ジョンはこの小さな集落で長のような役割を負っている。村長といっても名ばかりで、実際は村民のまとめ役程度のものである。困ったことがあれば村の男連中が中心になって話し合って決めるし、村長の役割などほとんどない。ただ、代表がいないと不便なこともあるので、ジョンがそこに収まっているだけだった。
さて、最近、村長の仕事が回ってきた。集落近くの森に、凶悪な虫が住み着いてしまったのだ。ワスプという大蜂である。胴体が人間ほどの大きさがあるこの蜂は、肉食で凶暴である。空中から強襲して、すでに家畜が何頭かやられている。家畜ならまだいい――程度の問題だが――が、人間の子供がさらわれれば目も当てられない。被害が拡大する前に、何とかしようという運びになった。
ジョンは村の若いのに蜂の巣がどこにあるかを調べるように命じ、男連中を連れ立って森へ蜂退治に向かった。
結論から言えば、ジョンたちは失敗した。というより、自分たちで対処することを諦めざるを得なかったのだ。蜂の巣は森を少し入ったところの巨木に造られており、塔のように巨大で、その周りをこれまた大きな蜂がうわんうわんと羽音を鳴らしながら飛び交っていたからだ。その数は百か千か――とにかく、こちらの手に負える数ではない。
こうして、ジョンを含めた村人たちは村の共同資金を使って、冒険者に討伐依頼を出すことにしたのだった。
決して安くはない依頼料を冒険者ギルドに納め、数日が経った。
蜂の驚異はあれども、働かなくては食っていけない。ジョンは大蜂の影に怯えながら、畑仕事に出た。普段は気にも留めない鳥の影が、自分の頭上を通り過ぎるだけでも、驚いて首をすくめる始末である。
女子供はなるべく家の中にいるように指示しているせいで、村の中はひどく静かだ。隣の畑で仕事をしてる旦那が、自分と同じように周囲を窺いながら人参を引っこ抜いていた。
お父さーん、と幼い声がして、背筋に冷や汗が伝った。振り返れば末娘のアビーが手を振り、あぜ道をこちらに駆け寄ってくるところである。
「こらっ! 家から出るな!」
慌ててジョンが駆け寄ると、
「お父さん、お客さんが来てるよ」
と言う。蜂の気配を警戒しつつ、娘の肩を抱いて家に戻ると、家の戸口のあたりに知らない人間が数人たむろしていて、妻と何やら話しているところであった。
「何だあんたたちは」
ジョンが声を荒らげると、妻と話している一人がこちらに向き直った。
「ワスプの討伐依頼を受けて、冒険者ギルドから参りました」
女である。若く、美しい。歳のころは二十かそこらに見えたが、堂々とした居住まいはもっと年重のようにも見える。上背があり、ジョンよりも頭半分は大きい。体格も女にしては恵まれていて、使い込まれた甲冑にその大きな体を収めていた。肩には大きな三角形の穂先がついた大槍を担いでいる。
墨色の髪はうねりを描き、短いが、まるで獅子のたてがみのように広がっている。肌は白く、鼻筋は通っている。鋭さのある美形で、もし、この女と山野で出会っていたら、魔性のものかと思うところだ。こちらを見下ろす女は造形物めいた美しさがあって、化け物が人を騙すために化けていると言われれば信じてしまいそうだった。
ジョンはぽかんとして女を見上げた。
名乗ったにもかかわらずジョンがそんな調子なので、女は少し戸惑ったような表情を浮かべた。鋭さの強かった顔が少し緩む。表情が変わると、途端に人間味が増す。
横から妻に声をかけられて、ジョンは慌てて取り繕った。
「ああ、いや……まさか、こんな若い娘さんが来るとは思っていなかったもんで」
あながち嘘ではない返事をすると、失笑しながら、よく言われる、と女は言った。その笑顔にギクリとする。
彼女の後ろ――こちらから少し距離を取って、こちらを窺うように三人の若者がたむろしている。彼らはこの娘の連れだろう。まだ年若いのに、彼らもあの大蜂の群れと戦うのだろうか。
「それで、蜂の巣はどこに?」
目の前の娘に尋ねられて、ジョンは村向こうの黒々とした森を指し示しながら、
「あの森だよ。行けばすぐわかる。森に入ってすぐに、バカでかい蜂の巣があるから」
「わかりました。半日程度は家から出ないでください。蜂がこっちのほうにまで飛んでくるかもしれないから」
女はそう言うと、仲間たちのところへ歩み寄って、何やら相談している様子である。
ジョンは妻と娘を家に戻すと、近所の連中と手分けして、村中を回って今日は屋外に出ないように伝え回った。そして、畑の方を回って村の中に人――家畜さえ――がいなくなったことを確認して、自分の家に戻った。その頃には、たむろしていた若い冒険者たちも消えていた。森に向かったのだろう。
「冒険者ってもっとむさ苦しい人たちかと思っていたけど、あんな綺麗な女の人もいるのね」
家の中に入ると娘が妻に話しかけていた。あんな若い子たちで大丈夫かね、と妻はブツブツ言って、家から出られないんじゃ仕事になりゃしない、と湯を沸かしている。茶でも入れようということらしい。
ジョンは家の中で道具の手入れなどをして時間を潰した。妻はずっと不機嫌で、娘のアビーは退屈そうで、いくらもしないうちに寝てしまった。やがて昼を過ぎて、日が随分傾いた頃、家の玄関戸を誰かが叩く音がした。
ジョンが戸を開けると、例の女冒険者が立っている。朝に見たときより髪が乱れ、甲冑や服が汚れているが、生身には傷がついていないように見えた。
「終わりましたよ」
女はかすれたような声で告げた。確認が必要ならやりますが、と続けるので、ジョンは二、三人の男衆を連れて女についていくことにした。
畑を越えた先にある森に近づくにつれ、妙な臭いが鼻につくようになった。他の連中もこの異臭に顔をしかめたり、手ぬぐいで口と鼻を覆ったりしている。
一人が、煙が上がっている、と空を指差した。前を歩く冒険者が、振り返って、
「もう火は消えてますよ」
と言った。
森の傍まで行ったが、あれだけ飛び回っていた蜂の姿がなくなっている。代わりに、山のように積まれた炭のような灰のようなものがくすぶっており、それがこの異臭の原因であった。よく見ると、燃え残った昆虫の翅やら脚やらが灰の中から飛び出している。
女を除いた他の冒険者たちが、それを地面に穴を掘って埋めている。女は彼らを無視して森の中を指し示した。
「まぁ、ちょっと巣が残ってますけど、あとは勝手に崩れますんで。女王は殺したし、ワスプもほとんど燃やしたんで、大丈夫でしょう」
女は疲れているように見えて、随分、ぶっきらぼうに説明した。女が指し示す木を見上げると、確かに上の方にはまだ茶色い土で作ったような蜂の巣が残っている。
「蜂が戻って来ないかね」
ジョンが心配そうにそれを見上げた。
「戻ってくるのもいるでしょうね」
