出奔

 レインたちが湖を泳ぎきって岸に上がったときには、すでに後方の雌雄は決していた。暗雲が徐々に晴れだしている。湖面はまだ波立っていたが、ミズチの姿はなかった。白虎軍の船団が、朱雀軍の船の残骸を押し退けるようにして湖を渡ってくる。
 優雅なもんだ、と岸に打ち上げられた兵士の一人が、ぐったりと横たわりながら呟いた。まったくもって、その通りである。
 レインは疲れた体に鞭を打って立ち上がった。
「怪我人を引き上げろ。中隊長以下は点呼を取れ」
 レインの号令に動ける兵士たちがのそのそと、しかし、確実に動き出した。レインは、湖岸に仁王立ちになっている赤い鎧の老将へと歩み寄った。この老人は誰よりも先に起き上がって動き回っている。
「囮だったはずの海戦訓練が役に立ったな。僥倖じゃ」
 アンギルダンは乱れた髪をなでつけながら、愉快そうに笑った。
 そう、朱雀軍はロストール侵攻の囮として、内海で海戦訓練を行っていた。確かに、それはただの演技であったが、演技だからとてだらだらとやっていては気づかれる。朱雀軍は実戦さながらの海上訓練を行っていたのだった。
 兵士たちの多くは、甲冑――といっても陸戦よりもずいぶん軽装である――を身につけて遠距離を泳ぎきる術を知っていたのである。
 僥倖すぎて怖いぞ、とレインは濡れた髪をかき上げた。
「しかし、お出迎えがないのぉ」
 アンギルダンは町の方向に目をやった。朱雀軍の多くが打ち上げられたのは、砂利で埋まる緩やかな斜面になった湖岸である。湖を背にして立つと、左手に綺麗に整備された港が見える。右手は林になっていた。
 点呼を取り終わった士官がレインたちに報告にやってくる。五百を船に乗せたが、無事を確認できたのが四百強――。怪我人は相当数いるが、死者不明者の数は予想よりも少なかった。
「語弊を招くかもしれんが、多いな」
 レインが素直に感想を漏らすと、そりゃもう、と士官は胸を張った。
「かなり早い段階で船を捨てて逃げてましたから」
 なるほど、とレインは笑った。
「そりゃ結構だが、白虎軍の前では言うなよ。死力を尽くして戦いました、って言っとけ」
「無論です」
 士官はしれっとした顔で、さも当然のように頷いた。これくらいでなくては、朱雀軍の官職は勤まらない。
 レインは全軍に待機命令を出した。朱雀軍においては、休んでいてもいい、という意味も含まれる。
 その内に、白虎軍の船がゆったりと港に入ってきた。アンギルダンに促されて、レインは自分の部隊の動けそうなのを編成して随従した。
 アンギルダンを先頭に、町と港の境界付近で整列する。ふと、アキュリュースのほうから一人、男がやってくるのが見えた。
「あっ」
 レインは思わず声を上げて顔をしかめた。その男に見覚えがあったからだ。
 意図せず槍を握る手に力がこもった。レインは射殺さんばかりに青い目を吊り上げた。男もその強い視線に気づいたらしい。こちらに気づくと一瞬、足を止めて驚いたように目を見開いた。だが、次の瞬間にはニヤニヤといやらしい笑いを浮かべる。
「知り合いか」
 アンギルダンが小声で尋ねるので、昔ちょっと、とレインは苦々しく返した。
 男は茶色の髪を後ろで一つに束ねており、ノトゥーンの紋章が織り込まれた白い神官服をまとっていた。彼はレインのすぐ傍まで、ゆったり歩いてくると、レインを頭の天辺からつま先まで眺め回し、よぉ、とニヤリと笑った。
「その節はどうも、ツェラシェル」
 レインはかつて、自分を娼館に売ろうとした男を睨みつけた。あのときに、今ほど強かったなら、この男をぶん殴っていただろう、とレインは思う。
 そんなに怒るなよ、とツェラシェルは細い顎をさすりながら、片方の口角を上げた。
「助けてやったんだろ。だいたい、こっちは丸々損だったんだぜ。あんたにかけた金もそうだし、あの用心棒どもに追いかけられるし。散々だったよ」
