剣聖

 決勝大会というだけあって、ここまで勝ち抜いてきた連中も、なかなかの実力者であった。とはいえ、レインの相手になるかと言うとそうでもない。予選は四人で戦ったので、多対一に持ち込まれることも多かったが、決勝大会は一対一だ。
 それから――。
「これでよろしいわ」
 手当てをしてくれた魔道士がそう言って顔を上げた。彼女に礼を言いながら、粗末な寝台に腰掛けたレインははだけていた上着に袖を通した。
 傷の手当てを受けるレインの横で、クリュセイスが居丈高に鼻を鳴らした。何がそんなに苛立たしいのか、腰に手を当てて、しかめ面を浮かべながらこちらを見下ろしている。
「わたくしに感謝することね。本当はいつのたれ死んでもおかしくない身分のあなたに、こうして施してやってるのよ」
 レインはそれを黙殺した。
 決勝戦からはこうして闘技場お抱えの魔道士が、傷の手当をしてくれるようになる。今まで自分で応急手当をしていたが、その分の魔道力を考えなくていい。
 クリュセイスはまだ何かしゃべり続けている。
「――それから、その剣。わたくしの慈悲がつまっているのですからね。大事にすることね」
 決勝大会が楽なことに剣はあまり関係ない。
 レインは寝台に立てかけてあった剣を片手に立ち上がった。とたんに、クリュセイスがぎょっとして身を引く。何だか顔が青ざめていた。
 クリュセイスの傍に立った護衛らしき男たちが緊張する。こちらを恫喝しながら、腰に帯びた剣の柄に手を伸ばした。そのときだ。
 剣奴牢の外がにわかに騒がしくなった。と思いきや、剣奴牢の格子戸の向こうに、ぬぅっとボルダンの巨漢が姿を現した。
 ボルダンには巨漢しかいないが、その男はレインが見てきたどのボルダンよりも大きく見えた。鍛え上げられた巨躯は筋骨隆々として無駄がなく、浅黒く日に焼けた肌には種族特有の刺青が彫られてある。三白眼の瞳が鋭く、薄暗い牢内をさっと一瞥すると、ひたりとレインを捉えて止まる。
「きゃああああああ」
 自分のすぐ隣で上った悲鳴に、レインはびくりと体を震わせた。驚いてそちらを振り返ると、クリュセイスがひどく興奮している。胸の前で手を組んで、赤茶色の瞳を潤ませながらボルダンの男を見つめていた。何だか、頬が紅潮している。
 レインは挨拶もなしにいきなりやってきたこのボルダンと、クリュセイスを代わる代わるに見比べた。
「あんたの知り合い?」
 尋ねたとたん、クリュセイスの平手打ちがレインの左肩を襲った。痛くはないが、気持ちよいものでもない。抗議の意味をこめてクリュセイスを睨むと、彼女はラングスイルのような鬼女めいた顔をしていた。
「あ、ああ、あなたねぇ! 剣聖レーグをご存じないの」
 クリュセイスは信じられないという顔で、金切り声を上げた。
「レーグ……? ああ、ネメ……――バロル討伐の英雄の一人だったっけ。そりゃすごい」
 へぇ、とレインはボルダンのほうに目をやった。その彼女の肩を、またクリュセイスがばしばし叩いた。
「あなたっ! へぇ、なんてバカ面浮かべてる場合ではありませんわ。チャンピオンよ、チャ・ン・ピ・オ・ン!」
 クリュセイスは興奮していて、話す内容が要領を得ない。チャンピオンと繰り返しながら、きゃあきゃあ飛び跳ねている。
 闘技場にチャンピオンがいることは知っているが、それがバロル討伐の英雄の一人とは知らなかった。決勝大会に優勝すると、チャンピオンへの挑戦権を得るとは聞いたが、挑戦しなければならないとは聞いていない。
 ボルダンのレーグはこちらが騒動している間も、いっかなレインから視線を外さなかった。それから、非常に低く響く声で、一言だけ呟いた。
「……強いな」
 ぎゃあぎゃあ騒いでいたクリュセイスが、ぴたりと口をつぐんだ。顔を真っ赤にしてぷるぷる震えながら、レーグを見上げている。どう考えても、クリュセイスが言われたわけではないだろうに。
 どうも、とレインは軽く会釈をした。そのレインに向かって、レーグは続ける。
「名を聞いておこう」
「……レイネート」
 放るように言ったレインの態度に、クリュセイスが何かたしなめようとして口を開いた。だが、彼女がお得意の金切り声をあげる前に、レーグの低い声が告げた。
「……うぬと戦うときを楽しみにしている」
 はっ?――ぎょっとしたレインの言葉をさえぎって、クリュセイスがまた歓声を上げた。左耳が痛い。
「きゃああああ。わたくしの剣奴が、レーグと戦うですって!?」
