アミラルに着いたときには、暦は八月に差しかかろうとしていた。
大陸最南端に位置するアミラルはとにかく蒸し暑い。エルズはラミリー山脈から吹き降ろす風があったが、アミラルにはそれがない。洋上では潮風が心地よかったが、陸に上がったとたんに汗が吹き出してくる。
特に、男装姿に甲冑を着込み、薄手の外套を羽織っているレインは最悪だった。
「くそぉ、スカート履きたい。暑い」
何で男ものってこんなに鬱陶しいんだろう、とレインがぶーぶー文句を言うので、道連れの男どもは服の前を大きくはだけさせた。
「男はこういうことができるからな。何なら、上だけ脱いだっていいぜ」
ほら、とヴァンは港で働く男たちを指差した。確かに、彼らは上半身を夏の太陽にさらして下穿き一枚で荷物を運んでいる。日に焼けた肌がたくましい。
「お前もやれば?」
「もう、ヴァン、こんなんでもレインは女の子だよ。失礼だよ」
レインはしかめ面で額の汗を拭った。
こんなん、で悪かったな――レインは恨めしそうな目つきでナッジを睨んだ。だが、彼は自分が一番失礼なことを言っているのに気づいていないらしい。
「ごめんね、ヴァンも悪気はないんだ」
ヴァンはヴァンで、にやにやと笑いながら、薄い胸板をレインに見せ付けてくる。
「見ろ。俺の肉体美!」
「うるさいっ。あんたのうっすい胸板なんぞに美しさは感じん」
ほら行くぞ、と歩き出したレインの後ろから、
「お前ね、ちょっと俺らより体格いいからってなぁ」
とヴァンが文句を言いながら続く。その後ろから、苦笑混じりのナッジが続いた。
アミラルからノーブルを経由してロストールへと到着する。この町を訪れるのも、ずいぶん久しぶりのことである。何せ、この間までレインはこの国と戦争していたのだから。
ロストールの都はいつか訪れたときと変わらず、賑やかだった。露天商が並んだり、売り子が声を張り上げていたり、街角で芸人が拍手喝采を浴びたりしている。だが、路地裏の暗がりに少し目を移せば、ぼろをまとった男たちが煙管を吹かしている。負傷したり、陰鬱な顔をした彼らは、負け戦の臭いをこの町に撒き散らしていた。
一回は凌げたが、次に帝国を退ける力は、この国にはないだろう。
「これからのことだけど――……」
宿に荷物を置いて、酒場に集まって昼食を取りながら、レインはそう切り出した。昼時の酒場は人でごった返している。特に、大通りに面したこの酒場は、酒よりも軽食が美味くて有名だ。
女給のフェルムが、慌しく店内を行き来してスカートの裾を翻している。そのたびに、白い膝小僧がちらちらと覗くものだから、男性客はたまったものではない。
「聞いてる?」
フェルムの白い脚に気を取られていたヴァンとナッジが、仲間の不機嫌な声に慌てて真っ直ぐに向き直った。
レインはわざとらしい咳払いをして、もう一度、切り出した。
「これからのことだが、あんたたちはアキュリュースに先行してくれ」
そりゃいいけど、とヴァンはソーンナイトのフライをつまむ。
「闇の神器のことなら、俺らだって手伝うぜ」
うん、とナッジも頷いたが、レインは頭を振った。
「あんたたちを信用してないわけじゃない。私はアキュリュースから逃げてきた人間だ。あそこに戻るのは難しい。特に、水の精霊神殿ともなれば、警備に立っているのは朱雀軍ではなく白虎軍だろう。顔が利かない」
そこでだ、とレインは続ける。
「朱雀軍とアンギルダンと協力して、何とか精霊神殿に潜入できるように整えていて欲しい。あんたたちなら、顔が割れていないから、傭兵だと身分を偽れる」
「わかった。いいぜ」
「うん、僕も」
翌日、二人はアキュリュースへと旅立った。城門前で二人を見送ったレインは、町へと戻った。
もちろん、二人に告げたことは嘘ではない。レインがアキュリュースへ潜入するのは骨が折れるだろう。進入経路を用意してもらわねばならない。
だが、レインは闇の神器獲得に関しては、なるべくほかの者の手を煩わせたくはなかった。彼らの腕を信用していないわけではない。これはレインのネメアに対する挑戦だ。それにほかの者を巻き込むのは筋違いというものだ、とレインは考えている。
鍛冶屋に出していた装備一式を引き取って、レインは宿屋に戻ると、そのまま寝台に潜り込んだ。日はまだ高い。だが、夜に動くために、レインは疲れた体を横たえた。
エストとの待ち合わせの日時まで、まだ数日ある。その間に、もう一つの神器の様子を見に行こうと考えていた。すなわち――。
「きゃっ」
