ウルカーンは火山地帯だ。その地熱が地下水を温めて噴き出すので、そこら中で温泉が湧いている。温泉には火の精霊力、水の精霊力、そして土の精霊力が豊富に含まれているため、病気やケガの治療にとても効果的だと言われている。その効能を求めて、湯治にやってくるものも多い。
ゼネテスもそんな温泉を楽しみにウルカーンまでやってきた一人である。別に特別な疾患を抱えているわけではないが、温泉にゆっくり浸かって、地酒でも飲みながら、なじみの商売女――彼らしいことだがどこの町にもなじみの女がいる――としっぽりやろうかと考えていたのである。
ところがだ。名前が売れているというのは、楽なこともあれば面倒なこともある。
「あんた、ゼネテスだろ。『剣狼』の」
酒場で話しかけてきたのは、知らない親仁であった。頭の天辺が寂しいどころかピカピカに輝いている。ウルカーンの温泉も薄毛には効果がないらしい。
「だとしたら、何だね」
口の端についたエールの白い泡をなめとるゼネテスに、親仁は自分のグラスを持って彼の隣に座った。
「いや、あたしゃ冒険者ギルドのもんだがね。ちょっと、あんたに頼みたいことがあるんだよ」
そう言いながら、親仁はいくつか肴を注文した。それから、ピッチャーを傾けて、ゼネテスのグラスにエールを注ごうとするので、おいおい、とゼネテスはグラスを取り上げる。
「俺はまだ受けるとは決めてないぜ。だいたい、ギルドを通さねぇで仕事を受けると、面倒なことになるって、ギルドの人間ならわかってるだろう」
「仕事ってレベルの話じゃねぇんだ。まぁ、どうするかは聞いてから決めてくれ」
と親仁は、自分のグラスにエールを注いだ。
「いやね、最近、ここらの子供らの間で、鳳凰山に鳳凰が出るって噂になってるんだよ」
へぇ、とゼネテスは適当に相槌を打ちながら、テーブルに運ばれてきたチーズをつまんだ。
子供たちが噂にして遊んでいる分にはまだよかったが、子供のうちの一人が、本当に見た、と言い始めた。ウソだホントだと言い争ううちに、ついには、冒険者を雇って確かめよう、という流れになった。
当然だが、こんなバカげた依頼が通用するわけがない。親仁は子供たちを追い払ったが、カウンターで押し問答しているうちに、この依頼を受けるという冒険者があらわれたのである。
「だって、ここで子供たちを追い返しちゃったら、あの子たち、今度は自分たちで確かめに行っちゃうかもしれないでしょ」
と、その冒険者は子供たちが前金として差し出した十ギアを握りしめて、鳳凰山に向かってしまったのである。
「まだ、若くて駆け出しっぽかったからちょっと心配でねぇ」
「どうせ鳳凰なんかいやしないさ。鳳凰山に鳳凰なんて、できすぎだろう」
ゼネテスが言い捨てると、親仁は何やら渋い顔をして押し黙った。
「何だい。何か心当たりあんのかい」
「最近、やたら凶暴な怪物どもが各地で目撃されてるって話を聞かないかい。ギルドにもそういう話が色々、回ってきててねぇ。若い女の子だったし――」
若い娘かぁ、とゼネテスはエールを呷る。
確かに、最近、妙に凶悪な怪物が各地で目撃され、実際に被害が出ている。かくいうゼネテスも、そういう類いの怪物を討伐したことがあった。そちら方面にはそれほど詳しくないが、死んだ後に跡形もなく砂のようになって崩れ去るところから、闇の眷族だと推測される。
確かに、駆け出しの冒険者には荷が重そうだ。だが、そういった仕事の難易度と自分の実力をすり合わせるのも、冒険者としての仕事であり自己責任だ。いちいち先輩冒険者が後輩の尻ぬぐいをしていたら、とても体が足りない。
「ふーん……ところで、関係ないけど、その駆け出し冒険者の若い娘ってのは美人だったかい」
「え……ああ、美人だったよ。色白で、背も高くてねぇ――」
なるほど、とゼネテスはグラスのエールを一息に飲み干した。
山道とすらいえない険しい山の斜面を行きながら、ゼネテスは呼吸を整え、顔を上げた。湖の底のような真っ青な空には雲一つなく、その下に峻厳な赤茶けた鳳凰山の頂が屹立している。
