アーギルシャイア

 手の中の聖杯を、改めて確かめる。どう見てもただの古ぼけたゴブレットだ。こんなもので、どうやって知識を得るのだろうか。
 ふと、顔を上げると、セラの黒玉の瞳と目があった。
「アーギルシャイアより先に手に入れられて、よかったな」
 本物だ、と言うと、セラはすっと聖杯から目をそらした。それからレインの脇を通り過ぎて、山頂に続く山道を進み始める。
 エステルから槍を受け取りながら、レインは聖杯を外套の下に背負った小さな背嚢に収めた。アーギルシャイアがどこかでこれを見ているのなら、確実にこちらを襲ってくるに違いない。
 少し先を行くセラを追うように、山道をさらに登り始めたレインは、それにしても、と思案する。
 偶然だか謀られたのか知らないが、おもしろいように事が進んでいる。セラとの出会いもそうであるが、リベルダムに戻ってきたとたんにアーギルシャイアから接触を図るような手紙を受け取り、聖杯を手に入れた。
 ただの偶然――レインに運が向いてきただけならばそれでいいが、ここに来たのは魔人の罠にあえて乗ったからだ。何か謀られている気がする。
 ……恋愛運を全部こういうところに吸い取られてるとか、そういうことではないだろうな……――と、そんなことを考えて、情けなくなった。思わず深いため息が出る。
「レイン? どうしたの。大丈夫?」
 少し後ろを歩くエステルが、こちらの様子に訝るような顔をして覗き込んでくる。そういえば、前回も彼女に根掘り葉掘り聞かれたのだった。
「いや、何でもない。ちょっと、疲れただけ」
 二度も――しかもなかなかの短期間である――恋に破れたのだと語るのは、少し恥ずかしい気がした。
 レインは深呼吸して背筋を伸ばし、胸を張った。ずいぶんと中天から傾いてきた太陽は、それでもぎらりとした強い光を浴びせている。
 相手は魔人なのだ。腑抜けたことを考えている場合ではない。一瞬でも油断などできる相手ではない。
 集中しなければ、と険しい山道を踏みしめる足に力を込めた。
 虹のかかる最後の釣り橋を渡ると、少し上を向くだけで頂上が望めた。この滝の飛沫がそうさせるのか、とんがった山の頂は、傾く日光を浴びて七色の光輪を背負っているように見えた。
 山頂にいたる最後の滝を背にして、さらに険しくなった道を進む。ここまでくると、もはや道というより障害物のない岩肌、と言ったほうがいい。冒険者が踏みならしたのか、多少道らしいものはあるが、歩きやすいかといわれると否である。むき出しの岩肌は磨耗し、堆積した細かい砂が登山者の足をすくおうとする。斜面は急で、滑り落ちては無事ではすむまい。
 ごうごうと滝が流れ落ちる激しい音が小さくなった――レインたちは足を止めた。
 左手は目もくらむような崖だ。崖下には川が流れているようだが、その音も聞こえてこない。右手には切り立った断崖が壁のように屹立している。そこにまばらに生えた潅木が、風に揺れていた。山道は狭く、派手に立ち回れば崖下に落ちるか、上から落石があるかもしれない。
 そんな山道の中ほどに、黒い衣の異様な風体の男が立っていた。
 木々の枝葉を揺らす滝からの風に、短い茶髪をなぶらせてはいるが、顔が見えない。というのも、黒ずんだ石製の仮面で顔面を覆っていたからだ。
 黒い衣装のいたるところに付いた鎖をじゃらりと鳴らしながら、仮面の男は一歩、セラのほうへと近づいてきた。
「よかった……来てくれたのだな。セラ」
 仮面の下からくぐもった男の声が聞こえる。セラは無言で男を見つめている。
 レインは彼の少し後ろに立ち、槍を構えた。構えはしたが、実際に手出しをしようとは思っていなかった。そういう約束である。
 遠くからかすかに滝の音が聞こえる。谷底から上がってきた突風が、木々を激しく揺らした。強い日光の照り返しに、レインは思わず目を眇めた。
 木々のざわめきを打ち消す剣戟音が、山間に響き渡った。澄んだ響きが、あたりにこだまとなって残響している。
 レインの目を焼くほどの強い日の光を返したのは、二刀の白刃であった。
