ロクサーヌ嬢、再び

 オイフェは奥歯をかみ締めた。踏みつけた下生えの青臭さが、鼻につく。
 ロセン地方に広くひろがる丘陵地帯の際に、リューンの森がある。その端に、砂色の外套を頭から被った長身の男を見つけて、オイフェの足は自然と重くなった。
 頭上では今にも雨粒を落としてきそうな鉛色の分厚い雲が、空一面を覆っている。それが、オイフェの心にも広がっているように、気持ちはすっかり沈んでしまっていた。湿気を含む空気を吸うたびに、胃の奥でそれが鉛の塊のようになって沈殿している。
 先を歩くボルダンのゼリグとドワーフのドルドラムが、彼らを待つ主へと挨拶をした。オイフェは仏頂面のまま彼らの前に歩み出て、敬礼した。
 鬱陶しそうに外套の頭巾を払いのけた主は、よい、と一言だけ言った。豊かな金髪が、湿気を帯びたぬるい風になびいている。眼光の鋭い青い目を眇めて、それで、とオイフェを促した。
「申し訳ございません」
 腹の底から苦いものがこみ上げてくる。
 罪深き者の迷宮に闇の神器が眠っている。その情報をもとに、ロセンへやってきたネメアたちは、町でエスト=リューガの噂を聞いた。神器を所持する彼を追って、ネメアは単身彼が向かったという地下墓地へ。罪深き者の迷宮のほうは、オイフェたちに任せたのであった。
 ところがである。オイフェたちが迷宮の最奥部へたどり着いたときには、そこには先客がいた。あの、『稲妻』のレイネートであった。ウルカーンでネメアの邪魔をし、あまつさえネメアの厚意に甘えきったあの小娘であった。
 神器『傲慢の首飾り』を賭けて、オイフェは彼女と決闘したのだったが――。
「……『稲妻』に、やられました」
 憎々しげに、呻くように報告したオイフェに、しかし、主は、
「そうか」
 と青い目を眇めただけであった。
「何だか、ネメア様は予感しておられたようですな」
 ドルドラムが興味深げな視線を、ネメアに向けた。ネメアは少し、表情を緩めたようだった。
「私も、お前たちと似たようなものでな。レインにしてやられたよ」
 ほぉ、とドルドラムが唸った。ネメアは軽やかに笑いながら、
「あれはとても身が軽いようだ」
 と、言って、顔を俯けたままほぞを噛んでいるオイフェを尻目に、歩き出した。本国へ戻る、と言う。
 オイフェは思わず顔を上げた。その頬に、小粒の雨が、ぽたりと落ちてきた。どうやら、とうとう降り始めたらしい。
「お待ちください。『稲妻』はまだロセンにいるはずです。青竜軍を動員して町中を調べ上げれば、すぐに居所はわかります」
 追うべきです、とオイフェは主に追いすがった。ネメアは青い目で、じっと観察するようにオイフェを見ている。
 それは、という低い声は、オイフェの後方からであった。ボルダンのゼリグである。
「……それは、うぬの私情ではないのか」
 かっと頬に血が上るのがわかった。ネメアの目に触れないように、顔を背ける。
 オイフェはレインに負けた。あの甘ったれの小娘に。かつてリベルダムで会ったとき、両者の実力は拮抗していた。いや、単純な戦闘であれば、オイフェに分があった。それは自惚れではない。だが、今日戦ったレインは明らかにオイフェを凌駕していた。手加減という施しを、オイフェにくれてやれるほどに。屈辱的である。
 もちろん、オイフェが彼女を疎ましく思う理由は、それだけではなかったが。
「うるさいっ」 
 オイフェが噛み付くように吼えると、ゼリグはふっと鼻を鳴らした。
「……我とても、あの娘とは一戦交えてみたいと思っているところだ。追うのはやぶさかではない」
 オイフェがゼリグとともに、主のほうに目をやる。だが、追いましょう、という言葉が喉の奥に詰まって出てこなかった。
 ネメアは、空を見ていた。降り注ぐ雨粒が、彼の日に焼けた頬をぬらす。青い瞳を瞬かせるたびに、長いまつげに雨粒が跳ねた。湿気を含んだ金髪が、いつもにもましてうねりを帯びている。
