ロセン解放軍

 レインが何とか通常の生活に戻れたのは、レーグが彼女のもとを訪れてからさらに五日が過ぎてのことであった。
 その間、レーグはじっとレインの回復を待っていた。というより、彼に何かしろと命じられるものなど、この屋敷のどこにもいなかったのだろう。あのクリュセイスにすら、レーグは一切興味がない様子であった。
 弱い者には徹底して興味がない。レーグの行動理由は単純明快だが、それゆえにレインには重圧であった。
「解放軍への手紙?」
 レインは大きな卓を挟んで対面に腰掛けたクリュセイスに、オウム返しにそう尋ねた。
 万全とはいわないまでも体調の回復したレインを呼びつけたのは、言わずと知れたクリュセイスであった。
 例の大広間でのことである。大きな卓についたクリュセイスの隣であのアンティノが、不機嫌そうに顔を歪めている。彼の護衛らしい柄の悪いのが三人、二人の後ろに立っていた。
 クリュセイスとアンティノは座っているが、レインは卓を挟んで立ちっぱなしだ。ナイフだけは持っているが、武装もしていなかった。ここでいきなり襲われてどうこうなるというのは考えていない。一応、今のレインの立場はクリュセイスの客だ。何よりやるならば、レインが寝ている間にやっているだろう。
 クリュセイスは大きな卓に筒状の書状入れを乗せて、レインのほうへと押しやった。光沢のある黒革の小さなもので、クロイス家の紋章が入っている。
 クリュセイスはこの中に入っている解放軍の手紙を、秘密の基地に届けろというのである。
「約束どおり、あなたには解放軍の一員として働いてもらいます。よろしくて?」
「金さえ払ってもらえるなら……かまわないよ」
 こともなげに言ってレインは肩をすくめた。それから、いかにも納得いっていない様子のアンティノをちらりと見やって、
「私よりも、そっちのおっさんのほうが納得してないみたいだけど」
 おっさんだと……、とアンティノが呻くように言った。彼の脂ぎった顔面が、憎々しげに歪んでいく。
「解放軍のリーダーはわたくしですわ。それに、ここで信頼を勝ち得るのは、わたくしの仕事ではなくあなたの仕事ではなくて?」
 クリュセイスは居丈高に言った。どう、言ってやったわ、とでもいうような顔をしている。
 なるほど、とレインはため息をついて、
「ただ雇われているだけなんだから、信頼なんかいらんのだがね」
 肩をすくめた彼女に、クリュセイスはむっとする。
「……ただ、引き受けたからには仕事はちゃんとさせてもらう」
 言いながら、レインは解放軍のアジトが記されたメモ紙をちらりと一瞥し、それを懐に収めた。一つだけ質問したい、と言うと、クリュセイスは優雅な仕草でお茶を飲みながら、レインを促してくる。
「……この手紙の内容、あんた把握してるの?」
 クリュセイスはきょとんとしてレインを見上げた。彼女が何か言う前に、突然、アンティノが慌てたように口を挟んだ。彼は脂汗で顔面中がギラギラしていた。
「クリュセイスには、そのような細々としたことは任せていないのだ。このような雑務は、わしが請け負っておるのでな」
「つまり、知らないわけだ」
 ふーん、と言ったレインに、クリュセイスがむっとした顔を浮かべる。
「それが何か問題でして?」
「……いや、問題ではないと思うんなら、それでいいのでは」
 レインはすげなく言って、黒い書状入れとアジトの場所を記したメモ書きを懐に入れようとする。クリュセイスはむっとしたような顔で、レインを見つめた。
 この手紙の内容をレインは知ろうとは思わない。第一、たとえ尋ねたとしてもきっと教えてはもらえないだろう。だが、内容はどうであれ、一応、クリュセイス本人からの手紙だ。アンティノが内容を把握していてクリュセイスが知らないというのは、いささか問題がある。
 ――と、レインなどは思うのだが。
「お待ちになって」
