エストからの手紙

 アトレイアを離宮まで送っていったあと、レインはその足で貴族街にあるリューガ邸を訪ねた。幸いにして、リューガの門衛はレインのことを覚えていた。
 邸宅の中は朝の支度で忙しいようであったが、レインを丁重にもてなしてくれたのは、あの執事のセバスチャンだった。彼は、レインが朝食を取っていないことを知るや、すぐさま家の者に命じて一人分を余計に用意させた。
 朝食の準備が整うまで、彼の入れてくれた茶を堪能していると、食堂にこの屋敷の主が現れた。彼はレインを見るなり、相変わらずの青白い顔を歪ませ、食堂の入り口のあたりで足を止めた。
「どうも、レムオン卿」
 レインが皮肉めいた挨拶をよこすと、レムオンはしかつめらしい顔を崩さずに、食卓へ歩み寄ってきた。主人がいつも座る席――食卓の中でもっとも上座に位置する場所――の椅子を、優秀な執事が引いて迎える。そこに腰かけて、レムオンはようやくレインを見やった。
「何をしている」
「エストと待ち合わせをしている」
 弟の名前が出たので、レムオンの表情が一瞬、緩んだ。この冷血漢も、弟には甘いらしい。
 食卓に朝食が運ばれてきた。焼きたてのパンに、卵、ハムとチーズ、芳しいスープと、給仕がいちいち取り分けてくれる。
「その格好も、エストに関係しているのか」
 レインは一瞬、自分の腕を見やった。男物の麻のシャツである。それから、ここぞとばかりにバターをたっぷり塗ったパンをちぎって、口の中に放り込む。
「ちょっと、色々あって。今はディンガルに追われる身だ」
 聞いている、とレムオンは頷いた。彼はなれた手つきで膝の上にナプキンを広げると、エッグスタンドにきちんと収められたゆで卵の殻を、スプーンの背で割り始める。
 レインはそれを見て顔をしかめた。あれ、黄身しか食わないんだぜ、と誰にともなく胸中で呟く。レインなどは全部殻をむいて、そのまま塩で食べたり、薄くスライスしてサンドイッチの中身にしたりする。せめて、白身も食う。
 貴族の所作は好みじゃない、とレインはため息をついた。
「朝っぱらから、そのようなため息をつくものではない。品のない」
 あんたのせいだろ、とレインはむっとする。
「すいませんねぇ、何せこっちは野育ちなもので」
「今はかまわんが、ロクサーヌであるときにそのような態度を取るなよ」
「二度とあんな格好するか」
 レインはあの窮屈なコルセットの感覚を思い出した。あのころよりも大きくなった体であんなものをつけたら、今度こそ本当に死んでしまうかもしれない。
 おや、しないのですか、と頭上から声が降ってきた。振り仰ぐと、セバスチャンがレインの空いたグラスに果汁を注いでくれている。
「せっかく、新しくドレスをお作りしようかと、楽しみにしておりましたのに」
「いや、いい。本当にいい。結構です」
 青い顔をして身を引くレインの耳に、まったく……、と呆れたようなレムオンの呟きが聞こえた。
「どうしてうちの弟妹はこうも着るものに頓着がないのだ。お前はもちろんだが、エストもエストだ。なぜ、あのようなぼろを着たがるのだろう」
 レムオンは、信じられない、と憮然とした。青白い面をしかめている。
 ぼろ?――レインは耳を疑った。エストが普段から着ている服を思い出す。青い上着の、上等なものである。正直言って、レインから見れば立派な服装すぎる。あれで、よく辺境の奥地へと足を踏み入れるものだ。
 レムオンはなおもぐちぐち言っているが、いかにも弟を心配する兄らしい顔をしている。レインは思わず瞠目した。
 すると、レムオンが今度はこちらを睨みつけてくる。
「お前もお前だ。ロストールに帰っているなら、顔でも見せればよかろう」
「……屋敷に近づくなと言ったのはあんただろうに」
 ばれるのが面倒だから屋敷に近寄るな、と言った割には、レインがロストールに寄るたびに屋敷のものが迎えに来るのはどういう了見だろう。ディンガルに仕官してからはロストールに立ち寄らなくなったために、疎遠にはなっていたが。
 限度というものがある、とレムオンはまなじりをきつくした。