クローゼットの中から現れたレインの姿に、アトレイアは驚いて身を引いた。明るい茶色の長い髪がその拍子に揺れた。
「ひ、久しぶり」
レインはバツが悪そうな顔をする。ずいぶん、アトレイアのもとを訪れていない。今年の二月にディンガル帝国に仕官したから、もう半年以上だ。
えーっと、と言いよどむレインに、アトレイアは濃紺の夜空のような瞳をぱちくりさせた。もともと丸い目が、さらに丸く見開かれている。
「……ど、どこの殿方かと、思いましたわ。レイネート様でしたのね」
「……すいません。ちょっと、色々ありまして」
レインは困ったように視線をさまよわせた。確かに、そのために変装しているのだが、こうもあっさり男と思われてしまうのも複雑である。身元を隠すという意味では、正解なのだが。
聞いています、とアトレイアは胸の辺りで手を組む。
「ディンガルに仕官したとか」
アトレイアは柳眉を曇らせた。恐らく、城の者が噂話をしているのを耳に挟んだのだろう。
「そうなんだけれども、一身上の都合でまた冒険者に戻ったよ」
レインは言った。窓辺のソファに腰かけて、今はディンガルに追われる身であることを語った。もちろん、闇の神器がどうのという話はしなかったが。
「それで、まぁ、変装してる」
肩をすくめるレインに対して、アトレイアは胸の前で両手を組み合わせて、彼女の顔を見上げた。夜空色の瞳がキラキラしている。
「素敵だと思います。わたくし、レイネート様がクローゼットから出てこられたとき、知らない殿方だと思いましたもの」
「……うん」
アトレイアは興奮したように、白い頬を色づかせて力説する。だが、力説されればされるほど、レインは悲しくなってしまう。
銀竜の首飾りで使える秘密通路は、このアトレイア姫の部屋に通じている。大きな、備え付けのクローゼットの奥に、隠し扉があるのだ。レインは以前からここを使用していたが、そこから知らない男が出てきたら大事だと思うのだが。
「お似合いですわ」
「……ありがとう」
アトレイアには悪気がないので怒るに怒れない。うな垂れるようにして、レインは呻くように礼を言った。
「それで、わざわざ、アトレイアのところへ来ていただいたのですか」
姫は嬉しそうに顔をほころばせた。はにかんだような、照れくさいような、そんな表情である。
闇の神器を確かめに来たのだ、とはとてもではないが言い出せない。そんなところだ、と曖昧に答えて、レインはアトレイアの瞳を覗き込んだ。
「えぇーっと……目、は大丈夫かな。変なところとかない?」
「目ですか?」
アトレイアはきょとんとしている。長いまつげに縁取られたまぶたを、確かめるように何度かしばたかせた。
「具合が悪かったりとか……あー、変なものが見えたり」
いいえ、とアトレイアは頭を振った。
「きちんと、見えていますよ」
そっかぁ……、とレインは曖昧に笑った。これではますます、返してくれと言いにくい。そもそも、『色惑の瞳』はかつて盲目だったアトレイアの目に吸い込まれるようにして消えた。レインが見ているこの濃紺の瞳が、闇の神器そのものなのか、それともこの瞳の奥に本体があるのか、それすらもわからない。アトレイアに返してくれといった所で、彼女が返し方を知っているかも怪しいところである。
まぁ、全部私が持ってなきゃいかんということもないだろう、とレインは妥協した。あのネメアがアトレイアと接触を図るというのは難しい。逆に、レインが持つより安全なのかもしれない。
「あの……?」
黙りこんで自分の瞳を覗き込んでくるレインに、アトレイアは不安げな顔をした。小首を傾げた拍子に、彼女の亜麻色の髪が肩をなでる。
あぁー……っと、とレインは視線をさまよわせた。ふと、背後の窓にかけられたカーテンの隙間から、外が見える。
いいことを思いついたぞ、とレインは笑った。
「ねぇ、アトレイア。外に行かない? 散歩に行こう」
アトレイアは少しだけ迷いを見せたが、時間が時間だけに――これが真昼間だったなら彼女は首肯しなかっただろう――レインの申し出に応じた。
レインがアトレイアを連れ出したのは、会話に困ったからだ。あの、狭く薄暗い離宮の一室で、アトレイアと二人で向き合っていると、どうしても考えが闇の神器のほうに向いてしまう。
アトレイアの部屋の窓からは、ロストール王宮の空中庭園が望めた。城塞と尖塔をつなぐ部分に大きな広場があって、そこに手入れのされた庭園が広がっているのである。
この庭は、エンシャント城の中庭に比べるとずいぶん狭い。だが、あのいかにも戦のための城然としたエンシャント城よりも、優美であった。