冒険者は言って、森を出ていく。慌てて彼女を追いかけると、例の燃えカスの山の傍に並んだ大きな麻袋をこちらに持ってくる。ちょうど、土のうくらいの大きさだ。
「中はこの灰です。心配なら村の周りにまいておくといい。蜂は近寄ってこない」
その内、戻ってこなくなる、と冒険者は言った。
「ワスプはクイーンを中心に群れで生活します。巣とクイーンを失った個体は、他の群れに合流するくらいでしか生きられない。あとは勝手に死ぬか、アクィラのような大型の鳥類に食われてどっちみち死ぬ」
だから大丈夫だ、と彼女は説明し、灰を埋めている仲間の若者たちを示した。
「我々はここの後始末をしてから帰ります。――こちらにサインを」
それから、腰の小さなカバンから取り出した小さな紙と、携帯用のペンに墨をつけてこちらによこした。紙片にはギルドの印が押されている。ジョンがそれにサインをして返すと、どうも、と彼女は小さく会釈をした。
「それでは、また何かありましたらギルドへどうぞ」
「蜂どもがいなくなって、ようやく安心できた」
日が落ちて――ジョンは食卓に着きながら、誰に話すでもなくため息を付いた。吐いた息とともにこれまでの不安や心労が、体内から出ていくような気がした。
オイルランプと蝋燭の、橙色の明かりが食卓を照らす。大皿に盛られた芋と野菜の煮物が湯気を立てている。妻の顔が照らされて、ひどい仏頂面を薄明かりの中に晒した。
「おい、何をむすくれているんだ」
尋ねてみても答えはない。妻はうざったそうに手を振って、炊事場の方へ戻ってしまった。その様子を見て、アビーがくすくす笑った。
「お母さんはね、ヤキモチを焼いているのよ」
と、こちらに身を乗り出して、耳打ちしてくる。
ジョンは一瞬、ぽかんとしたが、すぐに吹き出してしまった。
「おいおい、お前。そんな馬鹿げたことでへそを曲げてるのか」
誰が馬鹿なもんですか、とこちらを振り向きもせずに妻は言う。鍋のスープをかき混ぜたときに立ち上った湯気が、彼女の体から出ているように見えた。
「あんな若い娘さんに鼻の下を伸ばして、みっともないったら。シャーリーと歳が変わらないくらいの子だったじゃないの」
シャーリーはつい最近嫁に行った長女である。そういえば、今日来たリーダー格の娘は長女といくらも変わらない風であった。
「馬鹿なことを言うんじゃない。あれは、あの娘さんが昔の知り合いに似ていたから、ちょいと驚いちまっただけさ」
ジョンは言ったが、妻は納得していないような風だった。アビーはそんな両親を見て、ケラケラ笑うばかりであった。
帝都から離れたこんな田舎の集落では、夜にはすることがない。道具の手入れをしたり、酒を飲んだりすることはあるが、起きていればその分蝋燭や油を使う。大抵、月が高く登り切る前には寝台に入ってしまう。
妻は終始機嫌が悪かったが、今は隣で高いびきである。きっと、明日の朝には機嫌も戻っているだろう。後に引きずらないのが彼女のいいところである。
ジョンは寝台に寝転がって、煤けた梁の通る天井をぼんやり眺めた。
妻にした弁解は、決して嘘ではない。確かに、昼間の冒険者は驚くほどの美人だったが、その美しさに見とれたというよりは、彼女の面差しに古い友人を思い出したのである。
すっかり忘れていた――あの娘さんは、あの子に似ていたなぁ……と、ジョンは寝返りを打った。幼い頃に別れてしまった、名も知らない友人のことを思い出しながら、ゆっくりと眠りの世界に落ちていった。
◇◆◇
「ジョン!」
息せき切らせて天幕に駆け込んできたのは、ジョンの弟分のアントンであった。
今でこそ定住生活を送っているが、ジョンの少年時代は移動生活である。季節によって家畜を遊牧する場所を変えて、数世帯単位の集落で平原を移動する。生活は組み立て式の天幕を使う。
その天幕入り口の垂れ幕を跳ね上げるようにして、アントンが中に入ってきたのである。彼はひどく慌てているようであった。
「何だよ」
「知らねぇやつがいる! 今、羊の柵のところにいるんだ」
アントンは早口でまくし立てた。彼とジョンは一年しか歳が変わらないが、ジョンのほうがずいぶん体が大きかったので、二人で並ぶとアントンはとても幼く見えた。興奮しているせいで赤らんだ頬が、いっそうそれを助長させている。
ジョンはアントンに案内させて、その『知らねぇやつ』を確かめに行くことにした。
ディンガルの遊牧民たちは、各世帯の天幕を円形に配置して、簡易の村を作るのが一般的だ。真ん中の広場にもう一つ、少し大きめの天幕を立て、共同で使う道具や家畜用の資材を置いている。この天幕の用意は季節ごとに各世帯で持ち回りだ。
アントンがジョンを連れてきたのは、その中央の天幕である。天幕にはすでに他の子供たちが集まっていて、その『知らねぇやつ』を陰から窺っていた。
アントンの言う『知らねぇやつ』は天幕の傍に設えられている家畜の柵にいた。下の柵に足をかけて、身を乗り出すようにして――何が珍しいのか――羊をじっと見ている。
少年である。ジョンが驚いたのは彼の髪だ。天幕の天窓から絨毯に差し込んだ日向の色のような、明るい色をしていた。こんな色の髪をした人間を、ジョンは今まで見たことがない。その金色の髪が、風に吹かれた草原のように波打っていて、昔、婆さんが話してくれた獅子という動物のたてがみに似ていると思った。
年格好はジョンより少し年上かもしれない。色が白くて、女の子みたいな顔をしているが、背が高くて体格がよかった。
天幕の端から幼馴染のスージーが、ぼぅっと彼を覗き見ている。その横顔が、ジョンの知らない女の人のようで、思わず苦いものがこみ上げてくる。ゲロを吐きそうだった。
見慣れない少年はこちらのことを気にも留めないで、柵の向こうの羊に手を伸ばそうとした。
「おい! 何をしてる!」
ジョンはカッとなって声を上げた。少年がこちらを振り返る。驚いたような風ではない。青い瞳に見据えられて、むしろジョンのほうが怯んでしまう。
「そ、それはウチの羊だぞ!」
内心の動揺を表に出さないように、ジョンは声を荒らげて少年に指を突きつけた。
だが少年は、そうだったか、と言っただけだった。悪びれる様子もなく、あっけらかんとして、初夏に吹く風のように爽やかだった。
「羊を初めて見た。本当にもこもこしてるんだなぁと思って。触ってみたいんだ」
少年の言葉に、ジョンはぽかんとした。少し後ろから様子を窺っていたアントンが、それを揶揄するように笑った。
「羊を見たことないなんて、お前、どっから来たんだよ!」
「森から来た。森には羊がいないんだ」
少年は言って、丘の向こうに見える森を指差した。黒々とした大樹が密に絡まり合うその森は、賢者の森と呼ばれていて、一度入ってしまったら二度と出てこれないと言われている。賢者が住んでいたとか言われているけれど、そんなところに今も人が住んでいるなんて信じられない。