 退室しようとしたレインをクリュセイスが高飛車に留めた。振り返ると、彼女は立ち上がって、卓を回ってこちらに向かってこようとしている。それに慌てたようにアンティノが立ち上がった。
「こ、これ、クリュセイス」
 アンティノは脂汗をレースのついた絹のハンカチで拭いながら、
「どうせ大した内容ではない。お前は知らずともよい。このアンティノがよいようにしているから。お前をそんな瑣末ごとに、かかずらわせたくないのだよ」
 アンティノはそう言ったが、クリュセイスはきりりと表情を緊張させた。
「いいえ、おじさま。お心遣いはとてもありがたいのですけど、仮にもわたくしは解放軍のリーダーですわ。やはり、自分の手紙くらい、自分で把握しておかなければ」
 クリュセイスはそう言って、レインに白い手を差し出した。例の黒い書状入れをよこせと言うのだ。
 反対する必要もないので、レインは素直に彼女に筒を差し出した。クリュセイスはその封をこともなげに開けて、中の小さな書状を開いた。明るい茶色の丸い目で、なぞるように内容を確認する。
「――サインは?」
 尋ねると、クリュセイスはうざったそうに顔をしかめて、わかっています、と下仕えに命じた。インクとペンを持ってこさせる。
 それから、卓について、書状の最後にさらさらと署名した。インクをふき取って丸め、筒の中に元通り収める。使用人に命じて、クロイス家の紋章の封蝋を持ってこさせると、それでしっかり封をした。
「どうぞ。持っていってちょうだい。しっかり運んでちょうだいね」
 クリュセイスはつんっとして、そう筒をつき返した。レインは何も言わずにそれを受け取って、懐に収める。
 ちらりと、クリュセイスの背後で立ち尽くす脂ぎった親仁に目をやる。アンティノは憎悪に満ちた小さな目で、レインを睨んでいた。
 割り当てられた部屋に戻ったレインは、まずアジトの場所と合言葉が記されたメモ書きを燃やした。それから、荷物をまとめて、ふと、まだ武具の修繕が終わっていないことを思い出した。
 別に、めったなことにはならないだろうが――。
「レーグ」
 レインは部屋の隅で胡坐をかき、腕を組んでむっつりと押し黙っている男を見やった。名を呼ばれて、レーグは瞳だけをこちらに向けてくる。
「仕事だ。せっかくだし、あんたも来てくれ」
 レーグは答えなかった。ただ、無言のままのそりと立ち上がった。
 レインはナイフと貴重品だけを持って、彼を伴ってクロイス邸を出た。
 二人はまずリベルダムの外にある解放軍のアジトに向かった。虹色の山脈のふもとにある山小屋で、一見すると山師たちが出入りしているだけの場所である。
 解放軍のメンバーにクリュセイスの手紙を渡すと、次はロセン支部に持って行け、とまたメモ紙を渡された。中にはロセン付近の簡単な地図と、合言葉が書かれている。レインはそれを男の目の前で燃やした。
 アジトからリベルダムに戻り、ロセン行きの船に乗ったころには、もう日暮れを迎えていた。

 
 茜色に染まる海は、波が夕日を照り返して黄金色にきらめいて見える。レインはそれを、甲板で眺めていた。遠く、竜王の島が黒く影に沈んでいる。
 船べりにもたれかかるようにしていると、ふと、隣に背の高い男が並んだ。レーグである。目深に外套の頭巾を被り、それを潮風になぶらせながら、レーグはレインを見もしなかった。黒い岩の塊のような竜王の島の影を、睨むようにしている。
「……尾行をどうする」
 レーグの言葉は簡単だ。無駄なものがない。
 レインは虹色の山脈に向けて出発したときからずっと、後をつけている男たちの気配を背中で感じながら、しかし、目を向けるようなことはしなかった。
「放っておいていい」
 しっかり仕事をしているかの見張りなら、警戒する必要はない。あるいは、書状を狙った刺客なら、襲ってくるのは船の上だろう。こちらも逃げ場がないが、逃げるほどの相手だとも思えない。襲ってきてくれるなら、後々楽になっていい。