「あんたが勝手にやったことだ。私の知ったことじゃない」
 吐き捨てるように言ったレインに、ツェラシェルはニヤニヤと笑う。不愉快であった。
「しっかし、まぁ……ちょっと見ねぇ間に、いい女になっちまって。いい眺めだ」
 レインはツェラシェルの不快な視線から自分を守るように、腕を組んだ。全身濡れねずみのレインは、衣服が体にぴったりと張り付いて、その曲線美があらわになっている。確かに、レインは大柄で筋肉質で体格がよいが、何も男のような体をしているわけではない。
 村を転がり出たころには、ひょろ長いばかりであったが、あれからずいぶん肉付きはよくなっている。乳房だってあのころに比べたら――小ぶりなのは自覚があるが――大きくなった。腰から尻にかけては、いかにも女らしい曲線を描いている。鍛え上げられた筋肉に支えられた尻、溌剌とした若さを感じさせる太もも――男の欲望を満たすには充分であった。
 もし、白虎軍の着岸作業が終わって、ジラーク将軍が下りてこなければ、レインはこの不愉快な男を殴り飛ばしていただろう。一小隊を率いたジラークの隣には、あのシャリが切れ長の目を細めながら、跳ねるようにして随伴している。
 レインの嫌いな男がそろい踏みである。ここにベルゼーヴァがいないことが悔やまれるくらいであった。
 ツェラシェルは、じゃあな、とレインに片手を小さく上げて、ジラークのほうに歩み寄っていく。レインはそれを睨みながら、
「神官崩れの詐欺師だよ。金のためなら、何でもする悪党だ。……昔、娼館に売られかけたことがある」
 と、アンギルダンに囁くと、彼は驚いたようにレインを見つめた。
「……お主が?」
 レインは肩をすくめて口をへの字に曲げた。そのまま沈黙する。いかにも不機嫌そうなそんな彼女の様子に、アンギルダンが慌てて目線をそらした。
 ジラークの前に立ったツェラシェルは、どうも、と不遜な態度で挨拶した。ジラークのほうは厳しい顔を崩す様子がない。
「あんたの言ったとおり、傭兵どもは懐柔しといた。水の精霊神殿までがら空きだ。煮るなり焼くなり、ってことで」
 ジラークは懐から大きな皮袋を取り出すと、それをツェラシェルに放りやった。ツェラシェルが受け取ると、重たそうな金属音がする。金だろう。
 まいど、とツェラシェルはニヤリと笑った。
 ジラークはそんなツェラシェルを意にも介していない様子だった。整列したアンギルダンのところまでやってくると、ご苦労、と尊大に言った。
「兵を伏せさせておる」
「そんな必要はない。卿らも来たまえ」
 ジラークは自分の作戦が成功したことに、酔いしれているように見えた。かつて、アキュリュースが戦で陥落したことはない。まるで、アンギルダンの山脈越えに対抗しているようだった。
 レインたちはジラークに伴われてアキュリュースの町へと向かった。そのとき、背後のツェラシェルを、肩越しにちらりと窺ったが、彼は皮袋の中身を数えるのに熱心でこちらを見ようともしていなかった。

 
 水の都アキュリュースは、美しい都市である。特にこの時期は、手入れの行き届いた花壇に種々の花が咲き乱れている。町中に走らされた大小の水路には、とうとうと清らかな水が流れ陽光にきらめきを返している。決してなだらかな土地ではないアキュリュースは、町を階段状に作ってあった。そして最上段に位置する水の精霊神殿から、絶えることなく清流がグラジェオンの足跡に注ぎ込まれているのである。
 また、町の中には運河も多く、橋がかけられている。平時はこの運河を丸っこい形をした小舟が渡しをやっていて、アキュリュース観光の目玉となっている。
 神殿に続く大階段の踊り場で、町の一切を取り仕切る神殿の神官長と白虎軍は相対した。レインたちはその後ろに控えている。
 神官長は六十前後の毅然とした老女であった。白髪をひっつめ髪に結い上げて、神官が着るきっちりとしたローブを身に着けている。彼女の後ろには、神殿に仕える巫女たちが控えている。そのうちの一人が、レインとアンギルダンを見止めて、はっとした。