「ねぇ、あなた、名前は何ていうの」
スージーがおずおずとして言った。彼女の後ろで、年少の女の子たちがきゃあきゃあ言っている。
「名前……は、言えない」
「どうして?」
「危ないから。名乗れない」
好きに呼んでくれればいい、と少年は言った。彼の言葉はさっぱりだったが、外連味がなかった。何となく、ゾワゾワとした言いしれない緊張感があって、ジョンは頭の天辺を誰かに覗き込まれているような気味の悪さを感じて首をすくめた。だが、それをすんなり受け入れてやるのは、彼の小さなプライドが許さない。
ハハハッ、とジョンは笑い飛ばしたつもりだった。だが、不意に声が裏返ってしまった。それをごまかすために、ジョンは大声を張り上げる。
「名無し野郎なんて信用できねぇな! 帝国から来たんじゃないのかぁ?」
いいや、と少年は首を振った。その声の落ち着き払った調子に、ジョンは恥をかいた気分になった。かぁっと頬に血が上ったようで、後頭部が痛くなってくる。
何か言わなければと口を開いた瞬間、声を発したのはジョンではなかった。
「いいわ。名前は聞かない」
スージーだ。彼女は遠慮がちに名無しの少年の横に並び立ち、指先で彼の袖をちょんとつまんだ。
「あたしはスージー。――あ、羊。こっちの柵の羊は、ウチの羊だから。ちょっと触るくらいならいいわよ」
なんて言いながら、スージーは少年の腕を取って、羊の柵の方に連れて行こうとする。
「ち、ちょっと、待てよ!」
ジョンはぽかんとしていたが、すぐに我に返って声を荒らげた。スージーと少年がこちらを振り返って、不思議そうな顔をしている。
「俺はまだ認めてないぞ」
「ウチの羊のことでジョンにとやかく言われる筋合いはないわ」
スージーがむっとして、腰に手を当てた。彼女の言うことはもっともだが、それでも引くに引けない。ジョンは 少年の形のよい鼻先に指を突きつけて、
「やい、俺と勝負しろ」
と、宣言した。少年は大きな青い瞳を瞬かせ、ジョンを見つめ返してくる。不思議そう、というよりはジョンのやることに興味津々といった様子で、猫じゃらしを見つけた猫と同じような表情をしていた。
スージーが迷惑そうにジョンを制止したが、少年はそれに構わず、いいぞ、と頷いた。
「何で勝負するんだ」
「相撲だ! 俺と相撲を取れ!」
ジョンは相撲が強いのよ、とスージーが少年に耳打ちをした。ジョンはこの辺りの遊牧民の子供たちの中では負け知らずである。
しかしスージーの忠告を無視して、そうか、と少年は頷いた。
「楽しそうだ。やろう」
少年は涼しい顔をしていた。それが何だか調子に乗っているようで、尺に触る。地面に転がして、泣きべそをかかせてやろう――ジョンは腕まくりをした。日々の野良仕事で鍛えた腕は、ジョンの歳を考えると大人びていて筋張っている。焼きたてのパンのような日焼けが、いっそうたくましく見えた。
その一方で、目の前の少年はジョンより背が高かったがそれほど強そうに見えなかった。色白の、女の子のような顔立ちがそう思わせるのかもしれない。服も体も、野良仕事をしているにしては身ぎれいである。着ているものは上等とは言い難いが、清潔で、おそらくどこかの都会で暮らしていたのだろう。
ジョンには負ける要素がない。
両肩ついたほうが負けね、と審判を買って出たアントンが、手を振り上げた。
「はっけよーい、のこった!」
アントンが振り上げた手を振り下ろした瞬間、ジョンは上半身を倒したまま少年に向けて突進した。このまま脚をすくい上げて、すっ転ばしてやる!
「――……は?」
ジョンは呆けた声を出して空を仰いだ。場違いに脳天気な綿雲が、青い空を泳いでいく。そこを、すいっと燕が糸を渡すように横切っていった。
ジョンは今、自分が草原に寝転んでいるのだ、とようやく理解できた。首筋をくすぐる若草の感触と青臭い土のニオイが、じわじわと現実感を与えてくる。
名も知らない少年と取っ組み合ったのは覚えている。だが、なぜ、自分が、草原に寝っ転がっているのか――何がどうなってそうなったのか、というのがごっそり記憶から抜け落ちていた。
草原に仰向けになったまま混乱していると、きゃあっと言う歓声が上がった。
「すごい、すごい! ジョンを投げ飛ばしちゃった!」
「つえぇー! 何だ今の技!」
「大人のお相撲みたいだった!」
子供たちが口々に囃し立て、例の少年を取り囲んでいる。それで、ようやく、ジョンは、自分が負かされたのだ、と理解した。
何で? どうして? どうやって?――何度思い出そうと試みても、どうやって負けたか思い出せない。
ジョンは慌てて起き上がった。彼の周囲には誰もいない。それが、頭を殴られたみたいにショックだった。
「待て! 待て、今のなし。今度はちゃんと真剣にやる!」
ジョンは少年を囲む子供たちを押しのけて、彼に詰め寄った。そうだ。俺がこんなやつに負けるはずがない。さっきのは手加減をしてやったからだ。次やったら、俺が勝つに決まってる。
少年はジョンを見つめて、こくんと首を傾げ、いいぞ、と言った。
「楽しかった。もう一度やろう。――だが、その前に羊を触っていいか?」
ジョンはむすくれた顔で集落の広場を横切った。母に家畜の世話をするように、きつく叱られたからだ。
「まったく……。あんたは仕事をサボってばかりで、ろくな大人にならないね。『森のあの子』みたいに、ちゃんと真面目に働きな!」
母の言葉を思い出して、苦い顔をする。何が腹が立つかって、『森のあいつ』と比べられたことが腹が立つ。
先日、羊を触りにやってきたあの少年のことである。彼はあれから度々集落を訪れるようになった。名前を尋ねても言えないと言うばかりなので、その内誰が呼び始めたのか『森の子』とか『森から来たあの子』とか呼ばれるようになった。
はじめは子供たちばかりで遊んでいたが、いつまでも大人が気づかないわけがない。集落の母親衆にバレたときには、ジョンはザマァ見ろとほくそ笑んだ。名も名乗れないような怪しいヤツは大人に叱られて、集落から追い出されればいいと思った。
ところがだ、何をどうやったのか知らないが、『森のあいつ』は母親たちに気に入られ、あっという間に集落に受けられてしまったのである。
「しっかりしてて頭もいいし、行儀もいい――どっかの貴族のお坊ちゃんなんじゃないかねぇ。だから名乗れないんじゃないかしら」
ジョンの母親はそんなことを言った。貴族が時の皇帝に追われて、都落ちしているというのは、ジョンでも知っていた。なるほど、だからいけ好かないやつなんだ――貴族というものがどういうものであるか、ジョンはまったく知らないがそんなふうに思った。