「いやいやいや、ちょっと待ってくれ」
 クリュセイスがはしゃいでいる間に、レーグはもう興味をなくしたようにきびすを返した。さっさと、レインの剣奴牢から去っていく。
 まずいな……――興奮してはしゃいでいるクリュセイスを横目で覗き見る。レインは青い顔をした。
 このまま剣奴をやりつつ、クリュセイスからアンティノの情報を引き出そうと思っていたが、そうもいかなくなった。チャンピオンと戦うなんて想定外だ。まさか、チャンピオンがあんな大物とは思わなかったし、彼から目をつけられるなどとは考えてもみなかった。
 そろそろ潮時かもしれない。クリュセイスははしゃいでいるが、あんなのと戦う気はとても起きない。
「チャンピオンと戦えるなんて、こんな名誉があるかしら。しかも、あちらから指定されるなんて!」
「……興奮してるところ悪いんだが、チャンピオンと戦うのに、これではあまりにも不利だ。私の荷物を返してくれ」
 荷物さえ返してもらったらもうここに用はない。とっとと逃げ出すに限る。
 ところが、クリュセイスはあっけらかんとして、もうないわよ、と言った。
「あなたのあの汚い荷物なら、ツェラシェルが報酬の代わりに持っていきましたわよ」
 レインは眩暈がした。思わずクリュセイスにつかみかかった。
「ば、バカか、あんたは! 何てことしてくれたんだ、この盗っ人め」
「きゃああああっ。何しますの」
 暴れ出したレインに、護衛の男がしがみつく。騒ぎを聞きつけた闘技場の衛兵が剣奴牢に飛び込んできて、レインを羽交い絞めにした。
「放せっ。何にもせんわっ」
 レインは激しく暴れまわった。自分にしがみつく衛兵をつかんで投げ飛ばす。投げられた衛兵が悲鳴を上げて、剣奴牢の石壁に叩きつけられた。護衛に促されてクリュセイスが牢の中から逃げ出していく。
 そのクリュセイスを追いかけようと、レインは剣奴牢を飛び出した。その脚に、衛兵が何人もしがみついてくる。前のめりに石床に倒れたレインの上に乗っかりながら、衛兵の一人が叫んだ。
「束縛の糸と言霊の壷を持ってこい。剣奴が暴れ出したぞ」
「アイテムなんぞ使ってんじゃねぇ!」
 束縛の糸によって体の自由を、言霊の壷によって魔道を封じられたレインは、そのまま引きずられるようにして剣奴牢へと戻された。砂まみれの石床に転がりながら、レインは臍を噛む。
 まずい、まずいぞ。装備はもちろんだが、あの中には闇の神器が入っている。
 錬鋼石を使って鍛え上げた武具は、売ればひと財産になるだろう。ツェラシェルなら売る。確実に売る。装備は惜しいが、それ以上に闇の神器を売られるほうが痛い。
 闇の神器は知らぬものが見ればただの古ぼけた装飾品だ。売っても大した額にはなるまい。だが、それが巡り巡って、シャリやゾフォルの手に落ちればまずいことになる。
 ここを逃げ出してツェラシェルを探し出すか?――ここまでこの剣奴牢で過ごしてきたが、逃げ出すのにさほど苦労はしないだろう。
 だが、問題はその後だ。どうやってツェラシェルを探し出すのだ。クリュセイスの話しぶりからして、彼女はツェラシェルとまだつながりがある。追うとすれば、そこからが手っ取り早いが――。

 
 喧騒が階下まで届く。紗の薄衣をまとった娘たちが、花かごを持って周囲を取り巻いている。踊り子たちの前方には楽団がいて、楽器の調音に余念がない。
 光が差し込む階段上から、砂漠の青空が望める。周囲は石造りだが、床には吹き込んできた砂がうず高く積もっていた。ここは闘技場の選手が一時的に控えておく待機所である。幅が狭く、通路の途中――というか地下から続く階段の踊り場だが、呼び込みがあるまでここにいるもの、らしい。
「いいですわね。あなたは、ただまっすぐ歩けばいいんですのよ」
 クリュセイスが何だか張り切っている。レインの花道を飾る娘たちに混じって、高飛車に腕を組んでこちらを見上げてくる。それから、はっと何かに気づいたような顔をして、眉宇を歪めた。
「勘違いしないで下さる。別にあなたのために、花道を用意して差し上げたわけではありませんことよ。これは、わたくしのために用意したのよ」
 花道の演出を凝るくらいなら、装備を返していただきたかったものだ。レインは何も答えなかった。代わりに、
「そんなことはどうでもいい。ツェラシェルを呼んでおいてくれ」