「冒険者レイネートがどこで野垂れ死にしようと、俺は一向に構わん。だが、それはロクサーヌの死を意味する。お前のようなでかい女をよそから捜してくるのは骨が折れる」
「うるさいな、そっちがそのでかい女を勝手に妹に仕立て上げたんだろう」
 レインが噛み付くように反論すると、セバスチャンがくすくすと笑った。訝しげに頭上を見やると、ひょろりと背の高い有能な執事が、口もとを隠すようにして愉快そうにしている。
「このように賑やかな食卓は、久々でございます」
 レインもレムオンも毒気を抜かれて、顔を見合わせた。両者とも、何ともいえないバツの悪い顔をしている。
「……俺もまだまだ甘いな」
 レムオンがため息とともに呟いたときだ。使用人の一人が、食堂に入ってきた。何やら、手紙を持っているようだ。
「エスト様から、お手紙が届いております」
 手紙?――レインは眉を跳ね上げる。なぜ本人が来ない。たまたま、屋敷に出した手紙が先に着いたのか、それとも――。
 手紙を受け取ったレムオンは、豪華な意匠の施されたレターナイフでその封を切った。それから、手紙を一読し、しかめ面を浮かべる。
「これは、お前に渡したほうがよかろうな」
 レムオンはレインに手紙を差し出した。それを受け取って、文面に目を落とす。

『――それから、もしかしたら、屋敷にレインが僕を訪ねに来るかもしれません。そしたら、ロセンの北にある地下墓地に向かったと、お伝えしてください。どうしても、そこの調査に行きたいのです。どうぞ、よろしくお願いします。

エスト』

 レインは弾かれたように立ち上がった。がたんっと椅子が音を立てる。
 何か――小言だろう――言いかけたレムオンは、レインの形相にぎょっとして口をつぐんだ。
「ダメだ。ロセンはダメだ」
 レインは焦って、レムオンに詰め寄った。どういうことだ、とエストの兄はレインを見上げる。
「ロセンは帝国領だ。エストが動けば目立つ。特に今は――獅子帝が動く」
 レムオンが顔をしかめて立ち上がった。事情のすべてを飲み込んだわけではないだろうが、どうやら、のっぴきならない状態であることはわかってもらえたのだろう。
「今すぐ、ロセンへ向かう。馬を貸してくれ」
 レインはまず屋敷を出て、宿を引き払った。装備を整え、荷物を負ってリューガ邸に戻ると、セバスチャンが一頭の立派な馬を用意して待ってくれていた。その傍にしかめ面を浮かべたレムオンが立っている。
 騎乗したレインを見上げて、レムオンは兄らしい顔をした。
「エストを頼む。――まったく、お前のほうがあれより年下であるのに、頼りになるとは」
 渋面を浮かべるレムオンに、レインは苦笑を浮かべた。この男にこんな顔をさせるのは、あの弟以外にいないだろうな、と。
「必ず無事につれて戻る」
 告げて、レインは馬の腹を蹴った。

 
 昨夜からまったく寝ていないレインであったが、とにかく今は時間が惜しい。あの手紙がいつどこで出されたものかはわからなかったが、手紙が出された時点でロセンに向かったとするなら、レインのほうが出遅れているのは明らかである。
 レインは夢中で馬を駆った。ロストールからリベルダムへ向かう街道を、馬がへたばるまでかっ飛ばした。こうやってこの街道を走るのは、四人の巫女がさらわれたと知ったあのとき以来である。あの時は、心強い三人の道連れがいたが、今はレイン一人だ。
 三日をかけて街道を駆け抜けたレインは、ついに力尽きた馬を引いて徒歩でリベルダムへと入った。
 この三日間、レインはほとんど寝ていなかった。意識が朦朧としてくる。砂漠からの熱風が、夏のぎらつく太陽光とあいまって、体力を奪った。レインは我慢できずに、羽織っていた外套を脱いだ。リベルダムのような賞金稼ぎがうろうろしている町で顔をさらすのは危険であったが、この暑さではしょうがない。
 レインは馬を預けるために、ひとまずギルドや商店の立ち並ぶ通りへと向かった。宿屋で馬小屋を借りるつもりなのである。宿に泊まるつもりはなかった。どうせ、次は船旅だ。船の中で存分に眠れる。