今は夏の盛りに咲く、色とりどりの花が咲き乱れている。何といっても夏の花の代名詞であるヒマワリの黄色が目立つ。宵闇にホウセンカの赤も鮮やかだ。ヒメジョオンの白い可憐な花が、夜風に揺れる。同じ白でもユリは大輪で、豪華だ。ヒマワリのぱきっとした黄色と違って、マツヨイグサの淡い黄色は、月下によく映えている。
ほら、とレインはアトレイアと手をつないで彼女を促した。
「綺麗ね。夜のお花見って」
わざとはしゃいだような声を上げるレインを尻目に、アトレイアはどこかぼんやりとした表情である。レインの手から手を離し、ふらふらと花壇のほうに向かっていく。マツヨイグサと同じ、淡い黄色のドレスが翻った。
アトレイア、とレインは姫の名を呼んだ。何か、様子がおかしい。傍に寄って、顔を覗き込むと、アトレイアは夜空色の濃紺の瞳を潤ませていた。
「何て、綺麗なんでしょう。こんな、こんな綺麗なものを、わたくし、はじめて見ました」
アトレイアは傍に立つレインの、男物の麻のシャツを握り締め、ぐいぐい引っ張りながら夜空を指差す。
「花も、星空も、とても綺麗。よく見ると、星ってそれぞれ、色が違うんですのね。お花みたい。お花も、それぞれ、色が違っていますもの」
アトレイアは、いかに花が綺麗か、星が綺麗か、どれがどういう色かと熱弁した。一つひとつ手にとって、細い指で指し示して。
レインはそれに、気の抜けたような相鎚を打った。
何だか、現実にいる気がしなかった。ラドラスからこっち、戦い通しで、こういう日常的なものから遠ざかっていた。いつしか、日常と戦場が逆転してしまっていた。
ウルカーンからエルズを回ってやってきたこの道中も、ロストールの街中でも、この時節では種々の花々が咲いていたはずだ。だが、レインの記憶には何一つ残っていない。元来、レインは単なる村娘だ。花は好きだったはずなのに。
色とりどりの花を見ていると、レインも穏やかな気持ちになってきた。どこかに行っていた日常が戻ってきて、すとんと腑に落ちたような気分だ。
「あ、ごめんなさい。わたくしったら……」
恥ずかしげに我に返ったアトレイアは、視線をきょろきょろとさまよわせる。
ううん、とレインは笑った。
「最近ちょっと、色々あって疲れてたけど。元気、出たよ。アトレイアのおかげです。ありがとう」
レインが小さく頭を下げると、アトレイアは慌てて手と頭を振った。
「そ、そんなっ。だって、わたくしのほうこそ。光をもたらしてくれて、会いにいらしてくれて、こんなにも綺麗なものを見せてくれて……――ありがとうございます」
アトレイアが頭を下げるので、レインも負けじと頭を下げた。二人してお礼の言い合いをしていると、なんだかおかしくなってきて、レインはついにぷっと吹き出した。アトレイアはそんな彼女を見て、きょとんとしている。
「こんなところでお礼の言い合いなんて、おっかしい。やめやめ。お相子でいいじゃない」
そう言って、わずらわしげに片手を振ったレインに、アトレイアも口もとを押さえて笑った。
「そうですね」
しばし、他愛もない歓談が続いたころ、庭園の奥から人の声が聞こえてきた。衣擦れの音もする。
「くそっ、来い! 来いと言ってるんだ」
焦ってかすれたような男の声である。
「や、やめてください。痛い……っ、放して」
こっちは悲鳴のような女の声だ。
どういう間柄かは知らないが、レインの耳には嫌がる娘に男が無理やり狼藉を働こうとしているように聞こえた。ひと気のない、王宮の隅ともなれば、そのような秘め事の一つや二つ起こりそうなもの――レインの勝手な想像だが――である。
男と女がお互いを求め合って、そういう関係にいたるなら――場所を選べとは思うが――レインはアトレイアをつれてその場を去ったに違いない。だが、どう考えても男が無理強いをしている。
娼館に売られかけたあの恐怖を味わったレインには、どうにも許しがたかった。アトレイアにその場にいるように言い置いて、レインはそっと垣根を回った。
綺麗に刈り込まれた垣根の向こうで、二人の男女が押し合い圧し合いしている。
女のほうには見覚えがあった。以前、ロクサーヌとして面会したことがある。ティアナ王女だ。うねりのある長い金髪が、彼女が右往左往するたびに月光を浴びてキラキラと輝いた。宝石の粉でもかけているのではないか、というほどのきらめきである。宵闇に、白い肌が浮き上がるようであった。