 言いながら、腰に帯びた扱いなれない片手剣の塩梅を確かめる。ぞんざいに扱われたのが気に食わなかったのか。クリュセイスは、わかっていますわ、とそっぽを向いた。
 今、クリュセイスを切ることは得策ではない。ツェラシェルの所在――荷物の行方をはっきりさせておかねばならない。何としてでも、闇の神器だけは取り戻さなくては。
 幸いにして、クリュセイスはレインに対する警戒心が薄くなっている。よほど自分の剣奴がレーグと戦うことが嬉しいようだ。父親の仇に対して取る態度ではないとは思うが、誤解が解けたのかもしれない。それなら話が早いのだが――。
 闘技場までの長い階段を、案内係の娘に挟まれるようにして上りながら、レインは考える。クリュセイスからアンティノ商会のことを聞き出すにも、荷物の行方を追うにも、ここを切り抜けなければ話にならない。
 剣聖レーグと戦う――はじめは絶望感しかなかったが、よくよく考えればそうでもない。なぜなら、ここは闘技場だ。戦場ではない。死ななければ、たとえ負けても魔道士の治療を受けられる。
 勝つ必要はない。死ななければそれでいい。
 明るい日の下に出ると、激しい楽曲が打ち鳴らされ、踊り子たちが花弁を撒き散らした。銅鑼の音にも負けない歓声が、青空いっぱいに響き渡る。
 楽団が先頭を歩き、その後ろに紗の衣装をまとった踊り子が続く。最後に闘技場の案内娘に両脇を挟まれたレインが歩み出た。花弁を撒き散らす娘たちに促されるまま、レインはその彩りに溢れた道を、闘技場の中央まで歩み寄る。
 極彩色の花弁が乱れ舞う。踊り子たちがひとしきり踊り終える間、レインはぼんやりと空を眺めていた。ズゥの魔力が効いているおかげで、リベルダムの周辺はあまり寒くならない。今は二月の初頭だというのに、澄み切った青空には雲ひとつなかった。
 踊りが終わると、また銅鑼が打ち鳴らされた。レインが入場したときよりも、遥かに大きな歓声が地響きのように闘技場を包み込んだ。
 戦いを鼓舞するような重々しい太鼓の音が響く。レインが入場したときに比べると、華やかさにはかけるが、戦いの場にはこちらのほうがふさわしい気もする。
 ボルダンの男たちが花道を作る。太鼓に合わせて、彼らは自身の鍛え上げられた肉体を自らで打ち鳴らす。黄色い砂地を裸足が踏み鳴らすたび、砂塵が舞った。
 男たちの作ったその花道を、ゆっくりと一際大きなボルダンが歩み進んできた。日に焼けた肌に戦士の刺青を施した体躯は、巌のように立派である。眼光は鋭く、波打ったこげ茶の髪が砂塵まじりの風になびいている。腰に帯びた二刀の剣は、それぞれが大剣のように大きく分厚い刃をしていた。
 取り巻きたちが砂地の上から退去すると、一瞬の静けさが闘技場に舞い降りた。わずかな静寂を切り裂くように、レインの腰もとで剣が鞘走った。まだ使い始めて日が浅い刃は、照りつける太陽に白い輝きを反射している。
 レーグは舞い上がる砂塵の向こうからじっとレインを観察するように、三白眼の瞳を彼女に注いでいた。やや遅れて腰の大剣をすらりと引き抜く。分厚い刃が陽光にきらめいた。
 レインは剣を構えながら、口の中で呪文の詠唱に入る。風の精霊たちが、それにあわせてさざめき始めた。
 静まり返る闘技場に銅鑼が鳴った。一度、二度――三度目が鳴らされるのと、レインの魔法が解き放たれたのとレーグの二刀が閃くのは、ほとんど同時であった。
 横に薙いだレーグの閃刃を、すんでのところでレインがかわした。肉厚の大剣は、まだ止まらない。今度は右手の剛刃が閃いた。だが、二刀の刃は舞い上がる砂塵を引き裂いただけだった。
 レインはレーグと遠く距離を取る。一足飛びで取れる間合いではないが、風の精霊のおかげで身体能力が上っている。
 あんな剣撃を、受け止める気が起きない。もう一つ呪文を唱えながら、レインはさらに距離を取る。外野から、逃げるなだの何だのと野次が飛ぶが、ならば代わってくれ、と言いたい。
 レーグが追撃をかけてくる。あの巨体で驚くほど素早い。
 剛刃が頭上に振り下ろされる。肉厚の刃がレインの頭蓋を打ち砕く前に、彼女の魔法が完成する。レインの空色の瞳の奥に、かっと魔道の炎が躍り上がった。炎の精霊が彼女の全身を駆け巡り、あらゆる組織を活性化させていく。
 刃同士が打ち合う澄んだ音が、歓声を切り裂いた。頭上に迫る剛刃を払いのけた火花が、レインに届くその前に、彼女はさっと身をかわす。その影を、閃刃が切り払った。
 くそっ。案の定、重い――!