 波打つ金色の髪を背中に垂らした、レインと同じ年頃の娘である。レインほどではないが背が高く、ふっくらとして、丸い童顔の可愛らしい娘だ。
 彼女――イークレムンは不思議な娘で、湖を守護しているミズチと心を通わせることができるという。水の神殿に仕える巫女見習いの娘で、神官や巫女がみんなミズチの気持ちがわかるかといえばそうではない。
 レインは彼女とは懇意の仲である。友人といっても差し障りない。もっとも、冒険者時代にたまにアキュリュースを訪れて、会えたときには話をする、程度の付き合いではあったが。
 一方、彼女の姿にとび色の目をしばたかせている男が、すぐ隣にいるのに気づいて、レインは胸中で笑った。
 ははーん、将官が言ったアキュリュースの使者ってのは、イークレムンのことだな――アンギルダンが昔愛した女に似ているといった娘。
 確かに、イークレムンは女の身であるレインから見ても、どきりとするくらいの美人である。レインには持ち得ない育ちのよさとたおやかさが、外見の美しさに拍車をかける。
 あの娘に似た女を口説き落としたのだとしたら、この老翁も隅に置けない。
 レインがまったくよそ事を考えているうちに、アキュリュースの降伏宣言は終わろうとしていた。
 神官長は町の者に乱暴や狼藉を働かないのならば、素直に降伏すると言った。ジラークはこれを飲み、アキュリュースはディンガル帝国の軍門に下った。
「ねぇ、将軍、うまいこといったんだから、報酬、貰ってもいいよね」
 つつがなく話し合いが終わろうとしていたときだった。ジラークの隣に立っていたシャリが、子供特有の性別を感じさせない声でそう言った。
 好きにしろと言われて、彼は一歩、神官側に近づいた。墨で塗ったような黒い目で、ひたりとイークレムンを見据える。
「ねぇ、イークレムン。僕の報酬は君。僕と一緒に来てよ」
「え……?」
 イークレムンは湖にも似た青いつぶらな瞳をまん丸にして、シャリを見つめた。レインもアンギルダンも呆気に取られている。
 そんな周囲をしり目に、シャリは戸惑うイークレムンに、小さな白い手の平を差し出した。
「さぁ、おいで」
「ち、ちょっと、待て」
 レインが待ったをかけると、ちらりとシャリが肩越しに振り返った。ジラークも振り返った。イークレムンが不安げな様子でレインを見ている。
「……イークレムンを、どうする気だ」
 レインは努めて、感情を表に出さないようにして尋ねた。下手に激昂してこの場から退場させられるのは本意ではないし、刺激するのもよくないだろう。
「そんなの、レインには関係ないでしょ」
 シャリは例の流れるような黒髪を、湿り気を帯びた水の都独特の風になびかせながら朗らかに笑った。それにまた腹が立つ。
「友人がどこかに連れ去られようとしているのだ。関係ないわけない」
 言い合いが始まったのを遮るようにして、アンギルダンが前に出た。
「ジラーク将軍、降伏した都市の住人を傭兵に誘拐させるとはいかがなものか。反抗を招きますぞ」
「町やほかの住人にはいっさい手は出さぬ。これほどよい条件はないと思うが」
 それに、とジラークが体ごとこちらに向き直った。
「誘拐を罪というならば、お主は陛下の難事も罪とのたまうのか」
 レインははっと顔を強張らせた。腹の、みぞおちの辺りが熱く燃え上がった。
 お前があの人の何を知っていると言うのだ――レインは激怒した。もちろん、レインとてネメアの最後の難事に関しては何も知らない。又聞きの又聞き、噂程度にしか知らない。
 けれど、ジラークよりはネメアの苦しみや悲しみに近いところにいると、レインは思っている。自負している。自分は勇者ではないと言い放った、あの男の苦しみを知っている。
「罪は罪じゃ」
 アンギルダンは毅然として言った。