 ガランッ、と重たい金属音がして、そのうちの一刀が山道の上に転がった。肉厚の刃をした短刀である。鍔のところに凝った意匠がしてあって、それはまるで地平線から昇る朝日のようであった。
「ぐぅぅ……」
 噛み締めた歯の合い間から、こぼれ出るような呻き声がもれる。仮面のサイフォスは膝をついた。右の肘の辺りから腹にかけて、一文字に黒い衣が裂けている。その衣の隙間から肉がむき出しになり、鮮血が滴っていた。
「操られているとはいえ、ロイならば、もっとマシな態度を取ってもらいたいものだ」
 セラは言いながら、傷を押さえて膝をつくサイフォスに歩み寄った。もちろん、警戒は解いていない。傷に苦しむ彼の顔を隠す仮面に手を伸ばす――。
 とたんに、レインの首筋がひどく痛んだ。さっと身をよじった彼女の目の前を、風の刃が切り裂いていった。岩肌が露出した地面が抉れている。
 突然の魔法は横から来た。槍を構えながら左手の崖側に向き直る。崖の端に女が一人立っていた。腰まである長い黒髪を、崖下からの風になびかせた、妖艶な美女であった。胸もとの大きく開いた、黒く艶かしい衣装を身にまとっている。すらりと長い脚が尻の付け根まで見えていた。
 だが、その美しい黒玉のような瞳の奥に、言い知れない赤い炎が燃えている気がした。
 女は青白い顔に苦渋の色をにじませて、ぎろりとセラを睨みつけた。
「親友にも心を開かないのね……嫌になるわ。人の奴隷に手を出さないでちょうだい」
 アーギルシャイアは言いながら、下僕とセラの間に立ちはだかるようにした。跪いたままのサイフォスが、呻くように主の名を呼ぶ。セラにつけられた傷は深い。流れ出た血が仮面の男の足もとに溜まっている。
「いい加減、大人になって、セラ。私はいつまでも、あなたのお守りはしていられないの」
「黙れ。姉の体を返してもらうぞ」
 青白い顔をした女魔人は、赤い唇を歪めて笑った。自らの体を自分で抱くように、白い肌に手を這わせる。男を褥に誘うような、蠱惑的なしぐさだった。
「いいわよ。どうぞ。切れるものなら切ってごらんなさい。この美しい姉の体を、あなたに切れるかしら」
 セラが握る妖刀が、その白刃に燐光をまとい始めた。日の光の中に青白い軌跡を描いて、刃が閃く。
 レインの目には、『月光』の刃がアーギルシャイアを引き裂いたように見えた。事実、たたらを踏んで後退した彼女は、月光の刃で切られた左肩の辺りを押さえて、苦しそうにしている。しかし、不思議なことに血は一滴たりとも出ていない。どころか、露出した肌にさえ、傷は見当たらなかった。
 だが、アーギルシャイアは艶やかな黒髪を振り乱し、セラに向けた顔は血の気をなくして真っ青だ。
「おのれ……貴様何をした」
 美しい瞳を血走らせながら、憎々しげに吐き捨てた魔人を、セラは鼻で笑う。
「ずいぶんと余裕がなさそうだな、アーギルシャイア」
「だから人間って嫌いなのよ……どいつもこいつも、弱いくせに悪知恵ばかり働いて――」
 アーギルシャイアは人間に対する怨嗟をぶつぶつと呟いた。黒いブーツに覆われた脚が、ふらついたようにわずかに後退する。
 その瞬間を逃すものかとばかりに『月光』が追った。
「アーギルシャイア様っ」
 仮面の下で悲鳴が上がった。黒衣の男が地面に転がった短剣に手を伸ばす。動いた拍子に、切られた腹から鮮血が散った。
「エステル、レーグから離れるな」
 言うなり、レインは構えた槍を男に向かって振り下ろす。しなった槍の柄がサイフォスの右肩を殴打した。骨が砕けた感触がある。
 返す形で振り上げた石突が男の顎を砕いた。のけぞるようにしてサイフォスが倒れ伏す。
「貴様っ!」
 『月光』の刃をかわした女魔人が、レインに向かって飛び掛ってきた。振り下ろしかけた槍を、別の方向から伸びてきた手が留める。
「よせっ」
 レインが自分の得物を押しとどめた手の主の、黒玉のような瞳を覗き込んだときだった。まばゆい光とともに自分のすぐ間近で空気が爆発した。