 厚く垂れ込めた黒雲の中で、稲光が走っている。青いような、紫のような、白いような――低い獣の唸りのような雷鳴が、少し遅れて天空中に響き渡る。今はまだ、雷雲の中で閃くだけの雷だが、いずれこちらにも落ちてくるかもしれない。
 ネメアは、稲妻を見ている。
「追う必要はない。好きにさせよ」
 そう言って、移動の術を唱えようとする。
「なぜです」
 オイフェが声を荒らげたとたん、町のほうへ稲妻が落ちた。一瞬、肩を震わせるような轟音が、こちらまで伝わってくる。まるで、あの娘の、槍のような――。
 ネメアはいったん、呪言を紡ぐのをやめた。それから、稲妻が落ちた方向を見やり、次いで、オイフェへと視線を移した。いつも通り眼光は鋭いが、どこか愉快げな目をしていた。
「あれの動きも私の望むところだ。追う必要はない。好きにさせよ」
 オイフェは目をしばたかせて顔を背けた。では、何のために私たちは闇の神器を追っているのだ、と不安になった。これでは、何だかレインのために奔走しているようではないか。オイフェはあの娘のために戦いたいのではない。目の前の、この男のために、戦いたいのだ。
 ネメアが行使した魔道力に導かれて、体が浮く。精霊の小路に入る直前、オイフェは、ネメアが天空を走り回る稲妻を、愛しげに見上げていたのを見た。

 
 レインがゼネテスとともにエストをロストールへ連れて戻ったのは、八月の終わりの頃であった。季候はまだまだ夏そのものである。照りつける太陽はギラギラしているし、その強い光を浴びて山の向こうから顔を覗かせている入道雲は眩しいくらいに白い。風は爽やかで、木陰に入ると心地よいが、日がもう少し弱まらないと日中過ごしにくい。
 レインは、ゼネテスに対して、エストと友人である、とだけ説明した。レムオンと知り合いであるということは言わなかった。言えるはずがない。
「そういえばさぁ、ゼネテスがファーロスの人間だなんて知らなかったんだけど」
 いつかの戦場でまみえたとき、アンギルダンからそう聞いたのを思い出した。
 ファーロス家とリューガ家の関係は、早く言えばエリス王妃とレムオンの関係である。彼らは正しく政敵であるが、エストとゼネテスはといえばそうでもない。
 ゼネテスはエストの乗ったリューガの馬を引きながら、頭をかいた。捲り上げた袖から覗く、よく日に焼けた小麦色の肌が、夏の陽気に汗ばんでいる。
「普通、言わねぇだろ。ファーロス家を背負って冒険者やってるわけじゃないんだぜ」
 そう言って、へらっと笑う。
 まぁ、いいけど、とレインは前髪をかき上げた。額に汗で張り付く。
「レインは、ゼネテスさんのことを知らなかったの?」
 馬上から、エストが尋ねた。エストはリベルダムからのゆったりした旅路を、常に馬上で過ごしていた。彼はレインに馬を譲りたがったが、さすがにレインはそれを遠慮した。
「不真面目な、ちゃらんぽらんの、冒険者ゼネテスは知っているけど。ファーロス家の御曹司とは知らなかったな」
 ゼネテスが額の汗を拭いながら、呵々と笑った。
「不真面目でちゃらんぽらんか。否定はできねぇな」
 ファーロス家の御曹司、というのは、レインには今ひとつぴんと来ない。ロストールの遊び人、と言われたほうがしっくりくる。彼自身、そう望んでいるような気がした。
 ロストールの噴水広場まで来ると、さて、とゼネテスは足を止めた。
「俺は一杯引っ掛けに行くけど、お前さんどうする」
「私は馬を返しに行く。じゃあ、また」
 ゼネテスは馬の手綱をレインに渡すと、自分の荷物を担いで、スラムのほうへと歩き出した。じゃあな、と彼は手を振ってよこす。レインは軽く手を上げて応じ、エストは白いシャツのレースの袖を揺らして手を振り返した。
 ゼネテスはふざけて投げキッスをよこしたが、レインがたくみに操った馬の体のせいで、エストにもレインにも届かなかった。もし彼の投げキッスが目に見えていたなら、馬の尻の辺りに当たったに違いない。

 