「襲ってきたら始末してくれ。こちらからは何もしなくていい」
 物騒なことを平然と言い、レインは黄金色にきらめく海を見つめた。二月半ばの内海は、潮風がきつく、外套の襟を高く立てても寒さが厳しかった。
 そういえば――レインは隣のボルダンを見上げた。頭巾の下で、彼の波打つこげ茶の髪が、風にあおられて揺れている。
 レインに話しかけられて、レーグはそこでようやく、視線を彼女に下ろした。いかに長身のレインであっても、ボルダン族には劣る。
「レーグはネメアさんと戦ったんだったな。どっちが勝ったんだ?」
 かつて、まだ魔王バロルが健在だったころに、剣聖と勇者が刃を交えたというのは有名な話である。その後、レーグはネメアの仲間としてともに戦い、魔王を討ち取ったという。
 だが、その勝敗や勝負の詳しい話は誰も知らない。ネメアがレーグの強さを見込んで仲間となることを頼んだとか、レーグが強者を求めて戦いを挑んだのだとか、詩人の歌には色々とある。レーグが仲間となるくらいだから、ネメアが勝ったのだろうという人もいるし、結果は引き分けでまだ勝敗は決まっていないという人もいる。
「……あれは我の負けだ」
 レーグは低い声で端的に言った。そもそも口数の少ないレーグに当時の様子を詳細に語れといっても、無理な話だろう。
 なるほど、とレインは苦笑した。レーグの言う『負け』だ。勝てなかった、という意味だろう。引き分けの意味も含むが、それぞれと戦ったレインの実力を鑑みると、『そういうこと』なのだろう。
「あの人は強いものな」
 そう言って笑うレインを、レーグは興味深そうに三白眼で見つめた。
「槍の扱いを習ったことがある。あんたが受けきったあの技も、そのときに習ったんだ。まだ未熟だけれど」
「……うぬには、確かにあの獅子の力を感じる」
 思わず見上げると、レーグは睨むようにこちらを見下ろしていた。
「……そのまま強くなるがいい。うぬにはあの獅子にも負けぬ可能性を感じる」
 そして、我と戦え――レーグは大真面目に言うので、レインは苦笑して答えなかった。
 強くなるのはやぶさかではない。それはレインの手段だからだ。あとどれだけの猶予がネメアにあるのか知らないが、それまでに彼をしのげるほどに強くなれるだろうか。
 持って生まれた身体能力も、才能も、努力も、経験も――何もかもがレインには足りない。
 何よりも時間が足りないな――レインは海を見た。陽はとうに沈んでおり、水平線と空の際がわずかに朱に染まっているだけである。濃紺の空には、早くも星々がきらめいていた。
 船旅は順調に進み、リベルダムを発って四日後にはロセンの港に到着した。その間、レインたちの尾行は何も手を出してこなかった。刺客というよりは見張りなのかもしれない。
 ロセンを出て、大きな街道から小道に入る。小雪のちらつくような冬の最中にある今、街道でもない小道を行くものなど、レインたち以外には誰もいなかった。彼女らが轍の刻まれた下生えを踏みしめる音ばかりが響く。
 レインもそれほど口数の多いほうではないが、とにかく道連れが寡黙である。船に乗った直後に少しばかり話をして以来、ほとんど二人の間に会話はなかった。
 それゆえに、二人以外の気配がわかりやすい。レインとレーグはほとんど同時に足を止めた。
 小道の両脇には背の高い草むらがあって、誰かが身を伏せるにはちょうどいい死角である。
 レインが何か言うよりも先に、レーグが一歩――彼の一歩は普通の人間の二歩に近い――前に出て、腰に帯びた二刀の刃を引き抜いた。レインはというと、槍がないために後ろに下がったまま、腰のナイフに手をかける。同時に口の中で魔法を唱える。
 北風に揺れる枯れススキの合い間から、毒矢が飛来した。それを、レインの風の魔法が打ち払う。レーグの閃刃と剛刃が、揺れるススキをなぎ払った。ぎゃっ、と耳障りな悲鳴が枯れ野に響き渡った。