「ネメア様とてそれをわかっておられる」
「お主、それでも陛下の軍を預かる将か」
 不敬である、とジラークが顔をしかめる。
 のどかなアキュリュースの街中で、息をするのも躊躇われるような緊張感が膨れ上がった。朱雀軍は白虎軍と戦うことをいとわないだろう。
 一触即発の空気の中で、シャリだけが浮いていた。
「そっちはそっちで、勝手にやってよ。僕はこの子をもらっていくから」
「いけません、この娘は」
 神官長が悲鳴めいた声を上げた。
「この娘は水の巫女。精霊神様に魂を捧げる巫女です。そのような、傭兵ぶぜいになど」
 ひっどーい、とシャリは芝居がかった仕草で泣きまねをする。
「そんなひどいこと言うなら、僕、もうひと暴れしちゃおうっかなぁ」
 シャリの黒髪が、風になびくようにふわりと浮き上がった。墨のような色をした彼の髪は次第に紫色を帯び始める。彼の全身から、バチバチと紫色の放電が始まった。
 アキュリュースの町のものを守るように、イークレムンが神官長の前に飛び出した。そのときだ。突然、彼女の前に水球が生まれた。いや、よく目を凝らすと、ただの水の塊ではない。大きなぎょろっとした丸い目がついている。まだ柔らかそうなひれも見える。なりは小さいが、確かにあれはミズチだ。
 ミズチの幼生――のように見える水球――はイークレムンをシャリから守るように、彼女の周りをふわふわと漂っている。
「イークレムンを守ろうっていうんだね。よーし、僕、張り切っちゃうよ」
「やめて!」
 レインやアンギルダンが飛び出すより先に、イークレムンがシャリとミズチたちに割って入った。運悪く、シャリの放電に当たったのか、激しい音がしてイークレムンの体がアキュリュースの石畳に叩きつけられた。
「イークレムン!」
 叫んだのはレインではない。アンギルダンだ。彼は一歩、大きく石畳に足を踏み出し、握り締めた拳をぶるぶると震わせている。
 アンギルダンが飛び出す前に、石畳の上でイークレムンが身を起こした。
「……行きます。あなたとともに行きます。ですから……町の人たちに、乱暴をしないでください」
 イークレムンは蒼白な顔で立ち上がった。胸の前で握り締めた手が震えている。だが、彼女は水面のように潤んだ青い瞳で、しっかりとシャリを見据えた。
 いいよ、とシャリがくるりと回った。
 イークレムンは今度はジラークに向き直り、
「どうか、町をよろしくお願いします」
「……あいわかった。無用な略奪や破壊は、こちらも望むところではない」
 イークレムンは深々とお辞儀をして、今度は町の者に向き直った。
「神官長、みなさん、今はつらいですが、こらえてください。誰も、傷つくことのないように」
 最後に、イークレムンはアンギルダンとレインのほうを見た。泣きそうな顔をしていた。こみ上げてきた涙を、ぐっと奥歯をかみ締めてこらえる顔をしている。レインはそのつらさをよく知っている。自分が、何度も何度もそうやってきたからだ。
 シャリが指を一振りすると、イークレムンの周りに丸いガラスのようなものが現れた。大きなシャボンに包まれたようだ。中で座り込んだイークレムンの青い瞳が、不安げに揺れている。
 シャボンは一気に小さくなると、シャリの手の中に納まった。それを握り締めて、シャリはとんっと石畳を蹴って空中に飛び上がる。その小さな姿がふっと消えた。
 呆気にとられていたレインは、きびすを返そうとした。だが、その背中にジラークが待ったをかける。
「どこへ行く気だ。朱雀軍副将」
「……伏せていた兵を戻すだけだ」
 何かを言いかけたジラークを遮って、アンギルダンが言った。
「ジラーク将軍」
 彼は踊り場の隅の花壇の辺りに腰をかがめて、何かを拾い上げている。それから、とび色の瞳でじっとジラークを睨みつけた。
「これは朱雀軍の問題じゃ。口出しはせんでいただこう」
