砂が裸足の足裏をくすぐる。痺れるような冷たさに、レインは小さな悲鳴を上げた。
泉の中央の小さな島にたどり着いて、上陸を果たす。その島全体をふわふわの苔が覆っており、裸足で踏みしめると心地よかった。
大人が四、五人も寝そべるとそれで精一杯の小島の中央に、白いような木が立っている。そっと触れると、硬く、冷たい。表面は誰かが磨いたようにつるりとしている。
見上げると、空まで伸びているような錯覚を覚える。周囲の木々と比べても、けっして高くないはずの木だ。それが、この森で一番高く伸びているように見えた。まるで、空に広がる雲のその先の、太陽の向こうまでつながっているようだった。
不思議だとは思ったが、別に異常事態という印象は受けない。ただ見て来い、といわれて見に来たが、これで依頼を達成したといえるだろうか。
レインはしばらくこの森の不思議な空間に留まっていたが、日が暮れる前には森の出口に向けて出発した。
古の樹海を後にして、再び街道を猫屋敷に向けて進む。レインが賢者の森に入ったころ、暦は十二月に入り、本格的な冬を迎えていた。
「何もありませんでした」
レインは素直にオルファウスに報告した。オルファウスはテーブルの上で、白くて長い尾っぽをゆらゆら揺らしながら、緑の目をゆっくりと瞬いた。
「そうですか」
それで終わりである。
レインは少し気になって、何があるんですか、と尋ねてみた。
「『無限のソウル』が。あそこはエルフの聖地でしてね。始祖エルフの魂が、『無限のソウル』を守っているのです」
「……それは……それがないのは大事なのでは?」
そうでもないです、とオルファウスは言った。
「どうせ資格のないものには、見ることもかなわないものですから」
ということは、あるかないかもレインにはわからないではないか。レインは顔をしかめて首を傾げる。オルファウスは何がしたかったのだろう。
「あなたなら、『無限のソウル』を宿せるかなぁー、と思ったんですけどねぇ」
軽い口調で恐ろしいことを言う。
その『無限のソウル』が何なのか、レインには具体的にわからないが、そんなとんでもないものを身の内に宿すのは恐ろしい気がする。
選ばれなくてほっとした。もう目に見えない大きなものに、ご指名されるのはこりごりだ。ろくなことがない。
レインにとっては、オルファウスや、ネメアや、仲間たちがレインを選んでくれるだけで充分だ。よくわからないすごいものより、そちらのほうがずっと確実な気がした。
「オルファウスさんの予想が外れるのは、珍しいですね」
「そうでもないです。割りと外れてばっかりですよ」
オルファウスはそう言って、ピンクの舌でぺろりと鼻をなめた。
◇ひとこと◇
レインはインフィニティアを手に入れそこなった模様。たぶん、この子、サーチ系のポイントが足りないんじゃなかろうか。