 爆風に吹き飛ばされ、固い岩盤の上に転がる。耳鳴りに重なるように、遠くで友人の悲鳴が聞こえた。
 ふらつく頭を揺さぶりながら身を起こすと、セラも同じような状態である。目が合うと、どうにもバツが悪いような、苦々しい顔をしていた。
「すまん」
 吐き捨てるように言った彼に、レインは、いや……と返した。心配げに駆け寄ってきたエステルの手を借りて立ち上がる。背中が軽い。
「まずいぞ。聖杯を奪われた」
 レインの硬い声に、セラの顔が色を失った。

 
 レインには疑問があった。
 アーギルシャイアは何のために聖杯を求めているのか。持つ者に英知を与えるという神器、そして魔人と同じ特徴を持つ魔法生命体の怪物――何をしようとしているのだろう。
 それから――。
「妙に弱っていたな」
 暗くなった虹色の山脈のふもとを駆け抜けながら、レインはぽつりと呟いた。
 アーギルシャイアたちを追うために、レインたちは魔法によって山脈を下り、再びクリュセイスの隠れ家を目指した。アンティノの秘密研究所について、彼女にどうしても教えてもらわねばならない。
 あの状態で、そう遠くにいけるとも思えない。彼女らは必ずどこかに身を寄せるだろう。
 レインの呟きに、すぐ隣を走るセラが黒い視線を向けてくる。
「魔人ってあんなものか? 個人差はあるだろうが、私が以前に見た魔人はもっと恐ろしかったぞ」
 レインはヴァシュタールとバルザーを思い出していた。ネモの話によれば、ヴァシュタールは円卓の騎士の筆頭、バルザーは次席というから、その強さはよくわかる。実際、何もされていなくても目の前にしただけで、恐怖で身がすくんだほどだ。
 けれど、アーギルシャイアはどうだ。崖下から奇襲を仕掛けてあの程度だ。ちょっと強めの魔道士、という印象を拭えない。
 以前にアーギルシャイアに出会ったときは、もっと恐ろしかったように思う。レイン自身が成長した、という事実を考慮しても、アーギルシャイアは魔人と呼ぶにはあまりにも弱々しかった。
 肉体がもともとただの人間である限界か。あるいは、レインたち以外にアーギルシャイアを追い込むような相手がいたか――ネメアならやれるだろうが、果たしてアーギルシャイアが彼と接触を持つようなことをするだろうか、とも思う。
「何にせよ、この機は逃せん」
 セラが言った。彼の言う通りだ。
 隠れ家に戻るなり、レインはクリュセイスに詰め寄った。隠れ家に入ってすぐの広間に大きな古い木製の卓があって、そこに自前の地図を広げる。リベルダム周辺の簡単な地図で、レインが本物の地図を写し取って自作した。自分で書き込んだ癖字が、地図上で躍っている。
 山脈の所々に印がしてあって、その上からバツ印をつけている。クリュセイスに教えてもらったアンティノの秘密研究所の場所で、バツがついているところはレインが調べた『ハズレ』の場所である。
 秘密研究所は複数あるが、アーギルシャイアが根城に選ぶのなら特別な何かがあるはずだ。
「何か思い出せることはないか」
 地図を突きつけて詰問するレインに、クリュセイスは困惑したように眉根を寄せた。
「と、おっしゃられても……わたくし、おじ――アンティノ=マモンの『商品』のことについては何も存じ上げませんの」
「商品のことじゃない。アンティノの行動だ。たとえば――どこかによく行っていたとか、おかしな行動を取っていたとか」
 リベルダムが陥落し、市民のほとんどが投獄か消息不明になってしまった。それに、アンティノ商会は事実上倒産し、研究員も社員も今から探すのは難しい。
 頼れるのはクリュセイスしかいないのだ。
「思い出せ」
 セラが険しい顔で、クリュセイスに詰め寄った。クリュセイスは脅えたような、警戒心むき出しの顔でレインの背後に身を隠す。
「な、何ですの、あなた……」
「クリュセイス、彼は――えーっと、そう、彼のお姉さんが、そのアンティノの秘密研究所に囚われていて、急がないと命が危ういんだ」
 レインは嘘をついた。こういう嘘をつくときには、真実をちょっぴり混ぜるのがよい、ということを旅の中で学んでいる。