一方、彼女の細腕をつかんでいるのは、レインの知らない男であった。赤茶色の髪を一つに結んだ、顔色と人相の悪い男で、着るものばかりが豪華である。貴族だろうとは思うが、とにかく王女に対して乱暴だ。まるで人さらいのようだ。
「やめてください、タルテュバ様」
ティアナの青い目の端に、涙の粒がきらめいた。それを見て、レインの義憤の心がかっと燃え上がった。
垣根の陰から飛び出すなり、大股で足早に、タルテュバと呼ばれた男に歩み寄る。それから、ティアナ王女の腕をつかんでいる彼の手をひねり上げた。そのまま、二人の間に体を割り込ませて、タルテュバを睨みつける。
タルテュバは三白眼をむいて、顔を強張らせた。レインは彼の左手首をつかんだ手に力を込める。
「な、何だ貴様! 放せっ」
口角泡を飛ばしながら、タルテュバは暴れた。レインが突き飛ばすように手を放すと、タルテュバは体勢を崩して、石畳の上にどぉっと倒れ込んだ。座り込んだまま、困惑に揺れる目でレインを見上げてくる。
「何だ貴様! 俺は貴族だぞ。貴族に手を上げて、ただですむと思うなよ」
怒鳴らなくても聞こえている、とレインは居丈高に言った。タルテュバはレインを見上げたまま、呆気にとられたように口をパクパクと動かしている。
「貴族だから、どうした。お前に手を上げたらどうなるというんだ。今、この場で、示してくれ」
レインは胸を張って、顎を上げた。タルテュバを見下ろしながら、できるだけ尊大なものの言い方をする。
くそっ、とタルテュバが立ち上がって、駆け出した。吐き捨てるように言う。
「クズめ」
そりゃあんただろう、とレインが言い返そうとしたときだった。
「きゃっ」
駆けてきたタルテュバとぶつかって、アトレイアが石畳の上に倒れた。垣根の曲がり角で、ことの成り行きを見守っていたらしい。
「アトレイア」
慌てて駆け出したレインの後ろから、ドレスの裾をたくし上げてティアナ王女が追ってくる。
「いけません、タルテュバ様。その方はアトレイア様、先王様のご息女です。目が見えなくて――」
「アトレイアァ? ふん、お前みたいな女、ティアナとは段違いだ。陰気臭い女め。部屋に帰って鏡でも見て来い!」
タルテュバの暴言が終わるか終わらないかの瞬間であった。レインの左拳が、タルテュバの右頬の辺りを殴打した。レインはこのとき、まるっきり手加減をしなかった。
何てことを言うのだ、この男は――レインは憤慨した。今でこそ、こうやって気に入らない侮辱を受ければ、相手をぶん殴ってやることができる。だが、どちらかといえば、本来のレインはアトレイアに近しいものがあった。内気で、後ろ向きで、光り輝くものに憧れるような――レインがアトレイアについ肩入れするのは、彼女に自分の姿を重ね合わせるからである。
直接ブスと言われたほうが、いくらかマシ、という程度のひどい侮辱を受けて、アトレイアがどれほどひどく傷つくだろう。オズワルド村にいたころのレインだったら、一日中、寝台に潜りこんで泣きじゃくっているかもしれない。
レインの鉄拳制裁を受けたタルテュバは、錐もみ状態で吹っ飛んだ。赤いホウセンカが群生している辺りに突っ込んで、沈黙する。
ティアナがレインの後ろで悲鳴を上げた。
タルテュバが呻きながら身を起こす。右頬が人相が変わるほどに腫れ上がっている。ドバドバと尋常でない量の鼻血を垂れ流しながら、タルテュバは這いずるようにしてレインから逃げようとしている。綺麗に整えられた花壇を荒らしながら、よく動かない口の中でぶつぶつと何か呟いていた。
レインはタルテュバにかまわず、膝をついてアトレイアを覗き込んだ。夜空色の瞳から、大粒の涙がこぼれている。顔面が蒼白で、色を失った唇がわなないていた。
「アトレイア……」
「放っておいて」
アトレイアはレインが差し出した手を振り払って、走り出した。亜麻色の髪が翻る。
レインはアトレイアを追おうとした。しかし、その手を誰かが握り締めた。振り返ると、こちらも蒼白な顔をしたティアナが、レインの手を握っている。
「助けていただいて、ありがとうございました。わたくし、ティアナと申しますの。あなたの、お名前を――」
レインは狼狽した。本名を名乗るのははばかられる。
言いよどむレインを、ティアナが見上げている。まずいぞ、とレインは顔を背けた。あまりじっくり見られると、ロクサーヌの素性がばれてしまうかもしれない。
アトレイアを追わなければ――レインはぐっとティアナの手を握り締め、努めて紳士的な物言いをした。
「名乗るほどの者ではございません。失礼いたします」