「はぁー、嫌だ。あー、嫌だ」
 レインは馬車にごとごと揺られながら、幾度目かわからない呟きをもらした。昨日から、嫌だ、としか言っていない気がする。
 レインがエストをリューガ邸に送り届けたのは、昨日のことである。かいがいしいセバスチャンのもてなしで、エストとレインは心地よい風呂とおいしい食事にありつけた。さて、これからゆっくり眠らせてもらおうか、と思っていたそこに――長兄が元老院から戻ってきた。
 そこからは、レインは何を言われたか正確に覚えていない。とにかく、何かの叱責を受けたのだということしか覚えていない。エストと、なぜかレインまで、レムオンの叱責を受け続けたのだ。
 反省を促すため――何の反省だというのだ――レムオンは、エストとレインにノーブルの税の徴収を命じた。
「やだよ、ロクサーヌになれってことじゃんか」
「ええい、やかましいっ。たまには代官らしいことをしてこい」
「ええぇ……」
 エストはともかく、レインがロクサーヌに変装するには時間がかかる。しかもまぁ、何ということだ――あのセバスチャンは先日の宣言どおり、レインのドレスを新調してくれていたのである。何といういらない有能さであろうか。
 コルセットで締め付けなくてもいいように、切り替えを多用した立体的なデザインのドレスであったのは、レインにとっては不幸中の幸いであった。夏の暑さに参ってしまわないように、大きく胸元が開いており、首の傷が見えないように白いレースのチョーカーを巻いていた。
 うねる金髪を結い上げた鬘が重く、蒸れる。下手をするとはげる、とレインは危惧する。
 ふわりと広がるドレスの中で、無作法にも脚を組み、レインは馬車の小窓の桟に肘をついた。ノーブルは今、ちょうど春撒き小麦の収穫をやっている。車窓から見える光景は、黄金に波打つ小麦の海と、それを刈り取られ茶色い地肌をむき出しにされた大地が、半々といったところである。男たちが大きな鎌でざくざくと収穫して、女たちが藁束を一つにまとめて荷車に載せる。子供たちは落穂を拾う。
 長閑である。だが、レインは内心焦っていた。こんなことをしている場合ではない。アキュリュースにいるヴァンとナッジに手紙は出したが、あちらの状況がどうなっているかの返事はまだ受け取っていない。
 ロセンで二つの闇の神器を手に入れられたのはよかった。だが、もう一つ所在が明らかになっている『禁断の聖杯』に関して、セラからの連絡はなかった。行き違いになっているのかもしれないが、そればかりはどうしようもない。
 『色惑の瞳』と『破滅の槍』はとりあえず捨て置いていいだろう、と判断している。『色惑の瞳』はアトレイアが持っている限り、ネメアが手に入れることは困難だろう。闇の底に沈んだ『破滅の槍』はなおさらである。
 問題は『禁断の聖杯』をはじめとした、ほかの六つの神器のほうだ。所在どころか、名称すら知らないのはよくないな――レインは考える。一度、猫屋敷を訪ねたほうがいいだろう。
 無意識に唇に触れた爪が、そこを彩る赤い紅に塗れてしまう。レインは慌てて、綺麗に磨かれた爪についた紅を、指の腹で拭った。膝の上に置いていた、白いレースの手袋をはめる。思わず、深いため息が出る。
 レインが屋敷のものの随行を断ったのは、こうやってため息をついたり、愚痴を言ったりしたかったからだ。ロクサーヌの格好で、そういう無作法な自分を見せるのは、リューガの家人には申し訳ない気がしている。
 石畳には磨耗してできた轍があり、馬車の車輪はそれに綺麗にはまって進んだ。レインは自分があの藁束の山になったような心地であった。
 ふと、村人の質素な家々が立ち並ぶあたりに来たとき、レインは馬車の窓に身を乗り出すようにした。
 まばらに集まる村人の中で、刃の鈍い鋼の輝きを見た。村の憲兵が抜剣している。そして、その刃の先に、絹糸めいた長く艶やかな銀髪が見えた。
「待て。おい、御者。停まって!」