「彼のお姉さんは、アンティノの研究所の所員で、研究内容を知っているんだ。そのせいで、アンティノに殺されてしまう」
 アンティノに……、とクリュセイスは呟いて、相変わらず険しい顔をしているセラを見つめた。切羽詰った彼の様子は、肉親を殺されそうになっているように見えなくもない。
 クリュセイスはセラに、アンティノに父親を殺された自分を見るはずだ。弱みに付け込んでいるようで申し訳ない気がするが、緊急事態だ。
 セラから視線を地図へと移して、クリュセイスは眉宇をしかめた。必死で記憶の底をさらっている様子である。
 しばし、沈黙があって、クリュセイスがさっと顔を上げた。
「舟……」
「船?」
 ええ、とクリュセイスは頷きながら、レインを見上げてくる。
「アンティノは舟を持っていたわ」
「……リベルダムの商人なら船ぐらい持ってるだろう。クリュセイスだって、持っていただろう?」
 クリュセイスは長い栗色の髪を揺らしながら、頭を振った。
「そうではありませんわ。船旅ができるような船ではなかったの。そう、漁師が使うような、とても小さな舟を。だから、わたくし、とても不思議で。もっと大きな船をお造りになればよろしいのに、って申し上げた事がありましたの」
「それで?」
「アンティノは確か、大きな船では入り江に入れない、って言ってましたわ」
 入り江?――レインは地図を見やる。クリュセイスの言葉から察するに、沖合いに出られるような船ではない。沿岸漁業に使うような、小さな舟だろう。
 となれば、日帰りで帰って来られるような場所の入り江だ。
「リベルダムの東の岬辺りに、入り組んだ入り江があったな」
「詳しい場所はわかりませんけれど、漁師か船乗りなら知っているかも……」
 クリュセイスの言葉に、レインは地図を片付けて隠れ家を飛び出そうとする。
「また行ってしまいますの?」
 呆れたような、非難するようなクリュセイスの声に、肩越しに振り向きながら、
「すぐ戻る」
 放るように言って、レインは隠れ家を出た。閉まる扉の向こうで、もうっ、とクリュセイスの憤慨したような声がしていた。

 
 再びリベルダムの町に駆け戻り――体力の追いつかないエステルはレーグに担がれていた――港で聞き込みをしつつ、舟を調達したレインたちは、町の東に向けて漕ぎ出した。
 幸いにして、四月の内海は比較的穏やかであった。日が昇らぬうちにリベルダムを出港し、東の岬の辺りに着いた頃には、あたりはすっかり明るくなっていた。
「うぅう、早く見つけないと、酔っちゃいそうだよ」
 陸地の断崖を注意深く見ながら、エステルが情けない声を出した。
 穏やかではあるが、波がないわけではない。小型の舟は波の影響をもろに受けて、ひどく揺れた。
 エステルを除いた三人で漕ぎ手を務めながら、小舟はさらに東へ進んでいった。漁師たちの話では、岬を回った先にそれらしい場所があるという。
 このリベルダム近くの岬は大きく内海に張り出しており、また見上げるような断崖である。崖の下部は波によって大きく抉れ、上側がヤギの角のように曲がって見える。崖の周囲は岩礁地帯が続き、潮の流れも見るからに複雑で、素人では近づけそうになかった。
 岬を大きく迂回しながら進むうち、それに気がついたのはエステルであった。
「あれ、あそこだよ」
 小舟の先端に乗り出したエステルが、目の前の岩場を指差してそう叫んだ。
 レインもそちらを見やったが、あそこだ、と言われても、入り江など見えない。あるのは針山のような岩礁だけだ。
「なぜわかる」
 セラの問いかけに、エステルは彼を振り返りながら、
「だって、あの岩場おかしい。魔法で作ってある」
 地の精霊の干渉を感じる、とエステルは言った。
「さすが、地の巫女!」
 レインが破顔一笑して彼女の肩を叩くと、エステルは照れくさいように、えへへ、と頭巾に覆われた頭をかいた。
「……だが、どうやってあそこまで近づく」