 レーグの一撃は速く、重い。アルカホルをかけて力を補っても、片手では受けきれない。片手剣の柄を握る両手が、汗で滑りそうだ。試合が長引けば長引くほど、レインには不利だ。そのうち、腕が痺れて剣を落としかねない。ある程度、相手の力を受け流す戦い方を身につけているが、それにしたって限度がある。
 魔法でけん制しつつ、あの剣撃の嵐の中に飛び込まなくてはならない。これだから剣は嫌いだ。
 レインの放った炎を横に跳んで易々とかわしながら、レーグがこちらに突進する。頭上で交差させた二刀流を、一気にレイン目掛けて振り下ろす。
 剣でまともに受ければ、剣ごと折られてしまうのではないか、というほどの衝撃であった。もうもうと砂埃が立ち込める。鮮血が飛び散る。
 観客がどよめいた。
 血を流しているのは両名ともであったからだ。レインの周囲を囲うように砂地から飛び出た、魔法力を帯びた岩の錐が二人の肌を切り裂いていたのだ。
 避けることもできなければ、受け止めることもできないと見たレインは、とっさにスタラグの魔法を使った。本来は大きな岩の錐で相手を串刺しにする魔法である。まさかレーグに当たるとは思わないが、足止めくらいにはなる――はずだった。だが、レインはそれを自分の盾に使った。
 閃刃と剛刃の一撃は、地面から伸びた岩を砕いたことで失速し、レインの剣でも受け止められる程度の威力に留まったのである。
 あまりにも自分の至近距離で放ったものだから、生み出した鋭利な岩の先端はレイン自身も引き裂いたが、これしきレーグの二刀に比べればどうということはない。レインは二刀を弾き返すと、返す刃でレーグの胸元を切り上げた。皮一枚を裂いただけで、レーグがのけぞるように切っ先をよける。
 レインが生み出した岩の錐を粉々に砕きながら、剛刃がレインの胴を薙ぐ。それを剣で受け止め、頭上に迫った閃刃をすんでのところでかわす。避けたというより、倒れこんだような形だ。わずかにかすった右肩が裂け、転がった黄色い砂地に鮮血が滴り落ち、染み込んでいった。
 レーグの攻める手には容赦がなかった。剛刃と閃刃の追撃が、地面に転がったレインに襲い掛かってくる。魔法が間に合った。
 暴力的なまでの風の力が、レーグとレインの間で炸裂した。風の塊がレーグの巨体を押し返し、地面に転がったレインを砂塵ごと巻き上げた。
 宙に浮いたレインの体はそのまま砂地の上を転がった。どうにかレーグと距離を取ることに成功した。砂まみれになりながら、立ちこめる砂埃の向こうを睨み据える。どう見ても追い込まれているのはこちらのほうだ。
 これ以上ちまちま魔法を撃っていては、先にこちらが精神力を使い果たして終わる。アルカホルやスキップの肉体強化の負荷も、シャレにならない。
 レインは深く息を吐いた。その息が真冬の朝のように白く濁る。周囲の気温が下がる。レーグの動きを止めるには、生半な魔法では不可能に違いない。
 レインが砂埃を切り払うようにして剣を振るった。その切っ先から、魔法力のきらめきがほとばしる。舞い上がった砂埃を閉じ込めながら、巨大なツララが闘技場の砂地を割った。まっすぐにレーグに向かった氷の刃は、あまりにも広範囲に及んでおり、今の状態でレーグには避ける術はない――はずであった。
 氷点下の竜のような、獰猛な氷の塊を前にして、レーグは逃げるどころか腰を落として二刀を構えた。そして、竜巻のような猛連打で氷の塊を打ち砕いていくではないか。細かい氷の破片が舞い上がって、クリスタルのように砂漠の陽光に輝く。
 マジかよ……何て男だ。
 もうもうと立ち込める砂埃と霧の向こうに、平然として立っているボルダン族最強の男を見て、レインは呆れた。確かに、レインの魔法はそれほど強力ではない。だが、水の精霊神の祝福を受けた禁呪を、まさか剣二本でしのぎきるとは恐れ入る。
 もうこれ以上、魔法は撃てない。レインは真っ青になった顔を引き締めた。精神力の酷使によって、滝のような汗が頬を伝う。