結局、鳳凰山へ赴いたのは、その駆け出し冒険者が子供たちのことを思って鳳凰山の怪物に挑んだことに感化されたからだ。子供たちの危険を取り除くことは、冒険者登録をするときに宣誓する冒険者心得にもしっかり合致する。決して、その冒険者が美人の、若い娘だと聞いたからではない。
ギルドの親仁に聞いた話では、その娘は今朝出発したというから、ゼネテスの足なら頂上に着くまでに追いつけるだろう。
大きな岩がゴロゴロと転がり、通れそうもない場所を迂回しながら頂上へと進むと、そのうち少し開けた場所に出た。比較的小さな岩が並び、なだらかになった斜面には砂利が敷き詰められている。
その小さめの岩に、女がひとり腰かけて、水袋から水を補給していた。
ゼネテスはそれに驚いて足を止めた。確かに美人とは聞いていたが、正味な話ここまでとは思っていなかった。だいたい、冒険者をやるなんて事情を抱えた田舎娘が多いし、ギルドの親仁の話もゼネテスに興味を引かせるためだと話半分と思っていたのだが。
ギルドの親仁が美人と言ったのも頷ける。もし、彼女が水袋を傾けておらず、ただそこに座って微笑んでいるだけだったなら、魔物か何かが変化していると思ったに違いない。
砂利道に投げ出された脚は長く、座っているからはっきりとはわからないが、おそらく女にしては長身だろう。どちらかといえばすらりとして女体らしい膨らみは少ないが、深緑色のワンピースのスリットから覗く白い太ももはいかにも柔らかそうで、触り心地がよさそうである。
山の強い風に揺れる髪は灰色にも見える黒髪で、短く切りそろえてはいるものの、癖が強く毛先が方々にはねている。
娘は足を止めたゼネテスに気が付いて、水を飲む手を止めた。水袋を下ろして、探るような視線をこちらに向けている。長くはっきりとしたまつ毛に縁どられた、大きな空色の瞳がじっとゼネテスを注視していた。遠目にもわかる整った顔立ちをしているが、警戒しているせいか表情は硬い。年のころは二十かそこらか、もう少し若いかもしれない。
ゼネテスが近寄って、やぁ、と片手を軽く上げると、どうも、と応じた。
「俺はゼネテスって冒険者なんだがね。お前さんかい、鳳凰山に鳳凰を探しに来たって冒険者は」
「そうですけど」
娘は相変わらず硬い表情で頷いた。気持ちはわからんでもない。こんなひと気のない山の中で、若い娘が男に声をかけられたら警戒するだろう。
「ウルカーンのギルドの親仁に頼まれてね。もし、本当に鳳凰が出たら、お前さんひとりじゃちょいと荷が重いんじゃないかってね」
娘は少し考えるように視線をさまよわせて、そうですね、と頷いた。小さく微笑みは浮かべているが、まだ引きつったように笑っているところを見ると、完全に警戒は解けていないようだ。
「それで、お前さん、名前は」
尋ねると、ようやく彼女は思い当たったようで慌てた様子で立ち上がった。思った通り、背が高い。
「レインといいます」
「レインね。まぁ、そう硬くなりなさんな。テキトーに行こうぜ、テキトーにな」
「へぇ、お前さん、ロストールから来たのか」
ゼネテスは先頭に立って砂利道を登りながら、ちらりと後ろを振り返った。レインと合流した場所からさらに山を登った今、眼下には遠く火山岩地帯が望めたが青く霧がかったように定かではない。まるで頭上に広がる青空が、じわじわ地上に染み出してきているようである。
赤銅色の山肌が陽光を照り返して眩しい。色の濃いレインの髪が、視界の中で妙に浮かび上がって見えた。
はい、とレインはゼネテスの呼びかけに小さく頷いて応じた。ここまでの長い登山で上気した頬が、風桜の花のように紅潮している。肌が白いせいで、それが目立つ。
「といっても、田舎だけど」
「田舎? どこの村よ」
ゼネテスが尋ねると、レインは困ったように曖昧に笑った。そして、
「……小さな村だから、きっと知らないと思うわ」
と自分の故郷を明かさなかった。
若い身空で冒険者をやるくらいだから、何か事情があるのだろう。こんな器量よしだ。わざわざ命をかけた冒険なんぞしなくても、ちょいと微笑んでやれば養おうとする男は多かろうに。
「ふーん。俺もロストールの出でな。ま、仲良くやろうや」