呆気にとられたようなティアナの手を放すと、レインはさっと身を翻して、アトレイアの後を追った。
多少、ティアナに時間を取られたが、丈の長いドレスの裾を翻すアトレイアと、戦場を駆け回るのが仕事のレインでは、足の速さに決定的な違いがある。レインがアトレイアに追いついたのは、空中庭園から程近い、離宮へと続く回廊でのことであった。
白々とした月光が差し込む回廊では、影がことさらに黒々としてそこかしこにわだかまっている。
「待って、アトレイア」
レインはアトレイアの細い腕をつかんだ。できるだけ、優しく。アトレイアを振り向かせたが、彼女は亜麻色の長い髪を垂らして俯き、こぼれる涙をしゃくり上げている。
「ごめんなさい、レイネート様。わたくし……わたくしのような、醜いものと、一緒にいるところを見られてしまって」
「そんなこと……思ってないよ。思ったことない」
レインはますます、アトレイアが昔のうじうじした自分めいて見えた。小さく、惨めで、何も知らない、可哀想な自分のようだった。
月明かりしか差し込まない王宮の回廊は、己を見失ってしまいそうなほどに暗かった。その暗闇の中から、あのとき無人の荒野に置き去りにした汚泥の化け物が、こちらを見て嘲笑っている気がした。
「ねぇ、アトレイア。私、一回もそんなこと言ったことないよ。アトレイアと一緒にいるのが恥ずかしいと思ってるなら、わざわざ会いになんて来ない」
レインの、会いに来ない、という言葉に、アトレイアがぎくりとして顔を上げた。涙に濡れた瞳で、レインを見上げてくる。
「あんなやつの言うことは信じて、私のことは信じられない?」
レインの言葉に、アトレイアは少し、何か言いたげに唇を開いたが、言葉は何も出てこなかった。ただ、大きく頭を振った。長い髪が揺れる。秀でた額を飾る月長石のサークレットが、ちりちりと揺れた。涙のしずくが飛び散って、月光にきらめいた。
「帰ろうか。疲れちゃったね」
レインは努めて明るく言って、アトレイアの手を引いた。
日が高く上った。真夏の太陽が照りつける白い石畳が、まともにその強い陽光を照り返している。まるで上と下を太陽に挟まれているようだ。
レインは王宮から市民街へ続く、貴族の豪邸が建ち並ぶ坂を下っていた。生あくびを噛み殺す。レインが馬車を避けるために、豪邸の傍を通ると、貴族の屋敷を守る門衛がそのたびに緊張した面持ちになった。
レインはアトレイアと彼女の離宮に戻った後、彼女が落ち着くまで傍にいた。そのうちにアトレイアは眠ってしまったが、放っておくわけにもいかなかった。あの薄暗い部屋で一人、彼女が目を覚ますまで待っていたのである。
日が昇って起き出したアトレイアは恐縮していたが、レインが好きでやったことだ。
それにしても、とレインは坂の下に広がる市民街を見やる。赤や紺の瓦が広がっている。
アトレイアは身の内に闇の神器を抱えている。あのままでは闇に落ちるのではないか、とレインは危惧している。
もちろん、人間である以上、どうしたって落ち込むことがある。だが、アトレイアの卑屈さは、闇の底へ自ら身を投げるようである。彼女の持った性質なのか、それとも『色惑の瞳』がそうさせるのか、それはわからない。だが、彼女があの神器を自らの光として生きていくためには、その卑屈さを克服せねばならない。そうでなければ、彼女は闇に落ちるだろう。
どうしたものかなぁー、とレインは貴族街を出て、市民街へ続く噴水広場を横切ろうとした。
噴水広場は人が多い。特にこの暑い盛りには、涼を求めて噴水の周りに人が群がる。
レインはアトレイアと闇の神器について考えるあまり、ぼんやりしていた。だから、彼女の前を横切る小さな人影に、まったく気がつかなかった。
「あっ」
レインの太もものあたりに頭をぶつけたその人影は、弾き飛ばされてごろりと石畳に尻餅をついた。レインは慌てて膝をつく。
「ご、ごめんね。ちょっと、ぼーっと――」
その人影がてっきり、子供だろうと思った。何せ、背丈がレインの腰にも満たない。だが、石畳に尻餅をついた彼女の、大きな緑色の帽子には見覚えがあった。
緑の帽子の下から、彼女が青い瞳で見上げてきた。そして、レインの顔を見て、はっとする。
「ああぁーっ、レインー!」
「ルルアンタ。ごめんね、大丈夫?」
小さなリルビーの女の子は、長い赤毛のお下げをひょこひょこ揺らしながら頷いた。それから、差し出されたレインの無骨な手に小さな手を重ねる。
ルルアンタが立ち上がると、膝立ちになったレインとちょうど目線が同じくらいになる。ルルアンタは青い瞳をキラキラさせて、レインの全身を何度も見返した。