 これ以上、魔法を使えば、体力より先に精神力が尽きる。魔法を使いすぎると、昏睡状態に陥る。この状況で気を失えば、間違いなく死ぬ。
 レーグが氷の道を砕きながら突進してくる。受けきらねば死ぬ。こんなところでは死ねない。
 レインの瞳に、ちかりちかりと星のような光が輝き出した。
 レインは剣を振りかざして自らも氷の道に踏み出した。深く呼吸を整える。自らの鼓動だけを聞いて、全身に闘気をみなぎらせていく。血液すべてが黄金の輝きを放つような錯覚を覚える。
 レーグの振り下ろす二刀の白刃が、ひどくのろまに見えた。それらを打ち払いながら、返す刃でレーグの喉もとに切りつける。ゆっくりと、だが確実に、レーグは刃を構える。こちらの首を飛ばす気だ。
 あと一打――悲鳴を上げる体と心臓を叱咤して剣を返したときだった。
「ぅわっ」
 氷に足を取られて集中力が途切れた。とたんに全身が鉛のように重くなる。立て直せない。
 転がるように倒れこむレインの右のわき腹を、剛刃が薙いだ。皮膚を裂き、筋肉を裂き、臓物にまで達するかというほどの深い傷である。おびただしい血が吹き出る。
 レインの首を刎ねるはずだった閃刃のほうは、彼女の体勢が予想外に崩れたせいで空を切った。だが、疲労と消耗と、腹を切られたレインにはあまり関係のないことだった。
 レインは冷たい氷の上に転がった。もう意識はなかった。
 だから、彼女は知らなかった。血溜りに倒れ伏した自分のすぐ後ろで、首の付け根から滝のような血を流したレーグが閃刃剛刃を取り落とし、がっくりと膝をついたことなど。
「……みごと、なり」
 呻くように言ったレーグの言葉は、レインの耳には届かなかった。試合を超えた激戦に静まり返る観客と、悲鳴と怒号の入り混じる救護部隊の誰にも、彼の賛辞は聞こえなかった。

 
 魔道の力で傷は塞がった。だが、だからといって失った体力や精神力がすぐさま戻るわけではない。魔法は万能ではないのだ。
「わたくし、感動しましたのよ。マーベラスでしたわ」
 何だ、こいつ……――寝台に横たわったまま、レインは自分の枕元で賞賛するクリュセイスを見上げる。
 クリュセイスは絹の白いハンカチで、目頭を押さえながら、レーグと戦ったレインがどうよくてどう悪かったのかを熱弁した。動き方が悪かったのどうのと講釈を垂れているが、どう考えたってまず装備が悪い。
「……ツェラシェルはどうした。呼んでるんじゃないのか」
 クリュセイスの言葉をさえぎって、かすれた声で呻くと、彼女は露骨に不機嫌そうな顔をする。ハンカチを握り締めながら、腰に手を当ててまなじりをつり上げ、横たわるレインを見下ろした。
「わたくしの話がまだ終わっていないというのに。これだから礼儀を知らない庶民は嫌いですのよ」
 言いながらも、ちらりと振り返って、どうやら控えていたらしい使用人にツェラシェルを呼んでくるように命じている。
 レインは改めて自分の置かれた状況を確かめた。闘技場地下の剣奴牢ではない。漆喰の壁に囲まれた清潔な部屋で、簡素ながらも寝台もちゃんとしているものである。よく見れば、ライラネートに仕える巫女たちが並んだ寝台の間を巡って、横たわる負傷者の具合を診て回っている。
 闘技場の医療施設のようだ。レインは息を吐いて、夜具に身を沈める。クリュセイスの話しぶりと、この疲労感からして、試合が終わってからさほど時間は経っていないだろう。首を巡らせて窓を見れば、まだ日は落ちていない。半日も経っていないようだ。
 ふと、意識の外で体が小刻みに震えていることに気がづいた。止まらない震えを隠すように、寝返りを打つ。とたんに、右のわき腹から飛び上がるような激痛が、電流のように全身を駆け抜けた。
 勝たずとも負けないつもりだったが、こんな危ない橋を渡るのは二度とごめんだ。
「よぉ、死にぞこない」
 嘲るような声に首だけをそちらに巡らせる。ツェラシェルが、大部屋を横切ってやってくるところであった。クリュセイスの使用人らしき男に、使い込まれた槍と鎧、見慣れた荷物を運ばせている。