だが、どんな事情があるにせよ、己の足で立とうとする根性のある女は嫌いではない。いや、むしろ好ましかった。
「ゼネテスさんは――」
いかにも素直そうな、まっすぐな目をしてそんな呼び方をするので、ゼネテスは小さく吹き出して笑った。
「ゼネテスでいい。さん付けなんかされたらケツがかゆくなる」
冗談めかして笑いかけると、え……、とレインはぽかんとした。
「お尻がかゆくなるんですか」
「いやいや、言葉の綾だ、言葉の綾。そんぐらい嫌だってこと」
「あ、ああ……そっか。そういう病気なのかと」
今度はゼネテスがぽかんとする番だ。思わず足を止めて彼女の顔をまじまじと見つめた。レインの表情からして、冗談を言っている風ではない。田舎の出身とはいうが、この世間にすれていないような調子はどうだろう。ひょっとしたら、家が没落でもしたのではないだろうか。
すっかり呆れてしまったゼネテスが、
「そんなわきゃないだろう」
と笑うと、そうかな、と彼女はいかにも真剣な様子で首を傾げている。
「私は本当に田舎者だから、何も知らないんですよ。世界は広くて、私の知らないことの方がずっとずっと多い。だから、そういう病気もあるのかと思ったんだけど――そっか、知ってる人から見ればそりゃおかしいですね」
彼女の言に、なるほど、とゼネテスは思う。ただの阿呆な世間知らずの小娘というわけではないらしい。己の足りなさを知ることは、成長の第一歩だ。多少、人とテンポがズレているとは思うが――。
レインはゼネテスを数歩追い抜いて、こちらを振り返った。黙って突っ立っているゼネテスを、不思議そうに見つめて首を傾げている。行かないのか、とでも言いたげな顔をしていた。
「――にしても、鳳凰はどこにいるんだろうな」
などとごまかしながら、ゼネテスはのらりくらりと斜面を登り始めた。それを確認して、レインも歩き始める。自分の前を歩く彼女を見て、ゼネテスはわずかに歩みを遅らせた。
深緑色のワンピースの丈は短く、そこから伸びる白い太ももがその付け根の方まで見えそうになる。斜面の下に立つとなおさらだ。いかにも触り心地のよさそうな若く瑞々しい白肌が、まるでゼネテスを手招きしているようである。
そして、その薄布に包まれた丸い尻が、彼女が斜面に足を踏み出すたび、たわわに実った果実が風に揺さぶられるように左右に揺れている。
それを眺めながら、なるほど、とゼネテスは満足げに口角を吊り上げた。
山肌を登り続けるうちに尾根に出た。鳳凰山の尾根はいわゆる『やせ尾根』で、尾根筋の両側は険しい崖になっている。そして、その崖の下には紗のような薄雲が広がっていて、谷の様子は窺えない。他方、尾根の上には、いつもより近い蒼穹が椀を伏せたように覆っている。
鳳凰山の頂上にずいぶん近づいたが、果たして鳳凰の姿はいっかな見えなかった。
本当に、あの子が見間違えたのかな、とレインが言った。彼女は尾根の真ん中に立ち、崖の下を覗き込むようにしている。
「坊主が嘘をついたって?」
ウソっていうか……とレインは小さく笑った。高山に吹き荒れる風に、彼女の髪がなぶられる。その髪を押さえながら、強い日差しに目を細めている。
「アクィラとかフェニックスとか、そういう怪物とか獣とかを鳳凰と見間違えちゃって、一度言っちゃったことだから引っ込みつかなくなっちゃう……ってことない?」
ああ……、とゼネテスも苦笑した。
「ま、子供にゃありがちか……」
半日程度探したところで山は広い。二人が見落としているだけという可能性もあるが、それにしたって巣が見当たらないのが不思議である。いくら見間違えたといっても、鳳凰と見間違えたのだ。そこら辺の小鳥ではあるまい。かなりの大物だろう。
待てよ――とゼネテスは首をひねる。ふもとからここまで、そのような大型の鳥が存在している形跡はまるでなかった。たとえば、抜けてしまった羽根が落ちているだとか、糞があるとか――鳳凰が何を食っているかなど知らないが、まったく形跡がないなどということがあるだろうか。伝説の生物とは霞を食って生きているものだといわれればそのような気もするが、あるいは――。
「あっ」