「驚いたー、男の人かと思ったー」
「……うん」
レインは複雑な顔をして、曖昧に笑った。いいほうに捉えよう。変装がうまくいっているのだ。
ルルアンタとはまだレインが駆け出しのころに、人さらいにあっていた所を助けた縁で知り合った。たまに道連れになる仲間のひとりである。
ルルアンタを伴ってレインは大通りの酒場へとやってきた。昼にはまだいくらか早い。酒場の客も少なく、レインとルルアンタは二人がけのテーブルに着いた。
ルルアンタはレインの対面に腰かけて、グラスに入った果汁をぐびりと一口あおった。背の高い椅子に浅く腰掛け、床に着かない足をぶらぶらさせている。
「――そっかぁ、今、レインは、帝国に追われてるのね」
ルルアンタはお下げをひょっこり揺らしながら、元気いっぱいに頷いた。彼女に明るく言われると、結構な大事でも何でもないことのように聞こえるから不思議である。
「ルルアンタは? 今、何してる?」
レインは甘い香りの漂うフルーツティーに口をつけた。夏の盛りにふさわしく、果汁とお茶をあわせたものに氷の塊が浮いている。ひんやりとした口当たりが、汗をかいた体には心地よかった。
「ルルアンタはねぇ、今、本業をやってるのよ」
本業?――訝しげにルルアンタの青い目を覗きこむと、ラピスラズリにも負けないきらめきを返してくる。
「踊り子!」
そうだった、とレインは頷いた。このリルビーの少女は冒険者として活躍する傍ら、酒場で詩人の奏でる音楽に合わせて華麗な舞を披露しているのだ。
たまたまね、とルルアンタはグラスから口を離しながら言う。彼女のグラスの、オレンジの甘く爽やかな香りが、こちらまで香ってきた。
「ロストールに来たら、レルラ=ロントンがいたから。今、スラムのほうの酒場で、踊り子してるの」
スラムの酒場にも色々あるが、噴水広場に近い、比較的治安のいい酒場もある。あまり奥まで入り込むと、娼館が立ち並ぶ通りがあって、細い路地になると人さらいが横行している。
レルラ=ロントンが一緒なら、そう危ないこともないだろう。
そうだ、とレインはルルアンタのほうに身を乗り出した。ルルアンタが驚いて、青い瞳をぱちくりさせる。
「ねぇ、ルルアンタ。今日の夜、踊ってもらえないかな。友達が落ち込んでて……。ルルアンタの踊りを見れば、元気が出ると思うんだ」
「いいよぉ! レインの友達、どんな子?」
えーっと、とレインは言いよどんだ。お姫様だよ、とはさすがに言えなかった。
レインがアトレイアにルルアンタを会わせようと思ったのは、彼女の見ている世界があまりに狭いような気がしたからだ。
外へ出かけようか、と誘ったレインに、アトレイアはかなりの間逡巡を見せた。何といっても昨日の今日の話である。アトレイアは部屋から出ることすらも恐れていたし、何よりも他人に会うのもひどく恐がっていた。
アトレイアがようやく、レインの誘いに首肯したのは、夜もずいぶん更けたころであった。
「え……お城の外に、行くのですか」
アトレイアの手を引いて、秘密通路へ向かおうとしたレインに、彼女は再び恐怖に引きつった表情を見せた。
「そう。友達を紹介したくて」
「お友達……レイネート様の……」
アトレイアは自分の手を握るレインの無骨な手を、しっかりと握り締めた。自分の手の震えをごまかすようだった。
「やっぱり、怖い?」
レインはクローゼットの前に立って、アトレイアの顔を覗き込んだ。アトレイアは俯けていた顔を上げて、彼女をひたりと見据えた。ゆるゆると頭を振ると、長い茶髪がふわふわと広がった。
「いいえ、い、行きます……」
消え去りそうな声で、しかし、内気な姫君ははっきりと言った。
レインはアトレイアをつれて、秘密通路を通り、城を抜け出した。秘密通路は城の建っている小高い丘の下につながっている。
怯えたようにきょろきょろと周囲を見回すアトレイアに、レインは薄手の外套を着せた。さすがに、アトレイアの上等な衣装は目立つ。
貴族街から噴水広場へいたるまで、アトレイアは大きな瞳をきょろきょろさせていた。初めての経験に、恐さ半分、興味半分、といったところだろう。
噴水広場にある竜綱の刻まれた巨大樹を見上げ、アトレイアはほぅっと息を吐いた。月明かりを浴びて、千年樹は大きく茂った枝葉を夜風に揺らしている。ロストールの古い――エンシャントの最新式のものに比べれば旧式である――魔法灯に照らされて、アトレイアの濃紺の瞳がきらめいて揺れた。