 ジラークはしばし、アンギルダンと睨みあった。先ほどの緊張感が、一気に舞い戻ったようだった。
 しかし、すっと一歩引いたのはジラークが先であった。
「……よかろう」
 取るに足らない、と思われたのかもしれない。だが、それはどうでもよかった。レインは今すぐにでも、イークレムンを追わなければならない衝動に駆られていた。あのシャリが、またレインの友人をさらったのだ。捨てては置けない。助けなければ。
 ジラークは白虎軍を率いて、神殿のほうへと向かっていった。その背中が小さくなったのを確認して、アンギルダンが息を吐いた。
「すまん、わしは行かねばならぬ」
 そう言って広げた大きな手の平に、小さな耳飾りが載っている。白、黄色、薄青、青とグラデーションになっている扇状の小さな石がついている。石は薄く、向こう側が透けるほどで何かの鱗にも見えた。それを細い鎖でつないでいる。耳にはめれば、キラキラと揺れるだろう。
「ルフェイに似ているはずじゃ。ありゃ、わしの娘じゃ」
 アンギルダンはそう言って、苦痛のにじむ顔をしかめた。この耳飾りが、前に話で出ていたものに相違ない。アンギルダンが愛した女性に、結婚の約束として贈った例のイヤリングだ。
 朱雀軍に大きな衝撃が走ったが、レインは、そうか、と頷いただけだった。
「顔はあんたに似ずによかったな。だが、あの状況であれだけものが言える胆力はあんた似だ。――助けに行こう、アンギルダン」
 言ってくれる、とアンギルダンは弱々しく笑う。しかし、と続けた。
「ここでわしが勝手なまねをすれば、朱雀軍は叱責を受ける。それは本意ではない。ジラーク将軍もそれをわかっておって、わしを放っておいたのだろう」
 将軍、と将官の一人が言った。
「叱責が怖くて朱雀軍がやってられますか」
 それにほかの者が、口々に続く。
「そうですよ。何を今更。俺らどんだけ怒られなれてると思ってんですか」
「朱雀軍に配属されてから、怒られない日はなかったなぁー」
「叱責が嫌なやつらは、とっくに配置換えを申し出てますよ。今残ってるのは、神経の図太いがさつな連中ばっかですから」
「娘さん、美人だったなー」
「そもそも叱責の原因って将軍じゃね? 将軍いなかったら、俺ら怒られないんじゃね?」
「その発想はなかったわ。お前、天才じゃね」
 レインは肩をすくめた。思わず吹き出してしまう。やっぱり朱雀軍が大好きだ。アンギルダンに向き直ると、彼はぽかんとした間抜け面をしていた。
「――って、言ってるけど?」
「好き勝手に言いおって……もう知らんわい。勝手にしろ」
 そう言ってアンギルダンは肩を怒らせて歩き出した。その背中が、泣いているような笑っているような、複雑な表情をしている。
 ありゃ泣いてますね、と士官の一人が茶化すので、レインは大声で笑った。

 
 イークレムンを追うと決めたのはいいが、当面の問題として湖をどう渡るかという問題がある。船はすべて、白虎軍に押さえられている。よしんば、朱雀軍が船を出してくれと頼んだところで、彼らは動かないだろう。
 泳ぐにしたって限度がある。『グラジェオンの足跡』は広い。対岸が見えない。行きは半分以上を船で渡ったが、すべてを泳ぐのは無謀だろう。
 ああだこうだと案を出しながら、レインたちがアキュリュースの町を走り抜けていると、
「レイン」
 反射的に声がかけられたほうを見ると、あの不愉快な男――ツェラシェルが小道に立って手招きしている。アキュリュースの家屋特有の、漆喰の白壁にもたれながら、にやにや笑っていた。
「今、お前にかまっている暇はない」
 険しい顔で吐き捨てたレインに、ツェラシェルはひるむ様子を見せなかった。
「船がいるんだろ。小舟を一艘持ってるんだが――」
 その言葉にレインはさっと身を翻して、ツェラシェルに詰め寄った。ツェラシェルの二の句なんぞ、想像するだに難くない。
「わかってるよ、いくらだ!」