 突然、乱暴に喚き始めたリューガのお嬢様に、御者は慌てて馬を止めた。御者の制止も聞かず、貴族の娘とは思えぬ身の軽さで、ロクサーヌは馬車を飛び出した。
 レインは鬱陶しいドレスの裾をたくし上げながら、上品な靴で石畳を打った。走りにくいことこの上ない。
「やめろ!」
 レインは憲兵と見知った青年の間に、滑り込むように身を躍らせた。突然、割り入ってきた貴族の娘に、憲兵がぎょっとして固まる。村人たちがざわめく。そして、後ろから銀色の胡乱げな視線を感じる。
 しまったーっ! 今、レイネートじゃなかったぁあああっ――レインはここにいたっても、とことん間抜けであった。
 険しい顔で固まるロクサーヌに、憲兵は居丈高に言った。
「何だお前は。女の出る幕ではない」
「わ、私……わたくし、ロクサーヌ=リューガと申しますの」
 レインは――ロクサーヌになりきることを決意し、屹然とした態度を見せた。背筋を伸ばし、しっかりと憲兵を見据える。村人たちのざわめきが大きくなった。
 ロクサーヌは後ろに庇った青年を見なかった。なぜなら、とてつもなく恥ずかしかったからだ。
「だ、代官様……?」
 二人の憲兵が後退りした。抜き身の剣をぶら下げて、お互いに顔を見合わせている。
「村の秩序を守るのがあなた方の仕事ですけれど、むやみに剣を抜くのはお止めなさい。わたくしは、ボルボラのように、力でこの村を治めるつもりはござらないですのよ」
 あ、しまった、変なしゃべり方――ロクサーヌは青い顔をした。背後から、突き刺さるような視線を感じる。庇われた青年が、ため息をついた。
「……貴族というものは、神に与えられた恩恵に気づかぬ愚か者のことを言うのだ。お前たちが持つ権力も富みも、すべて神から与えられたものに過ぎない。にもかかわらず、それを己の力のすべてだと勘違いしている。傲慢にすぎる」
 ロクサーヌは思わず、体ごと振り向いた。こちらを見上げる銀色の瞳と、ばっちり目が合ってしまう。ロクサーヌは何か言おうとして口を開いたが、結局、何も言えずに口を閉じた。
 さぁ、とエルファスは両腕を広げた。
「持たざる者たちよ。理不尽に虐げられし者たち、哀れなる子らよ。神に祈りを捧げなさい。終末の日、汝らは救われるであろう」
「ええい、よさんか。このエセ預言者め!」
 憲兵がぶら下げていた剣を振り上げる。エルファスの周囲の大気が、たわむように揺らいだ。
 ダメだ――レインはエルファスの細い腕をがっしりとつかんだ。銀色の強い視線がレインを睥睨する。だが、レインはそれを無視した。
「ち、ちょっと……!」
 非難するエルファスの細腕をぐいぐい引っ張って、レインは再びロクサーヌの顔になった。
「あなたたちは通常の業務に戻りなさい」
 憲兵に言い置いて、ロクサーヌは嫌がるエルファスを力ずくで引きずった。それから、おろおろしている御者をよそに馬車に押し込めると、出せ、と鋭く命じた。
 ロクサーヌが乗り込んで、馬車の扉を乱暴に閉めると同時に、御者が馬に鞭をくれた。馬車が再び、轍を刻み始める。
 呆気に取られる村民が、後方に流れていくのを見て、ロクサーヌははぁっと息を吐いた。一気に顔つきがレインに戻る。冷や汗が流れ出る。鬘を取りたい。
「……ちょっと」
 自分のすぐ傍で、迷惑がましい非難の声がして、レインははっと振り返った。エルファスが自分の体に押されて、馬車の座席に押し倒されるようになっている。
 重い、と端的に言われて、レインは体を起こそうとした。
「痛い。髪を踏んでる」
「え、あ、ごめん」
 座席についた手が、絹織物のようなエルファスの長い髪を巻き込んでいた。慌てて手を離して座席の端に身を寄せると、ちょうど馬車が大きく揺れて、壁で頭を強かに打ちつけた。
「あいたっ」
「……何してるんだ」
 エルファスが呆れかえったような、冷ややかな目を向けてくる。レインは焦った。
「ご、ごめん」
 エルファスが重いため息をつく。あのさぁ、と面倒くさそうな調子で、ひたりとレインを見据えた。