「こんな、大きな木、初めて見ました」
「ここまで大きな木は、エルフの森くらいしかないんじゃないかな。ここ以外では」
アトレイアの独り言のような発言に、レインが応じた。アトレイアが驚いて、隣のレインを見上げて目をしばたかせる。
「そ、そうですわよね。レイネート様は、世界の色々なところに赴いていらっしゃるから、珍しくも何ともありませんよね」
「初めは珍しかったよ。私、田舎者だから。見るもの全部、珍しかった。綺麗なものも、汚いものもね」
レインは肩をすくめた。ぽかんとしているアトレイアの手を取って、さぁ、と促す。
「そろそろ行こうか。友達が待ってる」
噴水広場を横切って、スラムの通りに入る。ずいぶん、夜も更けてきたが、スラムの酒場はまだまだ宵の口である。賑やかな酔客の笑い声や、調子外れの歌声が響いている。
レインはそのうちの、一際賑やかな酒場へ向かった。ふと、手を引いていたアトレイアが足を止めた。引っ張られるように振り返ると、アトレイアは魔法ランプに照らされた酒場の看板を、物珍しそうに見つめている。至って普通の、木板にペンキで書かれたただの看板を、だ。
「これ、何ですの。変な模様」
「模様? それ、文字だよ」
そうか、目が見えなかったから文字はわからないか、とレインは納得した。
「『飲んで歌える酒場。お食事もどうぞ』って書いてるの」
「こ、この模様にそんな意味が……」
アトレイアはもう一度、しげしげと看板を眺めた。確かに、盲目であったなら、話せるだけで事足りる。特にアトレイアは、手紙を書くような相手もいなければ、彼女のために『文字』というものがあることを教えてくれるものなど、いなかっただろうから。
すみません、とアトレイアは慌ててレインの後に続いた。酒場の入り口をくぐり、カウンターに腰かける。店内は人でごった返しており、給仕の娘たちがスカートの裾をひらめかせて人の間を縫っていく。カウンターの向こうの厨房では、調理担当の男たちが忙しそうに炎を操っていた。そこかしこのテーブルで、おかわりや追加のオーダーの声が上がっている。
「お、美人を連れてるな。誰かと思ったら、レインか」
カウンターの向こうからビール腹の親仁が、欠けた歯を見せてにかっと笑った。
「そう、友達。メニュー貸して」
レインはカウンターの親仁から冊子になったメニューを受け取った。隣に腰かけて、きょろきょろと周りを見回しているアトレイアに示してみせる。
「あ、あの模様……『文字』がいっぱい。これは何ですの」
「えーっと、メニューだよ。飲み物とか、料理とかの名前が書いてあるの」
上から順に読もうか、と言いかけたレインよりも早く、アトレイアはメニューの一つを指差して、
「これは何て書いてありますの」
「『さくらんぼのジュース』 甘くておいしいよ」
「『さくらんぼのジュース』 二つでいいかい?」
レインは注文をとろうとした親仁に頷きかけた。その彼女の袖を引いて、アトレイアがまた別の文字列を指差す。
「あっ、待ってください。これは? これはなんて書いてありますの?」
「それは『ナジラネのパンケーキ』 これにする?」
「では、これは?」
注文どうの、というより、アトレイアの興味はすっかり『文字』のほうにいっているらしい。カウンターの向こうの親仁が、困ったような顔をしている。レインもアトレイアにメニューを読んでやりながら、苦笑した。
「なんだぁ、レイン。久しぶりに顔見せに来たと思ったら、おもしれぇ姉ちゃん連れてるな。ここに来たら、これを食わなきゃな。『スライムのあんかけ』」
ここの常連客のじいさんが、ひょっこりレインとアトレイアの間から手を差し入れて、メニューをなぞった。このじいさんは大抵、いつも酔っ払っている。今日もひどいアルコールの臭いがした。
「それは酒飲みのつまみだろ。私、あんまり好きじゃない」
レインが鼻白むと、隣に腰かけていた酔客が口を挟んだ。
「そうだよ、じいさん。若い女の子にはちょっと渋すぎる。ここはパンケーキか、がっつり食いたいなら『川魚の塩焼き』だな。今日は新鮮な奴が入ってて美味いぞぉ」
「で、どうすんだい?」
カウンターの親仁が、早くしてくれ、とでも言いたげな視線を、レインに投げてよこした。しかたないので、
「じゃあ、とりあえず、さくらんぼジュース二つに、『ナジラネのパンケーキ』『川魚の塩焼き』『ジオールスターのチリソース』『きのこのサラダ』『ウサギ肉とテラネ茄子のパスタ』 あー……『スライムのあんかけ』 全部一つずつ、お願い」