 昼前の大通りは、人でごった返していた。その、人の群れを避けながらレインは通りをずんずん進んだ。そのときだ。
「待て、そこの冒険者」
 大通りを行く人々が振り返る。だが、レインは足を止めなかった。冒険者なんていくらでもいる。まさか呼び止められたのが自分だとは思わなかったし、何よりレインは今、これからの旅程を考えている最中であった。
「待てと言っている。『勇猛なる稲妻』!」
 えっ、とレインはそこで初めて背後を振り返った。見れば人の群れが割れるようにして、通りに隙間を作っている。足を止めて振り返って固まるレインの周囲から、群集がそろそろと離れていった。
 レインを呼び止めたのは初老の男だった。いささか頭髪の寂しくなった頭の、でっぷりと太った男で、背の低さもあいまって何だか丸い。上等な仕立ての服を着ているが、お世辞にもオシャレとはいい難かった。
 男の隣には、こちらも立派な仕立てのドレスに身を包んだ、すらりとした美女が立っている。器量はいいが、どうにも気の強そうな娘であった。赤みの強い茶色の瞳でレインを睨みつけている。後ろに控えたお付きの男が、慇懃無礼に日差しよけの傘を差していた。
 彼らの背後にはリベルダムの自警団らしい武装集団がいて、彼らは観衆を通りの隅に追いやりながら、レインを取り囲んだ。
 レインは自分を取り囲んだ自警団をゆっくりと睥睨して、最後に自分を呼び止めた男のほうを見やった。
「……何か?」
 思った以上に、掠れたような低い声が出た。男のほうへ向き直ったレインに、自警団が身構える。
「『稲妻』のレイネートですわね。あなたに市民ロティ=クロイス殺害の容疑がかかっています。神妙に投降なさい」
 言ったのは女のほうであった。女は憎々しげな視線をこちらへと向けている。何か恨まれているらしいが、女の顔に見覚えなどなかった。
「心当たりがない」
 レインは正直に言った。レインは今、一刻を争っている。このような連中にかかずらっている暇はなかった。苛立ちが募る。
 いいや、と今度はずんぐりとした男のほうが、レインに短くて太い指を突きつけてきた。
「わしは見たぞ。確かに、この女――『稲妻』のレイネートだった。この女が、クロイス邸に毒入りのワインを届けるのを見た」
「知らん」
 レインはイライラしながら頭を振った。それから、ふと思い出した。そういえば、ウルカーンからエルズへ向かうためにリベルダムを経由したとき、妙な荷物をクロイス邸へと届けた。あれか――。
 くそっ、案の定、妙なことに巻き込まれた。
 レインは内心、舌を打った。
「確かに荷物は届けた。だが、中身が何かなど知らない。私より先にギルドに問い合わせるべきではないか?」
「言い訳は牢獄で聞くわ。――絶対に許さない。わたくしの父を殺した罪は、重いわ」
 女が白い指を突きつけて言った。どうやら、この女はクロイスの娘らしい。
 自警団が抜き身の剣をぶら下げて、レインとの距離を詰めてくる。観衆が剣呑な空気に息を飲んだ。レインは携えていた槍を、大きく振り回した。穂先が風を切る音がする。手の中でくるりと回し、石突で石畳を叩く。豪快な音とともに、石畳がひび割れた。
「いわれのないことで捕まるつもりはない」
 自警団を睥睨すると、彼らは気圧されたように後退りはじめる。レインはひどくイラついていたし、少々機嫌が悪かった。今、彼らと戦ったとして、手加減できるかはわからない。
 レインの怒気にその場の空気が飲まれ始めた。ただ例のずんぐりした男だけが、早く捕らえろ、と空気を読まずに喚いている。そのときだ。
「いやぁ、こら大捕り物だな」
 頭上の高いところからのん気な声が聞こえて、レインはそちらを振り仰いだ。見れば、すぐ後ろの酒場の二階の窓から、見覚えのある男が顔を覗かせている。ゼネテスであった。ブルネットの短い髪が寝癖であちらこちらに跳ねている。
 しかしまぁ、と彼は無精ひげの生えた顎を指でかきながら、濃い茶色の目を眇めた。