 レインが感知できている人数はあと三人だ。レーグはススキごと前方をなぎ払いながら、ずんずんと枯れ野を進んでいく。
 どういう類の連中か知らないが、剣聖とやりあえるほどの腕はないだろう。レーグから逃げるように枯れ野を回り込む気配がある。武装していない風のレインならば、組しやすいとでも思ったのだろうか。
 枯れススキの間から風を切り裂いて矢が飛来する。それを大振りのナイフで叩き落しながら、ストーンの術を完成させる。矢が向かってきた方向に向けて、精霊が生み出した石つぶてを投げつけると、ぎゃっと鈍い悲鳴が枯れ野に響き渡った。
 閃刃剛刃を収めたレーグが、枯れ草を踏みしめながらこちらにやってくる。それを確認して、レインはナイフを収めた。辺りは北風に揺れる枯れススキのさざ波が、寄せては返す音ばかりが響く。今、枯れ野に立っているのは、レインとレーグだけのようであった。
 レインは絡まりあうようにして倒れる枯れススキを手で押し退けた。そうして、石つぶてにやられた男がいるだろう場所へ向かう。
 枯れススキの中に埋もれるようにして、額から血を流した男が倒れ伏している。その傍には弓矢が投げ出されていた。男は絶命こそしていないが、完全に気を失っている様子である。
 レインは男の顔面を覆っている覆面を剥ぎ取った。人相の悪い男だが、見覚えがない。船の上で見た尾行者とも違うようだ。
 ただの強盗にしては、何も要求がなかった。
 水の術で乱暴に男の覚醒を促すと、彼は溺れるようにして目を覚ました。目の前にいるレインと、その少し後ろに立つレーグに、顔色をなくして逃げ出そうとする。
 手足をばたつかせて後退りする男の胸倉をつかんで、レインは言った。
「誰の差し金だ」
「な、何のことだ……っ」
 男のぎょろ目が狼狽に揺らぐ。
「誰に頼まれた。言っておくが、お前の仲間はみな死んだぞ」
 男は色をなくした顔面をさらに蒼白にして、身を強張らせた。体をよじってレインの拘束から逃れようとするが、しっかり胸倉をつかんだ彼女の手を外すのは困難である。
 知らん、と男は悲鳴混じりに言った。
「金を積まれて請け負っただけだ。依頼人の素性など知るものか」
「何と頼まれたんだ」
「……お、女を殺せ、と言われた」
 レインはしばし男を睥睨するように観察し、なるほど、と低く呟いて、男の胸倉を放してやった。男は尻餅をつきながら、這うようにして枯れススキの中へと逃げ込んでいく。
 レインは立ち上がった。レーグを促して、例の小道に戻る。
 あの男の仕事内容が気になる。密書を奪え、というならまだわかる。だが、女を殺せ、とはどういうことだ。
 レインは何も言わないまま、解放軍の支部へと密書を運んだ。支部の人間に説明しなかったのはもちろんだが、リベルダムに戻っても、クリュセイスに刺客のことは報告しなかった。

 
 暦は三月に入った。レインがロセン解放軍に出入りするようになってから、半月ほどが経っていた。
 その間、レインはギルドに寄ることもなく、ただ真摯にロセン解放軍の任務に努めた。任務というより、クリュセイスのお守りといった趣きが強いのは否めないが、危険な目にあうよりましだろう。
「よう。元気そうにしてるじゃねぇか」
 男がなれなれしく話しかけてきて、レインの隣に腰を下ろした。スラム街の、一際治安のよろしくない酒場でのことである。
 レインはカウンターの端っこで、いかにも目立ちたくありませんといった具合に、外套の頭巾を目深に被っている。このスラムの酒場では、こういう格好のやつは珍しくない。蛇の道は蛇という奴である。
 酒が飲めない彼女だが、酒場で何も頼まないというのも不自然なので、手ごろな一杯をカウンターに置きっぱなしにしていた。
 隣に腰掛けた男が、それと同じものを酒場の親仁に注文する。レインは頭巾の下から、彼をちらりと確認した。
「雑にできてるやつはいいね。俺なんか繊細だからよ」
「そんなことはどうでもいいんだよ、ツェラシェル。高い金を払ったんだ。仕事はしてくれ」