『森の子』は時々集落にやってきては、子どもたちと遊んだり、大人たちの仕事を手伝ったりした。何をやるにも覚えが早く、すぐに誰よりも上手になってしまう。ジョンはその様子を見るたびに、先日、相撲でこてんぱんにやられてしまったことを思い出して、歯噛みしたのである。
『森の子』が集落で受け入れられれば受け入れられるほど、ジョンは皆から爪弾きにされてしまったようで、不愉快であった。
そうやって、半月ほど経った頃である。ジョンはその日、父親の言いつけで馬の放牧を手伝わねばならなくなった。馬に乗るのは好きだ。馬はジョンの言うことをよく聞いてくれるから。
ジョンはすっかりいじけてしまって、愛馬の背中から風に波打つ緑の草原を見回した。
このままどこか遠くに行きたいな――そんなことを考える。当たり前だが考えるだけだ。愛馬と言ったってこの馬は父親の財産だし、ここに来たのだってジョン一人ではない。ジョンよりもっと年重の、集落の青年が二人いて、ジョンは彼らの手伝いだからだ。勝手にここを離れれば、彼らにひどく叱られるだろう。
「何だ、ジョンは元気がないな」
青年の一人がジョンを見てそう言った。
ジョンを含めた馬守りたちは馬を降りて、彼らの家畜を見渡せる丘陵の上に腰掛けていた。馬たちを走らせた後は、彼らによく草を食べさせなければならないので、人間はあまりやることがない。彼らが獣にやられないように、しっかり見張るくらいだ。馬守りたちにとっても、休憩時間というわけだ。
「森から来る小僧っ子がいるだろう。あれに相撲で負かされたんだと」
すねてんのさ、ともう一人が馬乳酒の入ったゴブレットを傾けた。
「別にすねてない」
ジョンが顔をしかめると、青年たちは声を立てて笑った。
「いいじゃねぇか。負けりゃ誰だって悔しいもんさ」
「どら、稽古をつけてやろうか」
うちの一人がどっこらしょと腰を上げたので、ジョンはさらに顔を渋くするしかなかった。
馬の放牧は、朝からでかけて昼飯を食ったらいくらもせずに集落に戻ることになっている。あまり悠長にやっていると、あっという間に日が暮れて獣たちの的になるからだ。
馬たちを連れて集落に戻ってくると立ち並ぶ天幕の合間に、子どもたちの小さな影がチョロチョロしていた。その中に、少し傾いた日を浴びてキラキラと輝く黄金色の髪があった。背が高いせいで子供たちの群れの中からぽつんと秀でている。否応にも視界に入ってきたそれに、ジョンは自然と顔を険しくした。今日は何て日だろう。
キラキラした金の髪を草原を渡る風になぶらせながら、少年がジョンの方を振り返った。
ジョンは、こいつのことが嫌いだったが、そのときの少年の表情は数十年経っても彼の記憶の中に深く刻み付いている。
馬上のジョンを見上げるなり、少年の白い頬にさっと赤みが差した。空よりも深い青色の瞳が大きく見開かれ、興味と好奇にきらめいている。そして自分に群がる連中を捨て置いて、ジョンの方へと小走りに駆け寄ってきた。彼はジョンが操る馬の隣を歩きながら、
「すごいな。お前、馬に乗れるのか」
と、ジョンを見上げた。こいつが集落に来るようになって、一番大きな声を聞いた気がする。
ジョンは、まあな、とつっけんどんに応じた。あまりこいつと会話したくなかった。
だが森の少年はそんなジョンの様子に気づかないのかわざとなのか、すごい、と相変わらず目をキラキラさせている。
「私にも馬の乗り方を教えてほしい」
深い青色の瞳が美しい石飾りのように輝いて、ジョンを見上げてくる。ジョンは言葉に詰まって、口をむっつりつぐんだまま、少年を睨みおろした。
嫌だ、と突っぱねたかったが、実のところジョン少年はそこまで嫌味な人間ではなかった。健全な少年が、馬に憧れるのは当然のことだと思っているし、その気持ちを無碍にするのは哀れに思う。
だが、すぐさま彼の要求に応じてやれるほど大人でもなかった。口達者にごまかせるほどの器用さもない。あとに残された選択肢など、口をつぐんで黙り込むくらいしかない。
「おう、いいぞ」
諾の声はジョンの後ろから聞こえた。ジョンと少年が一緒になって振り返ると、兄貴分の一人が下馬するところである。
「俺の馬に乗るといい。乗り方も教えてやる」
「本当か!? ありがとう!」
森の少年はぱっと破顔すると、さっと身を翻して下馬した青年に駆け寄った。そして青年に教えてもらいながら、早速鐙に足をかけている。
ジョンが複雑な面持ちのまま愛馬の背中でぶすくれていると、何かが彼の後頭部を軽く叩いた。振り返ると、もうひとりの青年が直ぐ傍に立っている。
「今まで一回も馬に乗ったことがないようなやつに、お前が負けるわけ無いだろ。――何なら、競馬でもやるか」
「えぇえ!?」
青年はにやにやと笑い、群がっている他の子供たちにお前たちも競馬をやれと号令した。
ジョンはあまりやりたくなかった。そんなことは万に一つもないだろうが、もしあいつに競馬で負けたら、ジョンはもう立ち直れない。その場で憤死してしまうかもしれない。
けれども、あれよあれよという間に競馬の場が作られ、気がついたときにはジョンはスタートラインに立たされていた。所詮は遊びであるから、ラインを決めるロープも何もない。ただ、騎馬した青年二人が立った間に、ジョンたちが並んでいるだけだ。
こういう形の遊びを子供たちはよくやるが、ジョンはこのときばかりはしっかりスタートラインを決めて、ズルがないようにしてくれと思った。だが、それを言い出すのも走る前から負けを認めたような気がして、ジョンは口を閉ざすしかない。
森の少年はジョンから少し離れたところにいて、ゴール地点に決めた旗の方をじっと見つめている。初めて騎馬したとは思えないほど落ち着いていて、ジョンにはそれが気に入らない。
行くぞー、と青年が声を上げた。腕に派手な色の手ぬぐいを巻いて、それを高く掲げる。
レース前の緊張感が、青空の下に張り詰める。少し離れたところで馬に乗るにはまだ幼い子供たちが、無邪気にはしゃいでいた。
「そら行け!」
号令とともに手ぬぐいの巻かれた青年の腕が振り下ろされた。それを確認する間もなく、ジョンは馬の腹を蹴った。
先走って飛び出したやつ――森のあいつではなかった――がいて、ジョンは内心ひどく焦った。馬にムチをくれ、その腹をふくらはぎで強く押す。体重をひどく前方にかけると、馬は意図を汲み取ってぐんぐん走ってくれた。すぐに彼の視界に映るのはゴールの旗だけになった。
初心者がいるため今回のコースは直線である。ただ真っ直ぐ走るだけだ。
ゴール代わりの旗を通り過ぎたとき、ジョンの前を走るものはいなかったはずだ。初めて競馬のレースに出たときのように、心臓がバクバク言っていた。徐々に馬の脚を緩めて後ろを振り返る。
ばらばらとゴールに到達する人の群れの中に、あの目立つ金の髪を見つけたとき、ジョンの心臓はさらに跳ね上がるように高鳴った。
勝った! あの野郎に勝ったぞ!