「『稲妻』のレイネートといやぁ、若い女と聞いていたが、一見じゃあ男にしか見えんな。おい、あんた、本当にクロイスを殺したのがこいつだったのかい?」
 ずんぐりした男が慌てたように声を張り上げる。
「た、確かにこいつだった。男か女かは知らんが。こいつも認めたじゃないか、毒入りのワインを――」
「私はあのとき、頭から外套を被っていたな。あんた、よほど近くで見てたんだな」
 顔を覗き込まなければ、私だとはわからなかっただろう――レインが言うと、ゼネテスがそれに続いた。
「ほぉ~お、そんな近くで見てたわけだ。そんで? 毒入りのワインが届けられたのを、そんな近くにいたあんたは咎めもせずに、ぼんやり見てたわけだ。ほぉ~お」
 男の顔色が変わる。寂しい頭頂部から体温調節のためではない汗が、だらりと垂れた。
「ち、近くで見ていたわけではない。わしの屋敷の窓から、こいつ――と同じような背格好のやつが、毒入りのワインを確かに届けていたのだ」
 ふーん、とゼネテスが言った。
「そんな遠くから見てたのに、よくそいつが届けた荷物が毒入りワインだとわかったな。別の奴が届けた荷物かも知れんし、クロイスが自分で購入したかも知れん。それなのに、こいつが届けた荷物が死因のワインだとわかった根拠は何だ」
「言っておくが、私が届けた荷物は中身が外から見えないようになっていた。私自身も中身が何かは知らん。だから、ギルドに問い合わせろと言っているんだ」
 ずんぐりとした男は呻くように口をつぐんだ。クロイスの娘はじっとレインを睨んだ後、高慢ちきな態度でふんっと鼻を鳴らした。
「確かに、調べる余地はありそうね。けれど、覚えていらっしゃい。冒険者ぶぜいが、このクリュセイス=クロイスにたて突こうだなんて、身の程を教えて差し上げるわ」
 レインは何も言わず女を見つめた。何だ、こいつ、という顔になる。おそらく、本来であればレインとは絶対に関わり合わない類の人種である。
 二人は自警団を引き連れて、大通りを去った。ようやく、喧騒が戻ってくる。
 レインはゼネテスがいる酒場の丁稚を捕まえて、小銭を握らせると、ひとまずの馬の世話を頼んだ。それから、店内でボトルワインを二本購入した。足早に二階への階段を上がると、その途中で商売女とすれ違った。甘い香水の匂いがする。すれ違いざまに、女は意味ありげな流し目を送ってきた。
 女を無視して、ゼネテスが顔を出していた部屋のドアを乱暴に叩くと、中からのん気な返事が聞こえてきた。ドアを開けると、先ほどすれ違った女と同じ甘い香水の匂いが鼻についた。なるほど、とレインは女の流し目の意味を知った。
 ゼネテスはたくましい上半身をさらして、下穿き一枚の状態で窓辺の出っ張りに腰かけていた。ベランダの手すりに左腕をもたれて、よぉ、とヘラヘラ笑った。
 レインはボトルワインを部屋の真ん中にある、丸いテーブルに置いた。それから息をついて、
「すまん、助かった」
 と言った。
「ああいう、難癖を付けられるとは、お前さんらしくない失態だな」
「まぁ、ちょっと……色々あったんだ」
 説明するのが面倒くさいのと、バツが悪いので、そんな誤魔化しにもならない言い訳をする。そんなレインに、ゼネテスはにやりと笑った。
「知ってるぜ。ディンガルで色々やったんだろ。――俺は『稲妻』に賭けてるからな、しっかり逃げ切ってくれや」
 レインはため息をついた。お前もか、と思ったが、今、それで言い合っている暇はない。
「ゼネテス、迷惑ついでに頼まれてくれ。馬を預かって欲しい。借り物で、売れないんだ」
 いいぜ、と言いながらゼネテスは窓から首を突き出して、下に停めてある馬を確認する。
「すまん、詳しい事情は帰ってから説明する。今からロセンに行かなきゃいけないんだ」
 ゼネテスは肩をすくめた。
「そりゃかまわんが、一つ忠告しておく。さっきの、ゲスっぽいおっさんがいただろう」
 ゲスっぽい、とはなかなか言いえて妙である。レインは苦笑した。
「ありゃあ、アンティノ=マモンだ。リベルダムの豪商でな。裏でかなり汚いことをやってる。妙なのに目を付けられたな。気をつけな」