 へいへい、と隣に座ったツェラシェルは肩をすくめた。その彼の前に、グラスが運ばれてくる。それで口を湿らせて、続けた。
「確かに、アンティノ商会にシェスターという女は『いた』」
「『いた』?」
 訝りながら顔を上げると、こちらを見つめているツェラシェルの青紫色の瞳と目が合った。
「どうも逃げたらしい」
 ツェラシェルは言って、グラスの半分を飲み干す。
 彼が調べたところによれば、アンティノ商会の秘密の研究所でシェスターは戦闘用のモンスターを開発していたという。仕官時代に見たモンスターの資料にも彼女の名前があった。
「ディンガル東部の寒村の出身でな。戦争で親を亡くしたんだと。まぁ、あのくらいの年代にはそういう連中は珍しくもないわな」
 ツェラシェルは他人事のように――実際、他人事だが――続けながら、酒を新たに注文した。
 彼が探し当てた元同僚の研究者が言うには、彼女はその年に異動になって、その後に失踪したそうだ。
「それが今から三年前の三月か四月か――その辺だな」
 ミイス村がアーギルシャイアに焼かれたのが、三年前の九月。シェスターが失踪したのが、その約半年前。その前後にシェスターはアーギルシャイアと接触したはずだが、そこらあたりの彼女の様子を知る人間は見つからなかったと言う。
 そうそう、とツェラシェルはグラスに自分で酒を注ぎながら、思い出したように付け加えた。
「シェスターはその研究所を出るときに、自分が作っていた怪物を持っていったそうだ。あー、なんつったかな……『デスギガース』だったかな」
 レインはしかめ面を浮かべて、注文したときからまったく減っていないグラスに目を落とした。
 デスギガース?――確かミイス村を焼いた怪物が、そういう名前ではなかったか。シェスターが開発に携わっていた――。
 あの怪物はアーギルシャイアが、ミイス村に持ち込んだのではないのか。もしそうなら、デスギガースを村に持ち込んだのはシェスター本人ということになる。
 しかし、それはおかしい。オルファウスやネモははっきりと、ミイス村を襲ったのはアーギルシャイアだと言った。
 ミイス村を焼いたのはアーギルシャイアなのだ。
 ではシェスターはどこに消えたのだ。そもそも、どうして彼女はデスギガースを持ち逃げしたのだろう。
 一番ありうるのは、シェスターがアーギルシャイアに味方しているという可能性だろう。目的は知らないが、シェスターがアーギルシャイアにデスギガースを提供した、と考えると一番しっくり来る。
 だが、セラは、アーギルシャイアから姉を取り戻す、と言った。取り戻すとはどういう意味だろう。彼の身内びいきで、シェスターがアーギルシャイアにたぶらかされている、とでも思っているのだろうか。もちろん、その可能性がなくもないだろう。
 それにしても、今、シェスターはどこにいるのだ。アーギルシャイアと一緒にいるのか。逃げるにしても、あのセラから身を隠し続けるというのは、なかなか難しいだろう。
 と、なると、やはり――。
 グラスを睨みつけたまま考え込んでいたレインは、視界の端に誰かの指が迫っているのに気がついた。弾かれるように身を引く。すると、その拍子に彼の指が頭巾に引っかかって、跳ね上がって後ろに落ちた。
「何だ、びっくりさせるな」
 レインが迷惑そうな顔をして、ツェラシェルを睨みつけた。指の主は、睨まれてもきょとんとしている。
「お前さぁ、何で髪伸ばしたの」
「今、そんな話してたか?」
 レインは不愉快げに顔をしかめた。頭巾を被りなおす。
 髪を伸ばした理由が理由だけに、人に話す気にならない。それがツェラシェル相手ならなおさらだ。
 そんな彼女の様子に、何かを察したのか、ツェラシェルはニヤニヤと口もとを歪めた。
「何だ、ついにレインちゃんも色気づいたか?」
 レインは沈黙した。そうではない。そうではないが、ここで否定するとまるで肯定しているように聞こえる。今は沈黙が金だ。