 ツェラシェルはにやにや笑いながら、レインの横たわる寝台の脇に立った。彼は使用人が運んできた装備品の一式を指し示して、
「ほら、ちゃんと取っておいてやったぞ」
 と、肩をすくめた。
 レインは呻きながら寝台の上に身を起こす。ツェラシェルがなぜこんなにも偉そうにしているのか、理解に苦しむ。そもそも、こいつが妙ちきりんな呪いをかけなければ、こんなことにはなっていないというのに。
 腹をかばいつつ、ツェラシェルを睨みつける。
「荷物をよこせ。中を確かめる」
 信用がないね、とツェラシェルは彼女を鼻で笑った。それから、使用人に荷物を寝台の端に載せるように顎をしゃくった。
 レインは震える手で荷物をひったくるように引き寄せる。クリュセイスが嫌そうな顔をしている。迷惑そうに、ハンカチで口元を覆って、嫌みったらしく咳払いをした。
「……あった」
 レインは胸をなでおろした。背嚢の中に無造作に投げ込まれたバックパック。その中に、古い装飾品が入っている。
「何ですの。その汚いアクセサリーは」
「……母の形見だ」
 レインは適当なウソをついた。それから財布を取り出して、それを丸ごとツェラシェルに放りやった。
「それしかない」
「話が早くて助かるね。ま、よしとしとこう」
 レインは青白い顔をしかめてため息をついた。この男を殴り飛ばしてやりたいが、今は呼吸をするだけで腹の傷に響く。
 闇の神器が無事ならもうこんなところに用はない。とっととおさらばしたいところだ。体の自由さえ利くのであれば。
「それで、あんたもう気は済んだのか。まさか、剣聖に勝たなければ――なんて言うんじゃないだろうね」
 寝台の上に体を起こしたまま、クリュセイスを見上げる。彼女はなぜかむすっとした顔をして、この期に及んで高飛車にレインを見下ろした。
「わたくし、あなたを雇いたいと思いますの」
「は?」
 レインは胡乱げに片眉を持ち上げる。
「あなたがわたくしの父を殺害していないというのは信じましょう。ですから、あなたを正式に雇いたいと言っているのです」
 自分の過ちに気づいたくせに、どうしてそうも偉そうなのだろうか。金持ちはみんなこういう思考回路なんだろうか。
 レインは青白い顔をことさらに歪めて、不快感をあらわにした。
「……断ったら?」
「あら、別にいいんですのよ。けれど、あなた、ずいぶん具合がよろしくないんじゃありませんこと? 突然乱入してきたゴロツキに刺されただけで、そのまま死んでしまいそうですわ」
 クリュセイスは高笑いしながら、あなた色々なところで恨みを買ってそうですものね、などとのたまっている。
「あんたほどじゃない。……だが、いいだろう。雇われよう」
「人間素直が一番ですわ」
 クリュセイスは勝ち誇ったように笑う。
 何だ、こいつ……――呆れて二の句が継げない。
 寝台の傍でニヤニヤ笑いながら突っ立っていたツェラシェルが、
「お前もほんと、厄介ごと抱え込むのが好きだね」
 と、ひょいと肩をすくめた。

 
 それから、ほとんど間を置かずに、レインはクロイス邸の客間へと移された。この部屋がまた豪華だ。大きなひと間にリビングルーム代わりの応接セットが置かれてあり、部屋の隅には天蓋つきのこれまた豪華な寝台を設えている。天井には魔法ランプを使った大きなシャンデリアが下がっていた。夜はさぞ明るかろうが、大きなテラスにつながった窓から、陽光が差し込んでいて昼間は不必要だ。
 床に敷かれた絨毯は南部伝統の幾何学模様で、足音まで埋もれるほどふかふかしていた。
 レインはその豪華な部屋で傷が癒えるのを待ち、床を払えるようになったのは一週間ほどしてからのことだった。床を払った、というよりは、無理やり叩き起こされた、といった感じではあったが。
 まだ青い顔をしたレインのもとを訪れたのは、クリュセイスであった。彼女は興奮したように、白い頬を上気させて、早口でまくし立てた。