「聞いていなかったのか。もう僕に関わるな、って。迷惑だ」
「ごめん」
 レインはエルファスのほうに身を乗り出した。それを、謝ろうと思っていたのである。以前に、エンシャントのノトゥーン神殿前で、ひどい喧嘩別れをしてから、ちっともすれ違わなかった。避けられているのかと思い、このような強硬手段に出たのである。
 エルファスは、少し驚いたように目を見開き、それからむっと顔をしかめた。
「ごめん、ごめん、って、それしか言えないの?」
 レインは少しだけ、視線をさまよわせて、別の言葉を捜した。だが、ほかにうまい言葉が出てこない。
「……ご、ごめん。……な、さい」
 意図せずこぼれ出た謝罪の言葉をごまかそうとしたものの、さっぱりごまかしきれていない。引きつった顔で、紅で彩った唇をパクパク動かしている。エルファスはそんなレインをぽかんとして見つめてきた。
 ふふっ――不意にエルファスが小さく失笑した。手の甲で口を隠すようにして、俯いている。小さく肩が震えている。銀色の細い髪が揺れた。
「結局、同じじゃないか」
 そう言って、エルファスはほんのり微笑んだ顔をレインに向けた。レインは、そのエルファスの顔をまじまじと見つめて、目をしばたかせる。
 ちゃんと、笑えるんじゃないか――レインはほっとしたような、恥ずかしいような気持ちになった。何だか頬に血が上ったようだ。
 もういい、とエルファスは息を吐いた。
「それで、その格好は何。そういえば、帝国を出たって聞いたけど。今度はロストールについたのかい? あっちにふらふらこっちにふらふら、何がしたいんだ」
 別にそういうわけじゃないけど、とレインは困ったように眉根を寄せた。
「……この格好に関しては、もう何でこうなったのか、私にもよくわからない……」
 レインは情けないような声を出した。げんなりとした顔で俯く。すると、その顔をエルファスが覗き込むようにした。視線が絡み合う。とたんに、エルファスの顔が曇った。浮かんだ色は、嫌悪である。
 エルファスはふいっとレインから顔を背けると、馬車の小窓から外へと視線を向けた。
「君は金髪が似合わないね。黒髪のほうがずっといい」
「え、あー……うん。これ、鬘で……仕事でつけてるから、取れない」
 暑いんだよね、とレインはごまかすように笑った。確かに、小奇麗な格好が似合う容姿はしていないが、そんなに不愉快な顔をすることはないじゃないか、と思う。
 そこで会話が途切れてしまった。エルファスは仏頂面のまま、馬車の小窓から窓外の景色を眺めている。青白い頬に、長いまつげが影を落としていた。
 レインもつられて窓外へ視線をやった。馬車はもう代官屋敷へと続く緩やかな上り坂に差し掛かっている。もう幾ばくもしないうちに、馬車は停車するだろう。
 あの……とレインが意を決して口を開くと、エルファスは銀色の視線をこちらへと向けた。
「また怒られそうだから、謝りはしないけど――あの、エンシャントの教会前で……ああいう会話をしたじゃない?」
「何? また下衆の話をしたいの?」
 エルファスの少女めいた顔面に、強い嫌悪の色が浮かんだ。狭い車内を剣呑な空気が満たす――その前に、違うんだ、とレインは強い口調でそれを否定した。
「それを謝りたかった。私はあのとき、あなたのことを真っ向から否定したけれど、そんなことができる立場にはなかった」
 エルファスはじっとレインを見つめている。そこにはもう嫌悪の表情はなかったし、車内を満たそうとしていた剣呑な雰囲気は、とっくに霧散していた。
「けれど、それはあなたにも言えることだ。……私だって大事な人を失った。――お母さんは私の小さな世界の全てだった。でも死んだ。私をかばって死んだ」
「……同情しろと?」
 独白めいた呟きに、冷ややかな声が突き刺さる。こぼれ落ちる嘆きをせき止められて、レインはようやく我に返った。