 あれがアンティノか、とレインは口の中で呟いた。例の、アーギルシャイアとつながっていると思しき、アンティノ商会の頭取だろう。確かに、妙なのと接点ができてしまった。
「気をつけよう」
 と言って、レインはゼネテスに馬を預け、ロセン行きの船に乗った。

 
 ロセンは帝国領である。レインは外套の頭巾を深く被り、まず、冒険者ギルドと酒場を回った。エストのことを何か知っている者がいないかと思ったのである。
「そういえば……」
 ギルドの親仁が言った。レインはあまり、ロセンのギルドになじみがない。一、二度寄ったことはあるが、ほとんど利用したことがなかった。ギルドの規模も小さく、依頼の紙もまばらであった。
「あんたみたいに、エスト博士の行方を聞いてきた金髪の男がいたよ」
「金髪の男?」
 レインは一瞬、ひやりとした。しかし、もしそれがネメアであったなら、このギルドの親仁は、獅子帝が来た、と言ったに違いない。ロセンの町でも、皇帝自ら町に入ったという噂は聞かなかった。
 ネメアではない。誰だ?
「エルフだったよ」
 レインには心当たりがなかった。ネメアの親衛隊の近衛には様々な種族がいるが――ボルダン、ドワーフ、ダークエルフである――金髪のエルフなどいなかったはずだ。あるいは、ディンガル軍の斥候であるかと思ったが、さすがに様々な種族が入り乱れるかの軍であっても、エルフは見かけなかった。
 雇われたか、別口か――とにかく、誰かがエストを探している。彼を早く保護しなければならない。
 レインは町を出て、北に向かった。ロセンの北には森と丘陵地帯が広がっており、地下墓地と呼ばれるその遺跡は、その丘陵の一つに埋もれるようにしてあった。狭い入り口と、暗い通路の先には、明らかに人外の怪物の気配がある。
 幸いにして、通路はレインが槍を振るうのには問題なさそうである。充分に広い。入り口が狭いのは、丘陵に埋まりつつあるからなのかもしれない。
 魔法ランプの明かりを強くして、レインは遺跡内に侵入した。ふと、足元を見る。石畳の上に砂埃がたまっている。そこに、複数人の足跡が残っている。
 新しいな……、とレインはその足跡の一つひとつを確認した。足跡には小さなものが多い。レインの足を超える大きさのものは一つだけだ。歩幅も広くない。ネメアたちではない。
 レインは先に進んだ。地下墓地に来るのは初めてではないが、道を熟知しているというほどでもない。そもそも、エストがこの遺跡のどこにいるかわからないのだ。
 遺跡には怪物の姿があったが、それらも強敵というほどではない。一人でも何とかなる程度のものだ。打ち倒しながら、あるいはやり過ごしながら、レインは先へと進んだ。やがて、奥のほうから人が争うような声が聞こえてきた。複雑に曲がりくねった通路を反響して、聞こえてくるようだ。
 レインはその声をたどった。そして、たどり着いたのは巨大な空間であった。高い天井に声が反響している。周囲はすり鉢状に段々になっていて、その段一つひとつに細かい文様が描かれている。段の上面に一定間隔で魔法の明かりが灯されており、広間内はかなり明るい。段についた溝のようにして、下へ降りる階段があった。
 レインはその細かい階段を段飛ばしに、素早く駆け下りた。
「誰だっ」
 神経質そうな男の声が、広間の高い天井にこだました。レインは思わず、階段の半ばで足を止めた。
「レイン、さん……?」
「ノエル」
 階段の終点は少し広めの空間になっている。石畳の床の真ん中に祭壇のようなものがあって、そこに石棺のような箱が置いてあった。どうやら、ここは玄室らしい。石棺を挟んで、エストと、ノエルのパーティーが対峙しているのである。
 金髪のエルフとは、ナーシェスのことか――レインはノエルたちの後方に控えたエルフの神官を見やった。しかし、なぜノエルたちがエストを追う必要があるというのだ。
「どういうことだ。なぜ、ノエルたちが……」
 足早に階段を下りきって、レインはエストのほうへ向かった。油断なくノエルたち――というよりナーシェス――を注視しながら、エストを背で庇うようにする。