 噛み付くように言ったレインに、ツェラシェルは一瞬、驚いたように顔をしかめた。しかし、すぐにふっと鼻で笑う。
「お友達価格で三万」
 誰が友達だ、とレインは不快感を鼻頭の深いしわにこめる。しかも、高い。だが、四の五の言っている場合ではない。ギルドに預けてある分をかき集めれば、何とか足りるだろう。
「いいだろう。だが、手持ちがない。後払いだ」
「じゃあ、五万だな」
 ツェラシェルはしゃあしゃあと言い放った。彼を殴り飛ばしたい気持ちに駆られたレインだったが、拳を握り締めるだけでこらえる。そのレインの肩を、アンギルダンがつかんだ。
「わしが出そう」
「いいぜ。誰が払ってくれても。ギアはギアだ」
 そう言って、ツェラシェルはレインたちを小道の奥へと案内した。小道は水路に面しており、いかにも地元民が使う裏道といった様子である。門戸を閉ざした家屋の裏手には、小さな古い桟橋があって、そこに観光用に使われる丸っこい小舟がつながれていた。
 いかにも、人の家の桟橋を勝手に使っています、という様子なので、レインはツェラシェルを胡散臭そうに睨みつけた。
「……これ、あんたのじゃないんじゃないの?」
 人の物を五万で売りつけようというのか、この悪党め――レインの目がそう言っている。それを感じたのか、ツェラシェルはへらっと笑った。
「別にいいんだぜ。気に入らねぇんなら、ほかの手立てを探せよ」
「…………」
 レインは無言で小舟に飛び乗った。朱雀軍の兵士の何名かが、漕ぎ手を勤めようと同乗した。
 小舟をつなぎとめている縄を解くレインを見下ろして、ツェラシェルは笑う。
「ほれ、礼を言えよ。助けてもらったらお礼を言いなさいって、大好きなお母さんに教わらなかったのか?」
 レインは殺すほどの怒りを込めて、ツェラシェルを睨みつけた。ツェラシェルはレインの母がどうなったかを知っている、数少ない人物だ。その彼が、レインの母を茶化すなど、信じられない愚弄だと思った。
「言わん」
 レインの返答は静かだった。だが、今までのどんな怒りよりも膨大な量の感情が込められていた。
 小舟はゆっくりと湖を進み始めた。ツェラシェルはじっと桟橋に立って小舟を見送っていたようだが、レインは一度も彼を振り返らなかった。

 
 本陣に戻ったアンギルダンとレインは旅装を整えながら、将官たちに事情を説明した。一人くらい反対するものと覚悟していたが、彼らはかなりあっさりしていた。
「だって、しゃあない」
「言い出したら聞かない」
「実力で止めようと思っても勝てない」
 だったら何も見なかった、聞かなかったことにします――彼らは言った。
「本国から何か言われたら、脅されたことにしますからね。あとは自分らで何とかしてください」
 とも言った。そんなことを言いながら、彼らはアンギルダンとレインのために軍馬をそろえてくれている。一番元気のある軍馬の鞍に、簡易の食料、薬類、魔法ランプを結び付けている。
 レインは苦笑する。手際がよすぎる、と。
「二人して暴れまわった、とでも伝えておけ。――レイン、行くぞ!」
 騎乗したアンギルダンが、馬首を巡らせた。目的は南――とりあえずはシャリが道化師として身を預けていたロストールに向かう。
 朱雀軍の野営地から、夕暮れの街道を二頭の軍馬が駆け抜ける。

 この日、ディンガル帝国朱雀軍将軍アンギルダン=ゼイエンと、彼の副将を務めるレイネート=オズワルドは、ディンガル帝国を出奔した――。

 


◇ひとこと◇
 できる男の集団(女もいるけど)、朱雀軍。
 ここまで書いてて、朱雀軍かっこよすぎじゃね、って思いました。

 色々あった第二章が終了しました。しかし、色々あるのはむしろこれからであるという現実が待ち構えています。

 

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第28話≫