突然、レインが小さな悲鳴を上げた。尾根の先を見つめながらぼんやりと考え込んでいたゼネテスは、一気に意識をそちらに引き戻す。
「どうした」
「あ、いや……何か……」
レインは真っ青な顔をして首もとを押さえ、ふらついている。いかにも調子が悪そうだ。
「おいおい、ここまで来て高山病かい? まいったね、俺は魔法が得意じゃない」
支えるように彼女の肩を抱いたゼネテスが、レインの顔を覗き込んだ。彼女は苦悶の表情を浮かべて、いいえ、と小さくかぶりを振った。
「たぶん、違うと思う。首がつったみたいな……ピリピリする」
レインが呻いた途端、崖下から突風が吹き上がってきた。それと同時にあんなに雲一つない青空だったのに、急に日が陰ってきたではないか。
何だ?――ゼネテスは頭上を振り仰いだ。そして、唖然とする。彼につられて頭を上げたレインの体が、ぎくりと硬直するのがわかった。
視界に飛び込んできたのは、蒼穹を覆うような巨大な翼である。色は墨を塗ったような黒で、そこだけ夜空になってしまったようだ。
翼に比べて小さな頭には、ギラギラと光る血玉のような目が見開かれ、鋭いくちばしは鋭利な刃物のようだ。細い喉首から飛び出した奇声は、女の断末魔のような、金属をこする音のような、背筋に怖気が走る声であった。
どうやら、ギルドの親仁の予想が当たったらしい。見た目は伝承にある鳳凰に似ているが、この禍々しさはどうだろう。外見が闇に属しているというだけではない。全身から発せられる気配が、凶悪の一言に尽きる。
こりゃとんだ大物が出てきたぞ、とゼネテスはレインを抱えたまま、背中に負った大剣の柄に手を回した。それとほとんど同時に、レインがゼネテスの腕の中で身じろぎした。
「ありがとう、もう大丈夫。ひとりで立てる」
そう言って、ゼネテスから体を離すと、レインは自分が肩に負っていた粗末な槍を構えた。それと同時にこちらを振り向きもせずに、頭上を飛翔する黒い魔鳥を睨み上げている。見つめる先にある空と同じような色をした瞳が、闘志にギラギラと燃え上るのを見た。まるで、自分の狩場に入ってきた敵を睨み付ける猛獣のような眼だった。
ここまで登ってくる間、少々のん気者だと思っていたが、なかなかどうして鋭い目をする。気丈な娘だと思った。
谷底から吹きあがってくる風を、巨大な翼で切り払いながら魔鳥が滑空してくる。狙いはレインの方だ。
ゼネテスは背に負った大剣を抜き放ちながら、レインと怪物の間に割り込んだ。怪物の勢いは強く、天の彼方から飛来した流星のようである。怪物の鋭い鉤爪が、レインの身体を鷲づかみにしようとした寸前で七竜剣に弾かれた。ゼネテスの目の前で、パッと火花が散った。
魔鳥はそのまま、大きく空中を飛翔して高く飛び上がると、いったん二人から距離を取った。ゼネテスたちの頭上を、ぐるりと大きく旋回する黒い鳳凰から視線を外さず、ゼネテスは背中にかばった少女に声をかける。
「お前さん、空を飛ぶ相手への対処法、知ってるか」
「な、何となく」
何となく、とはまた心許ない返事である。この様子では、彼女は『ハイグライド』を知らない。よくそれで単身この山に挑んだものである。
『ハイグライド』というのは、この黒い鳳凰のような空を飛び回る怪物や獣に対する技術である。昔の狩人があみ出した技術だが、今では冒険者にも受け継がれ応用されている。
もうひとつ、『スナイプレンジ』という相手との距離や間合いを正確に測る技術もあればなおよいのだが、この分では彼女がそれを身に着けている可能性は低いだろう。
魔鳥が黒い翼を大きく羽ばたかせた。その翼から飛礫のようなものが、矢のような速さでこちらに降り注いでくる。てっきり、飛礫だと思っていたそれらはゼネテスたちの頭上に届くころには、燃え盛る黒い炎の塊となっていた。しかし勢いはそのままに、まるで炎の矢のように二人の上に降り注いできた。
七竜剣で炎を切り払いながら、レインをかばおうとそちらに目をやる。だが、どうやらその必要はなかったようだ。レインは自力で黒い炎をよけたらしかった。ただ、炎がかすったのか、左手を振り払っている。