頬が紅潮して、自然と口角が持ち上がるのがわかる。それを奥歯を噛み締めてこらえて、自然な風を装った。自分の勝利はさも当然のことであるというように。
騎馬の群れの中にいる森の少年と目があった。彼は馬を操ってこちらに近寄ってくると、晴れやかな笑顔でこう言った。
「お前は馬を走らせるのがすごく上手いな」
「……まぁな」
「お前ほど早く走らせられるなら、きっと楽しいだろうなぁ。羨ましい」
少年は、白い頬を紅く染めてジョンに微笑みかけてきた。それを見ながら、こういうやつでもそんなふうに思うんだなぁと呑気な感想を抱いてしまう。
「悔しいな。もう少しうまく乗れるようになりたい」
馬の首を撫でてねぎらってやりながら、少年はぼやきのようなつぶやきを漏らした。
負けりゃ誰だって悔しいもんさ――兄貴分の言葉がジョンの頭に思い浮かんだ。そりゃそうだな、と思った。
「初めて馬に乗ったんならそんなもんだろ。――たまにでも乗れば……多少はマシになる」
ジョンがぶっきらぼうに言うと、フフフと少年は小さく笑った。
それから、ジョンはこの森の少年とよくつるむようになった。何のことはない。こいつも別に大したことはないとわかったからだ。よくよく観察すれば、何でも初めてやったことはそれほどうまく行っているとはいえない。乗馬もそうだし、家畜の世話もそうだ。人より仕事の覚えはいいが、初めから何でもできるというわけではない。それは、ジョンとそれほど変わらないように思われた。
お前が名乗らないなら俺も名乗らん、とジョンが宣言すると、少年はおかしそうに笑っていた。それが妙に嬉しそうで、変わったやつだなと思った。
変わっていたけど、いいやつだった。
けれど、ある日、彼と一緒に森に遊びに行ったときのことだ。ジョンたち草原の子供たちは、大きな川というものを見たことがなかった。だから、森の少年に頼んで、森の大きな川で魚捕りをしようということになったのだ。だが、川遊びから戻ろうとしたとき、運悪く帝国の兵士に見つかってしまった。森の少年は、ジョンたちを逃がすために独り残り――兵士を相手に森の中に消えてしまったのだった。
ジョンたちは慌てて集落に戻って、大人たちに助けを懇願したがそれは叶わなかった。遊牧民たちは急いで集落を引き払い、場所を移動しなければならなかったからだ。もし自分たちが兵士たちに見つかれば、捕まって、帝都に連れて行かれてしまう。名も知らぬよその子ひとりを助けるために、そんな危険は冒せない。
スージーはひどく泣いて――きっとあれは彼女の初恋だったのだ――ほかの子供たちも、一人の友を喪ったことを悲しんだ。もちろん、それを口に出すものはいなかったが、みなが同じ悲しみを共有していた。
あれから時が経つにつれ、様々なことが世界とジョンに襲いかかった。戦争は何度も起こったし、天災だってひどかった。それでも彼らは大人になって、それぞれに所帯を持ち、日々を生きる中であの友人のことをすっかり思い出す機会を失っていたのだった。
あの冒険者の娘との出会いは、失ったはずのその機会だった。彼女をひと目見たとき、雷に打たれたような衝撃を受けた。面差しが似ていた。あの波打つ黒髪を日差し色にしたら、それこそ生き写しではないだろうか。あの一瞬に記憶が蘇り、ジョンは定住生活を送る以前の遊牧民だったころの少年に立ち戻っていたのだ。
ひょっとして、あの少年はどうにか生き延びていて、ジョンのように所帯を持ったのかもしれない。そうだったら、どれほどよいだろうか。
その夜、ジョンは夢を見た。あの友人と一緒に、若草生い茂るかつてのディンガルの草原を、馬を駆って走る夢だった。
◇◆◇
蜂退治から半年ほどが経った。冒険者たちの指示通り、蜂を燃やした灰を村の周辺にまいたおかげか、蜂は戻ってこなかった。たちの悪い獣も出ないし、春を迎える頃にはジョンの村はすっかり日常の平穏を取り戻していた。
さて、今日は村の収穫物を都まで卸に行く日である。野菜やら、燻製肉やら、羊の毛やら――そういったものを荷馬車に積んで、帝都エンシャントを目指すのである。
積み荷の多くはジョンのものだが、馬や車を持たない家の荷物も代わりに載せてやっている。そのため、馬車の荷台は荷物でいっぱいだ。
「お父さん、あたしも帝都に行きたい!」
馬車を家の脇に停め、荷を積み込んでいる傍らで、娘のアビーが恐ろしいことを言った。彼女はつぶらな目でこちらを見上げている。
「だめだ、だめだ。遊びに行くんじゃないんだ」
ジョンは娘の駄々を一蹴して麦の入った麻袋を荷台に積み込んだ。一抱えもある麻袋は五袋もあって、積込みは大変である。野菜と加工した肉が入った木箱や樽がまだいくつかあって、娘にかまっている暇はない。
「わかってるわよ。でも、あたし、まだ一度も帝都を見たことないのよ」
「お前の歳なら、誰だって見たことないもんだ」
ジョンは木箱を抱え上げ、荷台に積み込みながらぶっきらぼうに言った。アビーの方を向きもしない。だが、相手にしないことを態度で示した父に対して、アビーはまったく引かなかった。忙しく馬車の周りを行ったり来たりするジョンの後を、ちょろちょろとついて来る。
「ウソよ! だって、ブレンダもハリーも帝都に行ったことあるって言ってたもん!」
あたしだけないのよ!――アビーはジョンの前に立ちふさがるように回り込んだ。腰に手を当てて、しかめっ面で父を見上げてくる。
ジョンはすっかり根負けしてしまって、大きく息を吐いた。荷車の後ろあおりを立てて、開き止めのかけ金を下ろす。それから荷台にかかっている幌の幕を降ろして、ようやくアビーに向き直った。
「……母さんには自分で言えよ」
「やったぁ!」
アビーは甲高い歓声を上げて大きく飛び跳ねた。それから、家に向かって駆け出していく。
「荷を積み終えるまでに戻らないと置いていくぞ」
ジョンが走り去る娘の小さな背中に告げると、うん!――とだけ返してきた。こちらを振り向きもしない。いい気なものである。
ジョンは黙々と、だが、少しだけ作業をゆっくりとして、出発準備を続けた。馬に水と藁をやって、時間をかけて御者台に腰を据える。だが、娘がやって来る気配がない。ジョンは少しだけ、そのままの姿勢で娘を待った。白くて小さな蝶々が彼の眼前をひらひらと横切っていった。妻をこの短時間で説得するのはなかなか――困難を極めるだろう。
だが、いい加減、ずっとここに留まっているわけにも行かない。馬にムチをくれ、出発することにした。馬車はのろのろと発進し、小石まみれのあぜ道を酷く揺れながら進んだ。そして村の入口辺りまで至ったときだった。
「お父さん、待って! お父さん!」
後ろから娘の声が聞こえてきて、ジョンは御者台から振り返った。アビーが長い栗色の髪を振り乱して、こちらに向かって駆けてく来ている。驚いたのはその後ろだ。恐ろしい形相をした女房が、顔を真っ赤にして娘を追いかけて来るではないか。妻の憤怒の形相と来たら、ラングスイルもかくやと言わんばかりだ。
「アビー! アビー、待ちなさい!」
ジョンがぎょっとしている間に、アビーは馬車に追いついた。幌をかき分けながら、荷台に乗り込んでくる。そして娘は荷台の荷物を乗り越えて、御者台までやってくると、幌の間からひょっこり顔だけを覗かせた。
「お父さん、お母さんに言ったよ!」
「ああ、だろうな! そら行け!」