 舵を取るレーグがぼそりと言った。確かに、岩礁が作る複雑な潮の流れは、ここにいる海の素人たちでは太刀打ちできそうにない。
「レインは水の精霊神の祝福を受けてるよね?」
「受けてるけど……。いや、私じゃ無理だ。海の潮の流れを操るなんてとてもできない」
 レインは頭を振った。川の水の一部を操って水柱を上げるのとはわけが違う。潮流を操るなんて想像もつかない。第一、海の水量は人の手に余る。そんなものを操る精神力も、魔道力も、コントロールする力も、レインにはない。
「大丈夫。ボクがやるよ」
 こともなげにエステルが言った。それから、レインの左手を自分の右手と組ませる。
「ちょっとだけ、魔道力を借りるけど」
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。グラジェオンはアキュリュースのために『足跡』を湖にしたんだよ?」
 したんだよ、と言われても、レインには途方もない話でよくわからない。大地と深く結びついたこの娘の目には、世界はどんな風に映っているのだろう。
 集中してね、と言われて、レインは目を閉じた。
 視界が閉ざされれば、自然、聴覚が鋭敏になる。舟が波に揺られてちゃぷちゃぷいった。梶棒を握るレーグがバランスを取るために、それをギィギィいわせている。レインは潮騒に集中した。
 潮騒は血潮の音に似ている。レインは体内に海を感じた。心臓の中に海があるような感覚を覚える。血管の中を海水が駆け巡っていく。これが潮流なのだ、と理解した途端、エステルと組んだ手がひどく熱くなった。
 レインの中の潮の流れが、手の平を通してエステルのほうへと伝わっていく。
 エステルが空いたほうの手をゆっくりと振り上げた。不自然な凪が訪れる。そして、舟は岩礁のほうへと自ら船首を向けた。舵を操っていたレーグが、不思議そうな面持ちで、舵から手を放した。小舟は彼らのコントロールを離れて、自然と岩礁のほうへと進んでいく。
 潮が舟を運んでいるのだ。船底をこするような、海面すれすれに頭がある岩礁も、するりと舟は避けていく。
 やがて、針山のように連なった岩場に船は進んだ。
「レインはそのまま」
 エステルの声は内側から聞こえてくるようであった。体内に海を宿したままのレインを置き去りにして、彼女はすいっと左手を振った。
 するとどうだ。岩山のようだった岩場はぼろぼろと風化したように崩れていく。岩場が隠していたその先には、確かに小さな入り江があった。舟は潮に押されてゆっくりと入り江の白砂の上に乗り上げたのだった。
 もういいよ、というエステルの声と、舟底が浜に乗り上げる振動で、レインははっと目を開けた。途端に、何ともいえない倦怠感が襲ってきた。頭がぼうっとして、全身の毛穴から汗が吹き出る。
「……ちょっとって、言ったじゃないか」
 だいぶ、つらいんだけど――恨めしいような視線を向けたレインに、エステルは悪びれる風もない。
「ごめん、ごめん。でも、着いたよ」
 エステルのアーモンドのような瞳が、白州の先を見つめた。岸壁に穿たれるようにして暗い洞穴が口を開けている。
 ふと、レーグがレインの肩を叩いた。彼を振り向くと、無言で顎をしゃくる。示されたほうを見れば、彼女たちの乗ってきた舟と同じような小型の船が、白浜に乗り上げていた。
 だるい体で舟を下り、その小舟に近づく。中には風雨にさらされたぼろ布と、古びたロープが放り出されている。最近使った、という印象は受けない。まさか魔人がえっちらおっちら舟を漕いで――というのはありえない話である。
「……行こう」
 レインは仲間を促して、岸壁に開いた洞窟へと歩き出した。

 


◇ひとこと◇
 レインとヴァシュタールをなるべく引き合わせたくないので、街道イベントはありません。ただ、イベント事態は起こっていて、ヴァシュタールはアーギルシャイアを追い込んでいます。レインが彼女を、弱い、と思ったのはそのためです。

 

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