彼らには当たらなかった炎は乾いた尾根の土の上で、ごうごうと燃え盛っていた。黒い壁のようにゼネテスたちをぐるりと囲んでいる。魔道の炎によって分断されたゼネテスたちめがけて、怪物が滑空してきた。
巻き上がる炎を振り払いながら、突撃してくる巨鳥にゼネテスは大剣を振りかぶる。七竜剣の大きな刃が魔鳥の黒い翼を切り裂いた。黒い羽根が舞い落ちて、いまだ周囲で燃え盛る炎に巻かれてしまう。だが、確かに切りつけたはずの翼を羽ばたかせて、怪物は再び天高く上昇した。
先ほど、魔鳥がこちらに突撃してきたときのレインの様子からして、彼女の動きは悪くない。もし、これが単なる獣相手なら、若い後輩に指導でもしながら相手をしてやるところだ。しかし、闇の怪物ではおもり付きは分が悪い。
「お前さん、少し下がってな」
少し後ろに控えるレインを振り返りもせずに言い放ち、ゼネテスは七竜剣を正眼に構えなおした。腹の中で練り上げた闘気を、呼気とともに七竜剣に吹きかける。ほんの一瞬、大剣の大きな刃が薄ぼんやりと白い燐光を発したかと思えば、もとの鉄色に戻る。だが、その刃を作る鋼に神聖な気配が宿っているのが感じられる。
それと同時に、黒い巨鳥がゼネテスめがけて滑空してきた。風切り羽根が切り裂く空気が、筋になって見えるような速度だ。
黒く大きな鳥の体が、ゼネテスとぶつかった。おそらく、傍で見ている者があれば――つまりレインから見れば、大きな鳥の翼がゼネテスに覆い被さって、その巨体が彼を押し潰してしまったように見えたに違いない。
だが、次の瞬間には気味の悪い悲鳴を上げて、怪物が大きくのけぞった。飛び立つのではなく、よたよたと後ずさりしている。
神聖な力を宿した鋼鉄の刃は、黒い羽毛に包まれた魔鳥のちょうど翼の付け根のあたりを引き裂いていた。先ほどとは違う手ごたえがある。そして、それは傷口から流れ出る墨のような血によって裏付けられていた。
「羽根を切っとけ」
ゼネテスが怪物と対峙している間に、鳥の巨大な体躯を回り込んだレインに呼びかける。谷底から吹きあがってくる風がごうごうと唸る向こう側から、わかったという女の声が聞こえた。粗末な槍の穂先が閃いたのか、白く強い光がゼネテスの目を焼いた。
切り裂かれた黒い風切り羽根が、風に煽られて鳳凰山の空に舞った。羽根は地面に落ちる前に黒い塵になって、風に巻かれて消えてしまった。
魔鳥は鶏がするみたいに二本足で立ち上がり、大きく発達した胸を張るようにして翼を広げた。人間の悲鳴のような、ゾッとする咆哮を上げたかと思うと、大きく翼を羽ばたかせる。ゼネテスに切りつけられた片側の翼はわずかに動く程度だが、それでも咆哮によって使役された精霊たちが、小さな火の粉を生み出すと空気を飲み込み、黒い炎となって鳥の周囲を覆うように燃え盛った。
「わぁっ!」
炎の壁の向こうから小さな悲鳴が聞こえた。踊るように揺らめく漆黒の炎の向こうを見れば、レインの姿が消えている。
まずい、まさか落ちたか!――炎が逆巻く熱気の中だというのに、背筋が一瞬、凍るような感覚がある。急いで、炎の壁を飛び越えて、レインのいた場所に駆け寄ろうとしたときだ。眼前に魔鳥がもたげた首が迫る。血を塗りたくったような真っ赤な口内をさらして、けたたましく鳴いてこちらを威嚇してくる。
七竜剣を大きく振りかぶる。力ずくで振り下ろした段平が、毛を逆立てた巨大な鳥の頭へと肉薄する。浅く切りつけられた鳥の頭から、黒い羽毛が散った。刃をよけようと首をすくめた魔鳥へと、ゼネテスは追撃をかける。
大きく足を踏み出し、振り下ろした七竜剣をそのまま大きく切り上げる。ちょうどくちばしの真下に、鋼の塊が潜り込む。よく磨かれた黒曜石のような禍々しいくちばしが、強靭な刃に負けて砕け散る。ひと際激しい声を上げながら、巨鳥がたたらを踏んで数歩後退りした。墨色の血を口からぼとぼとと垂れ流し、激しく傷つけられた赤い舌が鶏の肉垂のようにぶら下がっている。黒い血をまき散らしながら、魔鳥が再び咆哮を上げようとしたときだ。