ジョンは馬の尻をムチで強く叩いた。馬は力強く駆け足で走り出す。あぜ道を行く馬蹄の音にかき消されて、やがて女房の怒声は聞こえなくなった。それで彼女の怒りまで消えたわけではないが――。
ジョンの集落から帝都までは、馬を使っても一日とちょっとかかる。つまり、ジョンとアビーが帝都エンシャントの城門をくぐったのは、翌日の昼過ぎのことであった。
天災と戦争が同時に襲ってきたような騒乱が起きてから、災禍の中心になったエンシャントは目下復興の途中にある。にも関わらず、早々に大きな道が整備され、その沿道には背の高いビルディングが建て直されようとしていた。とはいえ、街の半分以上は未だ瓦礫に埋もれている。
エンシャントはほとんど崩れていないエンシャント城が北東側にあり、そこから三つの城門まで大きな通りが放射状に作られている。今日の大通りは普段以上に人出が多く、町に入るために行列ができているほどだった。
「やぁ、今日はひどい人出ですな」
馴染みの旅籠の裏口で、ジョンは積み荷を降ろしながらそう言った。大通りの裏に当たるこの場所でも、表の喧騒が賑々しいほどだ。ふと見ればアビーが麻袋をひきずりそうになっているので、ジョンは横から荷物を取り上げた。
戸口のところには旅籠の料理番の旦那がいて、煙管を吹かしながらジョンたちの様子を見ている。
「今日は祭りでもやってるんですか」
ジョンが旦那に尋ねると、旦那は鼻の穴からタバコの煙をふーっと吹き出して笑った。
「いいや、祭じゃないんだ。東方視察に出てたネメア様が、今日還幸なさるんで、大通りでパレードがあるんだ」
アビーはいいときに来たな、と旦那は煙管を咥えた。汚れたエプロンのポケットをまさぐり、小銭を取り出すと、一番小さいギア硬貨を二つ三つアビーの手に握らせた。
「飴でも買いな」
「こりゃあ、すいませんね、旦那。アビー、ちゃんと礼を言うんだ」
「ありがとう、おじさん!」
旦那は煙管を咥えたまま曖昧に笑い、アビーに手を振った。
旅籠に荷を卸した後、敷地から大通りに出ると、これがまたとんでもない人である。まだ轍のない石畳が敷かれた通りは、人で埋め尽くされている。
パレードを見に来た見物客、その見物客を当てにした露天商、露天商の客、彼らを取り締まる憲兵、パレードのための道を開けさせようとする兵士たち――そして、ジョン親子のような行商人。
「ねぇ、お父さん」
転げ落ちないように――あるいは人さらいにあわないように、荷台に載せたアビーが幌から顔を出して来た。
「あたし、パレード観たいわ」
ジョンは肩越しに振り返って反論しようとしたが、それより先にアビーが続けた。こうやって畳み掛けてくるところは、女房に似ている。
「だって、ネメア様見たいんだもの! 村ん中でネメア様を見たことあるの、誰もいないわよ」
アビーは興奮して早口でまくし立てた。
ダメだ、とジョンは鋭く返し、帝都に来た目的が遊びではないことを言い含めようとした。だが、娘に対する説得の前に鋭い警笛の音が鳴り響いた。そちらを振り返ると鈍色の甲冑を身にまとった兵士である。まだ子供のような年若い顔を兜の下でこれでもかとしかめている。
「そこの馬車。そんなところで停まるんじゃない。邪魔だ」
「あーあー! わかってるよ。すぐに移動するさ」
交通整理の兵士にうるさく言われて、ジョンはうざったい蝿を払うように返事をした。それから、馬の尻にムチを打った。馬もうるさそうにいなないて、首を振っている。
「お父さん、パレード!」
大通りからそれていく馬車に焦ったアビーが、金切り声を上げた。ジョンの肩口を掴んで、激しく揺さぶってくる。
娘に揺さぶられているんだか、馬車に揺られているんだか――ジョンは左右にゆらゆら揺すぶられながら、人混みの喧騒に負けないように声を張り上げた。
「わかった、わかった。でも仕事が先だ。お前が邪魔をしなかったら、パレードに間に合うだろうよ」
それから、ジョン親子は得意先を何軒か回った。積み荷を降ろし、粗方の仕事が終わった頃には獅子帝の一行が帝都に到着していた。大通りから少し離れた場所からも、喧騒が聞こえてくるほどだ。
ジョンは客の店の裏庭に馬車を停めさせてもらって、徒歩で大通りへと戻った。人波は前よりも増していて、通りの沿道を隙間なく埋めている。ジョンは慌てて小さな娘の手を握りしめた。
「お父さん、早く!」
アビーはジョンの手を何度も強く引っ張って、勇敢にもこの人の海の中に突入していく。彼女は酷く焦っていて、しかめ面をしていた。小さな体で器用に人の波をくぐっていくが、図体のでかいジョンはそうもいかない。人を押しのけ、娘の手を放さないようについていくのが精一杯だ。
皇帝の列はもう大通りを行進している。儀仗を持った甲冑姿の兵士たちが、鎧をガチャガチャ鳴らして通りを北上していた。彼らの儀仗には黒地に金の糸で獅子が刺繍された旗がついていて、それが春の風にはためいている。
兵士の一団が歩み去った後ろからやってきたのは、大きな軍馬の隊列だった。軍馬は一様に軍馬鎧を身に着けていて、その下で黒い鱗が日差しにピカピカ光っている。大きな軍馬に騎乗するのは黒鎧の騎士たちで、彼らの鎧は軍馬の鱗に似て、よく磨かれていてこれも美しく輝いていた。
ジョンとアビーは並び立つ人混みをかき分けて、何とか行進がよく見える場所を取った。春の日差しもあって人いきれで汗が出るほど熱気で溢れている。ジョンは手ぬぐいで額の汗を拭いながら、
「やぁ、これは――ネメア様はもう通られたかな」
そう隣に立った見知らぬ男に尋ねると、いいや、と彼は首を横に振った。
「あんたたち、運がいい。まだ通っていないよ」
通りに面した建物の上階から、祝福の花びらがまかれている。それが風に乗って、春の青空にひらひらと舞った。降り落ちてきたピンクや白の花びらが、騎士の鎧の上を滑り落ちていく。
ジョンたちより下手側で一際大きく歓声が挙がった。ついそちらを振り向いたと同時に、あ!――とアビーが声を上げた。
「ねぇ、お父さん、あの人!」
アビーは隊列を指さして、ジョンの手をぐいぐい引っ張った。彼女は兵士たちの中に誰か知り合いを見つけたらしい。だが、日差しが兵士の鎧や軍馬の鱗にキラキラと反射して、兵士や騎士の顔を判別するのは困難だ。
「何だ? どれだ」
「あの黒い大きな軍馬に乗ってる人!」
アビーはじれったそうにきゃんきゃん喚いて、小さく飛び跳ねながら隊列を指さした。
ジョンはそこでついに、アビーが指し示した人物が誰であるかを確認に至った。
居並ぶ黒鎧騎士たちの中でも、特に大きくて立派な軍馬を狩る人物だ。大きな体躯を包む鎧は、黒地に細かい金の意匠が施されている。中でも目を引く獅子飾りが肩についており、それが日差しにさらされてギラリと光った。
篭手に覆われた左手は手綱を握っていたが、同じく無骨な篭手の右手が握っているものにジョンは見覚えがあった。槍だ。大きな三角形の穂先がついた大槍である。ジョンの村をお化け蜂から救出したのと同じもののように見えた。
短いが獅子のたてがみのようにうねりのある黒髪に、舞い散る花びらが引っかかって、花冠のようになっている。若く美しい女騎士にはふさわしいように思われた。
騎馬上で大槍を持ってなお、彼女の姿勢には乱れがない。よほど馬に乗り慣れている。
美しいがみすぼらしい冒険者と同一人物とは思えない。だが、それは真実なのだ。あの日やってきたあの若き女冒険者が、いまや立派な若騎士として黒鎧の隊列を率いていたのだ!