「あなたにお客様よ。何をしてるの。早くいらっしゃい」
「……私、まだ動くのもきついんだが」
「誰だとお思いになって?」
 クリュセイスはまったくレインのことなど眼中にない様子であった。ふらつく彼女の腕を取って、ぐいぐいと引っ張っていく。
 クロイス邸はとにかく広い。リューガの屋敷も広いが、こっちも負けず劣らず広い。レインが寝泊りさせてもらっている二階から、よろつきながら一階に下り、応接間に案内される。
 下仕えの男が恭しくお辞儀をしながら、応接間の扉を開いた。
 応接間は広かった。ひと家族くらいならここで暮らせそうなほどである。白いクロスのかけられた大きなテーブルと、何脚もの――十はゆうに超えている――椅子が並び、壁の一面は大きな窓ガラスになっている。もう片方の壁は美しい壁画が描かれていて、天井には三段になったシャンデリアが二個もついていた。
 そのような、豪華な部屋にもかかわらず、不釣合いなぼろの外套をまとった客が、レインを待っていた。見上げるほどに大きな、巨漢である。
「まぁ、座ってらしてと申し上げましたのに、レーグ」
 クリュセイスが興奮した様子でレーグの傍に寄った。その拍子にレインを突き飛ばしたものだから、まだ足元のおぼつかないレインはよろめいて、壁に手をついてしまう。
 レインは扉の傍に立つ下仕えの男に、自分の分の茶を頼んで、一番手前の椅子に歩み寄った。
「……悪いが座らせてもらうぞ」
「あのチャンピオンのレーグが、わたくしの屋敷にいるなんて夢のようだわ。ああ、何てこと!」
 クリュセイスはレインの声などまったく聞いていなかった。興奮して一人でしゃべっている。レーグすら、クリュセイスの言葉を聞いていないようだった。彼は三白眼の、鋭い目でじっとこちらの様子を観察していた。
 給仕がレインにお茶を運んできた。クリュセイスの分と、おそらく手をつけられていないまま放置されているレーグの分を入れなおす。
「さぁ、レーグ。どうぞ、お座りになって」
 クリュセイスはレーグに椅子を勧めた。ちょうどレインが腰かけた窓際の椅子の対面の席である。ふと、初めて、レーグが視線をレインからクリュセイスに向けた。
「……女、少し、黙れ」
 低く響く声は、あまりにも重圧に満ちていた。クリュセイスは空気にあえぐ池の鯉のように口をパクパクと動かすと、顔を真っ赤にして押し黙った。
 それを見て、それで、とレインはいまだに仁王立ちになったままのレーグを見上げる。
「何の用だ」
 息を吐きながら尋ねると、レーグは至極シンプルに返した。
「……再戦を望む」
 そう言って、彼は目深に被った外套の頭巾を後ろに落とす。彼の癖のあるこげ茶色の髪が、その拍子に揺れた。
 レインは青白い顔をしかめて、あんぐりと口を開けた。呆気に取られるとはこのことだ。
「えっ、嫌だ」
 レインははっきりと言った。まだ一週間だ。あの激戦から一週間――まだ傷も癒えていない内から、次の試合のことなど考えられるものか。だいたい、レインはもう剣奴ではない。レーグと戦う必要などないのだ。
「……勝敗をつけねばならぬ。決着を」
「あれは私の負けだ。先に倒れたのは私だった。それでいい」
 試合のことなどどうでもよい、とレーグは言った。口に運びかけたお茶のカップから、レインは視線を彼に向ける。
「……うぬの実力ではなかった」
「いや、いやいやいや。もう私の負けでいい。それでいいから。再戦はしない」
 レインは強く頭を振った。冗談ではない。レーグは本気だ。本気で再戦しろと言っている。まったくもって冗談ではない。レインは好きで彼と戦ったわけではない。必要に駆られて、しかたなく、戦闘後の回復という保険までかけて戦ったのだ。
 納得がゆかぬ、とレーグは頑なに言った。
「……あの最後の連撃。かつて、受けたことがある」
 レインは何も言わなかった。どうせ誰に受けたかはわかっている。