横手から、矢のような何かが飛来し、一直線に怪物に向かっていったのだ。陽光にチカリときらめいたのは、見覚えのある粗末な槍である。ちらりと目をやれば、槍を放ったらしいレインが、崖の縁で膝をつくところであった。
レインが放った槍は魔鳥の眼球に深々と突き刺さっている。今にも咆哮を上げようとしていた魔鳥は、思わぬところからの攻撃に、激しくよろけて体勢を崩した。この機を逃すまいと、ゼネテスはさらに大きく怪物の懐へと踏み込んだ。深く腰を落とした一突きが、魔鳥の首に炸裂した。七竜剣の切っ先が怪物の肉を力強く引き裂いていく。
魔鳥の巨大な体がぐらりと傾いで、砂埃を巻き上げながら地に伏した。片翼で激しく空気をかき混ぜるようにもがき、大きな鉄杭めいた鉤爪のついた足をバタバタと動かしている。傷つけられたくちばしを大きく開けて、今にも消えそうな弱々しい声を上げたかと思うと、だらりと舌を垂らして動かなくなった。
そして羽毛と肉がどろりと溶け出し、それに少し遅れて白い骨が同様にタールのような粘液に変わっていく。黒い粘液は尾根の乾いた土に吸い込まれることなく、黒い塵のようになって、谷底からの風に巻かれている。
はぁ、と風の音の向こうから大きく息をつく声が聞こえて、ゼネテスはそちらに目をやった。レインが地面に座り込んで、ぐったりしている。
「おい、大丈夫か。というか、お前さん落ちたろ。よく無事だったな」
ゼネテスが歩み寄って手を差し出すと、うん、と彼女は頷きながらゼネテスの手を取った。
「死ぬかと思って、びっくりした」
立ち上がりながらレインはあっけらかんとしてそう言った。
彼女が言うには、炎に巻かれて後退したところで足を踏み外し、崖から転げ落ちてしまった。すんでのところで崖の縁にしがみつき、自力で這い上がってきたというのだ。
おいおい、マジかよ……と、ゼネテスは苦笑して風に煽られるブルネットの髪をかき上げた。崖から転げ落ちてとっさに崖の縁をつかめる瞬発力というか、判断力というか――何よりとんでもない筋力だ。怪物に向かって放った槍の一撃も、なかなかの威力だった。ただの村娘が駆け出し冒険者をやっていると思っていたが、彼女はとんでもない逸材かもしれない。
「お前さん、たぶん、大物になるぜ」
「え、強くなれるってこと?」
地面に落ちた槍を拾い上げていたレインがこちらを振り返って、パッと笑った。頭上に広がる空と似たような色をした大きな瞳が、砂糖菓子のようにキラキラと輝いている。こうした表情だけを切り取ると、彼女にはまだ幼さが残っているようにも感じられた。
ああ、と言いながら、ゼネテスはおどけたように肩をすくめた。
「きっと大物冒険者になるだろうよ。お前さん、美人だしな」
茶化すようにウインクを送りながら言うと、今度はきょとんとして、薄青色の大きな瞳をぱちくりと瞬かせた。面食らった猫のような表情である。
「え……、私、美人なんて言われたの初めてだよ」
何だか照れくさいような表情をして、頬をほんのり赤くしたレインはそんな風に笑った。まだまだ純朴な田舎娘然としているが、これから世間を知って男を知れば、簡単に男を篭絡できるような、そんな予感がする。
首の後ろをかきながら、マジかよ、とゼネテスは苦笑した。
あの後、二人で山を下り、ウルカーンの町に帰り着いたころには辺りはすっかり夜になっていた。
「ふんふん……なるほど。それじゃあ、やっぱり例の噂の怪物だったわけだ」
カウンターに置かれた革袋の中身を確かめながら、ギルドの親仁は何度も頷いた。革袋の中身は鳳凰山の尾根の土が混ざった、黒い塵である。レインは黒い鳳凰が確かにいたことの証明として、あの塵のようなものを革袋に少しばかり集めて持って帰ってきていた。
「結果的には怪物だったけど、鳳凰には違いなかったよ」
レインが言うと、ギルドの親仁は何の話だと言わんばかりに、ぽかんとして彼女を見つめた。その視線の意味に気づいたのか、レインが続ける。
「あの子――私に依頼をしてきた子、嘘つきじゃなかった」
ああ、と親仁は合点がいったような表情をして頷いた。
「ちゃんと伝えておくよ。何なら、ギルドの掲示板に、真相を貼り出しておこう」
レインは、ありがとう、と礼を言って、カウンターに置かれた革袋を指さした。怪物の残骸の黒い塵である。