「あいよ。オーダー――!」
「レイネート様、これは? これはなんて書いてありますの?」
「はいはい、それは――」
さくらんぼジュースが届いても、料理が運ばれてきても、アトレイアの目はメニューに釘付けである。レインは一つひとつを読み上げて、どういう意味でどう料理しているかを説明した。
そのうちに、賑やかな音楽が流れ始めた。店の奥から、赤い頭巾のレルラ=ロントンが現れて、リュートをかき鳴らす。それにあわせて、小さな踊り子がテーブルの周りを回るように踊り始めた。ルルアンタだ。
ルルアンタは両手足首に鈴をつけて、全身を使って店内中をところ狭しと跳ね回る。鈴の音にあわせて、レルラ=ロントンのリュートが軽快な音楽を紡いでいく。ルルアンタの全身が、楽器のようだ。
アトレイアはようやく、メニュー以外のものに興味を持ったらしい。ルルアンタが小さな体で飛んだり跳ねたりするたびに、彼女は興奮して手を叩いた。
「あれ、私の友達だよ」
「まぁ!」
レインが自慢げに言うと、アトレイアはさらに目を丸くして、ルルアンタを視線で追った。ルルアンタがそれに気づいたように、こちらに向かって手を振った。その拍子に、手首につけた鈴がしゃらしゃらと鳴った。
曲が終わると、店内から割れんばかりの拍手喝采。ルルアンタがちょこんとお辞儀する。それから、ピンク色に色づいた頬でにこにこしながら、レインたちのほうへ駆け寄ってきた。
「レイン!」
「お疲れさま、ルルアンタ。綺麗だったよ」
レインが労いの言葉をかけると、ルルアンタは、えへへー、と照れくさそうに笑った。レインは自分の椅子を譲って彼女を座らせると、自分は空いている別の椅子をカウンターに運んで座った。ちょうど、ルルアンタを真ん中に座らせる形になる。
親仁に、さくらんぼジュースをもう一杯、注文して、レインはルルアンタにアトレイアを紹介した。
「こちら、友達のアトレイア。こっちはルルアンタね」
「はじめましてー、ルルアンタだよー」
ルルアンタは隣に座るアトレイアを見上げて、にっこりと微笑みかけた。『笑顔の踊り子』の異名は伊達ではない。ルルアンタの笑顔には、見たものを笑顔にさせる不思議な魅力があった。
アトレイアは少しだけ、戸惑ったように視線をさまよわせたが、軽く握った拳を揃えた膝の上に置いた。しっかり顔を上げて、アトレイアは濃紺色の瞳でルルアンタを見つめた。
「わたくし、アトレイアと申します」
空はアトレイアの瞳の色から、レインの瞳の色へと変わった。町は夜のしじまから、ゆっくりと起き出そうとしている。
丁稚が商店の前を掃き、寝込んでいる酔客を追い立てている。町のいたるところで雄鶏が朝を告げ、それにつられたように犬が吼える。どこからか、パンが焼けるいい匂いがしていた。
まだ人通りのほとんどない噴水広場を、レインはアトレイアを伴って王宮へと向かっている。隣を歩くアトレイアは、どこか弾むような足取りであった。胸には酒場の親仁からもらったメニューの冊子が抱えられている。
「すみません、レイネート様。すっかり、夜が明けてしまいました」
そりゃ、あんだけ歌えば、とレインが苦笑して肩をすくめると、アトレイアは少し恥ずかしそうに俯いた。
アトレイアはあの雑多な酒場の中で、レルラ=ロントンの奏でるリュートに合わせて歌を披露した。それに合わせて、ルルアンタが踊った。レインはそれを、ぼんやり見ていただけだった。
レルラ=ロントンには、芸がない、と言われたが、あんな大勢の観衆を前に、いきなり歌えるほうがすごい、とレインは思う。レインは芸術という分野に関して、さっぱりセンスがなかった。
メニューの冊子は、盛況だった歌の報酬として、酒場の親仁が贈ってくれたものだった。アトレイアが、このメニュー冊子をいたく気に入って、どうしてもと懇願したからだ。
「レルラ=ロントンも言っていたけど、私は芸がないから、ああいうことパッとできるのってすごいと思うよ」
そんなこと……、とアトレイアは恥らった。
わたくし……、とアトレイアは俯けていた顔を上げた。ほんのり、頬が紅色だ。
「今までずっと、世界には薄暗い闇しかないと思っていました。光など、ありはしないのだと、思っていました。あの、本当のことを言うと、今でも明るいところは、ちょっと怖いです……。でも、世界には、光と闇があるんですね。わたくし、今、それが、とても、嬉しいのです」
そう言って、アトレイアは嬉しそうに微笑んで、抱えたメニューをそっとなでるのだった。
◇ひとこと◇
アトレイア、怒涛の二日間。