「わかっただろう、ノエル」
 ナーシェスが言った。
「レイネートは闇に落ちた。殺せ。あの女が庇う後ろの魔道士も同罪だ」
「ナーシェス!」
 ノエルの悲鳴のような声が玄室中に反響した。こだまが残る。
 レインの後ろに庇われたエストが、小声で状況を説明してくる。
「ここで調査していたら、いきなり、闇の神器を渡せと言われて」
 レインはノエルを見つめる。ノエルは、琥珀色の瞳を動揺で揺らしていた。わかってはいたが、ノエルが言い出したことではないようだ。
 レインは、続いて、ナーシェスを見据えた。深い緑の瞳が、冷たく輝いている。
「闇に落ちている自覚はない。どういう意味か教えてくれないか」
「闇の神器を集めているな」
 こいつはなぜ、そんなことを知っているんだ、とレインは目を眇めた。獅子帝が闇の神器を求めているのは、大方の者が知っている。ネメアもそれを隠そうとはしていない。だが、レインがネメアと敵対してまで闇の神器を求めていることは、あの日、猫屋敷にいた者だけしか知らないはずだ。
 なぜ、こいつが――?
「集めているだけで闇に落ちたことになるなら、落ちてるな」
 だが、人には事情というものがある、とレインは言った。
「どのような事情が?」
「……そちらの事情は? 闇の神器を求めることが闇に落ちていることに直結するなら、そっちだって同罪だと思うけど」
「君のような闇の手のものに、それを渡すことはできん」
 ナーシェスの口ぶりは尊大であった。レインはじっと、この居丈高なエルフを観察する。
「なるほど」
「で、君のいう事情というのは?」
 レインは少しばかり考えた。
「言えない。だが、破壊神の復活には興味がない、とだけ言っておこう」
 ナーシェスはエルフ特有の、細くて華奢な指をレインに突きつけた。
「聞いただろう、ノエル。この女は人に言えない事情で闇の神器を求めている」
 ノエルは揺れる瞳でレインを見上げた。カフィンとレイヴンは、後ろに控えて何も言わない。ただ、ノエルを心配そうに見つめている。
 あの……、とノエルが口を開いたときだ。レインははっと、通路につながる入り口のほうを見上げた。ナーシェス、レイヴン、そしてカフィンも、レインと同じように通路のほうを見ている。エストとノエルだけが、きょとんとしていた。
 レイヴンがさっと身をかがめて、床に耳をつけた。
「え、レイヴン?」
「しっ」
 レイヴンを訝しげに見下ろしたノエルに、カフィンが紅く塗った唇に人差し指を乗せる。
 剣戟の音がする、とレイヴンがノエルに説明した。
「この音は、長柄だろう。数は一人……走り方からして男……歩幅が広い。かなり背が高いな。ボルダンか……いや、甲冑の音がしている」
 レイヴンが立ち上がった。暗い灰色の瞳でレインを見据えてくる。その視線が何か言いたげだ。
 自らの肉体こそが最高の防具であるとしているボルダン族は、防具というものに重きを置いていない。急所を守る程度の防具はつけるが、甲冑を着けるというのは彼らの美学に反するのだ。
「獅子帝だろう。――エスト、目立ちすぎたな」
 肩越しにちらりと、白面の博士を覗き見ると、申し訳なさそうな顔でレインを見上げている。
「私はエストを連れて逃げる。申し訳ないけど、あの人と戦うのはごめんこうむる。……疲れるし」
「……まるで、戦ったことがあるような口ぶりだな」
 レイヴンの言葉に、カフィンがはっとしてこちらに注目した。だが、レインは肩をすくめただけで、明確な返事をしなかった。
「行ってください、レインさん」
 ノエルが一歩、石棺に近づいた。いつか見たような、可愛らしい笑顔を浮かべている。
 琥珀色の美しい瞳がレインを見据えたとき、思わずはっと息を呑んだ。そのアンバーのような丸い瞳の奥に、大きな光が宿っている気がした。何か、とてつもない可能性のようなものが――。
「竜王様のご意志にそむくつもりか」
 ナーシェスが硬い声を出した。