「失礼だが、あちらの立派な方はどなたで?」
アビーは今にも通りに飛び出してしまいそうだ。ジョンは彼女の手をしっかり握りしめたまま、再び隣の男性に大声で尋ねた。知らないのかい、と彼は驚いた様子である。
「ありゃあ、『小獅子殿下』さ。ネメア様のご息女。エリュマルク帝にバレないように隠されて育てられたそうだよ。この前の騒乱では前線で兵士を指揮して、エンシャントを開放なさったんだ」
血は争えないね、と彼は笑った。
「すごい! どうしてお姫様が冒険者なんてやってたのかしら」
物語みたいだわ、とアビーは大層興奮した様子で、丸い頬を真っ赤にしている。ディンガルの女の子は『仮面の女騎士物語』なんておとぎ話に一度はかぶれるものだが、娘も例外ではなかった。
小獅子殿下の騎乗した軍馬が、黒い鱗を光らせながら通り過ぎて行った。アビーは大きな声で彼女に呼びかけたが、歓声が大きくて聞こえなかったようだ。若騎士は真っ直ぐに前を見たままで、こちらをちらりとも振り向かなかった。
アビーはそれを残念に思ったようで、うつむいて汚れたブーツのつま先を見つめた。ジョンはそれを哀れに思って、彼女の体を抱え上げた。十歳の娘はさすがに重い。
「そら、アビー。うつむいてる場合じゃない。陛下の馬車が来なすったぞ!」
地響きのような歓声が、波になってジョン親子のところまで轟いた。黒鎧騎士の列の向こうに、小山のような黒い馬車が見える。所々に豪華な金の意匠が設えられており、屋根の上には向かい合う二頭の金獅子が大きな口を開けている。馬車を引くのは六頭の青毛の馬たちで、軍馬と見紛うほど大きく立派で、毛並みもツヤツヤと照り輝いていた。
その黒い馬車には大きな窓がついていて、そこから乗車している皇帝の姿がよく見えた。黒に近いネイビーのベルベットが張られた椅子に深く腰掛けているが、遠目でも立派な体格をしているのがわかる。沿道に集まった群衆の声援に応えるように、小さく手を挙げている。金の刺繍で飾られた立派な黒い上着を着ていて、長くうねりのある明るい金の髪がその肩の辺りで広がっていた。まさに、そこに陽が差すように。
その金の――日向のような髪が見えたとき、ジョンの鼻の奥に青臭い草原の匂いが香った。ジョンは呆然として皇帝の馬車を見つめた。思わずアビーを落っことしそうになって、慌てて彼女を地面に降ろしたほどだった。向こう側の沿道の方を向いていた獅子帝が、不意に、こちらを振り返った。
彼は空よりも深い青色の瞳を持っていた。ガラス越しにその青い輝きを見た瞬間、ジョンの耳にかつて暮らした草原の音が返ってきた。
地鳴りのような馬蹄の音、羊たちのうるさい鳴き声、子供たちの笑い声。ジョンは今や数十年前の草原に立っている。草原を渡る冷たい風――それに翻る、日向色の金の髪。薔薇色の頬をして、深い青色の瞳を輝かせていたあの子――。
皇帝の馬車が通り過ぎたと同時に、鼓膜を震わせる喧騒が戻ってきた。ここにあるのは草原の音ではない。馬の乗り方を教えてくれと乞うてきたあの無垢な少年はもういないのだ。いるのは、歴史に名を刻むような立派な英雄だけだ。
ジョンはあまりのことに膝を折って泣き崩れた。
「おいおい、あんた、大丈夫かい」
隣に立っていた男がその様子にぎょっとしてジョンの顔を覗き込んでくる。顔を真っ赤にして涙を流す父親を、アビーは不思議そうに見つめた。
「お父さん、大丈夫? ネメア様にお会いできて、よっぽど嬉しかったのね」
その日から、ジョンは『ホラ吹き』と呼ばれるようになった。なぜかというと、獅子帝ネメアに馬の乗り方を教えたのは自分だと吹聴するようになったからだ。
誰もそんな話は信じなかったし、ジョンは酒に酔うと必ずその話をするのでみんなうんざりしていた。
だが、ジョンは何と言われようと、その話をするのをやめなかったし、その話をするときは妙に楽しげだったという。
◇◆◇
エンシャント城の中庭に、黒い鱗の軍馬たちが群れをなしている。ディンガルの軍馬は鱗が黒いものが尊ばれる。黒ければ黒いほどよい。体が大きく、黒い鱗がツヤツヤしているものがよい軍馬とされていた。
軍馬に騎乗しているのは黒鎧騎士たちだったが、彼らは武装を解いており、みんな揃いの軍で支給される麻のシャツを着ていた。全員非常にリラックスしていて、緊張感は何もなかった。
揃いの衣装の騎士たちの中に、一人だけ揃っていない女がいた。もちろん、騎士の中には女もいたが、そういうことではない。上等な絹のブラウスにはレースのフリルがふんだんに使われており、いかにも上流な人物であることがわかる。履いているのはディンガル軍の女性制服のミニスカートだが、その下に乗馬用のぴったりしたズボンを履いていた。
レインである。
「どうです、小獅子殿下もやりませんか。競馬」
馴染みの騎士に尋ねられて、レインは口ごもった。
「競馬はまぁ……いいんだけど……その、『小獅子殿下』って何? 帝都に入ってからみんなそれ言うんだけど」
レインは苦虫を噛み潰したようなしかめ面を浮かべている。エンシャントにやってきた途端、兵士も町民もこぞって自分のことを『小獅子殿下』と呼んできた。知らない名前である。
ご存知ないんですか、と騎士が笑った。
「殿下の新しい二つ名ですよ。獅子帝陛下のご息女なので、『小獅子殿下』 帝都じゃみんな、あなたのことをそう呼んでます」
「知ってるよ! パレードで散々聞いた。みんなそうやって呼ぶから、恥ずかしくって一回も沿道のほうを向いてない」
レインは悲鳴のような声を上げた。ただでさえパレードに出るなんて恥ずかしいのに、変な二つ名で呼ばれるのはもっと恥ずかしい。
たまたま北部で仕事を終えて、ついでに父の顔でも見ていこうかとエンシャント城に寄ったのがまずかった。ちょうどウルカーンへの行幸の日程が近く、その隊列に組み込まれてしまったのだ。
行って帰ってくるだけ、と聞いていたのに、帰りに帝都を練り歩くだなんて――ただの兵士の格好で行進するだけならまだしも、妙に目立つ位置に置かれるし、何だか仰々しい呼び名で呼ばれるし――。恥ずかしくて恥ずかしくて、ただ真っ直ぐ前を見て軍馬に乗るのが精一杯であった。
「ああいう二つ名っていったい誰が考えてるんだ? 私は何にも言ってないぞ」
「そりゃ酒場ですよ。だいたいのことは酒場で決まる」
別の騎士がそう言って笑った。レインはむすくれた顔をして、鼻から大きく息を吐いた。だから酔っぱらいって嫌いだ。
ふと、回廊のほうが騒々しくなった。振り向けば、午前の会議が終わったらしい閣僚やお付きの官僚が、どやどやと回廊を渡っていくところである。その中で、周囲の群衆から頭一つ分抜きん出た金色の髪を見つけた。明るい庭から見ると影になっている回廊はひどく暗く見えるが、その中でも彼はよく目立つ。そこに陽が差したようだ。容姿もそうだが、堂々とした態度がより一層そう見せるのかもしれない。
「あ、ネメアさーん!」
レインは人目も憚らず声を張り上げて父の名を呼んだ。群衆の中から彼が振り返り、目があったような気がしたのでレインは彼に大きく手を振った。
「で、殿下! レイネート様、どうして陛下をお呼びになるんです」
背後から焦って非難する声が聞こえてきた。振り返ると、騎士たちが慌てて下馬し、居住まいを正すところである。
「別に呼びつけたわけじゃ……」