「違うよ。そうじゃない。同情はしなくていい。謝罪もいらない。ただ、理解してほしい……私を」
 レインが口を閉ざしてしまうと、喉に詰まりそうな沈黙がやってきた。馬車の車輪が代官屋敷へ登る石畳の上を進む音が大きく響く。
 ふと、エルファスの唇がわずかに震えた。レインが聞き返そうと視線を上げると、こちらに向けられていたはずのエルファスの双眸が、慌てたようにそむけられてしまった。
「何を言われようと、僕はあの男を許さない」
「うん……まぁ、それはそれでいいんじゃない。私、部外者だから何も言えないや」
 レインが言うと、エルファスはさっと視線をこちらに戻した。毒気を抜かれたようにぽかんとしている。それから、ふんっと鼻を鳴らした。
「随分心酔している風だったのに、薄情なものだ。僕があの男を下衆だと言っても?」
「あなたがあの人をそう思うのはあなたの自由だ。だが、私があの人を慕うのは私の自由だ。それとも、私に同じように思って欲しいの?」
 レインの言葉を聞いて、エルファスは一瞬、口をつぐんだ。それから、慌てて思い出したように、莫迦々々しい――とエルファスは吐き捨てた。また視線を窓外に向けている。
 明らかな拒絶の態度だったが、レインは阿呆のふりをして会話を続けた。そうでなければ、すぐにも代官屋敷に到着してしまう。馬車が停まれば、エルファスはさっさと立ち去ってしまうだろう。
「でも、どうして皇帝じゃないの? お姉さんをさらったのって結局は皇帝だったはずでしょう」
 エルファスがまた視線をこちらに向けた。それは……、と彼が小さく口を開いたときだった。大きく馬車が揺れて、動きが止まった。とうとう、代官屋敷に着いたようだ。
 御者が馬車の戸を開き、ロクサーヌに手を貸した。レインには正直いらないが、ドレスの裾をたくし上げなければならないロクサーヌには必要であった。
 ロクサーヌはふぅと息をついた。その後ろから、仏頂面を浮かべたエルファスが馬車から降りて、彼女の傍らに立った。背の高いロクサーヌは、それほどかかとの高い靴を履いていないが、それでもエルファスとはずいぶんな差がある。
 エルファスは顎を上げて、ロクサーヌを見上げた。照りつける太陽の眩しさからか、少しばかり顔をしかめている。
 僕からもひとつ聞く、とエルファスは言った。
「どうして、僕に関わる。別に、僕の邪魔をしたいってわけじゃないんだろう」
 レインはロクサーヌの顔から、本来の自分の顔に戻って、エルファスに向き直った。
「怒るから言わない」
 レインがエルファスにこだわる理由はわかっている。アトレイアと同じで、かつての自分に似ているからだ。底の見えない崖の縁に立つような危うさを感じる。手を掴まえていないと、ふらりと深淵に身を投げてしまいそうな危うさを感じるからだ。
 けれど、レインがそれを指摘すると、きっとエルファスは怒るだろう。彼を怒らせたいわけではない。
 エルファスはじっと、月のような銀色の瞳でレインを見つめた。それから、少し、拗ねたような顔をして身を翻した。外套のように広がった、彼の長い銀髪が、陽光にきらめきを返す。
「そう。じゃあ、聞かない。――それじゃあ、また」
 そう言って、エルファスは今馬車で通ってきた道を後返りしはじめる。そして、ふっと魔道力の残滓ともいうべき、光の粒子を撒き散らして消えた。
 レインはふっと息を吐いた。結局、なぜ諸悪の根源たる皇帝ではなくネメアを憎むのか、という答えは聞けなかった。だが――レインは少しだけ誇らしい気持ちになって、背筋を伸ばした。
 エルファスは、また、と言った。少しは仲良くなれたのかもしれない。次に会ったときには、冒険にでも誘ってみようかと、ひとり、笑った。

 


◇ひとこと◇
 もう言わずともわかると思いますが、ここからしばらくロストール陣営のイベントが続きます。

 

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