 足音と、剣戟音と、爆音が聞こえる。恐らく、襲い掛かる怪物のことごとくをなぎ倒しながら、こちらに向かってきている。迷いがない。ここにいることが気づかれている。
 しかし、退くことを知らん人だ、とレインは息をついた。
 ノエルは切りそろえた明るい茶髪を揺らしながら、頭を振った。
「私、レインさんは闇に落ちていないと思う」
 レインさん、とノエルはレインに向き直った。
「どうぞ、行ってください。私たち、時間を稼ぎます」
 そう言ったノエルの後ろで、レイヴンが顔をしかめている。カフィンが、やれやれ、というようなため息をついた。ナーシェスは無表情な、白い顔をしていた。
「では、そうさせてもらう。私が神器を持って逃げたといえば、獅子帝は退くだろう。戦う必要はない。いいね、絶対に戦うんじゃないよ」
 レインはノエルに念を押して、エストの肩を抱いた。素早く呪言を唱える。
「エスケープだ!」

 
 ネメアが玄室に踏み込んだのは、レインが残した魔道力の残滓が、虚空に消え去った後のことであった。こうなってしまうと、卓越した魔道士しか後を追えない。
 ネメアは最上段に立ち、階下にいる者たちを睥睨した。いるのは若い冒険者たちである。
 レインの声が聞こえたと思ったが……、とネメアは視線をくまなく玄室中に送った。あの娘の気配はない。入り口にあった、大股の女らしき足跡はレインのものだと思ったが――。
「エスト=リューガ博士を探している」
 知らないか、とネメアが鷹揚に階段を下りていくと、彼らはじりじりと後退した。大剣を背負った少女を、背の高い青年が庇うようにしている。青年の暗い灰色の瞳が、恐怖に揺れていた。
 あの、と庇われている少女が言った。子犬のような、丸い目をした少女である。どこかその琥珀色の輝きに、大きな可能性を感じさせる娘だった。
「エスト博士でしたら、もうここには居られません。出て行かれたようです。私たちは、その、ギルドの依頼で来ただけで――」
「『稲妻』が来ていただろう」
 ネメアが言うと、少女は言葉に詰まったように、一瞬、身を引いた。あちらに緊張が走る。ネメアは足を止めた。これ以上、間合いを詰めると交戦する。殲滅するのは容易いが、その必要も感じなかった。
「し、知りません。そんな人――」
「ノエル……」
 どうやら、少女はレインを庇っているらしい。だが、それではレインがここにいたことを白状しているも同然だ。少女を庇う青年が困ったように彼女を咎めた。ダルケニスらしき女が、額に手を当てている。エルフのほうは何を考えているやら、白い面を無表情に保っていた。
 なるほど、とネメアは頷いた。思わず、声を漏らして笑った。
「一歩遅かったようだな。してやられた。今から『稲妻』を追うのは億劫だ。退散するとしよう」
 そう笑ったネメアに、例の少女がきょとんとした。
「あの、何だか……楽しそうですね」
 ネメアは彼らに無防備に背を向けると、肩越しに振り返って小さく笑った。
「ウサギ追いは楽しいものだ。それでは、失礼する」

 
 獅子帝の黒い甲冑の背中が、魔法によって消えた後、ノエルは首を傾げた。レイヴンなどは安堵のため息をついているが、彼女には今ひとつこの緊張感が伝わっていなかったらしい。
「うさぎ……?」
 レインさんがうさぎに見えるのかしら……――ノエルはレインが波打つ黒髪から、白くて長いウサギの耳を生やしているのを想像した。想像の中の憧れの先輩は、むすっとした仏頂面を赤らめている。
 それは、何だかとても可愛いな、とノエルは吹き出して笑った。
 ノエルがあまりに能天気なので、レイヴンとカフィンは顔を見合わせて、げんなりと肩を落としている。
 ただ、ナーシェスだけが、レインが消えた場所を睨み、次いで、笑うノエルを見据えた。竜教徒のエルフは、白い面を無表情にしたまま沈黙している。

 


◇ひとこと◇
 そのウサギ、ウサギはウサギでもヴォーパルバニーですよ。

 

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第40話≫