「ねぇ、それ、どうするの」
「これかい? 売りに出すよ。魔道士なんかが買ってくれるんだ。最近、羽振りのいい人がいてね」
ああ、そうだ、と親仁は何かを思い出したように、カウンターの裏から重そうな革袋を持ってきた。カウンターに置かれた拍子に、革袋の中で金属同士がぶつかるような軽い音を立てた。あれの中身はギア硬貨に違いない。
「売れるものを持って帰ってきてくれたからね。報酬だ。ありがとう、お疲れさん」
レインは充分な重さの革袋を片手に、こちらを振り返った。少し離れたところから、見るともなしに様子を窺っていたゼネテスの方へと歩み寄ってくる。
これ、と革袋を持ち上げて、彼女は首を傾げた。
「半分ずつでいいかな」
「うん? 依頼を受けてたのはお前さんだろ。俺は別にいらんよ」
ゼネテスが軽く手を振ると、そういうわけにもいかない、とレインはいかにも真面目そうな顔つきをして続けた。
「私、あの怪物相手に何もしてないし、これも意識してたわけじゃないから。それに、半分でも充分だよ」
彼女の申し出に、ゼネテスは少しばかり思案して、
「じゃあ、飯をおごってくれ。その金で」
ウルカーンは学術都市だが、湯治客が多いせいか歓楽街もそれなりに繁盛している。宿屋や飯屋が立ち並ぶ辺りには、煌々とした聖光石とランプの明かりが、夜の闇を追い払うように輝いていた。
ゼネテスは馴染み――とまではいかないが、ウルカーンに来るときにはよく使っている酒場にレインを案内した。一階が酒場になっており、二階には少ないが宿のための客室がある。決して大きな店ではないがそれなりに繁盛していて、日が暮れた今では早々に酔った連中が騒いでいる。カウンターの奥にある厨房からは湯気と一緒にスパイスの効いた、食欲をそそるようないい匂いが漂ってきていた。
レインを伴ったゼネテスが酒場の扉をくぐると、客室につながる二階の踊り場から艶やかな女たちが数人、こちらを見つけて笑いかけてきた。彼女らに小さく片手を上げてあいさつしながら、店内をキョロキョロと見回すレインにカウンターの席を勧める。
適当に酒と飯を注文して、ゼネテスは隣のレインを振り返った。
「お前さん、ウルカーンは初めてかい?」
「ううん、何回か来たことあるよ。でも、このお店は初めて」
とレインは言いながら、カウンターの向こうの親仁に酒が苦手なのでお茶が欲しい、と注文した。注文を聞いた親仁が自分たちの前から離れたのを見て、ゼネテスはカウンターに寄りかかりながら、レインの色の薄い目を見つめた。壁で揺れるランプの明かりが、彼女の空色の瞳の中で揺れている。雲の多い空から青空がひょっこり地上を覗き込んでいるような、神秘的な目だった。
「こういう店はひとりで来るには、ちょっと向いてないな」
「どうして? どういうお店?」
純朴そうな顔をして首を傾げたレインに、ゼネテスはにっこりと口角を持ち上げた。
「お前さんが美人だからさ。俺が隣に座ってなかったら、声をかけようって狙ってる男は多いと思うぜ」
うーん……と唸りながら、レインは恥ずかしさをごまかすように笑う。どうにも、心当たりがありそうな雰囲気だ。
断っておくが、ゼネテスは田舎から出てきたばっかりの、純真無垢なうら若き乙女をだまくらかして寝台に連れ込もうとしているわけではない。レインの反応からして、男に声をかけられたことが皆無というわけでもないだろう。にもかかわらず、自分の器量の良さに無頓着というのはどう考えても危なっかしい。
つまり、ゼネテスは男として、人生の先輩として、レインに注意を促しているわけだ。しかし、その過程で、もし彼女がその気になったとして、ゼネテスがそれを拒む理由がどこにあるだろうか。
俺だってそのひとりさ、とゼネテスがゆっくりと、低い声で囁くと、レインは驚いたように瞳を瞬かせてこちらを見つめてきた。相手と視線を合わせることに躊躇いのない様子からして、シャイというわけではなさそうだ。かといって、警戒心がゼロかというとそうでもない。
おそらく、単純な身体目当てで寄ってくる相手に対する警戒心は持っているが、面と向かって口説かれた経験が少ないのだろう。