レインは否定したが、騎士たちは聞く耳も持たずに整列し、その場に跪いた。頭を垂れている。
騎士たちが跪拝の姿勢から動かなくなってしまったので、彼女はしょうがなくもう一度回廊のほうを振り返った。そして、ぎょっとした。目に入ったのは波打つ長い金髪がなびく姿だった。ネメアが長い脚で大股に、小走りにこちらにやって来ている。フットワークの軽い人だと思っていたが、ここまでとは思わなかった。
「ごめん、来ちゃった」
自分の後ろに控えた騎士たちに小声で謝ったころには、ネメアはもうレインの目前にいた。少し乱れた息をすぐに整えて、彼は青い目で自分の娘を見下ろし、
「どうした。何かあったか」
と、低い声で尋ねてきた。レインはバツが悪くて、引きつったように笑うしかない。
「あぁ……ごめんなさい。別に何か用事があったわけではないんです。――今、みんなで競馬をやってて。それで、ネメアさんの姿が見えたから、つい声をかけちゃったんです」
「そうか。何事もないのならばよい」
ネメアは頷き、居並ぶ軍馬を見て、競馬か、と小さく呟いた。それから、跪いたままの騎士たちに手を振って、楽にしてよい、と命じた。
騎士たちは号令に従いさっと立ち上がり、いわゆる休めの姿勢を取った。休めとはいうが、別に楽な姿勢ではないことをレインは知っている。
「ネメアさんもやりますか、競馬」
レインは軍馬を一頭引いてきてネメアを促した。ネメアは少し戸惑った様子で、レインを見つめた。彼女の意図するところがわからないといった風である。
その父の様子にレインは、はははっと軽く笑い、大人しくしている軍馬の首をぽんぽんと叩きながらなでた。軍馬はその程度では何も感じていないようで、丸い目でネメアを見ている。
「気晴らしですよ。ずっと椅子に座ってばっかりだと、疲れちゃうでしょう」
「なるほど――まぁ、よかろう」
ネメアは上等な黒の上着を脱いだ。それを近場の騎士に渡すと、代わりにレインから軍馬の手綱を受け取った。騎士たちが居並ぶ中でさっと騎乗すると、袖のカフスボタンを外して、腕まくりをしている。
「ほかに参加する人は?」
レインが腰に手を当てて騎士たちを見回すと、一番近くにいた騎士の一人が、化け物を見るような目で見返してきた。
「無茶言わんでください。無理ですよ」
彼は小さな声の早口で言った。その言葉を肯定するために、他の騎士たちが後ろで小さく頷いている。
じゃあ、私だけね――レインは小さく息を吐いて、軍馬の一頭に騎乗した。
「ネメアさんと一騎打ちかぁ」
スタートラインにネメアと並び立ちながら、レインは彼を見やった。軍馬に乗ると、ネメアはいっそう立派に見える。今日は黒鎧をまとっていないが、ラフなシャツ一枚でもいかにも強そうだ。
「でも競馬は体重が軽いほうが有利ですからね」
ふふん、とレインはわざと余裕たっぷりに、居丈高に鼻を鳴らした。
確かに――ネメアは小さく口角を持ち上げる。
「そうだな。ではハンデを貰わねばなるまい」
「……冗談言わないでください」
さっきの余裕っぷりはどこへやら――レインは苦虫を噛み潰したようなしかめっ面を浮かべる。ネメアはそれを見て、ふふふ、と愉快そうに笑った。
コースは中庭をぐるりと一周するだけの簡単なものである。スタートラインもどきのロープを騎士二人が持ち、もう一人の騎士が旗を持った右手を振り上げた。一拍置かれた後、スタートの号令とともに旗が振り下ろされた。レインが軍馬の腹を蹴ったのは、それとほぼ同時である。二頭の黒い軍馬はほとんど同時にスタートを切った。
軍馬の黒く鋭い爪が、中庭の下生えをえぐって黒い土をむき出しにする。最初こそ二頭の軍馬は並んでいたが、すぐに差が出始めた。
レインは自分の前を走るネメアが、鞍から腰を浮かせているのに気がついた。四足の馬でも馬上ではかなり揺れるが、ましてや軍馬は二本足である。立って乗れるような代物ではない。
だが、ネメアのように腰を浮かせていれば、腰を下ろしているより前傾姿勢になれる。馬はよく走るだろう――というのは理解できるが、自分が今すぐ真似できるかというとできるわけがない。ネメアは鐙から足を離して膝を折り曲げ、大腿で軍馬の体を締め付けて乗っている。一朝一夕の技ではない。
結局順位は変わらず、先にスタート地点に戻ったのはネメアだった。騎士たちはもう大盛りあがりだ。手を叩いて歓声を上げ、主君の勝利を祝った。
レインはそれよりかなり遅れてゴールした。彼女の健闘を称えるものはおらず、女性騎士が一人やってきて、災難でしたね、と苦笑した。それにため息で応じながら、レインは上がった息を整えた。
馬上からむすくれた顔をしてネメアを睨むと、彼は青い目を細めてレインを見やった。
「ずるい。何ですか、あの乗り方」
「騎士には不要な乗り方だ。真似するなよ」
ネメアは下馬しながらそう応じた。レインに対する注意というより、周りの騎士たちに対しての物言いだった。だが、騎士たちの反応を見る限り、無駄なことだと思われた。彼らは先程見た新しい乗馬の仕方を試したくてウズウズしていたからだ。
ネメアは上着を受け取って、レインが下馬するのを待った。それから、娘を促して中庭を回廊の方へと歩き始めた。
春の中庭は日差しがよく届いて、手入れされた花木が鮮やかに茂っている。春の風はまだ冷たく、しかし日差しは暖かく、乗馬で温まった体に心地よかった。二人分のブーツが下草を踏むサクサクという小気味よい音を、非番の騎士たちがはしゃぐ声がかき消した。早速、ネメアがやって見せたあの乗り方を試しているのだ。
背後にちらりと視線をやって、
「騎馬に求められるのは突進力や機動力であって速さではない。あの乗り方は遊牧民のものだ。速さは出るが安定しないし、何より武器が振れない」
だからお前が知らないのも当然だ、とネメアは言った。
「でも、何でネメアさんが遊牧民の乗り方なんて知ってるんです?」
レインは思わず足を止めて父を見上げた。半歩ほど先に行ったネメアも足を止めて、レインに向き合った。中庭を囲う高い城壁を越えて、春風が吹き込んでくる。その冷たい風に長い金髪をなぶらせながら、ネメアは口を開いた。
「……昔、遊牧民の友人がいて、そいつに乗り方を教わった」
彼は懐かしそうに眇めた目で娘を見下ろした。レインの方を向いていながら、どこか彼女の知らない場所を見ているような目だった。
「馬に乗るのが上手なやつでな。そいつと何度も競馬をやったが、一度も勝てなかった」
「ええっ、ネメアさんがですか」
レインは信じられないと、灰がかった大きな青い目をさらに大きくして我が父を見つめた。レインにとって父は常勝の男であり、それがいかに幼い頃であってもそう変わらないだろうと思っていたからだ。
娘の態度を見て、ネメアは小さく笑って歩き始めた。後ろから少し遅れてレインがついて来るのを確認して、森に馬はいない、とネメアはおかしそうに続けた。
「馬に乗るのは、むしろ――苦手だった」
だが、そいつが教えてくれたのだ、とネメアは続けた。
「速い馬の乗り方を。乗馬の楽しさをな」
「じゃあ、私にも教えて下さいよ。その速い乗り方」
「お前には不要だと言っただろう」
「必要です。私、ずっと勝てないじゃないですか!」
ずるい!――食い下がったレインに対して、ネメアはにやりと片方の口角を上げた。
「負けると悔しいからな」
◇ひとこと◇
『驟雨』で出てきた遊牧民の子供たちの話です。