 むっつり口をつぐんだまま立ち上がったレインを見上げて、ツェラシェルはいやらしく笑っている。
「切れよ。短いほうが似合ってた」
「……髪のことなんかどうでもいい」
 カウンターに多めの硬貨を置いて、レインは彼に背を向けた。酒場を立ち去る彼女の背中に、にやけたような声がかかった。
「……まいど」

 
 アーギルシャイアがセラから逃げおおせている、ということは、やはりどこかに潜伏している根城があるのだろう。アンティノ商会には隠された研究所がいくつかあると聞くから、魔人が身を伏せるにはちょうどいい。これまでのところ、アーギルシャイアは戦闘モンスターの製作に関わっているようだから、一石二鳥だ。
 隠れるようにしてクロイス邸に戻ったレインは、エントランスで仁王立ちになっているクリュセイスに気づいてぎょっと足を止めた。
「いったい、こんな時間までどこをほっつき歩いていたんですの?」
 と、金切り声を上げる。レインはそれに顔をしかめた。
「与えられた仕事はこなしている。文句を言われる覚えはない」
 クリュセイスはぐっと言いよどんだ後、その仕事の話ですのよ、と居丈高に言った。
「ロセン潜入の件で、相談したいことがありますの」
 クリュセイスは最近、解放軍のリーダーらしくなってきた。レインがそのように焚きつけたのだが、もともとの素養があったのか、なかなかそれらしい態度を取るようになった。解放軍の細かい作戦を把握するようになり、戦いにおいては、こちらの言葉を当てにすることも多かった。
 ロセン解放軍は、近々、ロセン総督府に潜入する作戦を立てていた。何でも、リベルダム侵攻作戦の草案を盗み出したいらしい。
 正直言って、レインは反対した。相手はあのカルラである。どんな罠が仕掛けられているかもわからない。奇襲だの罠だのにかけては、カルラを侮ってはいけない。
 だが、この作戦を立案したのが、組織の二番手であるアンティノとあっては、レインの意見は通らなかった。
「先行するのは私とレーグだけでいい」
 レインは言った。
 アンティノの作戦では、部隊を二つに分け、先行部隊が市内で騒ぎを起こし、その隙に総督府に潜入する――ということになっている。だが、レインはこれに反対であった。そもそも、総督府内の様子がよくわからないまま、部隊を半分に分ける、というのは無茶である。ロセン市内にどれだけの青竜軍がいるかもよくわからない。
 そこで、レインは自ら斥候役を買って出た。彼女はそもそもこの作戦に乗り気でない。アンティノの私兵が情報を持ってきているが、逐一胡散臭い。青竜軍の正確な情報が知りたいが、クリュセイスの配下に信用できそうな腕の立つものがいないというのが現状である。
 すべて自分の手でやる――というのはさすがにレインでも無理である。特に、レインは斥候の経験がない。どこまでできるかわからないが、クリュセイスの使用人連中に頼むよりは、確実であろう。
 レーグも隠密行動には向いていなさそうではあるが、いざというときにしんがりを任せるにはちょうどいい。
 作戦の決行を三日待って欲しい、とレインは言った。
「ロセンはエンシャントからも近い。用心するに越したことはない。下手をすれば、全滅させられるぞ」
 クリュセイスはこれを了承した。
 一週間ほどの後、レインとクリュセイスは動ける解放軍の半数を連れて、ロセン近くの秘密のアジトを訪れた。これから三日をかけて、レインは青竜軍を探らねばならない。
 レインはレーグだけを伴って、ロセンに潜入した。

 


◇ひとこと◇
 本当はロセン解放軍に取り入る過程をちまちま書いていましたが、あまりに蛇足になってしまったのでばっさりカット。巻きでお願いします。

 

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第51話≫