「俺だって、山で肩を並べて戦ってなけりゃ、酒場で飯を食ってるお前さんにどう声をかけようかって、考えてた男のひとりだったかもしれない。体を張ったかいがあったってもんさ」
「そんなこと……」
「知らないのか? 男ってのはバカな生き物でな。美人とお近づきになれるなら、命をかけるもんなんだぜ」
レインは怯んだように身をよじって、距離を取ろうとした。それを逃すまじと彼女の白い手を握って、もう片方の空いた手をレインが腰かけた椅子の背もたれに回す。触れてこそいないが、まるで肩を組んでいるような距離だ。レインの白い肌が間近にある。酒場を満たす料理と安酒の匂いの中で、いかにも若い娘らしい男を惑わすような甘い香りがした。
レインが何か口を開きかけたときだ。
「あら、ゼネテスじゃないの」
背後からかかった声に、ゼネテスはレインと密着させていた上半身を起こして、そちらを振り返った。
声の主は妙齢の女だった。いかにも夜の街角に立っているような、大きく肩と胸を開けたドレスを着ている。ゼネテスとは顔なじみ――というか『肌馴染み』というか、ウルカーンに来たときはよく世話になっている女である。
よぉ、と軽く手を上げると、女はしっかり色を載せた唇をにんまりと笑みの形に持ち上げた。すぐ傍にいる香水をつけることも、爪を磨くことも知らないような娘と違って、着飾ることで自分を魅力的に見せることを知っている女である。
「久しぶりじゃないか。元気だったかい」
蓮っ葉な物言いの女に、軽く返事をしながらゼネテスは、
「今日はちょっと仕事でな。ああ、こっちは同業者の――」
と、レインを紹介しようとして動きを止めた。
先ほどまでの様子はどうしたことか。ほんのり紅潮していた頬は白く、どちらかといえば青ざめていて顔色が悪い。表情は出会った時以上に硬く、石膏で固めたようである。こうして表情をなくすと、彼女はとたんにドワーフの職人がその技術の粋を集めて作り上げた彫刻のように見えた。
あれ?――そして、最もゼネテスが疑問に思ったのは、その視線だ。山からここまで、親しみを感じていたはずの彼女からの視線に、何というか恐ろしく冷たいものを感じる。
「私、宿を取っていますから。ここで失礼します」
いかにもこちらを突っぱねるような調子でそう言って、レインは席を立った。
「お世話になりました」
他人行儀に言うなり、カウンターにかなり多めのギアを置いて、荷物をひっつかむようにして店を飛び出して行った。明らかに、レインはゼネテスから逃げたのだ。
「あ、おい――」
「はい、ご注文の品お待ちどう!」
レインを追いかけようとしたゼネテスの前に、親仁が二人分の料理と酒とお茶を持ってきた。思わず動きが止まる。
「……何か、あたし悪いことしちゃった?」
女が同情めいた声をかけながら、ゼネテスのたくましい肩に手を置いた。綺麗に整えられて磨かれた女の爪が視界に入って苦笑する。
「いや……うーん。お前さんのせいじゃないさ。ところで、この飯、食べるかい? ふられちまったよ」
あら、いいの、と女は悪びれる様子もなくにんまりと笑った。それから、遠慮する様子を微塵も見せずに、先ほどまでレインが座っていた椅子に腰かけた。早速、ゼネテスが頼んだはずの酒のグラスに唇をつけている。
その様子にゼネテスは、苦笑とため息を漏らしながら、悪いことをしたなぁ、と純朴そうな若い冒険者の横顔とあの神秘的な大きな瞳を思い出した。
それから、ゼネテスは彼女が行きそうな宿を探したが、結局、レインの姿を見つけることはできなかった。彼がレインと再会したのはそれから数ヶ月後、自由都市のギルドでのことである。
ただ、レインはそのころにはすっかり初々しさをなくしていて、ゼネテスがちょっと口説いたくらいではどうにもこうにもならない女になっていた。
せっかくの美人に惜しいことをしたなぁ、と思うと同時に、そうでなくてはなぁ、とゼネテスは思うのである。
◇ひとこと◇
正直言うと、ゼネテスはこんな口説き方しないだろうと思うのですが、まぁ……ギャグなので、ご容赦願えればと思います。