「……うぬが万全であれば、取れたかも知れぬ」
 何が、と視線をレーグに向けると、彼は自分の首もとに手を当てている。まだ包帯が巻かれているところを見ると、レインの不完全な一撃も結構いいところまで入っていたようだ。
「それが勝負というものだ。得物が普段と違うから、実力が出せませんでした、というのは言い訳にならない。私の実力不足だ。だから私の負けでいい」
 レーグはむっつりと唇を引き結んだまま、顔をことさらにしかめた。納得がいかないのだろう。
 だが、いかに納得ができなかろうと、レインは戦う気などさらさらなかった。次にやり合えば、確実に自分が死ぬような気がしている。レインは自分のことをよく知っている。
「私はまだ死ぬわけにはいかない。やらなければならないことがあるから。あんたとは戦えない」
 レーグは沈黙したまま、じっとレインを見つめた。白目がちの、こげ茶色の小さな瞳は、感情が読み取りにくい。
 レーグは唐突に口を開いた。
「……かつてあの男もそう言った。うぬはあの男とよく似ている。言葉も、強さも、美しさも――」
 レインは呆気に取られてレーグを見上げたまま、カップを取り落としそうになった。傾いたそれから湯気の立つお茶がこぼれ落ち、レインのむき出しの太ももにかかる。
「あっつ! 熱いっ」
 レインは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。自分の対面に腰かけたクリュセイスまでもが、カップを取り落とした。その音でそちらに目をやる。クリュセイスは白い顔を真っ赤にして、レインをじっと見つめている。何だか、こちらまで恥ずかしくなってくる。
「……その魂の輝きが、よく似ている」
「あ、はい。そうですか……」
 レーグは彼女らの反応に何の興味も示さなかった。何と答えていいものかわからず、間抜けな答えを返したレインに、レーグは突然ひざまずいた。クリュセイスが驚いたように立ち上がる。レインもまた驚いて一歩後退りする。その拍子に、椅子が音を立てて床に転がった。
「……再び、戦うことが叶うまで、うぬに剣を貸そう」
「いや、いいよ。いい、いい」
 レインは慌てた。何だか大変なことになってきた。ここでレーグの申し出を受けたら、すべてが終わったあとレーグと戦わなければならないはめになってしまう。それは嫌だ。面倒くさい。
 だが、拒否するレインとは裏腹に、レーグの意志は固そうである。レインの前をてこでも動きません、といった具合だ。この屋敷にいる男で彼を追い出せる者などいないだろうし、レインが自らやればそれは彼の望むところだろう。
「受けるべきですわ」
 クリュセイスがテーブルの向こう側から、囁くように口を挟んだ。
「ちょっと黙っててくれ」
 レインはクリュセイスに言い置いて、ひざまずいて自分をじっと見上げている大男を見つめる。
 弱ったなぁ……――。
 あー……うーん……、とレインは困ったように視線をそらして、少しばかり考えを巡らせた。それから、妙案を思いついたように、レーグに視線を戻した。
「わかった。再戦する日が来るまで、剣を借りよう。だが、条件がある」
 レーグの表情に変化はない。条件を言え、ということだろう。
「私より先に戦わねばならん人がいるはずだ。その人と戦って、勝てたら、私も戦おう」
 すまん、ネメアさん――レインは胸中で師に詫びた。だが、これくらいなら許されるだろう、と勝手に判断する。もしこの話を聞いたら、あの厳めしい顔を険しくて困惑するだろうことは容易に想像がついた。
 相変わらず変化のない表情で、レーグはレインを観察する。それから、ゆっくり立ち上がって、
「承知した」
 と言った。

 


◇ひとこと◇
「死ななきゃ安い」(キリッ)
「安くねぇよ! 九割八分だぞ!」
 ほぼ逝きかけました。

 

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